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第2話 伊野崎
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振り返った柴が、伊野崎の姿を目に入れた瞬間、驚いたように大きく肩をびくっと震わせた。
十秒。お互い微動だにしなかった。
二年では、何も変わってないように見える。
伊野崎が知っている柴のままだった。
知的な容姿に黒のセルフレームの眼鏡。
輪郭は少し痩せただろうか。
感情を押し殺したように唇を噛んだ柴は、その後、嬉しそうに笑った。
「伊野…引っ越してなくてよかった」
そう言った柴を見ないように顔を背けた伊野崎は、顔を歪めた。
もう一生、会うことはないだろうと思っていた。
死んでしまえばいいのにとさえ思った。
「会えた」
安心したような表情の柴が近寄ってくる。
歩き方も変わっていない。
そんな言葉、聞きたくない。
伊野崎は会いたくなかった。
眼前で立ち止まった柴の胸倉を、伊野崎は掴んでいた。
ほぼ同じ背丈で、視線が交わる。
首を締め上げると「うっ」と柴が呻いた。
伊野崎は、声を荒げた。
「二度と来るな。帰れ!二度と来るな!」
興奮し、徐々に声が大きくなる。
そして、力任せに突き飛ばし、玄関の鍵を急いで開ける。
勢いよく地面に腰を打ちつけ、痛みに堪える柴が告げた。
「俺、離婚したんだ」
伊野崎は、柴を一瞥する。
玄関に入り、怒りにまかせ扉を強く引き閉めた。
大きな音が響く。
柴と別れ、二年が過ぎた。
あの時の絶望は、今もはっきりと残っている。
何もする気力がなく、伊野崎はからっぽになった。
食欲もなく、寝ることもできなかった。
その時、心が死んだ。
泣くことも、怒りも、喜びも、笑うことも、消えてしまった。
ただ、生きているだけ。
しかし、今、止まっていた時間が動き出した。
頭が痛いぐらいの怒りが沸き起こり、枯れたはずの涙が止まらなかった。
伊野崎は、久しぶりに心を取り戻したように号泣した。
玄関扉を閉めた時に割れた爪から、赤い血が滲み出た。
伊野崎は、夢を見ていた。
夢だが、これは現実にあったことだ、とわかった。
夢の中で、伊野崎は高校生だった。
下半身だけ脱いだ姿で、柴と繋がっていた。
高校三年の時だ。
初体験は気持ちがいいものでは、まったくなかった。
柴は、自分本意で夢中で腰を動かしていた。
男同士のセックスの仕方など知らなかった。
切れて出血した。
いつも冷静な柴が、衝動にかられ理性をなくし伊野崎を抱き、あっという間に果てた。
彼女がいる柴を好きになったのは、伊野崎だ。
わかっていた。
柴は、彼女と別れなかった。
だから、高校卒業をきっかけに、きっぱりと諦めた。
柴から告白されたのは、二十歳の時。
「彼女とは卒業前に別れてたよ」
「伊野を好きみたいだ」
幸せな夢だ。儚い夢だ。
それから十年間付き合った。
早回しで過ぎていく。
夢の中の伊野崎は、三十歳になった。
これ以上は見たくない。
「母さんが入院した」
この家で同棲していた柴は、そう言って一時的に実家に帰った。
「もって二年らしい」
柴の声は震えていた。
母子家庭で一人っ子の柴にとって、母親は唯一の家族だ。
症状は思わしくなく、柴は毎日のように見舞いに行っていた。
そして、半年が過ぎた、ある時。
「別れてほしい」
柴が言った。
「結婚することになった」
聞きたくない。
「いやだ」
伊野崎は柴を引き止めた。
「俺より好きな人ができたのか?」
柴の胸を拳で叩く。
「どうして?何があったんだよ」
「母さんに、結婚するって…孫を見せるって…」
嗚咽する柴。
「別れないからな」
呪詛を唱えるように伊野崎は、繰り返す。
繰り返し繰り返し、小さくなり消えていく。
宣言通り、柴は伊野崎を裏切り結婚した。
そこで、伊野崎は目が覚めた。
「はあ」
起きたばかりなのに疲れた。
もう一度、目を閉じ、両手で顔を覆いながら夢を反芻する。
過去の夢を見てしまったのには、理由があった。
あれから毎日、柴が家にやって来るからだ。
それは、もう一カ月続いていた。
時間はまちまちで、必ず一日一回、インターホンを鳴らし、ポストに手紙を入れていく。
「また、来ます。ごめんなさい」と書かれた手書きの簡潔な手紙だ。
伊野崎は、毎回ビリビリ破って捨てた。
インターホンの画面越しの柴は、画素が粗く表情までわからない。
