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第二部
29.昴の帰国
しおりを挟むタクシーの窓から見える光景に、女はそっと息を吐いた。梅雨の真っ只中の日本は、どこへ行っても連日雨が降っている。気温はさほど高くはないのに湿度があるため、薄手のシャツが日に焼けた肌にじっとりと張り付いていた。病的なまでに白かった肌はこの2年間ですっかりと健康的に見える位には色づいていた。
タクシーが静かな住宅街を抜けてさらに人気も民家も見えない自然にあふれる場所に入り込む。鬱陶しいほど強かった雨足が徐々に弱まり始めた頃、ようやく目的地へと辿り着いた。車が入れない細い砂利道の前で女はスーツケースを片手にタクシーから降りた。
振り続ける雨から身を守る為に一応持ってきた長傘をさして礼を告げた彼女は、一歩道路を外れて小道の内側へ入る。そしてさしていた傘を閉じた。それは別に濡れる事を厭わないわけではない。見事な竹林に囲まれた砂利道を重いスーツケースを引きなが歩くには傘は邪魔だったのだ。だが、まるで雨に意思があるかのように、絶え間なく降り注ぐ雨はある一箇所だけを避ける。彼女自身が避雷針のように雨の雫が彼女を避けて、周辺は一切濡れることはなかった。
雨や竹の独特な匂いと共に、清涼な空気がこの場を支配する。長い一本道の砂利道を歩き続けて暫くたった頃、ふと女は歩みを止めた。目の前には真っ直ぐに続く細い砂利道。だが、彼女の瞳に映る光景は何の変哲もない一本道ではない。ゆっくりと右の掌を何もない空間に押し当てる。常人には気付かれないほどほんの微かな反発を感じた。シャボン玉の泡のように脆くて透明で、でも確かに存在する物。ゆっくりと右手に力を込めると、その泡のような壁は崩れることなく彼女の手を内側へ飲み込んだ。
一歩前へ進み透明な壁の内側へ入った彼女の視線の先には、先ほどまで1本の道しか存在しなかったのに、右側へ折れる別の道が忽然と現れる。何の迷いもなく右へ折れた彼女は、じゃりじゃりとスーツケースが引きずる音を奏でながら危なげなく進む。
許可のない者は決して見る事ができないその道の先には、広大な敷地に作られた純和風の庭園に、古いながらも威厳を感じさせる日本邸が存在する。目当ての邸を眺めた女は、うっすらと昔を懐かしむかのように微笑んだ。
「久しぶりね、里帰りは。」
数年ぶりに日本に帰国した麗の母、一ノ瀬 美夜子は、凛と姿勢をただして生まれ育った実家へ歩みを進めた。
◆ ◆ ◆
自室に篭り流れるような筆使いで文を綴っていた雪花は、ふと何かに気付いたように顔を上げる。静かに降り続ける雨を窓から確認した後、視線だけで壁にかけられた年代物の壁掛け時計を眺めた。そして小さく納得したかのように頷く。
「予定通りか」
敷地内に張られた結界がほんのわずかだけ歪んだ。すぐに元通りに戻った様子から、侵入者は賊でも不審者でもない、紛れもなく邸内に入れる許可を持つ者。そして雪花は誰がこの時間に訪れるかを既に予知していた。たとえこの訪問があらかじめ連絡がされていなくても、雪花にとってはどっちでもいい。おそらく訪問者も連絡をいれるだけ無駄な手間だとわかっているのだろう。
雪花は近くに座る古くから古紫に仕える女中を呼び止めた。
「茶の準備を頼む」
雨の中を歩いてきたのだ。暖かいお茶のいっぱい位はもてなしてやろう。
(風呂の準備は・・・必要ないな)
小さく頷いた女中は、着物が乱れないように気をつけながらゆっくりと腰を上げた。
「お館様がお帰りになられたのですか?それともお客様でしょうか」
茶の好みも使う湯のみも変わってくる。そう訊ねた女中に、雪花は目元を和らげて否定の意味を込めて首を振った。
「なに、客でも十夜でもないが、気を使う必要はないぞ。まあ、珍しいかもはしれんがな」
襖を開けて女中が外に出るのを静かに見送ると、雪花は軽く嘆息した。
