ハロー・マイ・ワールド

井坂倉葉

文字の大きさ
上 下
1 / 21
序章 ハロー・マイ・ワールド

始まりは些細に

しおりを挟む
 朝目覚めると、スフィーナはダスティンの執務室にいた。
 昼寝用という名目で置かれているベッドは、実はダスティンがいつも使っているものだ。
 ダスティンは決して寝室には近寄らない。
 義母にはにこにこと笑みを見せているが、決定的な距離は空けている。
 貴族の結婚なんてこんなものなのだろうと思うものの、スフィーナは父が何を考えているのかよくわからなかった。

「スフィーナ様、お目覚めになられましたか?」

 そっと声をかけてくれたのは、アンナだ。
 ずっと傍にいてくれたらしい。

「ええ、体もすっかり軽くなったわ。急いで部屋に戻らなければ。ミリーに見つかったらまた何を言われるか」

 義母は積極的にスフィーナに近寄ってくることはないが、ミリーはスフィーナがまた一人で『ズルイ』ことをしていないかとよく様子を見にやってくる。
 執務室のベッドで寝ていたなどと知られたら、またグチグチと言われることだろう。

「大丈夫です。リンが代わりにあの部屋で寝ていますから。髪色も似ていますし、ミリー様は風邪をうつされたくはないと、足元から覗き込むことしかしませんし」

「リンが? それは申し訳ないことをしたわね」

「いえ。スフィーナ様のベッドはふかふかだって喜んでましたし、昨夜ミリー様に粥を取り上げられてしまったことをずっと悔いていましたから。今度は騙し通して見せるってはりきってましたよ」

 リンがぐっと拳を握り締めている姿が想像できて、スフィーナとアンナは目を見合わせて笑った。

「お父様はもうお出かけになったの?」

「ええ。旦那様もずっとこの部屋のソファでお休みになられていました。額のタオルも、何度も替えてくださって。本当に旦那様はスフィーナ様のことを大事に思われてるんだなって実感しました。時折何故こんなひどい目にあっているスフィーナ様を放っておくのかと恨めしく思うこともありますが、何か事情がおありになるんだろうなと思わされました……」

 ダスティンが何を考えているかはわからない。
 けれど何をしようとしているかは、スフィーナには何となくわかる気がしていた。
 だからそれを妨げることのないように気を付けていた。

 そう言えば、夜中に夢うつつの中でダスティンが「もう少しだ」と言っていたような気がして、スフィーナは記憶を巡らせた。
 しかしぼんやりとした記憶で、前後の言葉もよく思い出せなかった。

 ふと、スフィーナは右手の小指に嵌められた指輪を眺めた。
 なんとなく母のサナが守ってくれているような、そんな気がした。

     ・・・◆・・・◇・・・◆・・・

「もう本当にパン粥って役に立ちませんのね! 夜中ずっとお腹が空いて空いて堪らなかったわ。夜食を食べに起きようと思ったのだけれど、眠くて全然体が動かなくて。ずっと夢の中でお腹が空いたと騒いでいたもの。パン粥が体形維持にいいなんて、嘘! すぐにお腹が空いて夜食を食べたくなるもの、逆に太ってしまうわ」

 それでもミリーは太ってはおらず、同年代がうらやむくらいの体形は維持しているのだから、そもそもそのためにパン粥なんて食べなくたってよかったのだ。
 本当にスフィーナのものは何でも欲しくなってしまうだけなのだろう。
 そして奪った後はぞんざいに切り捨て、こうして文句を言う。
 そこまでがお決まりなのだ。

 スフィーナが必要としているものなど簡単に得られる。たがそんなものはミリーには不要だと示して見せることで満足しているのだろう。
 それがスフィーナより優位だと感じられる唯一の手段なのかもしれない。
 それで本当に欲しいものが得られるわけでもないのに。
 非合理的で、ある種憐れだともスフィーナは思う。

「でも、一食抜くよりもお腹には入っているはずなのに、どうしてあそこまで空腹感を覚えたのかしら。耐えがたいほどにお腹が空いていたのよ。だけど起きられないから、まるで地獄の責め苦のようだったわ」

 そう言いながら、パクパクと肉を口に運んだ。

 スフィーナもそれと悟られぬよう笑いを堪えながら、もくもくと朝食を食べた。
 昨夜食べられなかったパン粥を温めてもらったのだが、パンがとろりと口のなかでほぐれて、病み上がりのお腹に優しく沁みた。
 それをまたミリーが見咎めて、むっとしたように眉を顰めた。

「私があれほどオススメしないと言ったのに、それでもお姉さまはそのようなものを食べるんですのね。お姉さまったら意固地だわ。私の言葉なんて、どれも聞いてはいないのね。私が何を言っても気に入らないんだわ」

「そうじゃないわ。とても普通の食事は入りそうにないのよ」

「そう言っていつまでもそんなものを食べているからよ。それとも勝手にそんなものを作った使用人に気を遣ってるの? 私達のために働くのが当たり前なのに。お姉さまがそんなだから、使用人たちはつけあがるのよ。お姉さまは長女なんだから、そんなことではいけないわ」

