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第四章

35.熊谷の物語

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 終業のチャイムが鳴った。七月中旬に入っても尚明ける気配のない梅雨に、心までもそのどんよりさに侵食されそうになる。けれど周囲を見渡すとそんなことを感じているのは俺だけだと思い知らされるほど、そこら中から騒がしい音がする。大体が部活に行くか遊びに行くかの話で盛り上がっている。高校生ならそれが健全な姿なのかもしれない。 
 そんなことを思いながら窓越しに見ていた雨空から視線を外し、教科書や資料集、単語帳などを何冊も入れた紺色のスクールバッグを肩から担ぐようにして背中に回す。置き勉が禁止されているわけではない。ただ家で勉強するために持って帰る。それだけだ。 
 テニスから離れた俺にできることは勉強くらいなものだ。他のスポーツをするという選択肢もない。昔から背はでかく、バスケやバレーに誘われることは多かったが、不器用なせいでシュートもアタックも中々決まらなかった。サッカーや野球も足は絡まるわトンネルはするわで俺には向かなかった。テニスだけがこんな俺にでもできる唯一のスポーツだった。 
 だがそれももういい。自分の弱さに嫌気が差した。 
 これまでは部活に専念していたこともあり勉強に多くの時間は割けなかったが、今からでも遅くはない。これから猛勉強して、一般的に名門と呼ばれる大学に行ければそれでいい。 
 下駄箱に向かって廊下を歩く俺を各部のユニフォームが次々と追い越していく。この時期はどこの部活も夏の大会に向けて最後の追い込みに入っているといったところだろう。群衆の中にはラケットケースを持った者も見える。毎週水曜日は練習がオフのはずだが、どこか屋根のある場所で素振りでもするのだろうか。まぁそんなことはもうどうでもいいか。 
 俺はテニス部をやめると決めた。監督には退部届を受け取ってもらえなかったが、そうすると決めた。俺はもうダメだ。ここでは通用しない。俺の性格はテニスに向いていなかったんだ。 
 下駄箱で靴を履き替えて玄関を出た。手元の傘を開き、家路に就く。頭上からは傘に当たって弾ける雨の音が鼓膜を突き、足元からはアスファルトに染み込んだ雨の匂いが鼻腔を突く。 
 俺がテニスを始めたのは小学校5年生の時だった。その頃から俺は人一倍身長がでかくパワーもあり、そこまでの技術がなくとも相手を力でねじ伏せることができていた。 ただ大会を勝ち進むにつれ、俺のパワーに食らいついてくるヤツも当然現れた。ソイツらからポイントを取るにはより強く、より厳しいコースにショットを決める必要があった。調子がいい時は狙ったところに決まるからそれでよかった。だが全てがそう上手くいくはずもない。狙ったところに決まらずアウトやネットをする時も当然あった。そんな時は決まって俺の中の短気な性格が顔を出し、感情を乗っ取ることが多かった。あの試合もそうだった。 
  足元に冷たさを感じ、一瞬我に返った。見るとスニーカーはびしょ濡れで靴の中まで浸水してきている。考え事をしながら歩いていたから、知らぬ間に水溜まりに入っていたのかもしれない。家に帰ったら忘れずに靴は乾かそう。
 あの試合。去年の都大会、吹野崎戦。俺は敵チームの主将と戦った。最初の印象は小さなヤツだということしか感じなかった。 ただ、試合が始まってみるとその印象は一変した。打っても打ってもボールが返ってくる。俺としては決まったと思ったショットでさえ相手はしぶとくつないできて、簡単にはポイントを取らせてもらえなかった。まるで目の前に大きな壁が立ちはだかったようにさえ感じた。試合も超がつくほどの長期戦になった。中々ポイントが決まらず、逆にミスが増えてくる展開に俺のフラストレーションは溜まっていく一方だった。得意のサービスゲームも中盤からはフォルトが続き、ダブルフォルトでブレークされた時はイライラもピークに達し俺は自らのラケットを……やってはいけないことをやってしまった。結果、試合にも負けてしまった。 
