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目標達成は計画的に

五日目① 落ち込むグラス

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 魔界へ来て五日目の朝。私はいつものように身支度を終えてから一階のキッチンへと降りると、そこには重い溜息を吐くグラスが居た。コンロでお湯を沸かしているのでどうやらお茶か何かを入れようとしているらしいのだが、グラスはそのお湯の蒸気がケトルの蓋をカタカタと音を立たせて今にもお湯が溢れ出しそうなことに気付いていない。これはただ事ではないようだ。
 私はグラスのそばまで駆け寄り、急いでコンロの火を止める。

「……美咲……? ああ、すまない……沸騰していることに気付かなかった……」

 全く覇気が感じられないグラスの台詞。やはり、何かあったのは確実である――それも十中八九、昨夜の魔王城で。

「……大丈夫? すごくしんどそうに見えるけど……もしかしてサタンに叱られた?」
「……いや……そういうわけではないんだが……サタンと言えば、そうだ……! 美咲に渡すものがあったんだった……」
「渡すもの?」
「……ああ、これだ――」

 と言って、グラスが着ているローブの内ポケットから取り出したのは黒光りの腕輪だった。それは私が左手首にしているグラスの腕輪と同じもの――つまり、銀行口座のデビットカードならぬデビットブレスレットだ。サイズはグラスのものより一回り小さい。

「――美咲の銀行口座だ。今まで美咲が働いた分の日給と、私の資産を入れてある」
「……!」

 魔王城での事務作業はただ働きじゃなかったのか……! しかも私の日給は二万デビ(日本円で二万円くらい)だそうだ。日本の低賃金に慣れているせいか、高すぎて逆に怖いと思ってしまうのは社畜根性が抜けていないからだろうか。

「大天使の迎えが来るまで好きに使うといい。ああ、言っておくが、美咲が今まで使った金額を私に返す必要もないからな。迷いこんの面倒を見るのは魔界の決まりだ。今後も遠慮せず使ってくれ」
「あ、ありがとう……!」
「それと、美咲には申し訳ないんだが……今後も私の買い物を頼むことになる。その分も考慮して一千万デビは入れているが、万が一足りなくなったら言ってくれ」
「……それは構わないけど……え、ちょっと待って。私がグラスの買い物をするってことは、つまり……?!――」

 私がハッとした顔を向けると、グラスは悲し気にまつ毛を伏せて頷いた。

「――私は当分の間、登城を禁止された。ついでに外出もだ」
「っ!!」
「……だが、別にそれはいい。私が気になるのは……私の分まで仕事をしなければならないレオのことだ――」

 グラスはポツリポツリと、昨夜の出来事を語り始める。魔王との謁見後、総務大臣執務室へ顔を出したこと。そこでは目の下にクマを作ったレオがまだ仕事をしていたこと。その仕事をグラス自身も半分引き受けると申し出たがキッパリ断られたこと。そして、目を合わせることもなく、急かすように執務室を追い出されたこと――。

「――今までレオにそんな態度を取られたことはなかった……そのせいか帰ってからもなかなか寝付けず、やっと寝たと思ったら目が覚めてしまってな……だからこうしてお茶でも入れようかと思って降りて来たんだ」
「……そう……だったんだね……」

 それは落ち込むに決まっている。しかもグラスは病み上がりなのだ。そんなか弱い状態の攻めに対して、こんなに落ち込ませるくらいよそよそしい態度を取るとは――今日出勤したらレオを問い詰めなければならない。
 しかし、数日前のレオ――グラスの容態を心配していた――からは考えられない言動である。この数日の間に何かあったのだろうか――私がそんな風に考えていると、モップちゃんが飛んでくる羽の音がホールから響いてきた。私とグラスは目を合わせ、互いに表情を引き締める。
 だが、さすが相手の感情を読むことに長けているモップちゃんだ――キッチンへ入って来て開口一番、「二人共なんか暗いデシけど、何かあったんデシか?」と言われてしまった。

「……実はしばらくの間、外出を禁じられてな」
「えっ?! それは厳しすぎじゃないデシか?! いくら完全無欠のグラスしゃまだって息が詰まるデシよ?!」

 モップちゃんの意見はごもっともである。そこで、リモートワークを提案してみたのだが――情報流出の観点から難しいとのことだった。まあ、もしそれが可能なら、私がグラスの代わりに仕事をする必要はないわけで。我ながら、もう少し気の利いた発言が出来ないものかと後悔したのは言うまでもない。

 その後は、グラスが私達に気を遣ってか朝のお茶に誘ってくれ、三人でゆったりとした時間を過ごし――私はショタの迎えで魔王城へと出勤したのである。


   ◇


 昨日よりも更に散らかった総務省執務室――。

 たった今、ショタの「じゃあまた夕方に来るから」という言葉と共に執務室の扉がパタンと閉まり、陽気とは程遠い雰囲気の中――私は瞬時にパソコンとにらめっこ中の堕天使の正面に移動して、その堕天使を見下ろしながら冷ややかな声で名前を呼んだ。

「レオ」
「……あぁ……? なんだ……?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「……聞きたいことだぁ? 見ての通りオレは忙しいんだから、手短にしろよ……って、おい、なんだよその据わった目は?!――」
「――昨夜」
「さ、昨夜?!」
「病み上がりのガラスのように繊細なグラスをゴミみたいに扱ったそうですね?」
「!!」

 グラスの名前が出た瞬間、レオは表情を一気にこわばらせ、私から目を逸らした。その態度だけで、グラスへの塩対応が故意であったということを自白しているのは明らかである。
 私は逃がさないとばかりにニッコリと笑い、レオの顔に自分の顔をグッと近付けた。