この時期に遠い異国にいるはずの娘が帰ってくるのには理由がある。おそらくその理由は、先日急死したという報せがあった蒼園家と少なからず関わりがあるのだろう。ちょうど週末には蒼園の次代当主就任式に十夜が鷹臣を連れて赴いたばかりだ。そして十夜は今日の夕方までには戻ってくる予定である。末の娘がタイミング良く現れたのはおそらく偶然ではなく、何かを察知したからの行動だろうと、雪花は予測した。
それはこちらとしても都合が良い。十夜が持って帰る情報を聞ける場に居合わせることは説明する手間が省ける。
久しぶりの再会を祝う気持ちで、雪花は持っていた筆を下ろし、美夜子が訪れるのをじっと待った。
◆ ◆ ◆
梅雨の憂鬱な季節に相応しくないほど陽気な声音で、いるはずのない人物が両腕を広げた。
事務所の入り口から現れたのは、バカンス帰りですか?と思わず訊きたくなるほど、こんがりいい色に焼けた50過ぎのおじさん。白髪が一本もない黒い髪が同年代より若干若く見える。ラフなポロシャツとジーパンのカジュアルな服装を纏い、黒ぶち眼鏡がどこか神経質そうに見せるが、喋ると気さくで陽気で、見た目の印象を裏切るこの人物こそ。紛れもなく私と響の父親だ。
「パパ?な、何でここにいるの・・・」
現れた途端ぎゅーっと抱きしめられる。窒息死させるつもりなのか、少し鬱陶しいほど暑苦しい父に思わず冷めた声でたずねた。さっきはびっくりしたけど、本当に何で日本にいるのだこの人は!仕事、仕事はどうした!総領事は忙しいはずだろ!
「My sweet daughter!久しぶりだね、麗ちゃん。会いたかったよ、元気にしてたかい?」
パパに会えなくて寂しかったよね!
そう続けて尋ねられて、「いや、別に」と本音が零れると、途端にこっちが思わず謝りたくなるような悲愴な表情で顔を歪められる。
「もう、冗談だよ!寂しかったし会えて嬉しいから、とりあえず離れて」
頻繁にメールも電話もしてるから、たまにしか会えなくても久しぶりな気がしないんだよ。しかも大学時代からずっと離れてたし、滅多に会わない時期が長かったから今更な気もする。勿論ちゃんと会えるのは嬉しいけどね?
ってか、アフリカから日本までほぼ一日移動してたからなのか、無精ひげがちくちくするんだけど!
思う存分頭を撫で回された後、ようやく解放された私はげっそりとした面持ちで顔をあげた。太陽が強い所為か、それとも場所によっては危険地帯の赴任で心労がある所為か、どうやら少し皺が増えて老けた気がする。薄っすらと隈があるのは気のせいじゃないのかも。
案内をしてくれた瑠璃ちゃんは、いきなり父が現れたことで驚いた様子だったが、今はちゃっかり仕事をするフリをしながら傍観している。
そして騒ぎを聞きつけたバイト中の響が、ようやく隣室から戻ってきた。
「あれ?お父さん?」
「おおー!My son!!元気だったかー?おや?背が伸びたようじゃないか。随分と逞しくなっているようでパパは嬉しいよ!」
私が受けた洗礼をしっかりと響も受けながら、抱きついてくる父を戸惑いながらも抱きしめ返していた。やっぱり顔は混乱しているようだけど。無理もないよね、一言も連絡くれなかったんだしさ。
「父さん・・・そろそろ暑苦しい・・・」
小さく呻いた響を父は満足そうに頷きながら離れる。子煩悩で周りにもそう思われている父は、確かに暑苦しいし鬱陶しいくらい娘・息子が大好きと愛情をくれるんだけど。一応小さな頃からパパっ子だった私は勿論それはありがたいけれど。私もいい年なのでそろそろ子供扱いはどうかと思う・・・。
「って、そういえばお母さんは?」
いつもならやりすぎるとお母さんがストップをかけてくれるのに。きょろきょろと見渡しても、お母さんが現れる気配がない。そもそもどうしてこの人私の職場に来たんだ。いきなり帰ったら家に居られるとびっくりだけど、事務所に来られるのもびっくりだよ。
「ああ、美夜は実家に戻ったよ。2、3日はあっちでゆっくりするって言ってたから心配はないよ」