 試合中一度でも気持ちを切らせてしまうと平常心へは中々戻れないものだ。これはプロの選手でも難しい。日常生活でなにかイライラすることがあった時は、少し時間を置いたり、趣味のように鬱憤を晴らせるようなことをすれば解消できることが多い。だが試合中ともなるとそんなことはできない。イライラを解消したいからといって別のことはできないし、ルールとして二十秒以内に次のポイントを始めなければならない。そういった制限された環境の中では瞬時に気持ちを切り替えるということが非常に難しい。でも中にはそれを簡単にできる人もいる。どうやっているのかは知らないが。
 だが俺は過去からずっと苦手だった。ジュニア時代のコーチにも、白鷹の監督にも、メンタル面の改善が必要だと言われ続けてきた。それは俺自身も分かっていたことだし、改善できるよう努力もしてきたつもりだ。でもできなかった。最終的には迫り来る感情の荒波に呑み込まれ、自分自身を見失い、試合を棒に振ってしまう結果に終わる。そして俺は気づいた。これは俺自身の弱い性格がそうさせているのだと。強く自分の心を律することができれば、この状況は変えられる。逆に俺自身が強くならない限り、状況は変えられない。 
 ならばと思い、この際だからここでキッパリ変わってやろうと、自分自身を強く律してやろうと俺は一念発起することにした。 
 咋夏のインハイ後、私学大会団体戦のレギュラーを決める部内戦が行われた。俺はいつも以上に気合いを入れて臨んだ。しかし俺と対戦する者は皆、吹野崎の主将の戦い方を完全に真似た戦略を採ってきた。ここは天下の白鷹だ。勝つために相手の弱点を突くというセオリーを分からない者はいない。それに、都大会に出られなかった部員たちのリベンジに燃える闘志も強く感じた。
 俺はここが自分自身を変えることができる正念場だと思った。中々打開できない展開にフラストレーションを感じながらも必死で我慢した。なんとか耐え抜いて一試合、二試合と勝利を収めることもできた。しかし次の試合、その次の試合も、対戦する者は皆同じことをしてくる。それは勝ちたいから少しでも可能性のある戦略を選ぶという正しい選択をしただけで、俺と対戦する時は吹野崎の主将のような戦略が最も勝利の可能性があると踏んでのことだ。ただ、俺には我慢の限界だった。 
 分かっていた。中々決まらない展開にイライラしてしまう自分の性格も、その感情は自分の中でコントロールしなければいけないことも、ラケットを投げつけてもなにも変わらないことも、そしてここで変わらなければいけないことも、全部分かっていた。分かってはいたが、遂にはあの試合の時と同じ過ちを繰り返してしまった。
 そして今年の都大会に向けて開催された部内戦でも感情という荒波に呑み込まれてしまい、レギュラーになることは叶わなかった。去年の都大会前に行われた部内戦の時は、本当に調子も運もよかっただけだったのだと思い知らされた。 
 自分自身を変える。そんなの無理な話だったんだ。できるならとっくにしていたし、過去のテニス人生においても、今においても、こんなに悩まされることもなかった。単純にテニスというスポーツを戦うだけの強い心が俺にはなかった。それだけのことだ。俺が再び白鷹のユニフォームを着て試合に出ることは、もうない。 
「クーマさんっ、今日もおサボりか?」 
 待ち伏せをしていたことがバレバレでも構わないというように、金髪頭は傘を差しながら道のど真ん中で仁王立ちをかましている。 
「またお前か」
 俺が部活へ行かなくなってからというものの、晴れの日も今日のような雨の日も、台風の日だって、毎日毎日新は俺の家路に現れる。 
「何度来たって俺の気持ちは変わらない」 
 そう言うと最初の頃はガッカリしたという顔を見せていたのだが、最近は「それがどうした」というようにしつこさが増した。 