「どういう意図でそんな態度を取ったんですか? それに一昨日のダスボでの心配っぷりは一体何だったんですか? 納得のいく理由を教えていただけます?」
「……っ……しょうがねぇじゃねーか?! だって、あいつっ……!」
「グラスがなんですか?」
「くっ……見せた方が早いっ! ………………おいっ、これを見てみろ!!」

 そう言って、レオが私の顔面スレスレに向けてきたのは、レオのスマホだった。画面には日本時代によく使っていたSNSそっくりのアカウントのようなものが表示されており、カラフルな波の絵の背景と、それの左下部分に半分重なる形で六角形のアイコン――こちらはおもちゃの船の絵――が浮かんでいる。その下には短い自己紹介文と二つの数字――サポート数とサポーター数――といった感じだ。

「……これって……?」
「ツブヤイターだ!! そのまんま、呟くSNSだよ!!」
「……へぇ……で、話が全く見えてこないんだけど」
「とにかく! 下にスクロールしてこのアカウントのツブヤキを読んでみろ……!!」

 ツブヤキが何だと言うのだろう。私は話を逸らされているのでは、と疑いつつも、一応言われた通りに最近のツブヤキを読んでみる。

『君がどんなに私を拒もうとも私は愛を止められない 愛は冷水で消える炎とは違い自分自身の想いの強さでしか消すことが出来ないのだから』

「……詩人か何かやってる人のツブヤキ?」
「違う! その次のやつを読んでみればわかる!」
「はいはい……『闇に落ち 君の隣が自分の居場所だと思い続けていたあの日々は間違いなんかじゃなかった 全てはこの愛に目覚めるための積み重ねだったのだ そして今夜 私は君に会いに行こうと決めた 全ては愛の赴くままに』……なるほど? それでこれが何だって言うの?」
「お前、それ読んでまだわかんねーのか?! グラスだよっ!! それ書いてんのはグラスだっ!!」
「……へっ?! グラスぅ?! これ、グラスが書いてるの?!」

 私は素早く画面に視線を戻すと、過去のツブヤキをどんどん目で追っていく。そこには『君』に向けたポエムが並んでおり、その内容は若干こじらせている感すらある。

『君と会わなくなって丸二日 君は平気なの? 私は平気じゃない』
『君の瞳に乾杯 君の笑顔に完敗 君の優しさに感佩かんぱい
『私は難破船 君という港を見つけるため 愛が指す方へと進んでいる』

 確かに、投稿の内容とタイミングから判断すればグラスのような気もするが、内容が内容なのであのグラスが書いたとはとても信じられない。
 しかし、レオはそんな私の疑心を払拭する証拠を突き付けてきた。それは少し色褪せた波の絵と船の絵のポストカード――そう、このアカウントが使っている画像と同じものである。

「……これはかなり昔、グラスが絵の個展を開いた時に作ったポストカードだ。魔界は著作権法に厳しいから無断使用する奴はまず居ねぇし、グラスも自分の絵を使わせることは絶対ない。つか、そもそも個展の来場者もオレ達堕天使と部下の数人だけだったしな……つまり、このアカウントはグラス以外ありえねーんだよ……」

 更に付け加えると、愛について呟く悪魔はいないという点もグラス本人だと特定する判断材料になったそうだ。その証拠に、愛に関するツブヤキのコメントには『悪魔が大天使のフリして呟くとか発想が斜め上で草』『笑いのセンス高杉』『ガチで大天使が言いそうな台詞で笑う』などというコメントで溢れている。

「……あ~……じゃあホントにグラスなんだ……」
「そうだ!! それを踏まえてオレの気持ちをよく考えてみろ!! 深夜に二人っきりの部屋で万が一愛とかいうやつを囁かれでもしたら……!! 徹夜続きで参ってる神経がプツンと逝っちまうわ!!」
「……なるほど。そして無防備になったレオはグラスに介抱され、グラスの匂いで目が覚める、と……!」
「覚めないしそもそも介抱されんわ!! つーか、オレまで倒れて仕事する奴が居なくなったらまずいんだよ!! 美咲が思ってる以上に、結構ギリギリで回してるんだぞ?!」
「あー……でしょうね。でも、その問題はグラスを仕事に復帰させれば解決すると思うけど……」
「そんなことオレだってわかってるよ……! けど、トップがダメと判断したんだ。それをオレが覆せると思うか?!」

 そう聞かれた私は一瞬でレオがキャンキャン吠えて魔王につまみ出される姿が想像出来てしまい、「……無理だね」と答えると、「だろ!!」というはっきりとした声が返って来た。自分に出来ないことは素直に認めるお利口なワンちゃんである。

「……じゃあ、セシルかショタ辺りならどうだろう……? あの二人ならなんとか交渉すれば――」

 と、そこまで考えて、私はある事実に気付いてしまう。

「――待って。私が交渉すればいいんじゃない?!」
「いや、なんでそうなるんだよ?!」
「だって私はグラスの代わりに仕事をしろって命令されている立場でしょ? で、そのグラスの体調が戻って仕事が出来る状態なら、代わりの私はその時点でお役御免になるのが普通だよ。だから――」
「――サタンに自分を解雇してグラスを復帰させろと交渉するってことか?」
「そう!!」

 私が期待を込めた目でレオを見つめて数秒。レオは小さく息を吐き、渋々オーケーを出してくれた。

「……好きにしろ。ただし、謁見はお前の終業後だ。付き添いはショタに任せる」
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