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25 別れ
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「うう、痛っ」
俺は全身に筋肉痛の鈍い痛みを感じて、客室の寝台から出ることができなかった。
股関節と尻の違和感もあり、思うように動けない。
「大丈夫か? 無理をするな、今日も休め」
朝の身支度を整えたルシャードが、心配げに口にする。
俺は発情期の四日の間、政務宮に出勤することもできず、金ノ宮の客室から一歩も出なかった。
「……はい」
「すまないが、今日はどうしても帰りが遅くなる。明日にはゆっくり話す時間がとれそうだから、それまでここにいてくれるか?」
そう言うと、ルシャードは俺のこめかみに唇を落とす。
ルシャードが甘い。
発情期が終わり、アルファを惑わすフェロモンはすでに消えているというのに。
愛情が生まれたかのようなルシャードの態度に、俺はひとり悶えた。
しかし、それは一時的な錯覚だとわかっている。
俺の発情に誘発されて、ルシャードは混乱しているだけだ。
ルシャードにオメガだという事実を告げなくてはならないとわかっていても、事務官を辞めなければならないかと思うと、どうしても口に出せずにいた。
いや、事務官がどうのとかではない。
ただ単純に、発情期だったから間違いが起きたのだとルシャードに認識してほしくないだけだ。
ルシャードが部屋から出ていくと、俺は詰めていた息を吐く。
侍従のクリアが部屋まで食事を運んでくれ、食欲が戻った俺は残さずに食べた。
そのあと、動けるぐらいには身体の調子がよくなり、庭園のガゼボにひとりで向かった。
「マイネ?」
そう呼ぶ声に振り返ると、オティリオの姿がある。
俺はどこから入ったのだろうかと首を傾げた。
庭園の奥から姿を現したようだが。
「大丈夫か? 病気だって聞いて、兄上には内緒でこっそり来ちゃった……」
俺のうなじのあたりを見つめたオティリオは、走り寄ってきて愕然となる。
うなじは噛まれていない。
けれども何度もルシャードに吸いつかれたから、鬱血があるのかもしれない。
オティリオに手首を痛いほど強く掴まれ、俺は顔を顰めた。
「どうして? 兄上なんだ? 結婚するって教えたのに!」
俺は、目を逸らした。
そのことを考えないようにしていた。
しかし、忘れられるはずがない。
もし王女の存在を知らなければ、今頃は浮かれて都合のいい誤解をしていただろう。
忘れたくてもずっと頭の片隅にあった。
「明日には……ガッタから王女が到着するよ」
衝撃的なオティリオの言葉に、俺は蒼白になる。
「え? 明日? それは……本当?」
「本当だよ。マイネは兄上から何も教えてもらえてないんだな。多分、兄上はマイネとは一度きりだと思ってるよ」
俺は、唇を噛んだ。
言われなくてもわかっている。
「僕は兄上とは違う。マイネが好きだ。マイネが悲しむところなんて見たくない」
オティリオが俺の頬に触れる。
だが、まったく何も感じない。
オティリオに触られても、ルシャードのような衝動は起きないし、鼓動は鳴らない。
「俺が好きなのは、オティリオ殿下ではありません」
俺はオティリオの手を振りほどいて、走り出した。
ルシャードの口から、ガッタの王女が王国を訪問するという話を直接聞きたかった。
「待って」
オティリオは止めたが、追ってはこない。
渡り廊下から政務宮を足早に進み、前室の扉を開けたが、ルシャードの執務室にも誰もいなかった。
不意にルシャードの机上に視線を向けると、国王に婚姻の許しを得る書状が置かれている。
俺は呆然とその羊皮紙を見た。
この書状で国王に承認を得ることによって、王族の婚姻は認められる。
心が冷える。
かたっと前室から物音がして、引き返した。
そこで、鹿獣人の宰相のミラと顔を合わせた。
「あぁ、事務官のマイネか。今日は休みだと聞いていたが、どうした?」
ミラは、目が細く如才ない印象の人物だ。
「ルシャード殿下にお聞きしたいことができたので……」
「殿下ならアプト領に行ってしまったよ」
アプト領とは、ガッタと国境を隣接した領地だった。
「それは、王女殿下のお迎えでしょうか?」
「そうだよ。明日到着予定だ」
やはり、オティリオの言葉は正しいらしい。
「婚姻を……」
俺の囁きを、ミラは聴き逃さなかった。
「ああ、これから公表することになる」
俺はルシャードと王女が結婚することを知っていた。
ルシャードが俺を抱いたのは、オメガの発情期のフェロモンに惑わされただけだ。
責めることはできない。
しかし、ルシャードの心の中にある俺という存在が、取るに足らないちっぽけなものなのだとはっきりとわかってしまった。
俺が、どんな気持ちになるのか考えもしないで、何の説明もしないで、ルシャードは幸せそうに笑いながら王女を俺に紹介しようとしているのか。
耐えられそうもない。
見たくない。
俺は感情に任せて口を開く。
「ルシャード殿下に一言、お別れのご挨拶をしたいと思ったのですが、難しいようです」
ルシャードが帰ってくるのを待ってはいられない。
「どういうこと?」
「ミラ様、お願いがあります。私を死んだことにしてください。家族にも殿下にも、マイネは死んだとお伝えください。どうかお願いします」
「それは、その鬱血に関係があるのか?」
やはり、目立つ場所に所有の証のように鬱血があるらしい。
胸の奥の痛みに俺は堪えて、王都を去る決心を固めたのだった。