「そう冷たいこと言わんといてやぁ。また一緒にテニスやろうや。クマさんおれへんと俺が寂しいんや。なんとか考え直してくれへんか?」 
「……すまん」 
 新の横を通り過ぎる。ここで諦めてくれればいいのだが。 
「それだけやないんや」 
 はぁ。やっぱり着いてきたか。 
「今のテニス部はなんちゅうか、覇気のない感じがするんや。都大会もベスト8で終わってしもうたし。ジジイからはここ数年で最低の順位や言われたわ」
「知っている。毎日お前から聞かされているからな。もう耳にタコができた」 
「え? タコ? どこやどこや?」
「ただの比喩表現だ。本当にできるわけがないだろう」 
 なーんだ、と少し不満そうに口をすぼめる。バカというかアホというか。 
「ほな、なんでテニスやめた言うとんのに、毎日朝と夜のランニングは続けてるんや?」
「……知っていたのか」
「クマさんにバレへんようにコソコソせんとあかんかったから大変やったで」
 新は笑う。
「まだテニスを完全に諦めきれてへんいうことやろ?」
「それは……日課が抜けないだけだ」
「そんなはずあらへん。テニスを完全に諦めたヤツが毎日律儀にランニングなんてするはずない。クマさんは自分が気づいてへんだけで本心ではテニスを諦めきれてへんのや」
 新は必死に食い下がってくるが俺の心は決まっている。このままテニスを続けても俺が白鷹のレギュラーになれることはもうない。
「俺には無理だ。俺の性格から考えて――」 
「テニスは向いていない、か?  またそれか。もういい加減聞き飽きたで」 
 両方の手のひらを天に向け、呆れたというポーズを見せる。 
「こんな弱気なクマさんなんてもう見てられへんわ。この際やからハッキリ言わせてもらおうやないか」 
 新は俺の進路を妨げるように目の前に立つと、腕を組み、険しい表情で俺を見てきた。
「クマさんは自分の性格を盾にして逃げてるだけや」 
 しつこい上に説教までされると俺もだんだんイライラしてくる。 
「いや、性格云々やないな。自分の思い通りに試合が進まないとイライラしてキレてまう。ただの子供や、子供」 
「なんだと!」
 傘を放り投げて新の胸ぐらを掴む。胸ぐらを持ち上げられて新は地面から少し浮いたような体勢になったが、そんなこと構うものかと新も傘を放り投げて俺の胸倉を掴んできた。 
「だってそうやないか! 一度怒りが爆発してしもうたら冷静さなんてどこへやら。無理矢理パワーでねじ伏せようとしか考えられへん。罪のないラケットも叩きつける。終いには自分のテニスが通用せんくなったからって性格のせいにしてやめる? 少しも変わろうともせずに、ジコチューもええとこやで!」 
 俺が変わろうともしなかっただと? 自己中だと? ふざけんなよ…… 
「残念やで。俺の憧れたヤツがそんな下らん理由でテニスやめようやなるなんて。はぁ、しょーもない。ホントにアホらしいで」 
「知ったような口ききやがって! お前に……お前に俺のなにが分かるっていうんだ!」 
 掴んでいた胸ぐらを投げ飛ばすように放った。新は一瞬倒れかけそうになったが、ふらつきながらも持ちこたえる。 
 強まる雨足に、既にお互いずぶ濡れ状態だった。 
「俺だって、こんなんじゃダメだって、変わらなきゃって、必死に努力してきたんだよ。……でもダメだった。変われなかった。どうしても最後には己の感情に負けてしまう。俺は弱い人間なんだ」 
 地面を打ちつける雨の音が次第に強くなる。もはや雨の音しか聞こえない。目の前の景色も霞んで見えてくる。どん底っていう場所があるのなら、きっとこんな景色をしているんだろう。まぁ落ちこぼれの俺にはぴったりか。
 でもそんな中でも新の声だけはなぜだかハッキリと聞こえた。 
「なんで俺に相談の一つもしてくれんかったんや?」 
「えっ?」 
「どうせ強情なクマさんのことや。一人で悩んで、考えて、結論を出したんやろ。まったく」 
 放った傘を拾って俺の頭上にかざしてくる。ずぶ濡れになった金髪の下からはさっきまでの険しい表情が消え、笑みがこぼれていた。 
