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魔界生活スタート!

二日目⑥ グラスとの夜

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「オレとかグラスもそうだし、あとはオレ達の直属の部下も当てはまるか。だが! 言っておくが、オレもグラスも部下達もそんなことやってねーからな!」
「あ、うん……でしょうね」

 自分で問題を起こして仕事に忙殺されるなど、よっぽどのドМでない限り自殺行為である。

「……まあ、そうは言っても無実を証明する証拠がないってことで、とりあえず今は執務室に監視カメラをつけられる羽目になっちまったんだけどな。それが当然の手だてなのはわかってるが、監視されるってのはいい気分じゃないぜ」

 レオによると、打たれた手はそれだけではなく、許可証の発行もこの執務室限定とし、更に一日の発行枚数も二千枚からその半分に減らしたそうだ。

「……それでもまだ違反者の数は止まらねぇ。ってことは、そいつの手元にはまだ許可証の在庫があってそれを順にばら撒いてるとみて間違いないだろうな。何のためにそんなアホなことしてんのか、オレには理解不能だぜ。だが、ただの悪戯として処理するには数が突き抜け過ぎてる」
「……確かに……」
「ったく、ホントムカつくぜ。首謀者は未だ不明、渡航待ちの下級悪魔どもは不満爆発でストライキを起こす、オレはますます仕事が増える、おまけにグラスまで……!」

 最後は独り言のようにそう呟いたレオは、感情を飲み込むようにトンカツ弁当の残り全部を口の中に掻っ込んだ。

「……むぐむぐ……と、まあそういった理由でオレは今すげぇ忙しいわけだが、残念なことにお前に任せられる仕事はそう多くない」

 レオはハムスターのように両頬をパンパンにしながら、作業用机の上の書類の山を指さして続ける。

「お前の仕事はオレがチェックした帰国者の調書に大臣の閲覧印か承認印のどちらかを押してそれぞれの木箱に入れることと、グラスのパソコンで渡航違反者の各項目をデータ入力していくことだ……ん゛ぐっ……喉に詰まった! お茶お茶!」

そう言い終わると同時にレオは椅子から飛び上がり、自分の机の斜め後ろに聳え立つ本棚を押し戸のごとく押した。どうやら本棚は隠し扉だったらしい。レオは完全に開いた本棚の押し戸の先に駆け込んで行く。おそらく飲み物を取りに行ったのだろう。
 その合間に、私は目の前のデスクトップパソコンの電源を入れ、トップ画面をざっと確認していった。見た感じ、日本で使っていた時のものとほぼ同じ仕様だ。これならレオに質問するまでもない。そう思っていると、お茶のペットボトルを手にしたレオが先ほどの押し戸から戻って来た。

「……ふーーーっ……危なかったぜ……印章は後ろのキャビネットの浅い引き出しの木箱にまとめて入ってる。データ入力はグラスが作ってたデータがあるからそれを見てその続きを打ち込んでくれ。渡航違反者の調書はコピーしたやつがグラスの机の上にある」
「わかった」
「オレはこれから会議に行く。終業時刻になったらまた戻ってくるからな。それまでここから絶対出るなよ。一度出たらオレが戻るまで入れなくなるぞ。その場合、何かあっても自己責任だからな」
「りょ、了解……!」
「キッチンは今オレが出てきたところにある。トイレはお前の方にある本棚を押した先の部屋だ」
「わかった」
「ああ、あとこれはお前の分のお茶だ。ほらよ」
「ど、どうも……」
「いいか、お前に期待はしてねぇが、ヘマだけはすんなよ」

 レオは最後にそう言い残すと、執務室から颯爽と出て行ってしまう。そして私はというと、トンカツ弁当をありがたくたいらげてから、執務室でのレオとグラスのオフィスラブを妄想しつつ、ただただ閲覧印と承認印を押し続けるという仕事に従事した。
その仕事が八割方片付いた頃、レオは少しやつれた顔で戻って来て本日の終業を告げたのだった。


   ◇


時刻は夕方の四時半になろうとしている。つい今しがた、グラスの別荘までレオに送ってもらって帰ってきたところだ。ちなみにレオはまだ仕事があるらしい。グラスの分の仕事も一人で抱えて頑張るとは、見立て通り攻めに尽くすワンコ系である。
そんな受けの姿を見せられてしまったら、私も疲れたなどと言っていられない。推しカプの未来のために、私はなんとか自分の脳みそに活を入れ、本日最後の大仕事――謁見の報告と謝罪――をしにグラスが横になっているベッドルームへと足を運んだ――。

「――美咲です。ただいま戻りました」

 控えめのノックと共にそう声をかけるも、グラスからの返事はない。寝ているのだろうか。
 私はもう一度扉をノックしてから「すみません。失礼します」と宣言して扉を開ける。するとそこには、ベッドの上で苦しそうに呻くグラスの姿があった。

