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第1話 夏生
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夏生はウィルスから回復し、待機期間も明けた。
一週間ぶりの外出だ。
待ち合わせをした駅で、俯く芳田が顔を上げた時、深刻な話しをされるのだと察した。
帰省した芳田が、話がなると連絡を寄越したのは、一昨日のことだ。
外は暑い。
午後三時の比較的空いているファミリレストランに移動する。
ドリンクバーを注文し、各自ドリンクを用意すると、芳田は、
「他のサークルメンバーから、聞くよりも、俺が、憶測ではない確かな情報だけ伝えた方がいいと思った」
そう前置きをした。
こんな役回りはしたくはなかっただろう。
「七月末に、湯浅総合病院で雨宮さんと美香さんを見た人がいる。一つ上の先輩で、雨宮さんのことも美香さんのことも、よく知っているらしい。人違いの可能性はない。その待合室は、産婦人科の前だった」
簡潔に説明し、固く口を閉じた。黙る。
夏生は表情を失した。
男女二人で産婦人科に行く意味は何か。
妊娠の二文字が、頭の中で増殖する。
悲痛な声を上げた。
「…どうして」
どうして、よりによって美香なんだ。
一年前からずっと、夏生に隠れて会っていたのか。
いつからだ。嘘だ。嫌だ。騙されてたのか。息を殺す。
一年前、美香とホテルに行った健は、謝罪しながらも、何もなかった、と言い張った。あれも嘘だったのか。
みるみる蒼白になる。
「偶然会っただけかもしれない」
芳田が言った。
偶然会うには相応しくない場所だ。
産婦人科に行ったことなどなかったが、夏生は「そうだな」と呟いた。
思考が止まった。
答え合わせは健としかできない。
ポケットから携帯を取り出し、トーク画面を開くと、昨夜に健と交わしたメッセージが並ぶ。
「明日、迎えに行くよ」と健。「明日は、芳田と会うから、夜なら」と返していた。
昨夜、健と会える約束は、ただ嬉しかった。
現在、まったく状況が変わってしまった。
この数時間後には、健と会わなければならない。
そして、健の答えによっては、別れがくる。
夏生は心臓を押さえた。
震える指先がたまたま「あ」をタップし、そのまま送信してしまう。
既読がついてしまった。
着信が鳴る。健だ。
拒否しようかと5秒ほど迷ったが、通話を押し一瞬で後悔する。
唐突に健の声がはっきりと聞こえたのだ。
「もうすぐ赤ちゃんが生まれそうなんだ」
健は今なんて言った。
「夏生?聞こえてる?」
健の声が続く。
咄嗟に健の声から逃げた。
芳田が呼ぶ声を背中で聞くが、店を飛び出る。
健が怖かった。
健は喜びを隠せてなかった。赤ちゃんができたことに喜び、それを、夏生に、さらっと告げたのだ。
吐き気がする。
気づけば、鞄も財布も携帯も店に残したまま、歩道に立ち竦んでいた。
不意に流れる汗と涙を、袖で拭く。
病み上がりの体も心も悲鳴をあげ、倦怠感に襲われる。
嫌いになりたい。そうすれば、健と別れても、健のいない無意味な世界に耐えられるはずだ。
赤ちゃんが産まれる、と健は言った。
当然、結婚するのだろう。
そう思った瞬間、心臓がドクっと跳ねた。
財布がなければ足で家に帰るしかない。
道に迷いながら何時間も歩き、徐々に夕闇が迫る空を見上げた。
健の記憶を反芻した。
くしゃっと笑う顔が好きだった。
寝顔も寝惚けた顔も好きだった。
初めて二人で食事をした時、付き合い始めにキスをした時、二人でふざけ合いながらセックスをした時を振り返ると胸が熱くなる。
一方で腹の底から、じわじわと恐怖が競り上がって来る。
隠れて手を繋いだ映画館も、桜の花弁が舞う公園も、クリスマスのケーキも、大晦日の深夜の初詣も、笑い転げた何気ない日々も、すべて失ってしまうのだろうか。
一台の車が目の前で減速し、路肩に止まる。
運転席から急いで出てきたのは、健に似た男だった。
「夏生!」
それは似た男ではなく、なぜか健だった。
水中に潜ったかのように息苦しい。体も重い。体中を巡る血液が暑い。
疲れきった夏生は喉が渇いたなと思った瞬間、目眩がした。視界が回る。あっ。意識が遠のく。
