11時58分42秒の罪

月城うさぎ

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    11時58分42秒。今宵も壁掛け時計をじっと見つめて、その時が来るのを静かに待つ。
 残り1分ちょっとで日付が変わるその時間。部屋の明かりは全て落とされ、私の意識は闇に包まれた。
 一瞬の目眩を感じた直後、全身が強い風に晒される。寒さと耳鳴りに耐えながら目を開けると、そこはもう見慣れた自室などではなかった。
 高い展望台。町全体を見下ろせるその場所は、その地域で一番高い建物。首を仰げば頭上には古めかしい大きな時計。レンガ造りの外壁にしっかり埋め込まれている。私がいるこの場所は、時計塔の上だった。
 中世のヨーロッパの町並みをそのまま残したかのような風景。明かりは時計塔の光源と、星明り。そしてこの場を照らすように煌々と輝く満月の光のみ。まるで時計塔の為のスポットライトのように、神秘的な月はここを中心に町を照らしていた。
 この場所に飛ばされて初めて気づく。月明かりは何て明るいのだろうと。都会育ちの私には、満天の星空や月明かりに恩恵を感じた事はなかった。綺麗だと思った事はあるけれど。
 ゆっくりと細い息を吐く。吐き出された息は白い。
 柵もない、レンガ造りのベランダのようなスペースにしっかりと立つ。数十メートル下の町は、テレビの中でしか見たことがない町並みだ。明らかに日本ではない。何かの番組で観た、チェコのプラハっぽい感じ。フランスやイタリアとはちょっと違う気がする。
 夢か現実かわからないこの不可思議なトリップ現象に、もはや名前をつける気も起こらなかった。一体今夜で何度目だろう。この時間、ここに呼ばれたのは。
 「寒い……。ムートンブーツはいてきて正解だった」
 真冬並みの寒さに身体を震わせる。一番初めにこの場所に来たときは、とにかくわけもわからなかった。てっきり夢だと思った。とてもリアルに見える夢。
 でも違ったのだ。この場所で傷を負えば、目が覚めても同じ箇所に傷を作っている。そして夢で得た情報や記憶は失われない。私の中に全てインプットされたまま残る。
 数回同じ現象が繰り返されれば、いい加減夢では済まされない。毎回寝ている時に強制的に飛ばされていたため、当然のごとくパジャマ姿だった。パジャマ一枚でこの真冬の格好はきつい。しかも裸足で冷たい石畳の上を歩くとか、ないわ。
 凍える思いをした翌日。ためしに普段着の格好に靴を持ったまま寝付けば、その姿でこの場所に来ることが出来た。その時ようやく確信した。ここはやはり、夢の世界ではないのだと。
 「だからと言って現実とは認めたくないけどね」
 誰が信じるというの。「毎晩同じ時間になると、強制旅行させられるんです」なんて。病院行くか? と冷たい突っ込みをいれられて終わりだ。
 毎回飛ばされる先はいつも同じ。町の中で唯一空に近い時計塔。針が示す時間は11時58分42秒。頭上には大きな満月。そこが指定席なのかここに来てから1ヶ月ほど、この月が欠けることも、時計の針が動くこともない。
 ちなみに自室にいなくても、この不思議トリップは起きた。場所を問わず召喚されては非常にまずい。まあ悲しい事に、彼氏の家にお泊りなどここ数年経験もないので、毎晩シンデレラタイムには帰宅しているんだけども。

