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第四章

34.選抜戦

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 十一月も下旬を迎えた。さすがにこの時期になってくると、いくら天気が晴れていても体を温めるのに時間がかかる。急に激しく動いたら体を傷めてしまうから、徐々に動かす部位を広げていきながら入念にアップをしていく。昨日寝る前に衣装ケースの奥から引っ張り出しておいた黒くピチッとしたアンダーウェアがいい感じに体を締めつけてくる。
 選抜戦一回戦。今日の相手はあの白鷹だ。この選抜戦でも全国に何度も駒を進めている常勝校。俺はこれまでの団体戦で対戦したことはないけど、一年前の不動先輩たちの試合や夏の合同練習でその強さは嫌というほど目の当たりにしている。無論簡単に敵う相手ではない。でも、だからといってそれに臆するような真似はしない。今日は勝ちにいく。
 隣で同じようにアップをしているハルも今日は真剣な顔をしている。数分後に始まる試合に向けて集中力を限界まで高めているようだ。俺も負けていられない。
 全身をまんべんなく動かし、最後にダッシュなどできつめの負荷もかけてアップを終えた。バッグから水筒を取り出し軽く水分を補給して、靴ひもを結び直す。
「俺さ」
 隣で同じように靴ひもを結び直しながらハルがおもむろに口を開いた。
「去年の私学団体戦は大事な試合で福岡に行ってたし、今年の都大会団体戦はケガで出られなかったし、この前の私学団体戦は途中でメンバーから外されちゃったしで、これまでチームに何一つ貢献できていなくてさ。だから今回こそは! って気合い満々なんだ」
 片足を結び終えると俺の方を見てニコッと笑った。
「それに勝ち進めば全国へ行けるだろ。だから全国へ行けたとしたらどれだけ嬉しいだろうなって思うんだ」
 もう片方も結び終えると靴をポンと叩いてから立ち上がった。俺も急いで結び終えて立ち上がった。
「俺は試合に勝って、全国に行って、チームに貢献したい」
 曇りのない、固い決意を抱いた目で、真っすぐコートを見つめている。
「勝とう」
 俺は自然と言葉が出てきた。なぜかは分からないけど、ハルとならきっと……
 俺の方を振り向いたハルと目を合わせて、一緒に頷いた。


 フェンスの扉を開けコートへ入った。一試合目の堂上――スコアボードの結果は6―4――と入れ替わり、自陣のベンチに腰かける。対戦相手の姿はまだない。
 周りを見渡すと、フェンスの四方を埋め尽くさんとする白鷹の応援団が真っ先に目に入る。コートの中からは今までに見たことのない人の数だ。吹野崎の応援もちゃんと目には入っているけど、白鷹の大応援団にただただ圧倒されそうになる。確かに、去年の都大会で白鷹と当たった時もその数の多さと応援の迫力に圧倒されそうになったのを覚えている。フェンスの外にいた俺がそう思ったくらいだから、中で試合をしていた先輩たちはそれ以上にプレッシャーを受けていたに違いない。やっぱり先輩たちはすごいや。
「それにしてもすげぇ数の応援だな。緊張するか?」
「ううん、大丈夫。確かに呑まれてもおかしくない数の応援だけど、まずは自分のプレーに集中するよ」
「よく言った!」
 ハルがニコッと笑った。少し強がって言ったのはあるけど、ハルのその笑顔が俺の気持ちを少し楽にさせてくれた。
 白鷹の応援がなにやらざわついてきた。と思ったらフェンスの扉がキキーと開いた。俺からしたら十分高いその扉をくぐるようにして入ってきた巨人を見て、俺もハルもびっくりして立ち上がった。その巨人と隣の金髪は俺たちの方へ歩いてくると目の前で足を止めた。
「久しぶりだな。瀬尾、桜庭」
 その低く起伏のない声を聞いたのは言われた通り久しぶりだった。
「熊谷! お前、戻ってきたんだな。よかった……」
 ハルは驚いた顔を見せながらも、熊谷に語りかける声には嬉しさが宿っていた。
 今年の夏合宿で新から聞いていた。熊谷を倒すために新以外の部員たちがみんな協力して、集団で熊谷を倒しにかかったこと。それが原因で熊谷は部内戦で勝てなくなり、テニスをやめたこと。でも今ここにいるってことはソイツらを倒してきたってことだよな。きっと戻ってくるとは思っていたけど、こんなにも早く戻ってくるなんて。さすがだ。
「でも今はD1の試合だ。お前の出番はまだ先だろ?」
 熊谷はシングルスプレーヤーだ。S1は終わってしまったけど、S2、S3の試合はこれからだ。熊谷はきっとこのどちらかの試合に出てくることだろう。
「いや、今回俺が出るのはシングルスではない」
 そう言い残すと熊谷は敵陣ベンチの方へと歩いていき、持っていた荷物を下ろした。そしてバッグから深緑のラケットを取り出し、再び俺たちの前へ戻ってきた。
「お前たちの相手は、俺たち・・・だ」


