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第1話 夏生

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 すぐに意識は戻ったものの、夏生は歩けなかった。
 実家まで車で運ばれた記憶がおぼろげにある。

 家に着くと、律子が驚き、力が抜け切った夏生を、健が運びベッドに寝かせた。

 大量の保冷剤で夏生の首と両脇と足を冷やした。
 熱中症だ。

 炎天下、何も飲まず、ひたすら歩いたらどうなるかぐらい、平常の思考回路ならわかったはずだ。

 律子が心配そうに「大丈夫?」と覗き込む。
 夏生は弱々しく頷いた。

 母親が退出すると、健と二人きりになる。
 ベッドの傍らに健が両膝をつくと、夏生の額を触った。

 あまりにも健の手が優しかったから瞼が震えた。

「起きれる?」と健は言い「飲んだ方がいい」とペットボトルを渡す。スポーツ飲料だ。

 夏生は動かない。

 スポーツ飲料を口に含んだ健が強引に夏生の顎を上げ、唇を合わせ飲ませた。
 続けて二口。三口。

 染み渡る。体が水分を欲していた。

 その様子を見た健は、肩を抱きあげ夏生の上半身を起こした。ペットボトルを握らせ、再び飲むように促す。

 健が一息つく。休めば落ち着くだろうと、安心したようだ。

「俺の姉ちゃんが、もうすぐ赤ちゃん産まれるって話だからな。誤解するなよ。俺の子なんて産まれないからな」
 
 そう健は言った。
 夏生が知りたくても怖くて知りたくなかった答え合わせだ。

 夏生の鈍った脳が情報を処理する間、スポーツ飲料を喉を鳴らして飲んだ。空っぽになるまで飲んだ。

 そして、
「じゃあ、美香さんは…?」
 美香と健を見た情報は、違わないはずだ。

 夏生がどのような誤解をしたのか、健は悟ったようだ。
 盛大に顔を歪め、肩を落とす。

「あぁ……姉が入院してる病院で、偶然、美香に会ったよ。ごめん、もう会わないって言ったのに。ごめんな」

 気が抜けたように、夏生は布団に沈む。

「…俺たち、別れない?」
 
「そんな誤解させるような俺が悪いよな。ごめん。一生かけても、俺の信用をとりまどすって決めてるから、別れたくない」

 夏生の目のふちに溢れた涙を拭きながら、健は神妙に懇願した。

「好きだよ。これから先、何回でも言うから。ずっと一緒にいてほしい」

 夏生は「俺も」と自然と口からこぼれ落ちていた。

 健は、くしゃっと笑った。

「夏生が倒れた時、世界がひっくりかえったかと思うぐらい、びっくりした。無事でよかった」

「今、何時だ?」
「もうすぎ七時だよ」

 二時間以上彷徨っていたことになる。
 二時間あれば、健は瞬間移動しなくても、高速を使って、こちらに到着できるわけだ。

 健に頭を撫でられ、夏生は微睡み目を閉じる。

 部屋の扉をコツコツ叩く音で、ぱちっと目が覚めた。ほんの少し寝てしまったようだ。

 律子が「芳田くんが、リュック届けに来たわよ。上がってもらおうかと思ったんだけど、帰っちゃった」と言いながら、リュックをベッドの上に置き、再び部屋を出る。

「俺、寝てた?」
「十分も寝てないよ」
 健は二本目のペットボトルを手渡す。
 
 楽になってきた体を起こし、夏生は飲みながら、リュックの中身を確認する。携帯も財布も入っていた。

「ファミレスで、その…美香さんの話を芳田から聞いた直後に、健から着信があって、焦って、店に携帯も全部忘れて出てきちゃったんだよ」
「財布も?」
「うん」

 床に座っていた健が、ベッドに腰掛け目線を合わせた。

「変な誤解させた感じがしたから、何回も携帯にかけたし、メッセージも送ったんだよ。返事ないから焦った。昨日、実家の住所聞いといて、本当よかったよ。それが、なかったら会えなかった」