「ぐっ……はぁっ……!」
「グラス?! 大丈夫?!」
「っ……美咲、か……! ……ただの……発作だ……っ! もう、治まる……はっ……はっ……は……」

 言葉通り発作が治まったらしいグラスは肩で息をしながら、サイドテーブルの上の水差しに手を伸ばす。水差しの周りにはグラスの眼鏡と水溜まりがあった。

「私がやります!」

 私はグラスの代わりに急いで水差しを掴んでコップに水を入れ、グラスの口元に持っていく。一分ほどかけて、グラスはコップの水を飲み干した。

「……世話をかけるな……」
「気にしないで下さい。私もお世話になってますから――」

これは本心だ。保護に始まり寝食から金銭に至るまで本当に助けてもらっている。

「――いや、私の方がお世話になっていますね……」

 私がそう口にして感謝を述べると、グラスは少し気が軽くなったのか、微かに口角を上げた。

「ふっ……そうか……それはそうと、買い物は恙なく終えることが出来たのか? 随分時間がかかったようだが」
「……あ、はい……買い物は午前中に終わったんですが、その……」

 当然のことながら、私は言い淀んだ。病人――と位置付けていいのかわからないが、発作直後の相手に打ち明けるにしては、謁見での内容はかなりヘビーな話になる。それに聞いた途端、ショックのあまりまた発作が起きないとも言い切れない。
 どうするべきか私が悩んでいると、グラスは全てを悟ったかのようにうっすら目を閉じた。

「その様子だと、レオに魔王城へ連れていかれたのだろう?」
「! ……はい……」
「私の身に起きたことを考えれば、そのくらい想像は付く……美咲が尋問された内容もな」
「っ!!」

 わざわざ口にしなくても大丈夫だという風に、グラスは首を横に振る。

「……あの、グラス……その……ごめんなさい……!」

 私は勢いよく頭を下げる。不可抗力とは言え、グラスの許可なしにレオへの気持ちを暴露したという事実は変わらないのだ。

「……そのように美咲が謝る必要はない。そもそもそれは私が報告しなければならない内容だったのだ。それを美咲が代わりに行っただけのこと。遅かれ早かれ、皆の知るところになっていたのだ。よって、謝罪は必要ないし気にする必要もない」
「グラス……」
「……だが、一つだけ……レオがどんな反応をしていたかは気になるがな」

 グラスはそう言って悲し気に眉を下げて微笑した。まるで、自分の気持ちは受け入れてもらえないことはわかっている、というような顔だ。

「大丈夫です! レオはグラスのこと、拒否なんてしませんでしたから! むしろ堕天使が愛に目覚めることが信じられないって感じで……だから安心して下さい! グラスの想いを押し殺す必要なんてないんですよ!」

 むしろレオを押し倒すぐらいの気持ちでどんどん攻めていっていい。

「そうなのか……! 拒否されなかったとは信じられないが……それだけで存外嬉しいものなのだな」
「いやいやいやいや! それで満足してちゃダメですって! もっと、もーっと幸せになりましょうよ! 私に出来ることなら何でも協力しますから! ねっ?!」
「ふっ……そうか……そうだな……それも……悪くないかもしれないな――」

 グラスはどこか遠くを見つめ、思案するかのように黙り込んだ。考えなければいけないことはレオのこと以外にもいっぱいあるのだろう。私も空気を読んで、グラスが沈黙を破るのを待つ――。

「――そう言えば、今は何時だ?」

 そう言って沈黙を破ったグラスは、目を細めて壁に掛かっている振り子時計をチラリと確認した。

「夕方の四時半です」
「……まさか、この時間までずっと城で待たされていたのか?」
「いえ。実は、今日から仕事をするように命じられたので、レオの指示する仕事をしていました」
「……なるほど。私の代わりにということだな……美咲、面倒をかけてすまない。今の私に出来ることは少ないが、不明点がある時は遠慮なく何でも聞いてくれ」
「そう言ってもらえると心強いです」
「……とは言っても、美咲に負担をかけていることには変わりないからな……一日でも早く復帰出来るようになるといいんだが……」

 その意見には私も激しく同意である。グラスとは明らかに違った目的で、だけど。

「私も助力します。元気になりましょう! そういえば食欲の方はどうですか? 食べられそうなら何か作りますよ」
「……そうだな。軽いものなら口に出来ると思う」
「じゃあ、雑炊系を作って持ってきますね」
「……すまない。感謝する」


 ……ということで、私はグラスが元気を取り戻すために雑炊を作るという大役を仰せつかったわけなのだが――。
この時の私は、この後人生初の「……あーんして下さい」という台詞を言う羽目になるということをまだ知らない。
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