『白鷹! 白鷹!』
 コートの周囲を埋め尽くさんばかりの白鷹部員が一斉に合わせるかけ声。そしてかけ声の間に挟まれるリズミカルな手拍子。
『白鷹! 白鷹!』
 どんどん勢いも増してくる。聞き慣れない俺たちからすれば一気に相手の雰囲気に引きずり込まれる感覚を覚える。大勢でかつ統率のとれた応援はまるで地鳴りでも起きているかのようだ。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ。白鷹、サービスプレイ」
 コートの対角線で熊谷のサーブを待ち構える。普通なら前衛にいる新の方が大きく見えるものだけど、遠近法が通用しないくらい熊谷の方が大きく見える。それほどまでに熊谷から感じる圧はすごい。不動先輩は一人でこんな怪物と対峙していたのか。
 熊谷が自身の大きな肺に空気を目いっぱい吸い込んで、吐き出す。目が合った。俺はラケットを握る手に力を入れた。熊谷はそれからゆっくりとボールをつき始める。1、2、3、4、5、6、7。そしてトスが上がった。来る!
 ――ガシャンッ!
「15―0」
 一瞬なにが起こったのか分からなかった。ボールは確かに俺の後ろに転がっていて、主審のコールもされている。でも俺はまだサーブが打たれていないんじゃないかと思い熊谷の方を見たけど、地面に左足をついてラケットを上から下に振り抜き終わっている姿を見たら、確かにサーブを打った後だということは分かった。
 嘘だろ……。初めて熊谷のサーブを受けたにしても全然見えなかったぞ。スピードが桁違いに速すぎる。
「瞬」
 歓声の中からでもハッキリと声が聞こえ、我に返った。
「なにボーっとしてんだよ」
 ニコッと笑われた。でも俺は到底笑い返すことなんてできない。
「アイツのサーブ、はえーだろ。ファーストが入ってきたら俺でも返せるかは分からねぇくらいだ。あれに関してはがんばって食らいつくしかなさそうだな」
 ハルはまたニコッと笑って俺の肩を叩くとリターンへ向かった。俺もなくなく前衛の守備位置につく。
 食らいつくしかない、か。確かにあのサーブを今すぐに返すなんて無理な話だ。それなら目に焼きつけるくらい、今度は熊谷のサーブをじっくり見てやる。
 前衛からだと熊谷の姿がよく見える。その巨体は一度深呼吸をすると静止の状態から前傾姿勢になり、左手だけを前に伸ばして再びボールをつき始めた。数えてみるとこれも七回。熊谷がサーブを打つまでのこの時間、さっきリターンを受ける側だった時は早く感じたけど、前衛から見ていると逆に長く感じる。
 トスが上がった。しなやかでとてもゆったりとしたフォーム。今度は目を凝らしてじっくりとボールの行方を見る。だけど気づいた時にはボールは黄色い残像だけを描いており、途中ハルの手元で鈍い音を発するとともに軌道を少し変えたものの、最後は後ろのフェンスに当たっていた。
「30―0」
 サーブが決まれば応援の熱量も増していく。気を抜くと全身の細胞まで響いてくる応援に呑み込まれてしまいそうだ。
 ハルを見ると、「いってぇ」と右手をブラブラさせている。さっき残像の軌道が変わっていたのはボールがラケットのフレームに当たったからだったんだ。ラケットに当たったってことはあの高速サーブに一発で反応したってことだ。俺は前衛からじっくり見ていたけど捉えられなかったっていうのに、ハルはすごいな。
「アイツの球、はえーのに加えて重いところが厄介なんだよな」
 もう痛みは収まったのか、ハルは悔しそうに熊谷を見る。
「ハルはすごいね。俺は一歩も動けなかったっていうのに」
「そう悲観すんなって。俺でさえ触るのがやっとだったんだから。とにかく今必要なのは気合いだ。絶対返してやるっていう気合い!」
 そう言ってハルは手を差し出してきた。いつもほどニコッとはしていないけど少し口角が上がっている。そして目は真っすぐに俺を見ていた。「お前ならできる」と言われている気がした。なぜだろう。ハルにそう言われると俺もできる気がしてくる。
「うん!」
 絶対返す! と心で言い返してからハルの手を叩いた。
 そうだ。速いからといって落ち込んでいてはダメだ。なにがなんでも返してやるんだ!
 自分の両頬を強めに叩いて気合いを入れ直す。