「意地張って一人でなんでも解決すんなや。俺にくらい相談してくれたってええやないか。いつも一緒におる親友なんやから。水臭い。これやから天才が挫折するとめんどくさい」
 新は空いている右手で拳をつくり俺の胸を突いてきた。その瞬間、俺はなんだか胸の奥にかかえていたわだかまりのようなものが砕けて崩れた気がした。 
 昔から俺は無口なせいか、周りには誰も話すヤツなどいなかった。それが普通だと思って過ごしてきた。テニスも一人で考え、一人で戦って、称賛も批判もしてくるヤツなんていなかった。俺はそれでもいいと思っていた。ただ、横で藤野や瀬尾が互いにああだこうだ言いながら楽しそうにテニスをしている姿を見て、羨ましくなかったと言えば嘘になるかもしれないが。
 親友か……。一方的に押しつけられた感じだが、なんだかいい響きだ。思い返してみればコイツはいつも気さくに俺にしゃべりかけてくるヤツで、最初は鬱陶しいとさえ思っていたが、今では楽しくもある。
「ホントに変わりたいと思うとるんやったら、俺が支えたる。俺とダブルス組もうや。一人じゃ無理なことも二人でならきっと乗り越えられる。クマさんがまた窮地に陥った時は俺が引っぱたいてでも目ぇ覚ましてやる」
「新……」  
 ダブルス、か。誰かとともに戦うなんて、今まで考えたこともなかった。でも、これが俺に残された最後のチャンスなら―― 
「勘違いすんなや。あくまでもリハビリにつき合うだけや。俺はクマさんがもう一度勝って吠えるところが見たい。それだけや」
 口調は穏やかに、新は笑顔で右手を差し出してきた。
 この手を取ったら、俺はまたテニスをすることになる。一度諦めたテニスを。でもこの手を取れば、もしかしたら俺は変われるかもしれない。俺は……変わりたい。これまでの弱い自分とは決別して、強くなりたい。それなら――
「あぁ、よろしく頼む」 
  俺は新の手を強く握った。 
「違うやろ。タッチや、タッチ」 
  そういえばダブルスのヤツらは皆、ポイント毎にタッチをするんだったな。 
「こ、こうか?」
 ペチ。
「そんな弱いんじゃダメや」
「じゃあ、こうか?」
 パチンッ! 
「いってぇ!」
 そんなことをしているうちにいつの間にか雨はやんでいた。雲間からは何週間かぶりに太陽が顔を覗かせている。太陽の光は気温が上がったことで空気中に舞ったチリやホコリ、雨を大量に吸い込んだ屋根瓦や地面に反射し、周囲を一気に明るくさせた。今まで見たこともないくらい、世界が輝いたように見えた。
「ほな早速、明日から秘密の特訓するで。覚悟しときや」
 そう言うと新はスキップをしながらどこへやらと行ってしまった。俺が首を縦に振ればあとはどうでもいいというように。 
 結局俺はアイツのしつこさに負けてしまった。口だけが達者なアイツの口車に、まさか自分が乗ることになるとは夢にまで思わなかった。 でもなぜだか心はスッキリと、以前よりも軽くなったと感じる。もしかしたら、これでダメなら仕方ないと高をくくれたからかもしれない。なににせよ、アイツの口車に乗った以上後戻りはできない。思う存分やってやろうじゃないか。
 
 
「次のゲーム、ブレークできれば勝利へ王手やな」 
 そんな新の言葉をよそに俺の心は殺気立っていた。理由はアイツら二人だ。瀬尾と桜庭。 
 これまでのゲーム展開は誰が見ても明らかに俺たちが押している。俺たちから一方的に攻める展開が多く、相手は返すのがやっとというほどに防戦一方だ。なのにゲームスカウントは4―3。シーソーゲームだ。
「ほらクマさん、次のゲーム始まるで」 
 新に促されるままベンチを立った。このゲームは絶対にブレークしてやる。 
 だがそう息巻いて臨んだものの中々ポイントが決まらない。打っても打っても絶えずボールは返ってくる。コートギリギリに決まり、もう返せないだろうと思ったショットにまでも追いつき、かろうじてロブをつないで時間を稼いでくる。本当にしつこいヤツらだ!
