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目標達成は計画的に

二十二日目② セーフ? アウト?

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「……っ?!」

 いや、それは捕獲したという表現の方が近かったかもしれない――今、私の目の前にいるのは、まるで捕らえたばかりの獲物をどうやって調理しようか思案する捕食者の顔のセシルで、それに加えて何故か本領発揮と言わんばかりの妖艶なオーラを放っている。これはもしかしなくても、非常に怒っているということではないだろうか。

「……じゃあ、僕が男だってちゃんと意識してもらわないとね……?」
「……どっ、どぇ?! だ、ちょ、い、一旦、落ち着こう……ねっ?!」

 当然セシルからの返事はない。その代わり、セシルは魅惑的な笑みを浮かべ、私の身体を自分の方へと流れるように優しく引き寄せた。
 そして――。

「……美咲……」

セシルは熱のこもった声で私の名を呼び、色気を漂わせたその顔を少し傾け、ゆっくりと私に近付けてくる――。

「……!!」

 ここまでくれば、鈍感な私でもセシルが何をしようとしているのかハッキリわかった。そう、セシルはキスを、それも唇にするつもりなのだ――!
 こ、ここここ、こういう時はどうすればいい?! どう回避すればいい?! はっ、早く方法を考えないとこれが私のファーストキスとやらになっちゃうジャマイカ――?!
 だが、そんな風に考えている間にも、セシルの唇は私の唇にどんどん近付いてきており、今はもう重なる寸前だ。
ダメだ、間に合わない――そう思い、諦めて目をぎゅっとつぶろうとした、その時――。

「――はいストーップ! そこまで!!」

 という、成人男性にしては少し高めの聞きなれた声がすぐそばから響いた。その声にハッとさせられた私は、ほぼ無意識にそちらへ顔を向ける。と、それと同時に、柔らかいなにかが私の左頬に軽く接触した――。

「?!?!」

 一瞬のうちに二つの衝撃を受けることになった私は、心臓を大いに飛び上がらせながら、目に映る突如現れた人物の正体に目を見張る。その人物は私達にずんずんと近付き、セシルの左手首をガシッと掴んだ。

「セシル、度を越しすぎだよ」
「ショタ……! ……どうしてここに?」
「サタンの命令に決まってるでしょ。セシルが暴走するかもしれないから見張っておけって言われてね」
「へぇ……サタンが……!」
「ま、実際その通りになったわけだけど。ってことで、まずは手を放そうか。美咲、手首は折れたりしてない?」

 セシルは『折れた』という単語を聞いた途端、しまったという顔ですぐさま私の両手を放した。

「あ……えと……大丈夫……」

 ただ、ちょっと赤くなってはいるが。でも痛いわけではない。それよりも未だバクバク鳴っている心臓の方が大変だ。

「美咲、ごめん……! 本当に大丈夫かい?!」
「っ!」
「あーはいはい。本人が大丈夫って言ってるんだから大丈夫でしょ。で、セシルはちょっと美咲から離れようか」

 ショタはそう言いながら私達の間にスッと入り、セシルから私をガードするかのような格好になる。そのおかげで、私の心臓がほんの少しホッとしたのは言うまでもない。

「……ショタ、その扱いは少し酷いんじゃない? まるで僕が美咲に危害を加えるといった態度じゃないか」
「何言ってんの……この状況を見てそう思わない方がおかしいでしょ。まさかあのセシルが無理やり手を出そうとするなんてさ……前代未聞だよ」
「……! それは……その、自分でもびっくりしてるよ……! でもキスは直前で止めたじゃないか。ただ……結局は頬にキスしているんだけど……」

 セシルはチラリと私を見て頬を掻く。その視線を受けた私は先ほどのキス――セシルの唇の感触を思い出してしまい、一刻も早くそれを消し去ろうと自分の左頬へと手を伸ばした。
 そんな中、ショタは親切にも頬にキスどころでは済まされなかったかもしれない未来の可能性を投下してくれた。

「それだけじゃないから。今いるこの場所もだよ! 今俺らがいるの、ネオン通りに入る道の真ん前じゃん!」
「……!」
「……ネオン通り……?」
「……そうだよ。って言っても美咲はわかんないか……あー、まあ簡単に言うとネオン通りっていうのは特殊なホテル街で……所謂男女のカップルがそういうことをするための場所なの」
「そっ……?!」

 そういうこととは、つまり、そういうことではないか――?!

「その通りが俺らの左側の十数メートル先にあるんだよ」
「っ!!」

 そう言われた私は、反射的にその場からズサーッと後退る。そして、恐る恐るショタの言う方を振り向いてみれば、確かにそこにはネオン通りと呼ぶにふさわしい――『ホテル』『オープン』などの文字のネオン看板で溢れている――通りが存在しており、通りを挟む形で奥までずらりと続いている低層階から中層階までのノスタルジックな建物には、ちらほらと入って行く悪魔達の姿が見え、それが実に生々しい。
 もしもショタが止めに入ってくれなかったら――そう考えた瞬間、私の頭は強制的に思考を停止させた。