 我儘放題で人を振り回すだけのミリーに『あるべき長女』など語られたくはなかったが。

「ミリー、私のために食事が冷めてしまってはあなたに申し訳ないわ。どうぞ気にせず朝食を。あ、もうこんな時間ね。遅刻してしまうわ」

 今朝は体も軽いし、学院に行くのにも支障はないだろう。
 食事を終え、立ち上がったところに不機嫌な顔の義母がやってきた。

「お義母さま、おはようございます」

「熱を出したのですってね。あの部屋が気に入らなかった当てつけなんでしょう。やることが浅ましいのよ」

 腕を組み、じろじろと睨めつける義母に、スフィーナは顔を俯けた。
 こういう時は何を言っても怒りを煽るだけだ。否定も肯定もせず、殊勝な態度を見せている他はない。

「ふん……。またその被害者ヅラも見飽きたわ」

 それでもこうして文句は言われるのだけれど。
 これが最短時間で終われる道であるのは間違いない。
 これまでスフィーナがあれこれ試した末にたどり着いた結論だ。

 だが今日の義母はそれだけでは終わらなかった。

「まったく。あの女の娘を仕方なく家においてやってるっていうのに。忌々しいったらないのよ」

 その言葉には、スフィーナは思わずぴくりと眉を上げてしまった。
 顔を俯けていてよかったと心から思う。
 母を悪く言われるのだけは許せない。
 これ以上続きませんようにと祈るように、揃えた手をぐっと握り締める。
 義母はそのわずかな動きを見逃さなかった。

「また反抗的な態度。さすがあの女の娘ね。本当は全て私のものだったのに、憎たらしいったらないわ」

 ミリーと義母は間違いなく親子だ。
 言っていることが全く同じ。
 全ては自分のものであるべきで、何かが誰かのものであることが許せないのだろうか。
 スフィーナはぐっと奥歯を噛みしめ、言葉を押し込んだ。

 その時義母は、ふっとスフィーナの傍にあるものに目を留めた。
 いつも食事をすぐに持ってきなさいと怒鳴る義母のために、給仕が朝食を乗せた盆を運んでいたものの、スフィーナと義母が立ちはだかっており立ち往生していたのだ。
 盆の上には義母に言いつけられている通り、熱い紅茶が一杯と、スープの皿、それからサラダがのっていた。

 俯いているスフィーナにも、義母がよからぬことを考えている気配は感じ取れた。
 だがはっとしたときにはもう遅かった。 

「あら失礼。手が滑ったわ」

 義母はぞんざいに手を振ると、紅茶のカップをスフィーナ目掛けて払った。

「……!!」

 ぱしゃりと掛かった紅茶は服を濡らして張り付き、震えるほどに熱かった。
 運よく割れずに転がった紅茶のカップを見つめながら、スフィーナはぐっと手を握り締め堪えた。
 ここで熱がればみっともないと騒ぐのは目に見えているから。

 だがその時だった。

「あっ、あ――!!」

 突然カップがなくなったことでお盆のバランスが崩れてしまったらしい。
 給仕は慌てて持ち直そうとしたものの、湯気の立ったスープを乗せたお盆は義母へと向かって傾いていった。

「ちょっと、何して――!!」

 危ない、と思ったときにはスープは義母へとその身を投げ出していた。

「きゃああぁぁぁっっ!! あつい、あついわよ! 何してくれてるの、早く拭きなさいよこのノロマ!!」

 義母はあつい、あついと身を躍らせながら、周囲で身をすくませている使用人たちを叱責した。
 とろりとしたコーンスープは義母の体にまとわりつき、腕を振っても落ちない。

「お母様?! ちょっと、あんたたち早く何か冷たい物でも持ってきなさいよ! 早く、早く!」

 ミリーの声にはっとしたように我に返った使用人たちが慌てて動き出したところで、スフィーナはそっと退室した。
 アンナが急ぎ着替えと冷やしたタオルを用意してくれて、スフィーナはやっと一息ついた。

 義母は自業自得ではあるのだが、カップ一杯の紅茶でもあれだけ熱かったのだ。
 火傷になっていないといいのだが。

 そんな心配を口にすると、着替えを手伝ってくれていたアンナはきっぱりと「いい薬です」と言い放った。
 そうね、と同調してしまうのも申し訳なかったが、アンナのあまりの言い切りぶりに、つい少しだけ、吹き出してしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。

ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。 彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。 「誰も、お前なんか必要としていない」 最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。 だけどそれも、意味のないことだったのだ。 彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。 なぜ時が戻ったのかは分からない。 それでも、ひとつだけ確かなことがある。 あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。 私は、私の生きたいように生きます。

あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。

ふまさ
恋愛
 楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。  でも。  愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

〖完結〗王女殿下の最愛の人は、私の婚約者のようです。

藍川みいな
恋愛
エリック様とは、五年間婚約をしていた。 学園に入学してから、彼は他の女性に付きっきりで、一緒に過ごす時間が全くなかった。その女性の名は、オリビア様。この国の、王女殿下だ。 入学式の日、目眩を起こして倒れそうになったオリビア様を、エリック様が支えたことが始まりだった。 その日からずっと、エリック様は病弱なオリビア様の側を離れない。まるで恋人同士のような二人を見ながら、学園生活を送っていた。 ある日、オリビア様が私にいじめられていると言い出した。エリック様はそんな話を信じないと、思っていたのだけれど、彼が信じたのはオリビア様だった。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。

〖完結〗では、婚約解消いたしましょう。

藍川みいな
恋愛
三年婚約しているオリバー殿下は、最近別の女性とばかり一緒にいる。 学園で行われる年に一度のダンスパーティーにも、私ではなくセシリー様を誘っていた。まるで二人が婚約者同士のように思える。 そのダンスパーティーで、オリバー殿下は私を責め、婚約を考え直すと言い出した。 それなら、婚約を解消いたしましょう。 そしてすぐに、婚約者に立候補したいという人が現れて……!? 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話しです。

処理中です...