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後編
令嬢:3【完結】
しおりを挟む「ここにいたのか、ディーナ」
初めて聞こえた時よりも求婚を聴いた時よりも、威厳に満ちた声にディーナはゆるりと振り向いた。
「猊下」
「今は二人きりだよ」
「はい、エジェオ様」
少し離れたところで控えていた護衛と侍女は、心得たように今少し後ろに下がる。
ディーナの声は十全には至らぬまでもこうして会話が出来る程には取り戻された。
小鳥のさえずりのように愛らしいと何故かパオロが率先して褒めるのがディーナには解せなくとも、夫がそれに深く頷いているのを見るのは心が躍るように嬉しい。
痛みすら感じるえぐみを齎す中和薬を長く続けるのには苦労した。一息に飲み干せる力なく、侍女アンナが花の蜜を抱えハラハラと見守る中、夫の役目とエジェオが匙を取り大きく開かぬ口に流し込んでくれた。最後の一匙を終えた後、その匙を口に含んで盛大に眉を顰めるのが幸福だった。
甲斐あって僅かながら声が出たと聞きつけた宰相閣下は、無理を押してこの街に礼拝に訪れディーナの手を取り涙した。
起こりはこの時だったとディーナは思う。
第一王子であった神官が神の御許に召されたと、宰相は褒められぬ面持ちで神官長エジェオに告げた。
セヴェリーニの王族は数少ない。第二王子は既に儚く、残る第三王子は幼く後ろ盾の小さい下級貴族出の側妃の母を持つ。王弟妹は言わずと知れた。全ては国王の永の安泰のための布陣。次代の王国の治世には考えも及ばない。
「エジェオ王弟殿下」
「……あぁ、そうだな」
宰相の細やかな宣誓に王弟エジェオは応えた。
「心あらずの私の小鳥は私を捨て置き何を考えているのか聞かせてもらえないか」
エジェオに問われディーナはまたも心馳せていたことに気付き笑みを零す。
「猊下、殿下とお呼びするのも本日までと今までを懐かしゅう思っておりました」
「はて、貴女に殿下と呼称されたことはあったかな」
「ございました……?」
小首を傾げるディーナに笑いを含み、エジェオは細腕を恭しく掬い上げそっと掌を這わす。
本当は奇跡の力なぞあるはずもないのだけどと、繰り返される慈愛の儀式はディーナの打ち切られたはず希望を温かく癒してくれる。
ゆっくりと対の腕を動かし、ディーナは癒しの手に己が手のひらをそっと重ねた。
「明日の戴冠式はきっと国民の歓喜の声響く盛大なものでございましょう」
「その半分は貴女のものだ。楽しみにしているといい」
「ふふ、頑張りましたもの。心して受け取りましょう」
「まぁ遷都に憤る者たちの恨み声も大いに聞こえそうだが」
「市井の者は逞しく心強い方々、きっと商機と張り切っておりますよ」
ディーナの培われてきた知識と知恵と人脈は、肌理細やかに王国の隅々までを掌握した。
清廉な神官長であったエジェオは国民の深い敬愛を得た。
宰相の常に最善を見定めんとする眼差しは市井に安堵を呼んだ。
忠臣と名高い父侯爵が王弟を掲げたことで貴族に正しさを齎した。
第三王子は早々に臣に下ることを母を通じて宣言し、国王は。
「喪に服すのも今日まで。神殿の浮かれた爺どもに捕まる前に戻るとしよう」
「はい、エジェオ様」
恋する人に寄り添われ、ディーナは目元を緩ませる。
侍女アンナと護衛と勝手に立場を変えたパオロが微笑ましくディーナとエジェオを見守る。
政の実質を先立ってこの街に移した宰相は明日の戴冠式に備え忙しく執務を捌いているだろう。
父侯爵はようやく末娘を嫁に出したことを実感したのか、いささか不機嫌に見せてあれは拗ねているのよと街に屋敷を構え収まった母に笑われている。
「横に並び立ち、支え合い、愛を育む」
「ディーナ?」
「わたくしは応えられておりましょうか?」
「……あぁ!もちろんだ!」
明日の国王に細越を抱え上げられ、ディーナはあらまぁと微笑みを返す。
婚約破棄から始まった、もしくはあの渡り廊下から芽吹いていた恋の成就に、ディーナは確かに幸福だった。
END
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