「アウト。15―0」
 クソッ! まただ。アイツらに取られまいと更に際どいコースを狙うとこっちのミスが増える。俺たちの方が押しているというのに、逆にペースを崩されていることが全くもって気に食わない。
「クマさんケア!」 
 新の声に反応はしたが既に遅かった。今度は早い展開でストレートを抜かれた。
「30―0」 
 俺が前衛にいるというのに、サイドラインと俺の間の小さな隙間を恐れず狙ってきた。普通はこんなハイリスクなところは狙わない。完全に俺を挑発しているとしか思えない。いい度胸だ。
 続くポイント。しつこく粘ってくる展開に俺は一撃で決めにいこうと思いきり強打した。が、再びアウト。その瞬間、俺の中で張りつめていた糸がプツンと切れた。
 バチンッ! 
 溜まっていた怒りをぶつけるようにラケットを地面に叩きつけた。
 なぜ決まらないんだ! なぜミスをしてしまうんだ!
 こんなことをしても落ち着きを取り戻せるわけではない。ただこうでもしない限り気が収まらなかった。 
 地面に転がったラケットは見るも無残に折れ曲がり、もはやラケットとしての形を成してはいなかった。ただのガラクタになったそれを新は拾うと、俺の元へやって来て左頬に鈍い衝撃を食らわせてきた。 
「ええ加減にせぇよ!」 
 いきなり殴られたことに俺は怒りを覚え新を睨み返したが、構うものかと今度は胸ぐらを掴まれた。
「そうやってまた気持ちを切らして、試合を棒に振る気か?」
 試合中になにを言い出すかと思えば説教かよ。聞きたくもないと俺はそっぽを向いた。
「クマさん、変わるんやなかったのか?」
 投げかけられたその言葉に、心臓の鼓動が急に早くなるのを感じた。
「ここで変わらへんかったら、きっともう一生このままやで。それでもいいんか?」
 ……そうだ。俺はこれまでも同じようなことで怒りに心を囚われるあまり、幾多の試合を棒に振ってきた。でもそんな状況を変えたいと、あの時そう思ったじゃないか。なぜまた同じことを繰り返そうとしている? ここで変われなかったら、新の言う通り今度こそ完全にテニスを諦めなければならなくなる。それでもいいのか?
 新の手に握り締められているボロボロのラケットを見ると、テニスから離れていた時の気持ちを思い出す。
 都大会前の部内戦で敗れてテニス部へ行かなくなってからの数ヶ月間、俺はずっと迷っていた。正直、もう一度テニスをしたいという気持ちはあった。でも戻ったら戻ったで、また自分の性格が嫌になることは目に見えていた。嫌な思いをしてまで、自分を傷つけてまでテニスを続ける必要はないんじゃないか。叩けばすぐにヒビが入ってしまうガラスのように弱い俺の心の中ではそんな葛藤が毎日続けられ、結論の出ないまま日課のランニングだけは中途半端に続けていた。そんなハッキリとしない毎日を過ごす度に俺の心は次第に廃れ、ボロボロになっていった。一体俺はなにをしているのだろうと。自分の存在意義すら見失っていた。
 でもあの時、どん底にいた俺を新が引きづり出してくれた。自分自身で無理だと決めつけて押し殺していた〝変わりたい〟という本心を引きづり出してくれた。俺はその時決心したんだ。もう逃げない。変わるんだと。
 新の言葉はあの時の俺の気持ちを思い出させてくれた。怒りで我を失っていた俺の心に差し込んでくる一筋の光。唯一忘れてはならないことを見失わないように明るく照らし、道しるべとなる光だ。
「ここは我慢やで、クマさん」
 俺は新を見て頷いた。そして新から手渡された折れ曲がったラケットに「すまん」と声をかけてベンチの上に置き、バッグから予備のラケットを取り出した。
 俺はここで、この試合から変わるんだ。
「フィフティーンセカンズ」
 あの数ヶ月で痛感した。やっぱり俺はテニスが好きなんだと。もう失いたくない。俺からテニスを取ってしまったらなにも残らない。ただの無色透明な毎日をまた過ごすことになってしまう。そんなのはもう御免だ。
 お陰で目が覚めたよ、新。一人ではまた同じ過ちを繰り返すところだった。
 視線の先ではあの時と同じように新が右手を差し出して待っていた。
 俺が支えたる。