 再び熊谷がボールをつき始める。俺は地面にボールがつかれる度に集中力を上げていき、トスが上がってからは一切瞬きをせずにじっと目を凝らした。
 ワイドに来た! ――と思った時にはボールは既に俺の体の真横まで来ていた。ラケットを伸ばす。間に合わないか? いや、間に合わせる。届け……届けぇ!
 手に痺れるような感覚が残った。触ったのか? ボールはどこだ? 辺りを見回すと新がスマッシュのモーションに入っていた。
「瞬、下がって!」
 直後、新にスマッシュを叩き込まれた。俺とハルの間を抜けていったボールは、ガシャン! と大きな音を立てて後ろのフェンスに激突した。
「40―0」
 クソッ、決められた。俺の返球が甘かったんだ。もっと深くに返さないと。
「瞬!」
 盛り上がる白鷹バックのかけ声なんて関係ないっていうくらいに、ハルが満面の笑みで近寄ってきた。
「瞬、お前すげぇよ! たった二球でアイツの球を返すなんて!」
 ……そうか。俺、今アイツのサーブを返したんだ。さっきは一歩も動けなかったサーブに対して、今度は反応できたんだ。でもなぜだろう? もしかしたらハルの言ったように気合いで食いついたのがよかったのかもしれない。
 右手をグッと握り締めて手に残った痺れを噛み締める。
「でも決められちゃったら意味ないよ」
「いや、今はあれでいい。返せなくもいいからとにかく触り続けるんだ。簡単にエースは取らせない、俺はお前のボールに追いついてるぞって主張し続けるんだ。それは相手にとって大きなプレッシャーになる」
 キャラに似合わずハルは不敵な笑みを浮かべるとそのまま行ってしまった。なにか作戦でもあるのか? と思ったけど、続くサーブはノータッチエースを決められ――ハルも反応はしたけどサーブのコースがよくてボールに触ることができなかった――熊谷に立ち上がりのサービスゲームをキープされた。
「まずはあれでいいぞ!」
 キープはされたけど監督からもそう声をかけられた。監督もハルと同じく、最初は取れなくてもいいからとにかく触り続けることが大事だと思っているんだ。確かにいきなりあれを返すのは逆立ちしてコートを一周するより難しいけど、触るだけならなんとかできそうだ。俺にはまだその意味が分からないけど、監督もハルも同じことを言うってことはそれが熊谷サーブを攻略する糸口になるに違いない。
「相手のサーブが脅威な以上、こっちもサービスゲームは落とせないな」
 コートチェンジ後にハルが言った。でもそれって俺のサービスゲームも絶対キープしなきゃいけないってことだよな。不安を押し込むように唾を飲み込む。――いかんいかん。今は次のハルのサービスゲームをどうキープするのか、それだけ考えるんだ。
「とにかく一番気をつけなきゃいけないのは熊谷のフォアハンドだ。サーブでは徹底的にバック側を狙っていくから、ポーチもガンガン頼むぜ」
「うん。任せて!」
 熊谷のフォアハンドがえげつないくらい速くて強烈だってことは不動先輩との試合で証明されている。あの試合で不動先輩に引けを取らなかった熊谷のプレーは今でも鮮明に覚えている。だからこそ、まずはそのフォアハンドを自由に打たせないことが勝利へのカギになる。
 ハルとタッチを交わして前衛のポジションについた。相手は熊谷がデュースサイドに、新がアドサイドに陣取っている。
『白鷹! 白鷹!』
 まずは一本目。ハルのサーブは作戦通りセンターに入った。しかも超ギリギリ。サーブのコース、スピードともに完璧だ。熊谷の反応も遅れている。――いける!
 俺は瞬間的に体が反応してポーチに出た。走りながら熊谷のバックハンドから放たれたボールの回転やスピード、予測軌道を瞬時に目で捉える。一瞬、視界に入る全てのものの動きが止まったと思えば右手にはラケットでボールを掴むような感触があり、次の瞬間には新の手が届かない右方向のスペースへ掴んだボールを放していた。
「15―0」
 きれいに決まった! 練習では決まっていたけど試合では中々できなかったポーチが遂に。
「瞬、やったじゃん!」
 振り向くとハルが満面の笑みを見せながら駆け寄ってきた。
「うん。決められてホッとした」
「なんだよ。せっかく上手く決めただからもっと喜んだっていいんだぜ」