 冬服のダウンジャケットを羽織り、その下は厚手のセーターと動きやすいジーンズ。足許はぺったんこのブーツ。時計塔の頂上付近のベランダっぽい場所から、中に続く扉を慎重に開けた。
 真っ暗な時計塔内部に入ると少しだけ安心する。普通に考えてあの場所で寝かされているとか、超怖い。何故出現地がいつもあそこなの。初めて来たとき、下から突き上げる風にびびった。高所恐怖症じゃないのが唯一の救いだ。
 塔の中はなかなか広い。ポケットに忍ばせておいたスマホのフラッシュライト機能を使い、足元を照らす。細い螺旋階段をゆっくり下りた先の扉を開けば、この建物の3階に繋がっていた。
 建物の中央は、三階から一階まで吹き抜けになって真下を見下ろせる。迎賓館の広間のような一階は、本で埋め尽くされていた。
 ここ一ヶ月、この建物の内部を探検している。下に降りた時、膨大な書物の数に驚いた。この時計塔は、どうやら町の図書館も兼ねているらしい。
 暗くて足取りが悪いので、あまり思ったように前には進めない。そして当たり前だけど、この場にいて怖くないわけでもない。
 誰かがいるかもしれない恐怖。誰にも会うことがない恐怖。聞こえてくるのは自分の鼓動と息使いに足音だけ。一人で過ごす時間は好きなのに、この静寂は恐ろしい。
 そして気になるのは、町の異様なほどの静けさだ。夢でもない、現実でもない、架空の世界だとしても、誰もいないことってありえるの? この建物にははっきり、人が生活していた痕跡を感じられるのに。……いや、感じられたのに、だ。
 すっかり私の私物置き場になっている場所に到着した。本当は時計塔の上に置きたいところだが、残念なほどあそこにはスペースがない。階段も細くて危険。何日かに分けて持ってきたのは、大きな懐中電灯にカメラなど。残念ながらカメラは役立たずだったが。この場を撮影しても、デジカメには何も写らないらしい。
 怖いけど、気が狂いそうな怖さがないのは、必ず戻れる事を知っているから。この場の滞在時間は、体感時間で1~2時間ほど。帰宅前の合図は鈴の音色。 耳の中で、はたまた頭の中で? 鈴のチリンとした音色が響けば自室に戻っている。
 そして帰宅後の時間は、いつもぴったり午前0時を回った頃だ。現実世界ではたった1分ちょっとの神隠し。理由はわからないが、今は深く考えない。考えても答えが見つかるわけじゃないから。
 「今のところ危険は感じてないしね。化け物や強盗に襲われてもいないし……」
 子供の頃、初めて行く場所で必ず探検をしていた事を思い出す。ドキドキとちょっぴりのワクワク感。今も恐怖を無理やりワクワクに強制変換。なかなか荒技だ。

 埃や瓦礫まみれの朽ちかけた建物ではなく、意外にも内部は汚れていない。少し空気がこもっているだけなのは、やはり誰かが昼間来ているからだろうか。
 昼間は人がいても夜には消えるの? いや、この町の住人が異様に早寝なのかも。
 毎晩一つずつ部屋を回る。タイムリミットがあるからすごく時間がかかるけど。これまで時間をかけていくつかの部屋をまわれた。一番下は本がびっしり壁に埋め尽くされているが、この3階は誰かの居住区らしい。
 正直不法侵入している気分はあまりいいものじゃない。でも、この場に来てから次第に強い想いがこみ上げてくる。ここで私は何かをしなきゃいけない。ううん、何かを捜さなければという衝動に駆られるのだ。