 そう言った時の新の顔が重なり、とても頼もしく感じた。俺はその手にタッチをして、リターンの位置についた。
 確かに相手は手強い。俺のショットも中々決まらないし、よく返してくる。でも前とは違うことが一つだけある。
「40―15」
 後衛で新がつくってくれたチャンスを決めると、「よしっ!」と思わずガッツポーズが出てしまった。「ナイスボレー!」と新が出してきた手を強くタッチした。
 前とは違うこと。それは一人ではないということ。隣に新がいるということ。
「40―30」
 これまでのパワーに頼りっぱなしだった自らのプレーを変えて、一球一球を泥臭くつないだ。一発では決まらないけどじわじわと相手を追い詰めていき、最後は新が前で決めた。
 これはダブルスだ。シングルスと違って強引に決めにいく必要なんてない。俺が決めなくてもペアが決めさえすれば俺のポイントにもなるんだから。二人で協力してポイントを取っていくことがなによりも重要なんだ。
 続くポイント。また新と桜庭の激しいラリーが繰り広げられるも、不意に桜庭が俺の頭上を抜くロブを放った。ラケットを伸ばすも届かない。
「新!」
 新とサイドをチェンジする。だが新も不意を突かれたようで動き出しが遅れている。そして前を見れば瀬尾が虎視眈々と新の返球を狙っているではないか。まずい、このままストレートへ返したらアイツに捕まる。
「新、クロス――」
「分かっとるって」
 かすかにだけど新がそう言ったのが聞こえた。新は身を投げ出しながらラケットを振ると、そのボールはポーチに出てきた瀬尾を嘲笑うかのように反対方向へ放たれ、瀬尾が伸ばしたラケットの先を通過するとサイドラインギリギリにストンと落ちた。
「デュース」
 どんなもんや! と寝転がりながらドヤ顔を決めている新に俺は近寄り、手を差し出した。
「本当に大したヤツだ」
「せやろ」
 俺は新を引っ張り上げた。二人で笑いながらタッチを交わした。
 自分一人では打開できない状況でも、二人でならそれが可能になる。なぜもっと早くこのことに気づけなかったんだと自分を恨む。
「アドバンテージ・レシーバー」
 だからこそ今の俺にできることは――
 桜庭が再び俺の頭上を越えるロブを放ってきた。でも今の俺なら届くかもしれない。いや、届くはずだ! 飛べぇー!
「ゲーム白鷹。カウント5―3」
 渾身のスマッシュが決まり、興奮のあまり俺は吠えた。新とも今日一番力を込めてタッチを交わした。
「次はクマさんのサーブや。サービング・フォー・ザ・マッチやで」
 そう言って二球手渡された。
「思いきりいこうや」
「おう」
 俺は弱い人間だから、またどこかで己の感情に負けて怒りに囚われることがあるかもしれない。でももしそうなったとしてもこれからは大丈夫だ。俺は今一人じゃない。俺には新がいる。新が俺を支えてくれる。
「ゲームセット、ウォンバイ白鷹。カウント6―3」
「クマさんやったで! 勝ったで!」
「ああ!」
 だからこそ今の俺にできることは、ペアを信じて戦うことだ。
 ベンチの上には無残にも折れ曲がったラケットが置かれている。正直、あの時はもうダメだと思った。でも新のお陰で立ち直ることができた。コイツには本当に感謝しかない。
「なんや俺のことじっと見て。俺の顔になんかついとるんか?」
 新は両手で顔のいたるところを触っているが当然なにもついてはいない。 
「いや、なにもついてないよ」
「なんや、紛らわしい」
「新、ありがとうな。途中で俺の目、覚まさせてくれて」
 新は声も出ないくらい驚いたという顔で俺を見てくる。俺のこと、お礼も言えない子供とでも思っていたのか。俺だってお礼くらいはちゃんと言うさ。
「言ったやないか。俺が支えたるって」
 照れ臭さを隠すように互いに笑みがこぼれ、眼前で手を握り合った。思ったより新が強く握ってきたものだから俺も負けないように強く握った。新の熱い想いが伝わってくるようで、嬉しく、頼もしく思った。
 コイツと一緒なら、俺は変われる気がする。
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