 確かにずっと練習してきた成果をやっと試合で発揮できたのはすごく嬉しい。別の試合だったらもっと喜んでいたかもしれない。でも相手はあの白鷹で、しかも熊谷と新だ。今のポイントみたいに積極的に攻めていかないとコイツらには勝てない。そう本心で悟っているから思ったよりも冷静でいられるのかもしれない。
「次も取ろう」
「頼もしいこと言ってくれんじゃん」
 このポイントで波に乗れたこと、そして俺たちが一番警戒していた熊谷の強烈なフォアハンドを自由に打たせないよう徹底的にバックハンドを攻める作戦が功を奏し、ハルの最初のサービスゲームはリズムよくキープすることができた。今日のハルは調子がよさそうだ。
 ゲームスカウント1―1。
 この勢いのまま次のゲームをブレークするぞ、って思ったけど――
「ゲーム白鷹。カウント2―1」
 前衛に立ちはだかる高く、広く、ぶ厚い壁に俺たちのリターンは全てはね返されてしまった。新が後衛で熊谷が前衛となる陣形も、さっきの熊谷のサービスゲーム並みに強力だ。熊谷は身長が高くて手足も長い分、リターンのコースが少しでも甘くなると全てをはね返してくる。まさに壁だ。新のサーブも絶妙に嫌なところを突いてくるからリターンも簡単には返させてくれない。
「熊谷のヤツ、もしかしたらダブルスの方が性に合ってんじゃねぇか?」
 ハルは素直に感嘆しているみたいだ。
 1―2。ここまでは両者拮抗した展開。でも次は――
「次は瞬のサービスゲームだな」
 前半戦最大の山場になるだろう局面。ここでブレークされたら試合の流れが一気に相手へ傾いてしまう。ここで俺のサーブ……大丈夫かな。
「そんな不安そうな顔すんなって。大丈夫。俺が前でバンバン決めてやるから」
 ハルにニコッと笑われた。
 そうだ。俺には頼れる味方がついてる。大丈夫だ。必ずキープできる。流れは絶対に渡さない。なにがなんでも食らいついてやる。
 ハルとタッチを交わしてからベースラインへ歩いていく。
 深呼吸してからボールを地面につき始める。1、2、3。そしてコースを確認。
 速くなくてもいい。でもコースを狙うことはできる。際どいところに決まれば相手も嫌がるはずだ。
 まずは熊谷サイドへのサーブ。狙い通りバック側へサーブを放った。よし、際どいコースに決まっ――
 ガシャン!
 高速リターンがハルと俺の間をぶち抜いた。遅れてやってきた風が俺の左頬を撫でる。
「0―15」
 一瞬のことでなにが起きたのか分からなかった。俺のサーブは確かに熊谷のバック側に決まった。でも一撃でリターンエースを決められてしまった。確かに熊谷のフォアハンドが強烈なのは分かっているけど、バックハンドはそうでもないと記憶している。なのになぜ……
「完全に回り込まれたな」
 ハルの言葉でやっと状況が掴めた。そうか、熊谷は俺がバック側にサーブを打ってくると読んで、回り込んでフォアハンドでリターンしてきたんだ。
「俺たちがアイツの苦手としているバック側を狙っていることがもうバレちまったか」
 この試合の作戦として、熊谷には徹底的にバック側を狙い、アイツの強烈なフォアを自由に打たせないことを考えていた。確かに単調な作戦だけど、もう少し長く使えるものだと計算していた。これが使えないとなると……
「しょうがない。コースを散らしていくしかなさそうだな」
 ハルの選択に俺も頷く。こればかりはしょうがない。作戦がバレた時の対策として元々考えてはいたことだ。ハルのサービスゲームも作戦としては同じことをしていたけど、でもまさかこんなに早く、しかも俺のサーブの一球目で見破られることになるとは。
 これ以上バック側を一辺倒に狙うことができない以上、ハルの言った通りコースを散らしていくしかない。それは熊谷のフォア側も狙う回数が増えるということだ。自由に打たせないためにもこれまで以上に厳しくコースを突いていく必要がある。簡単にできることじゃない。でも今はやるしかないんだ。やってやる!
 新サイドも際どいコースをひたすら狙っていく。もちろん全てが上手くいくわけじゃないからセカンドになって攻め込まれたりもするけど、新のストロークは熊谷と比べればさほど速くは感じないから俺でも戦える。熊谷の豪速球に目が慣れてきたこともあると思うけど。