「俺、健が妊娠させたんだと思った」

 誤解だとわかっても夏生の胸が軋む。

「姉ちゃんの陣痛が始まった時で言葉足ずなこと言ったかもしれない。疑われる俺が悪い。美香とは、一年前から会ってなかったよ」

 健の真摯な目に嘘はない。

「美香さんとは病院で何喋ったんだ?」
「久しぶりって声かけられただけだよ。あとは美香の診察が呼ばれるまで、隣に座ってただけ」
「そっか」

「うん。あっ、夏生の家族にちゃんと挨拶しそこねたな。初対面なのに、失敗した。今からでも、遅くないかな?」

 腰を上げようとする健の腕を、夏生は引っ張った。

「待った。そのネクタイ」

 スーツ姿の健のネクタイが、揃いで買ったラベンダー色だと今更、夏生は気づいた。
 慌てて健の首からネクタイを解く。
 そもそも、なんでスーツなんだ。

「このネクタイで挨拶するって決めてたのに」

 健は口を尖らせる。
 そんな伏線なんかいらない。

 律子は気づいただろうか。

「健のアホ」

 熱中症の夏生を連れて帰ることもできず、健は夏生の実家に一泊することになった。






 翌日。
 昼頃に夏生の実家を出発し、マンションに戻った。

 やり直し誕生日ディナーは、部屋で祝うことになった。
 夏生も健も、二人だけの時間を過ごしたかったからだ。

「乾杯!」
 ワイングラスを合わせた。
「遅くなりましたが、誕生日おめでとう!」

 二人でシャンパンを飲む。
「美味しい」

 健は、たこ焼きを作っている。
 たこ焼き機の穴を、ピックでクルクル回す。

「誕生日遅くなってごめんな。俺、かっこ悪いよな。いいとこ見せようとしてるのに、全然うまくいかない」

 カリッときつね色になった、たこ焼きを皿に盛る。ソースとマヨネーズと青のりを乗せ、完成した。

 シャンパンとたこ焼きの謎の組み合わせが、夏生は好きだった。
 たこ焼きを食べ、冷えた甘口のシャンパンを飲む。

 あらかた食べ終わると、次にホールケーキが登場し、蝋燭をつけ、夏生が吹き消す。
 健は軽いキスをし、背後にくっついて座った。

「誕生日のプレゼントさ。夏生と一緒に探したいんだけど…」

 ホールのままのケーキを食べながら、夏生は楽しそうに笑う。
「何?俺が選ぶの?」

「うん。二人で住む部屋を選んでください」
「えっ、部屋?」

 数回瞬きした夏生は、冗談かと思い、健の顔をまじまじと凝視する。

「夏生が就活始めたり、就職したりしたら、もっと会えなくなるだろ。だから、一緒に暮らしたい」

「会いたいのは、俺だけかと思ってた」
「なんでさ」

 後ろから抱きしめた健は、抗議するかのようにぎゅっと力を込めた。

「でも部屋か…親がなんて言うかな」
「だから、夏生の両親に、ちゃんと挨拶したかったんだよ。急に泊まったりして、印象悪くなかったかな?」

「それは大丈夫。芳田も、急に泊まったりしてるし」
「芳田と仲いいよな…友達だってわかってても嫉妬するんだけど」

「健が嫉妬?」
 夏生は驚いた。健が嫉妬していたなんて、夏生は考えたこともなかった。

「そうだよ。嫉妬してるなんて、夏生を不安にさせてばかりの自分には言う資格がないのがわかってたから、今まで言えなかった」

 健が夏生の首筋に顔を埋める。
 健の熱い息を感じながら、夏生は言葉に詰まった。

「好きなんだ。信じてほしい。離したくないんだ。ずっと一緒にいたい」
 健が告げる言葉を信用したい夏生がいる。



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