苦しい。
二度とルシャードには会わない。
俺は全身に筋肉痛の鈍い痛みを感じて、客室の寝台から出ることができなかった。
股関節と尻の違和感もあり、思うように動けない。
「大丈夫か? 無理をするな、今日も休め」
朝の身支度を整えたルシャードが、心配げに口にする。
俺は発情期の四日の間、政務宮に出勤することもできず、金ノ宮の客室から一歩も出なかった。
「……はい」
「すまないが、今日はどうしても帰りが遅くなる。明日にはゆっくり話す時間がとれそうだから、それまでここにいてくれるか?」
そう言うと、ルシャードは俺のこめかみに唇を落とす。
ルシャードが甘い。
発情期が終わり、アルファを惑わすフェロモンはすでに消えているというのに。
愛情が生まれたかのようなルシャードの態度に、俺はひとり悶えた。
しかし、それは一時的な錯覚だとわかっている。
俺の発情に誘発されて、ルシャードは混乱しているだけだ。
ルシャードにオメガだという事実を告げなくてはならないとわかっていても、事務官を辞めなければならないかと思うと、どうしても口に出せずにいた。
いや、事務官がどうのとかではない。
ただ単純に、発情期だったから間違いが起きたのだとルシャードに認識してほしくないだけだ。
ルシャードが部屋から出ていくと、俺は詰めていた息を吐く。
侍従のクリアが部屋まで食事を運んでくれ、食欲が戻った俺は残さずに食べた。
そのあと、動けるぐらいには身体の調子がよくなり、庭園のガゼボにひとりで向かった。
「マイネ?」
そう呼ぶ声に振り返ると、オティリオの姿がある。
俺はどこから入ったのだろうかと首を傾げた。
庭園の奥から姿を現したようだが。
「大丈夫か? 病気だって聞いて、兄上には内緒でこっそり来ちゃった……」
俺のうなじのあたりを見つめたオティリオは、走り寄ってきて愕然となる。
うなじは噛まれていない。
けれども何度もルシャードに吸いつかれたから、鬱血があるのかもしれない。
オティリオに手首を痛いほど強く掴まれ、俺は顔を顰めた。
「どうして? 兄上なんだ? 結婚するって教えたのに!」
俺は、目を逸らした。
そのことを考えないようにしていた。
しかし、忘れられるはずがない。
もし王女の存在を知らなければ、今頃は浮かれて都合のいい誤解をしていただろう。
忘れたくてもずっと頭の片隅にあった。
「明日には……ガッタから王女が到着するよ」
衝撃的なオティリオの言葉に、俺は蒼白になる。
「え? 明日? それは……本当?」
「本当だよ。マイネは兄上から何も教えてもらえてないんだな。多分、兄上はマイネとは一度きりだと思ってるよ」
俺は、唇を噛んだ。
言われなくてもわかっている。
「僕は兄上とは違う。マイネが好きだ。マイネが悲しむところなんて見たくない」
オティリオが俺の頬に触れる。
だが、まったく何も感じない。
オティリオに触られても、ルシャードのような衝動は起きないし、鼓動は鳴らない。
「俺が好きなのは、オティリオ殿下ではありません」
俺はオティリオの手を振りほどいて、走り出した。
ルシャードの口から、ガッタの王女が王国を訪問するという話を直接聞きたかった。
「待って」
オティリオは止めたが、追ってはこない。
渡り廊下から政務宮を足早に進み、前室の扉を開けたが、ルシャードの執務室にも誰もいなかった。
不意にルシャードの机上に視線を向けると、国王に婚姻の許しを得る書状が置かれている。
俺は呆然とその羊皮紙を見た。
この書状で国王に承認を得ることによって、王族の婚姻は認められる。
心が冷える。
かたっと前室から物音がして、引き返した。
そこで、鹿獣人の宰相のミラと顔を合わせた。
「あぁ、事務官のマイネか。今日は休みだと聞いていたが、どうした?」
ミラは、目が細く如才ない印象の人物だ。
「ルシャード殿下にお聞きしたいことができたので……」
「殿下ならアプト領に行ってしまったよ」
アプト領とは、ガッタと国境を隣接した領地だった。
「それは、王女殿下のお迎えでしょうか?」
「そうだよ。明日到着予定だ」
やはり、オティリオの言葉は正しいらしい。
「婚姻を……」
俺の囁きを、ミラは聴き逃さなかった。
「ああ、これから公表することになる」
俺はルシャードと王女が結婚することを知っていた。
ルシャードが俺を抱いたのは、オメガの発情期のフェロモンに惑わされただけだ。
責めることはできない。
しかし、ルシャードの心の中にある俺という存在が、取るに足らないちっぽけなものなのだとはっきりとわかってしまった。
俺が、どんな気持ちになるのか考えもしないで、何の説明もしないで、ルシャードは幸せそうに笑いながら王女を俺に紹介しようとしているのか。
耐えられそうもない。
見たくない。
俺は感情に任せて口を開く。
「ルシャード殿下に一言、お別れのご挨拶をしたいと思ったのですが、難しいようです」
ルシャードが帰ってくるのを待ってはいられない。
「どういうこと?」
「ミラ様、お願いがあります。私を死んだことにしてください。家族にも殿下にも、マイネは死んだとお伝えください。どうかお願いします」
「それは、その鬱血に関係があるのか?」
やはり、目立つ場所に所有の証のように鬱血があるらしい。
胸の奥の痛みに俺は堪えて、王都を去る決心を固めたのだった。
苦しい。
二度とルシャードには会わない。
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