 問題の熊谷サイドは案の定強烈なリターンを受けて押されてはいるけど、なんとか耐えつつ粘って――時にはロブで逃げながら――返し続けている。ボールが重く、手を痺らせながらかろうじてつないでいる状況だけど、意外とこれが功を奏しているのか――
「アウト。アドバンテージ・サーバー」
 熊谷のミスが重なるラッキーな展開。調子でも悪いのか? いやいや、そんなこと考えている暇はこれっぽっちもないぞ、桜庭瞬。今はこのラリーに耐えることだけを考えるんだ。
「ゲーム吹野崎。ゲームスカウント2―2」
『よっしゃ!』
 吹野崎の応援もワッと大きく盛り上がった。みんなの声が確かに俺の耳まで届いている。
「でかい! ここをキープできたのは本当にでかいぞ!」
 ハルは飛び跳ねるように喜んでいる。
 なんとかキープできた、っていうのが俺の本音だ。ここをキープできたのは前衛でのハルの動きがあってこそだった。ポーチに出ようとするフェイントをかけてわざとストレートを打たせたところをシャットアウトしたり、逆に半ば強引にポーチに出て決めたりと本当に助かった。もう少しで俺の腕は熊谷のボールに押し潰されるところだった。
「ナイスキープだよ、瞬。やっぱり思った通りだ」
 なにやら一人で納得しているハルに俺は首を傾げる。
「瞬は熊谷に相性いいよ」
「相性ね……。ただ目の前のボールを必死に返しているだけなんだけどね。もう手がジンジン痺れてるよ」
 ある程度打つコースが限定されているダブルスだからなんとか返せているけど、一対一のシングルスだったら間違いなくコテンパンにやられている。
「それがすごいんだって! ただ返しているだけって言うけど、アイツの強烈なストロークを何本も返せるヤツなんてそうはいない。自分のストロングポイントを封じられて、最終的に痺れを切らしているのはアイツの方だからな。熊谷のヤツ、今頃焦ってるだろうよ」
 ハルはいたずらをする直前の子供のような顔でニヤニヤと熊谷の方を見た。
 2―2。確かにハルの言う通り今のゲームをキープできたのは思っている以上に大きいかもしれない。試合の流れがまだどちらにも傾いていない分、さっきのゲームが少しでも相手のプレッシャーになればいいけど――
 ガシャン!
 熊谷のサーブがうねりを上げながら伸ばしたラケットの先をかすめていき、ものすごい音を立ててフェンスに激突した。
「15―0」
『白鷹! 白鷹!』
 たった一球で白鷹の応援が活気を取り戻した。かすかではあったけど、それでもさっきまで抱いていた希望がいかに無意味なものであったかを思い知らされる。コイツらには常識が通用しないのだと。
「熊谷のヤツ、プレッシャーとか感じてねぇのかよ」
 ハルも同じようなことを呟いている。
 ただ熊谷のファーストサーブも全てが決まってくるわけじゃない。セカンドになれば俺でもリターンできるくらいにはスピードが下がる。そこからはラリー戦に持ち込んで、粘りに粘って意地でもポイントを奪っていく。
「フォルト」
 まただ。尻上がりにサーブも際どいコースへ決まってはきてはいるものの、フォルトの回数も多くなっている気がする。
 ――チッ。
 かすかにだけど熊谷が舌打ちをした音が聞こえた。ひょっとして……
「ゲーム白鷹。ゲームスカウント3―2」
 フォルトの回数は増えてきているけど依然ファーストが入ってきた時は返すのがやっとという感じで、途中新の好プレーもあり熊谷のサービスゲームをブレークするまでには至らなかった。
 ただ一つ確信したことがある。熊谷は今、間違いなくイライラしている。それはアイツの短気な性格や過去の行動からしても言えることだ。俺の脳裏には去年の都大会で熊谷が不動先輩と対峙した時に、中々ショットが決まらずラケットを地面に叩きつけたアイツの姿が鮮明に焼きついている。俺たちからすればポイントを決められはしているけど、何度も何度もしつこく返し続けていることが少しはアイツのペースを乱していることにつながっているはずだ。これが後々どう転ぶか。
 続くハルのサービスゲームも際どいコースにスピードのあるボール――熊谷と比べれば劣るけど高校生の中では間違いなく速い方だ――を次々に決め、俺も甘くなった相手のリターンをポーチで決めたりして難なくキープできた。やっぱり今日のハルは調子がいい。サーブも際どいコースにバンバン決まっているし、その後のラリー勝負でも力負けしていない。
