昨日の敵は今日のパパ!

波湖 真

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「もう一度、カトラリーを持ってください」
体をゴシゴシと洗われて、少し大きいが可愛らしいドレスを身につけると、ミリアからの授業が始まった。
一番初めに身につけるべきマナーは食事のマナーらしい。
朝食を食べながら、ミリアの叱責が飛ぶ。
「アンジュお嬢様、そうではありません。目玉焼きはフォークだけではなく、ナイフも使わなくてはなりません」
「は、はい」
「ああ、スープは手前から奥にすくうのです」
「は、はい」
「パンは一口サイズにちぎってください」
「……はい」
確かに朝食を食べたが、本当に食べたのかわからない。
これこそ、食べた気がしないという状況だ。
意外にミリアは厳しい先生だった。
初めから終わりまで、注意されなかったことがない。
「私のマナーって、ゼロみたい」
ママや周りの人たちから、常にお行儀が良いと言われていた自信が、ガラガラと崩れる。
私は食堂から戻り、部屋のソファに倒れ込むとため息を吐いた。
「あぁ、せっかく事件のことを調べようと思ったのに、食事だけで1日が終わっちゃうわ」
私はソファの上でゴロリと回転すると天井を見上げる。
まずは誰かに聞かないとダメだ。
ただ、ミリアのように若い人だと事件のことを知らない可能性も高い。
だって、八年も前のことだ。
「やっぱりニコルソンに、聞くしかないか……」
今朝はまだ一度も見かけていないニコルソンの顔を思い出す。
歳はとっているが、絶対に彼なら教えてくれるだろう。

「ニコルソン?」
それから、私はニコルソンを探して屋敷の中を歩いている。
広過ぎる屋敷が悪いのか、全くと言っていいほど、誰にも会わない。
ひょこっと顔を覗かせた部屋を見回してため息を吐いた。
「ここも誰もいない」
奥へ奥へと続く廊下をずんずん歩く。
左手の窓の外には、綺麗な花が咲いている。
朝見た庭園の脇を歩いているらしい。
私は足を止めて、その庭園を見つめた。
「綺麗だけど、ちょっと寂しいかな」
薔薇は綺麗に咲いているが、なんというか新しい花がない。
私は興味を惹かれて、外に出るドアを探した。
すると、少し先にテラスになっている場所があり、そこから外に出ることが出来そうだ。
ガチャという音を立ててドアが開いた。
「鍵がかかってなくてよかったー」
外に出て、テラスの手すりから庭園に目を向ける。
「気持ちいい!!!」
爽やかな風と花の香りに全身が包まれる。
私は深く息を吸い込むと一気に吐き出した。
「あっちにいってみようかな?」
脇の階段を降りれば、庭園に行けそうだ。
私はスタスタと歩いて向かうことにする。
「わぁ! ここって迷路になってる!!」
どうも入り口から奥に進むと迷路が出現した。
私は楽しくなって、迷路の中を駆け回る。
「あっ! あっちには池がある!!」
私が迷路を抜けて、池のほとりに歩み出た時、人影に気付いてサッと身を隠した。
「誰? パパ?」
茂みから見えたのは、パパだった。
「くっ、イレーナ……すまない」
え? 泣いてる? パパが?
一歩後ろに下がった時、ガサっと音がなってしまう。
「……誰だ!」
くるりと振り向いたパパと目が合う。
「あっ、あの……」
パパは無言で立ち上がると、私の方へスタスタと歩いてくる。
その目元には確かに涙の跡が見える。
そして、パパはそのまま迷路の中に消えた。
そう、私なんか見えていないかのように。
目が合ったはずなのに……
この前のようにキツイ言葉をかけられるのも嫌だが、まるで居ないように扱われるのはもっと嫌だ。
私はその場に座り込んで頭を抱える。
「ヒック、ううぅ、うー」
涙が溢れて止まらない。
なんとか声を殺してみるが、しゃくりあげる音は漏れてしまう。
「……ママ、ママ、ママ、早く帰って来てよー。お願いだよぅ」
私は目をギュッと閉じて、膝を抱えて涙を流した。
がんばろう、頑張ろう、ママのために頑張って……ママをパパに会わせてあげたい。ママが犯罪者じゃないって証明したい。
そう考えて来たが、本当は誰も知らない場所で、よくわからないマナーを習いながら、私はいっぱいいっぱいになっていた。
笑顔でミリアと話していたが、緊張しっぱなしだった。
私はそうして、その迷路の奥の池のほとりで暫く泣いた。
そして、少しだけスッキリするとその場で寝転んだ。
きっと、このドレスで草の上に寝転ぶ貴族の子供なんていないのかもしれない。それでも、もう自分のことを隠すのはやめよう。
いい子でいよう
よく思われたい
お行儀よくしよう
勉強にも積極的で
仕事もきちんとする
私はずっとそういう自分でいたいと思ったし、そうできるように頑張って来た。
だから、どこに行っても友達がいたし、誰からも可愛がられた。
ママがしばらく戻ってこなくても必ず誰かが助けてくれた。
でも、本当はそんな自分じゃ疲れちゃう。
ここから、追い出されることはない。
パパもここにいていいと言っていた。
それなら、ご飯がなくて困ることはないってことだ。
パパには、これ以上ないってほど嫌われている。
もう、取り繕う必要はない。悲しいけど……
だったら、少しだけ、自分の好きなように過ごしてみてもいいのかもしれない。もちろん、ママのためにパパの記憶喪失を治してあげたいとは思うし、その為に出来ることはやる。
でも、もういい子はやめよう。
私は寝転がって腕を頭の後ろに組んだ。
そして、空を見上げる。
青い空はどこまでも澄んで、白い雲が点々と浮かんでいる。
「あっ! あの雲、猫みたい!」
私はしばらくそのまま空を見て過ごしたのだった。
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