実家って、京都のおばあちゃん家か。へ~珍しいな、お母さんがあっちで一人で過ごすのって。
何かあったんだろうか、とぼんやりと頭の片隅で考えていたら。がちゃり、と扉が開く。金曜日から用事で事務所を留守にしていた鷹臣君がタイミング良く事務所に戻ってきた所だった。
「あれ?昴さん?」
事務所に戻れば父がいて珍しく目を丸くする鷹臣君に、父は屈託のない笑顔で鷹臣君に向き合い、「鷹臣君じゃないか!ジャンボ!」と挨拶をした。
「ジャンボ」
同じようにスワヒリ語で挨拶を返す。って、ノリがいいなぁ、おい。
瑠璃ちゃんが気を利かせてお茶を淹れてくれて、ようやく落ち着いた所で本題に入る。一体どうして来たのだ。
「ここに来る予定はなかったんだよ。鷹臣君に挨拶には伺おうと思ったけどね?仕事の邪魔になると思ったから今度にするつもりだったんだが。家に入ろうとしたら、入れなくって」
ん?入れない?何で?だって鍵だってあるはずじゃ・・・
「「あ。」」
響と同時に顔を見合わせた。しまった、忘れてた・・・!
「ひどいじゃないか、君達。鍵を勝手に変えてハイテクなセキュリティーをつけたら、ちゃんと知らせてくれないと!」
肝心の鍵がなくて入れなかったと少しふて腐れた表情で文句を言われた。
「ごめん、実は変えちゃったんだよねー」
あはは、と笑いながらごまかしたけど。我が家の玄関は今じゃ普通の一般家庭には必要がないようなセキュリティーがつけられている。それも勿論、東条さんの強い推薦で、ほとんど口が挟めないままあっという間にハイテクな鍵に変えられてしまったのだ。
指紋は何とかやめてと訴えたんだけど。私指紋って薄いみたいで、好きじゃないんだよねあれ・・・。
そして費用は無料。東条さん曰く、『新製品のモニターみたいな物だと思ってくださって結構』だそうで。恐らく私に遠慮させない為だと思うけど、さり気ない気遣いとか優しさがこう、愛されてるって実感できてキュンと来るのは内緒だ。どんだけ恋する乙女なんだよ、自分!
そして父はといえば。有給と仕事の出張で2週間ほどは滞在する予定らしい。久しぶりに日本でゆっくりできてよかったねー!と話しかけたが、同時に重大な事に気付く。
まずいっ・・・東条さんに両親が日本に帰ってきてるのがバレたら、速攻で挨拶済まされて入籍させられるんじゃ!?
未だに娘に夢を抱いているっぽい父に交際相手じゃなくて婚約者を紹介したらどうなるのか、正直言って少し怖い。それにまだまだ恋人っぽい事をしていないのにもう夫婦になるとか、私まだ心の準備も出来ていないからもうちょっと待って欲しいんだけど!
・・・とりあえず今は黙っておこうかな・・・。
それは東条さんに両親が帰ってきてることでもあり、両親に交際相手(婚約者)がいることでもある。お母さんはともかく、父に彼氏が出来たなんて言ったら。きっと暫く口きいてくれなさそうで最高に鬱陶しくなりそうだし!東条さんは行動が早すぎてちょっと置いてけぼりになりそうだし!
お茶菓子のお菓子をそっと父に渡しながら、私は密かにバレルまで黙っておくという卑怯でずるい選択肢を選ぶことにしたのだった。
************************************************
昴は何だか暑苦しい父親になったみたいです。子供達を溺愛するお父さんです。麗はそっけないけど一応パパっ子。でも昴に対してのみ若干Sっ気があるかも?
そして前回の後書きで書き忘れたAddiCtのメンバー紹介:
K→クールでマイペースな23歳。口数はあるけど説明が足りない。
Q→温和で中性的な26歳。一番年上&リーダー的存在。ロン毛が似合う。
A→軽くて女の子大好きな22歳。社交的で人見知りしない。
J→少年っぽさが残る顔で金髪。見た目のわりに硬派。最年少の21歳。本名"潤"。
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