 【......見つけて、早く見つけて】

 今もまた、自分じゃない誰かの声が聞こえる。それが誰なのか、何なのかわからない。日に日に大きくなる声を無視するわけにはいかず、自分の私物を持ち込んで少しずつこの塔を暴いていく。正直わからない事だらけでかなりのストレスだが、とにかく探すのだ。ここに来ている意味が恐らく隠されているのだから。
 「……って、何も見つからなかったら、私何してんのって話なんだけど」
 きい、と目の前の扉を開けた。懐中電灯で中を照らす。お邪魔します、とつい呟いてしまうのは、私が小心者だからかしら。
 ここは誰かの寝室らしい。中央には天蓋のベッド。天蓋付きとか、初めて見たわ……。今時の一般家庭ではまず見ないと思う。ヨーロッパのお貴族様っぽい。
 ベッドのサイズは結構小さい。キングサイズではない。大人二人が何とか寝られるスペースの大きさ。そういえば、中世のヨーロッパの人って結構小柄な人が多かったんだっけ。王様が寝ていたベッドなんて、実は小さめという話を思い出す。
 綺麗にベッドメイキングがされているのかと思いきや。シーツはぐしゃぐしゃ、ベッドカバーもずれていた。枕はいくつか床に落ちており、何だかすごく生活感を感じてしまう。
 白いシーツは、ところどころ黒いシミが。ぐるりと室内を照らせば、どことなく物が乱雑に置かれているのが気になった。
 落ちている服を持ち上げる。埃っぽいそれは、くるぶしまで届くワンピースだった。クラシカルなデザインは今時ではない。ふんだんにレースが施され、ちょっと少女趣味っぽい。普段着用のワンピースかな。でも見ようによってはネグリジェにも見える。
 床に落ちている服に、壁には大きくずれた絵画。割れた花瓶はそのまま床に散らばっており、思わず眉を潜めてしまう。この部屋の人物は片づけ下手ってわけじゃないだろう。
 「何か、あった? 強盗とか」
 それとも地震とかの災害が起こって、物が散らかった? 飛び起きて着替えを済ませ、慌ただしく部屋を出た――。それもあり得るか。
 古めかしいが可愛らしい小物を飾っている所を見ると、この部屋は若い10代の女の子が住んでいたんだろう。ドレッサーに並ばれた香水瓶に目を向ける。割れたり倒れたりしているそれらは、光を当てればキラキラ光った。アンティークに興味のない私でも、思わず触れたくなる位綺麗で可愛い。中身はいらないから瓶だけ集めたい。
 「あれ、本が落ちてる」
 下の図書館で借りてきたやつかな。薄ら埃っぽいそれを手で軽くはたき、ぺらりと中をめくった。窓辺に近寄り、月明かりに照らしながらパラパラ読む。
 当たり前だけど、読めない……。これ、何語? 英語ではないな。ドイツ語でもないし、スペイン語にも見えない。
 「まあ、読めないのは当然よね」
 パタンと閉じて、丸いテーブルの上に置く。部屋を出ようとした時、ふと続き部屋がある事に気が付いた。
 そっと扉に手を触れると、扉は簡単に開いた。鍵はかかっていなかったらしい。
 続き部屋と思われていたそこには、地下に繋がる階段が。階段ばっかりだな、と思いつつ、慎重に下に降りていく。筋肉痛で朝起き上がれなかったらどうしようか。
 暫く降りると再び扉が現れ、恐る恐る手を触れた。ドアノブを掴む前に、ふっとその扉は開く。自動ドアじゃあるまいし、何で? と思いつつも、私は誘われるがまま中に進んだ。