「夏生!」
怒鳴り声が近くで聞こえる。
健の胸の中に崩れるように倒れた。
一週間ぶりの外出だ。
待ち合わせをした駅で、俯く芳田が顔を上げた時、深刻な話しをされるのだと察した。
帰省した芳田が、話がなると連絡を寄越したのは、一昨日のことだ。
外は暑い。
午後三時の比較的空いているファミリレストランに移動する。
ドリンクバーを注文し、各自ドリンクを用意すると、芳田は、
「他のサークルメンバーから、聞くよりも、俺が、憶測ではない確かな情報だけ伝えた方がいいと思った」
そう前置きをした。
こんな役回りはしたくはなかっただろう。
「七月末に、湯浅総合病院で雨宮さんと美香さんを見た人がいる。一つ上の先輩で、雨宮さんのことも美香さんのことも、よく知っているらしい。人違いの可能性はない。その待合室は、産婦人科の前だった」
簡潔に説明し、固く口を閉じた。黙る。
夏生は表情を失した。
男女二人で産婦人科に行く意味は何か。
妊娠の二文字が、頭の中で増殖する。
悲痛な声を上げた。
「…どうして」
どうして、よりによって美香なんだ。
一年前からずっと、夏生に隠れて会っていたのか。
いつからだ。嘘だ。嫌だ。騙されてたのか。息を殺す。
一年前、美香とホテルに行った健は、謝罪しながらも、何もなかった、と言い張った。あれも嘘だったのか。
みるみる蒼白になる。
「偶然会っただけかもしれない」
芳田が言った。
偶然会うには相応しくない場所だ。
産婦人科に行ったことなどなかったが、夏生は「そうだな」と呟いた。
思考が止まった。
答え合わせは健としかできない。
ポケットから携帯を取り出し、トーク画面を開くと、昨夜に健と交わしたメッセージが並ぶ。
「明日、迎えに行くよ」と健。「明日は、芳田と会うから、夜なら」と返していた。
昨夜、健と会える約束は、ただ嬉しかった。
現在、まったく状況が変わってしまった。
この数時間後には、健と会わなければならない。
そして、健の答えによっては、別れがくる。
夏生は心臓を押さえた。
震える指先がたまたま「あ」をタップし、そのまま送信してしまう。
既読がついてしまった。
着信が鳴る。健だ。
拒否しようかと5秒ほど迷ったが、通話を押し一瞬で後悔する。
唐突に健の声がはっきりと聞こえたのだ。
「もうすぐ赤ちゃんが生まれそうなんだ」
健は今なんて言った。
「夏生?聞こえてる?」
健の声が続く。
咄嗟に健の声から逃げた。
芳田が呼ぶ声を背中で聞くが、店を飛び出る。
健が怖かった。
健は喜びを隠せてなかった。赤ちゃんができたことに喜び、それを、夏生に、さらっと告げたのだ。
吐き気がする。
気づけば、鞄も財布も携帯も店に残したまま、歩道に立ち竦んでいた。
不意に流れる汗と涙を、袖で拭く。
病み上がりの体も心も悲鳴をあげ、倦怠感に襲われる。
嫌いになりたい。そうすれば、健と別れても、健のいない無意味な世界に耐えられるはずだ。
赤ちゃんが産まれる、と健は言った。
当然、結婚するのだろう。
そう思った瞬間、心臓がドクっと跳ねた。
財布がなければ足で家に帰るしかない。
道に迷いながら何時間も歩き、徐々に夕闇が迫る空を見上げた。
健の記憶を反芻した。
くしゃっと笑う顔が好きだった。
寝顔も寝惚けた顔も好きだった。
初めて二人で食事をした時、付き合い始めにキスをした時、二人でふざけ合いながらセックスをした時を振り返ると胸が熱くなる。
一方で腹の底から、じわじわと恐怖が競り上がって来る。
隠れて手を繋いだ映画館も、桜の花弁が舞う公園も、クリスマスのケーキも、大晦日の深夜の初詣も、笑い転げた何気ない日々も、すべて失ってしまうのだろうか。
一台の車が目の前で減速し、路肩に止まる。
運転席から急いで出てきたのは、健に似た男だった。
「夏生!」
それは似た男ではなく、なぜか健だった。
水中に潜ったかのように息苦しい。体も重い。体中を巡る血液が暑い。
疲れきった夏生は喉が渇いたなと思った瞬間、目眩がした。視界が回る。あっ。意識が遠のく。
「夏生!」
怒鳴り声が近くで聞こえる。
健の胸の中に崩れるように倒れた。
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