 でも続く新のサービスゲームではまた熊谷の壁を崩すことができなかった。
 3―4。再び俺のサービスゲーム。ここもまた絶対に落とせない場面。なんならこの試合で一番の山場といっても過言ではない。
「瞬、顔が怖いぞ。リラックス、リラーックス」
 ベンチで隣に座っているハルが俺に見せるようにして自分の肩を回す。それからニコッと笑った。
 俺ってばそんなに強張っていたのか。全然気づかなかった。確かに言われてみれば肩にもラケットを持つ右手にも力が入っていった。
「まぁこの状況で落ち着いていられるヤツなんていないよな。俺が瞬でも力入るよ。でも――」
「タイム」
 ハルがベンチから立ち上がるのと同時に主審のコールがコートに響いた。
「せっかくここまで食らいついてきてんだ。ここはなにがなんでもキープして、絶対勝とう。最後に笑うのは俺たちだ!」
「うん!」
 俺もベンチから立ち上がり、タッチを交わしてサーブの位置についた。不思議なことに、いつものルーティンをこなすといくらか気持ちを落ち着かせることができた。頭が冷静な状態に戻ったことを確認してからいざサーブを打つ。
 早速強烈なリターンをお見舞いされた。でも俺にできることは変わらない。粘って、つないで、返し続けることだけだ。そうすれば必ず道は拓ける!
「アウト。15―0」
 よし、なんとか耐えた。熊谷も際どいコースを狙ってきているけど、それでいい。相手がミスをしているっていうことは俺たちの形が上手くハマっている証拠だ。相変わらずパワーで押されてはいるけど、それを上手くいなしながら取りたい場面でポイントは取れている。この状況に追い風を感じずにはいられない。
「30―0」
 新のリターンが甘かったから今度は思いきってストレートアタックを打ったけど、上手く抜けてくれた。
 その後も粘って、つないで、返し続け、時には攻める。この状況を反映するかのように白鷹バックは次第に勢いを失っていき、逆に吹野崎バックの勢いが増してきているのが分かる。
「アウト。40―0」
「よしっ、三本先行した! こっちに流れが来てる! この勢いのまま行こう!」
「うん!」
 笑顔でハルとハイタッチをしようとした、その時だった。
 バチンッ!
 突如としてけたたましい破裂音がコートに響いた。その音には白鷹バックですら驚いて静まり返っている。でも俺は過去に一度、同じ音を耳にしたことがある。周囲を見回してみると状況はすぐに分かった。と同時に言葉を失った。深緑のフレームをしたラケットが見るも無残に折れ曲がり、熊谷の前に転がっていた。フラストレーションが溜まったあまり、熊谷が自分のラケットを地面に叩きつけたんだ。テレビで見るプロの試合では何度か目にしたことがあったけど、実際にこんな近くで目の当たりにすると恐怖を感じる。
 誰もなにも言わない。言える雰囲気じゃない。ただ無の時間が過ぎる。でも新だけは違った。新は地面に転がったラケットを拾い、持ち主のところへ行ったと思ったら――
 パシンッ!
 思いっきり熊谷をビンタした。熊谷はものすごい形相で新を睨んだけど、新は構うものかと熊谷の胸ぐらを掴んだ。
「ええ加減にせぇよ!」
 静まり返ったコートに新の声が響き渡る。隣のコートでファインプレーが出たのか、盛り上がる応援の声が聞こえてきた。その声にかき消されたせいもあり、そこからは二人の会話は聞こえなかった。ただ驚いたことに、初めは新の話に耳も貸さないそぶりを見せていた熊谷だったけど、次第にその表情からは怒りが消え、頷く回数も増えていく。それに比例するように新の顔にも笑顔が灯る回数が増える。話が終わると熊谷は折れ曲がったラケットをベンチに置き、予備のラケットをバッグから取り出した。そして十五秒を告げる主審のコールと同時に二人は拳を合わせてリターンの位置についた。
「異様な雰囲気になっちまったけど、今まで通りな」
 ハルの言葉に頷き、俺たちも位置についた。
 今まで通り。そうだ。俺たちの形は間違いなくハマっているんだ。このままこの形を続けるだけだ。
 深呼吸をしてからボールを地面に三回つき、打つコースを確認してから新サイドにサーブを打ち込んだ。バック側のいいところに決まった。けど上手く返される。でもここからが俺たちのテニス。粘って粘って、前衛の熊谷に捕まらないように厳しいコースを突きながらラリーを続ける。俺が後ろでつないで甘くなったところをハルが前で決める。俺たちの得意なこの展開に今日は多く持ち込めている。