 ひやりとした空気が肌を撫でる。室内とは思えないほどこの場は寒い。教会や聖堂のような広い空間に目を瞬いた。地下にこんな場があるなんて、一体何のためなんだろう。
 そこはどことなく神聖さを感じさせた。冷たさの中に神々しさも混じったような、清涼な空気が漂ってくる。
 カツン、と靴音を鳴らして石畳を歩く。一歩進んだ直後、両端に並んである燭台がぽっと灯った。
 え、ここ自動ドアだけじゃなく、人の気配で電気もつくの? いや、電気じゃなくて炎なんだけど。
 何だか、今更だけど、ファンタジーだ……。火がつくって事は有毒なガスもないって事よね? これも今更だけど、異様に人がいない理由は、伝染病などが流行った可能性もある事にも気づいた。目に見える物ばかりが危険ではない。
 恐る恐る奥に進めば、青白い光に気付く。近づいて見ると、それは大きな氷の塊だった。神秘的な青い光を放つその氷を覗いて、私ははっと息を呑んだ。
 「女の子……?」
 室内でも溶ける事のない万年氷。中には瞼を閉じて眠る少女の姿。その氷は、この少女専用の棺だ。
 白に近い銀髪は緩やかな波を打ち、彼女の腰まで伸びている。閉じられた目は何色なのだろう。睫毛も当然ながら銀色だ。
 踝まで届くドレスは簡素ながらも質がいい。両手は胸の下で組まれている。安らかな表情は、どことなく悲しさを醸しだしていた。見たところ外傷はない。ただ眠っているだけにも思える姿だが、肌には一切血の気を感じさせない。それでも氷に閉じ込められているからか、彼女の肌は瑞々しく見える。
 本当、生きていると言われても多分驚かない。でも、死んでいると言われた方が納得がいく。少女の姿はひどく現実味が感じられない。触れてしまったら壊れてしまいそうな危うさに、神聖さ。私はしばし呼吸を忘れ、彼女を見つめ続けた。
 「何で、ここに……」
 ぽろりと飛び出た言葉にはっとする。誰? ならまだしも、“何でここに?”私は一体何を言ってるんだろう。
 ズキン、といきなり頭が痛んだ。突然の頭痛に顔を歪ませる。頭の中が、脳がぐちゃぐちゃと掻き混ぜられている気分に吐き気がしてきた。誰かが強制的に頭に手を入れて弄っている、そんな不快感。
 赤、青、黄色――色の渦に光の洪水、音の波。強弱をつけて押し寄せるそれらは次第に映像化していき、“私”に雪崩れ込んで来る。

 悲鳴に嘆きに叫び声。
 建物中に響き渡る断末魔。
 『ヤダ、止めて、嫌!』

 溢れる声は、現実には聞こえてこない幻聴。直接頭の中に届けられる。耳には聞こえないが、はっきりと記憶が覚えている。
 その声を発したのは、誰だったか。声にならない悲しみは、一体誰の感情なのか。
 一方的に流しこまれた誰かの想いは、次第に勢いを落としていく。ゆるゆると治まり始める不快感に、ゆっくり息を吐きだして正常心を取り戻していた。
 心臓がバクバクしている。額には妙な汗が浮かんでいた。サラダスピナーのように頭をかき回され、不要な水気を切り重要な中身だけが残った感覚。
 「なに、何なの……」
 乾いた喉に唾を流し込む。早く、もう早く部屋に帰りたい。なのにもう聞こえてもいい鈴の音がまだ聞こえてこない。
 この場でスマホを確認しても、時計の役割は果たされない。腕時計をしてきても、時計の針が動く事はない。この不可思議な場では、自分の体感時間だけが唯一時間を計れる術だった。
 冷たい石畳に座り込んで呼吸を落ち着かせていると、ふと空気の流れが変わった。背後から冷たい風が流れてくる。
 カツン。誰かの靴音が地下室に反響する。背筋が凍った。この一ヶ月、誰にも会う事もなく、そして誰かの気配を感じる事もなかったのに。こんな時計塔兼図書館兼地下神殿? っぽい場所で殺されでもしたら……! 
 血の気が引いてゾッとする。護身用の武器としてスタンガンがジャケットのポケットに入っている。でも相手が飛び道具……拳銃を持っていたら。ああ、私の人生はここで終わりだ。