携帯の番号もアドレスも変更した伊野崎と柴の連絡手段は、他にはない。
今日も柴は来るのだろう。
十秒。お互い微動だにしなかった。
二年では、何も変わってないように見える。
伊野崎が知っている柴のままだった。
知的な容姿に黒のセルフレームの眼鏡。
輪郭は少し痩せただろうか。
感情を押し殺したように唇を噛んだ柴は、その後、嬉しそうに笑った。
「伊野…引っ越してなくてよかった」
そう言った柴を見ないように顔を背けた伊野崎は、顔を歪めた。
もう一生、会うことはないだろうと思っていた。
死んでしまえばいいのにとさえ思った。
「会えた」
安心したような表情の柴が近寄ってくる。
歩き方も変わっていない。
そんな言葉、聞きたくない。
伊野崎は会いたくなかった。
眼前で立ち止まった柴の胸倉を、伊野崎は掴んでいた。
ほぼ同じ背丈で、視線が交わる。
首を締め上げると「うっ」と柴が呻いた。
伊野崎は、声を荒げた。
「二度と来るな。帰れ!二度と来るな!」
興奮し、徐々に声が大きくなる。
そして、力任せに突き飛ばし、玄関の鍵を急いで開ける。
勢いよく地面に腰を打ちつけ、痛みに堪える柴が告げた。
「俺、離婚したんだ」
伊野崎は、柴を一瞥する。
玄関に入り、怒りにまかせ扉を強く引き閉めた。
大きな音が響く。
柴と別れ、二年が過ぎた。
あの時の絶望は、今もはっきりと残っている。
何もする気力がなく、伊野崎はからっぽになった。
食欲もなく、寝ることもできなかった。
その時、心が死んだ。
泣くことも、怒りも、喜びも、笑うことも、消えてしまった。
ただ、生きているだけ。
しかし、今、止まっていた時間が動き出した。
頭が痛いぐらいの怒りが沸き起こり、枯れたはずの涙が止まらなかった。
伊野崎は、久しぶりに心を取り戻したように号泣した。
玄関扉を閉めた時に割れた爪から、赤い血が滲み出た。
伊野崎は、夢を見ていた。
夢だが、これは現実にあったことだ、とわかった。
夢の中で、伊野崎は高校生だった。
下半身だけ脱いだ姿で、柴と繋がっていた。
高校三年の時だ。
初体験は気持ちがいいものでは、まったくなかった。
柴は、自分本意で夢中で腰を動かしていた。
男同士のセックスの仕方など知らなかった。
切れて出血した。
いつも冷静な柴が、衝動にかられ理性をなくし伊野崎を抱き、あっという間に果てた。
彼女がいる柴を好きになったのは、伊野崎だ。
わかっていた。
柴は、彼女と別れなかった。
だから、高校卒業をきっかけに、きっぱりと諦めた。
柴から告白されたのは、二十歳の時。
「彼女とは卒業前に別れてたよ」
「伊野を好きみたいだ」
幸せな夢だ。儚い夢だ。
それから十年間付き合った。
早回しで過ぎていく。
夢の中の伊野崎は、三十歳になった。
これ以上は見たくない。
「母さんが入院した」
この家で同棲していた柴は、そう言って一時的に実家に帰った。
「もって二年らしい」
柴の声は震えていた。
母子家庭で一人っ子の柴にとって、母親は唯一の家族だ。
症状は思わしくなく、柴は毎日のように見舞いに行っていた。
そして、半年が過ぎた、ある時。
「別れてほしい」
柴が言った。
「結婚することになった」
聞きたくない。
「いやだ」
伊野崎は柴を引き止めた。
「俺より好きな人ができたのか?」
柴の胸を拳で叩く。
「どうして?何があったんだよ」
「母さんに、結婚するって…孫を見せるって…」
嗚咽する柴。
「別れないからな」
呪詛を唱えるように伊野崎は、繰り返す。
繰り返し繰り返し、小さくなり消えていく。
宣言通り、柴は伊野崎を裏切り結婚した。
そこで、伊野崎は目が覚めた。
「はあ」
起きたばかりなのに疲れた。
もう一度、目を閉じ、両手で顔を覆いながら夢を反芻する。
過去の夢を見てしまったのには、理由があった。
あれから毎日、柴が家にやって来るからだ。
それは、もう一カ月続いていた。
時間はまちまちで、必ず一日一回、インターホンを鳴らし、ポストに手紙を入れていく。
「また、来ます。ごめんなさい」と書かれた手書きの簡潔な手紙だ。
伊野崎は、毎回ビリビリ破って捨てた。
インターホンの画面越しの柴は、画素が粗く表情までわからない。
携帯の番号もアドレスも変更した伊野崎と柴の連絡手段は、他にはない。
今日も柴は来るのだろう。
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