 でもこのポイントだけは新も中々ミスをしない。それどころかこっちが押されている気さえする。
 厳しい打ち合いが続いた。この試合始まって以来のロングラリー。今まで以上に力強くかつ厳しいコースを突いてくる一球一球に、なにか新の執念を感じる。新の気迫に呑み込まれまいと俺も必死に打ち返す。
「40―15」
「よしっ!」
 最後は俺が甘い返球をしてしまい、前衛の熊谷に捕まってしまった。ボレーを決めた熊谷が珍しく気持ちを露わにする。
 たとえ俺たちの得意な形に持ち込めたとしても、全てが上手くいくわけじゃない。ドンマイドンマイ。次だ次。
 でも驚いたのは次のポイントだった。なんと熊谷はこれまでのパワー一辺倒なプレーを変え、ボールのスピードを殺してまで謙虚にラリーをつなげてきた。なにを考えているのかは分からないけど、あの熊谷が泥臭く、丁寧につないできている。しかも、つないでくるとはいってもその一球一球には変わらずしっかりとした重さがある。今までのように一発でエースは取られなくなったものの、じりじりと押され始める。正直こっちの方がやりづらい。
「40―30」
 クソッ! あと1ポイントでこのゲームをキープできるのに、その1ポイントがどうしても取れない。それに得意としているラリー戦に持ち込んでいるはずなのに、逆にこっちが粘り負けている状況だ。
「熊谷のヤツがあんなに粘ってつなぐテニスをしてくるなんて。それに新もいいタイミングでポーチに出てきやがるな」
 表情は真剣だけどハルが驚きを感じていることはすぐに分かった。それもそのはず、熊谷はこれまで数々の敵を持ち前のパワーで薙ぎ払ってきたほど、その豪快なプレースタイルが代名詞の選手だからだ。加えてその性格ゆえ、上手くいかなければイライラすることもしばしば。俺も去年、熊谷のそんな姿は見ていたし、この試合だってついさっきまでそうだった。ハルなんて俺より何年も熊谷のことを見てきているんだ。熊谷がこのたった1ポイントでがらりとそのプレーを変えたんだから驚くのも当然だ。
「正直このゲームは楽に取れると思っていたけど、このままじゃ取り返されるかもしれない」
 ハルの危機感は俺も痛いほど感じている。だから――
「ハル、アレ・・を使ってもいいかな」
 試合前、ここぞという時や試合の流れを変えたい時に攻めるロブを使おうとハルと決めていた。ハルも今がその時だと感じたみたいだ。
「あぁ、頼んだぜ」
 ニコッと差し出された手にタッチした。
 40―30。なんとしてもここで決めにいく。そのために今俺ができることはこれしかない!
 新サイドへサーブを打った。今までは続けてワイドを狙っていたけど、ここは意表をつくためにセンターを狙った。でも新は体勢を崩しながらも上手く俺のサーブに合わせてきた。再び拮抗するラリー。さっきは新に押し負けたけど、今度は負けない。
 俺はタイミングを見計らい、ストレート方向にいる熊谷の頭上を大きく越えるロブを放った。打つ瞬間に都大会での失敗が一瞬頭をよぎったけど、もうそんなことには縛られない。あの失敗から俺は幾度となくこの球を練習してきた。だから今は自信を持って打てる。いっけぇ!
 打球は高々と上がった。熊谷もラケットを伸ばす――もその上を大きく越え、ボールはベースラインの内側に収まった。よしっ! 新も反応が遅れている。完全に相手の意表を突けた形だ。
 この展開になった時、過去の相手はほぼ確実に俺のいるストレート方向に打ち返してきた。意表を突かれ出だしが一歩遅れる分、クロスに引っ張るのは体勢的に難しいからだ。そして最後は相手のストレートショットを前衛のハルがポーチに出て決める。今回もそれでいける!
 2バウンド目を迎えようとしているボールを新が必死に追いかける。と同時にハルがポーチに飛び出した。
 でも次の瞬間、新はその体を空中に投げうってボールに飛びついた。飛びつきながらもしっかりとラケットの中心で捉えられた打球は、ハルがポーチに出た方向とは反対側のクロスめがけて放たれた。ハルは慌てて足を止め逆方向へラケットを伸ばすも、ボール二個分届かず空を切る。そして打球はサイドラインの内側ギリギリに決まり、そのままコートの外へ逃げていった。