 足音が近づいて来るのに、腰が抜けて動けない。氷に閉じ込められた女の子の前で、私は座り込んだまま硬直していた。ゆらりと左右の燭台の炎が揺れる。橙色に光る炎は少しだけ温かみを与えてくれるが、この緊張から解放してくれるわけではなかった。
 カツンッ! と一際高い音が鳴り響き、その場で近づいてきていた人物は立ち止まった。ゆっくりと、覚悟を決めて振り返る。
 濃い影の陰影をつけたその者は、一歩進み出た。炎に照らされた顔は、呼吸が止まるほど美しい。
 肩よりも長い、淡い金髪。冷やかで怜悧な瞳。濃い青色の双眸は、一瞬だけ驚きに目を見開いた後、思慮深く私の観察を始めた。
 お尻の下まで長さのある黒いジャケット。その姿は映画などに出てくる騎士っぽい。精緻な金色の刺繍が良く映える。重々しさと静謐さに圧倒されてしまいそう。
 美形すぎると作り物めいて見えるのね。冷やかな雰囲気と実際にこの場が寒い為、見惚れる事はなく恐怖が勝る。
 均整な体躯に怜悧な美貌の男は、先ほど一瞬呆然としたようだったが、すぐに鋭い視線を私に向けた。
 「どうやってここへ入った」
 「は……?」
 紡がれた言葉は、日本語だった。男は再び私の侵入経路を問いただしてくる。その唇の動きをよく見ると、彼が話す言葉は日本語ではなかった。どんなミラクルが起こっているのか、脳内で勝手に通訳されているらしい。ある意味便利だ。
 現実世界でもこの能力が適用されないかな、なんて逃避気味な考えが頭をよぎったが、すぐに男に視線を戻す。私から5メートルほど先で歩みを止め、男は厳しい顔つきで私を見つめ続けた。
 「わからない、としか言いようが……」
 私の声を聞いた男の顔が、驚愕の色を浮かべた。据わった目で睨みつけていたのに、一瞬で様子が変わって私も驚く。
 男の視線が背後にある氷の少女と私を行き来し、彼は私の全てを見透かすような眼差しをした。
 抜けていた腰に力が戻る。危害を加える気かはまだわからないが、とりあえず謝ってここから逃げよう。
 ゆっくりと立ち上がり名前も知らない男に一言「すみませんでした」と謝罪を告げてこの場を去ろうとした。だが彼は「待て」と言い、私の手首を掴んだ。
 途端に高圧の電流が身体中に流れる。頭のてっぺんからつま先まで、ビリビリとした何かが体内を駆けた。その刺激に意識が一瞬遠ざかり、くらりと眩暈を感じた。
 ……頭痛がする。叫び声が聞こえる。先ほどよりも大きなその声ははっきりと、意志を持った声で私に訴えかけた。

 【捜して、……を、捜して】
 ――何を?
 【お願い、早く見つけ出して】
 ――どこで?
 【わたしを……壊してっ!】

 遠ざかっていた意識が覚醒する。
 涙声まじりの、少女の悲痛な声がはっきりと鼓膜を打った。目を開けたまま一瞬意識がどこかに飛ばされたらしい。がっしりと掴まれた手首を思い出し、再度視線を落とす。
 黒いジャケットの袖を伝い、その主の顔を見やる。至近距離で美形を眺められるなんて嬉しい、なんて感想は抱かなかった。溢れる想いはただ一つ。ごめんなさい、の一言だ。
 胸の奥が苦しい。はち切れてしまいそう。
 ズタズタに刃物で心が引き裂かれていく。
 切なさと愛しさがぐちゃぐちゃに混ざり、ついでに頭痛も増していく。

 ごめんなさい、ごめんなさい。私の所為でごめんなさい――

 冷静な自分が客観的に私を見下ろしているが、それ以上に心が別の誰かに支配されていた。今の私の中で、この謝罪は意味のある物。そしてこの男も、見知らぬ他人なんかではない。
 ぽろぽろと涙が頬を伝う。苦しさもやるせなさも、自分ではない誰かの感情のはずなのに、それは紛れもなく自分自身の記憶でもあった。
 強制的に雪崩れ込んでくる願いと想いは、そう、かつての自分が抱いていた記憶だ。
 “わたし”が苦しめ、“わたし”の所為で命を落としそうになったこの男性は、唯一無二の愛しい存在。誰にも渡さない、渡したくない。幸福な時間を手放したくない――。強く、強く願った末が、この悲しい結末。
 独りでこの地に縛られ、彷徨い続ける運命さだめを与えてしまった。ああ、何て“わたし”は取り返しのつかない願いを口に出してしまったのだろう。
 記憶の中と一致する、最愛の人の声が“わたし”の心を震わせる。