「美咲、誓って言う……ネオン通りは本当に偶然なんだ。ディナーを予約している店へのルートの途中にたまたまあっただけなんだよ」
「っ……!」

 何と答えたらいいかわからず私が言葉に詰まっていると、ありがたいことにショタが私の心を代弁してくれる。

「仮にそうだったとしてもセシルが暴走したのは変わらないでしょ。そういうことでデートはここでおしまいね」
「おしまい? ……それは少し一方的過ぎじゃないか? デートをしているのは美咲だよ。それをどうするかを決める権利は本人にあるのが普通だろう?」
「そうだけど、美咲の態度を見ればわかるじゃん。明らかセシルのことを警戒してるし」
「け……! だから自分が美咲を守ると……? ショタは美咲のナイトなのか? それとも何か……? ああ……! なるほど……! もしかしてショタは美咲に――」
「――はぁ?! 違うから!! 絶対違うから!! 常に頭の中が色恋でいっぱいのセシルと一緒にしないでくれる?!」
「色恋……? 僕は『美咲に男らしいところを見せることで自分の方が断然男らしいって言いたいのか』って言おうとしたんだけど……?」
「へっ?! へぇ~……って、男らしい?! それ一体何の話?!」

 お二人が、受けか攻めか、攻めか受けかの話です。

「……そうだ……! 今ここでそれを決めるっていうのも有りなのか……!」
「待って待って! 話がずれてる! 今はデートをおしまいにするって話で……あーもういいや! このままじゃ埒が明かないから美咲の口から直接言ってもらおう! それが一番手っ取り早いでしょ! ね、美咲! それでいいよね?!」
「あ……うん……!」
「セシルもそれでいいでしょ?!」
「ああ。それなら文句はないよ」
「じゃあ、はい、二人共! さっさと距離をとった状態で向き合って! 簡潔によろしく!――」

 ――ということで、少々強引なショタの仕切りにより、私とセシルは和解(?)の儀を執り行うことになった。先行のセシルは私の少し先でその場に跪くと、真剣な顔で口を開いた。

「――美咲。さっきは本当にすまなかった。キスのことも、ネオン通りのことも……だけど信じてほしい。君を傷付けようなんて気持ちは一切なかったし、それは今もそうだ。もし許してくれるなら……この後のディナーを一緒に食べたい」

 それらの言葉からは、嘘は全く感じられない。それにキス云々の件を除けば、デートだって楽しかったのも事実だ。だけど――。

「セシル……あの……ごめんなさい……!」
「……! そうか……いや、美咲が謝ることじゃないよ……全部僕が悪いんだから」
「……ううん……私も失礼なこと言っちゃったし――」

 私は右手の人差し指をピッと立てる。

「――だから、頬へのあれは……貸し、です! なので……いつか返してもらうから。必ず」
「それって……! またいつか僕に挽回するチャンスをくれるってことか……! ありがとう、美咲!」
「……と言っても、めちゃくちゃ大きい貸しだけどね?」
「ああ……! どんなに大きくても返すよ、絶対!」

 そう言って嬉しそうに笑うセシルの顔は、『やっぱり中くらいの貸しにしてあげようかな』と思ってしまうほど、ちょっと幼く見えてなんだか可愛かった――。


 そうして、その後である――。

「――じゃ、俺らも移動するけど……美咲はこの後どうしたい?」
「え? どうって……?――」

 普通に帰る以外に何か選択肢があっただろうか、と考えた瞬間、私のお腹がぐるぐると鳴ったことで、私はショタの言葉の意味を理解した。

「――あっ! 私の夕飯!」
「うん、そういうこと」
「わー、そうだった! ショタ、気付かせてくれてありがとう。それで申し訳ないんだけど、途中でお弁当屋さんに寄ってもいいかな? グラスには夕飯はいらないって言って出てきてるから……」

 私が手を合わせてそうお願いすると、ショタは少し言いにくそうに「……あのさ」と切り出した。

「……そのことで一つ提案なんだけど……もし嫌じゃなければどこか寄って食べてかない?」
「へ……?」
「別に嫌ならいいんだよ。ただ、こんなに早くお弁当を持って帰ったらグラスに訳を聞かれると思ってさ……まあ、グラスのことだから根掘り葉掘り聞いてこないとは思うけど、それでも聞かれたら美咲は必然的にさっきのを思い出すことになるわけでしょ。それって精神的にはどうなのかなって……」
「……!!」

 どうやらショタは、私の心を気遣ってくれているらしい。その気遣いが純粋に嬉しくて、私は「早く帰っても定刻通り帰っても車のエンジン音が聞こえない時点でグラスにはわかっちゃうと思うよ」というツッコミは飲み込み、ショタの提案を快諾する。

「っ! あっ、でも、行くのはチェーン系の大衆レストランだからね?! オシャレで高い店とか期待されても困るよ?!」
「逆にそっちの方がありがたいよ。この間高い買い物をしたからまだ節約中で……」
「高い買い物……? ああ、結構前に買ってたあれか。でもグラスからお金もらってるんだし節約する必要はないと思うけど……ってそんなことはいいや! じゃあ、とにかく行くよ!!」

 そう言って、ショタはせかせかと歩き出す。私は自分の前を歩くその大きな背中を見つめながら、まだ言っていなかった感謝の言葉を口にした。

「――ショタ……色々ありがとう」
「……べ、別に?! 俺は仕事でやってるだけだから! ってか、そんな無駄口叩く暇があるなら走るよ?!」

 お礼を言っただけでどうして走るという発想になったのかは不明だが――私はショタのそのツンツンぶりにクスッと笑い、もう一度、今度は心の中で感謝の気持ちを伝えたのだった。
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