「デュース」
「っしゃぁー!」
 地面に体を打ちつけながらも新は両手を掲げて思いっきり吠えた。白鷹バックは新の声に呼応して盛り上がり、吹野崎バックは驚きのあまり硬直する。
『白鷹! 白鷹!』
 熊谷が横たわる新を引っ張って起こし、力強く互いの手を握り合う。
 相手からしたらゲームポイントを三本握られ、しかも熊谷の鬱憤が爆発し、このままゲームを取られたら試合の流れが完全に俺たちへ傾くという最悪の状況からデュースにまで持ち込めたんだからこれ以上ない挽回だ。むしろ今、流れは熊谷たちに傾きつつあるかもしれない。
「瞬、わりぃ。俺がポーチに出たばっかりに」
「ううん、あれはしょうがないよ。こっちとしてはいつもポイントできてた形に持ち込めていたんだから。新が一枚上手だったって考えるしかないよ」
「うん……そうだな。瞬の言う通りだ!」
 落ち込んでいたハルの顔にいつもの笑顔が戻った。
「追いつかれちまったけど、ここは気持ちを切り替えていこう!」
「うん! 絶対勝とう!」
 俺たちは力いっぱい互いの手を叩いた。
 ただあの一球で、たったあの一球で試合の流れは引き戻せないほどに相手へ傾いていた。
 迎えたデュース。さっきまで封印していた熊谷の強烈リターンがサイドラインいっぱいに決まり、アドバンテージ・レシーバー。熊谷は前衛の動きにも積極性が戻り、さっきは届かなかった俺の攻めるロブを今度はジャンプスマッシュで返し、ゲーム白鷹。
 3―5。俺たちとしては追い込まれた第9ゲーム。なんとしてもブレークしなければならないところだったけど――
「40―0」
 熊谷の高速サーブが衰えることはなかった。むしろスピード、キレ、コースともにギアが上がり、反応できたとしてもラケットに当てることすらできなかった。
「ゲームセット、ウォンバイ白鷹――」
 最後のゲームは俺もハルもなにもできなかった。白鷹バックの大歓声を浴びながら勝利を噛み締めるようにガッチリと互いの手を握る二人を、俺たちはただ見ていることしかできなかった。

 吹野崎高校男子テニス部 東京都選抜高校テニス大会 ベスト16
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わたし自身が生涯の性癖として持ち合わせるM性について、それをはじめて自覚した中学時代の体験になります。歳を重ねた者の、人生の回顧録のひとつとして、読んでいただけましたら幸いです。 一部、フィクションも交えながら、述べさせていただいてます。フィクション/ノンフィクションの境界は、読んでくださった方の想像におまかせいたします。

切り札の男

古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。 ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。 理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。 そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。 その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。 彼はその挑発に乗ってしまうが…… 小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。

キズナ

結汰
青春
役者の兄と、植物人間になった、弟の物語。

GIVEN〜与えられた者〜

菅田刈乃
青春
囲碁棋士になった女の子が『どこでもドア』を作るまでの話。

絆創膏

藤河 愁
青春
誰かの心の傷の絆創膏になりたい。心理カウンセラーを目指す女子高校生は近頃同じ夢を見続けている。人の顔でできた壁に囲まれた空間。

浦島子(うらしまこ)

wawabubu
青春
大阪の淀川べりで、女の人が暴漢に襲われそうになっていることを助けたことから、いい関係に。

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