 「時が止まったこの地で動ける者は、私以外にいるはずはない。いるとしたら、それはこの現象を作りだした張本人のみ。肉体は死んだが、まさか魂が転生しているとは思わなかった」
 男はすっと私の背後の氷に視線を移す。あの少女はそう、かつての“わたし”だ。
 眉間に皺を刻み、厳しい目で彼は再び私を射抜くように見つめた。あの頃呼ばれていた同じ名前を、小さく呟く。
 「今の名は何と言う? セレネ」
 月の女神と同じ名前、セレネ。ああそうだ。私は確かに、セレネだった。セレネと名付けられ、呼ばれていた。
 「ま……ひる。時枝ときえだ、まひる」
 端整な顔が皮肉めいた笑みを浮かべる。
 「半永久的に日の光を浴びる事がないこの地を作ったお前の名が、真昼、か。何とも皮肉な名だな」
 冷笑を浮かべられ、心臓が抉られる。ズキン、ズキンと先ほどより頭痛の速度が速まった。頭痛の痛みと心の苦しみから、とめどなく涙が溢れる。視界がぶれるほどぽろぽろと。
 「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
 違う、私は苦しめたかったわけじゃない。あなたを失いたくなかった。だから……。
 握られた手首を持ち上げられ、男の胸に触れさせられた。黒い騎士の服の表面は、しっとりと湿っている。こぽりと滲み出る何かに気付き、私は小さな悲鳴をあげた。
 「胸を貫かれた私を見て、お前は願ったな。死なないで、と。あの瞬間、全ての時が止まった。時計塔にかけられた魔法と、頭上を照らす満月の魔力。月の女神に愛されし乙女の願いは、奇跡的に叶えられた。あの晩が満月ではなかったら。あの時間ではなかったら。お前が”セレネ”ではなかったら。その願いは、届けられなかった」
 反射的に離れようとする手を、さらにぐっと引き寄せられる。手のひら全体に、じんわりとした何かの感触が伝った。その何かの正体に気付いているから、ゾッとする。
 湿ったこの感触。黒地の服だから目立たないだけで、彼がもし白い服を着ていたら私は悲鳴をあげていただろう。指先に視線を落として確信する。私が触れているのは、彼の血だ。
 胸を貫かれ、死ぬ直前。セレネが願った願いが叶えられた。死なないでという願いを時計塔と月が叶え、この地の時は止まった。ただ一人、彼を除いて――

 「永遠に、血を零しながら生き続ける。剣で貫かれた胸の痛みはそのままで。お前は氷に閉じ込められ、私は一人でこの時が止まった地を彷徨い続ける。その苦痛が、お前にわかるか?」
 鋭く睨まれる。その強い眼差しに、かつての自分がしでかした罪の重さを思い知った。
 「何年時が経過したのかもわからない。体感的には100年以上、半死のまま生き続けた。空腹感も睡眠も感じない身体は、もはや生きているとは言えぬ。半死人状態のこの苦痛、一人転生したお前にはわかるまい?」
 さらりと私の黒髪を指で梳かれた。
 触られた直後、耳鳴りがする。チリン、と鳴ったのは、帰宅の合図。
 「お前の罪はお前が贖え。セレネの生まれ変わりよ。私に死の安らぎを与えない限り、私は永遠に赦しはしない――」

 ――ああ、何て目で、私を見つめるんだろう。
 かつて愛し合ったあの頃は、もう永遠に戻ってこない。
 大好きな人を苦しめている状況が、呼吸出来ないほど苦しくて痛い。

 チリン、チリン……

 早まる音色は向こうへの帰還を意味している。溢れる涙を拭わないまま、嗚咽を堪えて再び謝罪を口にした。
 「ごめんなさい、おにいさま……」

 視界が涙でぼやけた直後。私の意識は再び闇に飲まれて行った。

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