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第二章

9.兄ちゃん

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 リビングの扉を開けると、夕飯時にしては珍しい兄ちゃんの姿があった。
「おう、瞬」
 椅子に座っていた兄ちゃんは俺を見ると右手を挙げた。
「兄ちゃん。今日は大学早く終わったんだ」
「教授に急用が入ってね。教授がいないとできない実験だったから今日は退散してきた」
 兄ちゃんは今年で二十歳になる。俺と違って昔から頭がよくて、今は都内でも有名な国立大学の薬学部に通っている。見た目は中肉中背っていうより少しガリガリに近い。でも毎日ちゃんとご飯は食べているし健康だ。頭がいい代わりにスポーツは苦手みたい。そういえば兄ちゃんが外で活発に動いている姿なんて小学校の運動会以来見ていない。俺が小さい頃には頭の才能は兄ちゃんに行って、体の才能は俺に来たってよく親戚から言われたものだ。
「あら瞬、帰ったの」
 野菜炒めがたんまり盛られた大皿を母さんがテーブルに運んでくる。
「ちょうどよかったわ。今ご飯できたから。今日は久しぶりに三人で食べれるわね」
 母さんは嬉しそうにまたキッチンへ戻っていった。
 大学では毎日が実験の嵐みたいで大変だって前に兄ちゃんが言っていた。夜も遅いからこうして一緒に夕飯が食べられるのは正月ぶりかもしれない。
『いただきます』
 兄ちゃんと声を揃えて言った。
「召し上がれ」
 兄ちゃんはバクバクと野菜炒めを口の中へかき込んでいく。昔から食べ始めた時の勢いはすごくて、それだけ見ていればもっと太っていてもおかしくないのにと思う。
「アンタ、ちゃんと噛んで食べてるの?」
 母さんのそんな声には耳も傾けない。でも胃のキャパがないのかすぐにその勢いは消沈していく。だから茶碗に盛られているご飯の量は元々少ない。食べ始めてわずか数分で「もうお腹いっぱい」と兄ちゃんは満足そうにお腹を叩き、早くも食後のお茶タイムに入っている。
「瞬、お前よく食うなぁ」
 なぜか羨望のまなざしで見つめられる。そんなに見られるほどのことはやってないんだけど。
「食べ盛りだからね、一応」
「おう、いっぱい食え食え」
 そう言って兄ちゃんはお茶をズズーと吸った。まだ熱かったのか湯のみを口から離して「あちぃ」と舌を出している。兄ちゃんはこの通りおっちょこちょいな性格なのだ。実験でもなにかやらかしてないか心配になる。
「実験ってどういうことするの?」
 そうだなぁ、と兄ちゃんは頬杖をつく。
「いろんな薬品を混ぜ混ぜしてるぞ」
「混ぜ混ぜ? なんか軽くない?」
「大丈夫だよ。やる時は真剣だから」
 そう言ってお茶に再チャレンジする。今度は飲めたみたいで顔から「ホッ」という字がにじみ出ている。
「お前はちゃんと勉強してんのか?」
「も、もちろん。やってるよ」
 母さんの前でやってないとは言えないだろ。
「高校の勉強は大方忘れちまったけど化学なら教えられるぞ。今なにやってるんだ?」
 必死で思考回路を巡らす。化学、化学……あっ!
「アセトアルデヒド、かな」
 化学の田中先生が酒好きで助かった。「二日酔いの原因はアセトアルデヒドなんだ」とよく言っていたのを思い出した。
「あー、懐かしいワードだなぁ。そうだ、アセトアルデヒドで思い出したけど酒には気をつけろよ。まだ先のことだけど用心しておくに越したことはないからな」
「そうよ」
 母さんからも念を押された。
「で、アンタは大丈夫なの?」
 でもその矛先はすぐに兄ちゃんへと向いた。
「俺か? 俺は大丈夫。強いから」
「なによそれ。アンタの方が心配だわ」
 そう言うと母さんも食べ終わったのか、食器を流しの方へ持っていきそのまま洗い物を始めた。
「分かってないね、母さんは俺のこと。まぁいいや」
 またお茶をすする。
「兄ちゃん。実はさ……さっきはああ言ったけど」
 母さんに聞こえないように小さな声でしゃべる。「なになに」と兄ちゃんも耳を寄せてくる。
「最近テニスしかしてなくてさ。勉強なんて全然やってないんだよね。テストは友達に教えてもらってなんとか乗り越えたけど」
「そんなこったろうと思った」
 空気を読んで兄ちゃんも小声で話してくれる。
「まぁでも、勉強なんて最低限だけやってればいいと思うぞ。俺の友達も部活ばっかりしてたけど、ちゃんと大学には進学できてたしな。だから今はやりたいことをやりたいだけやりなさい。人生の先輩からのアドバイスだ」
 兄ちゃんは最後ドヤ顔を決めていたけど、俺にとっては嬉しいような、不安なような……。その友達に言われるならまだしも、天才の兄ちゃんに言われてもなぁ。
 キッチンから母さんがフルーツを剥いて持ってきてくれた。
「梨だ!」
 俺の大好物。だけど同じくらい兄ちゃんも大好きだから真っ先に手を伸ばされる。まだご飯中の俺は食べることができない。いいよなぁ、早く食べ終わったらデザートも早く食えるんだもんな。なんかずるい。
「瞬の分も残しておくのよ」
「分かってるって」
 そう言いながらも兄ちゃんはバクバク、バクバク。母さんはまた洗い物に戻っていった。
「瞬、学校楽しいか?」
 唐突に聞かれ、しかも口にご飯が入っていた手前頷くことしかできなかった。
「そっか。彼女はできたか?」
 これもまた唐突に。早く梨が食べたいと口の中に目いっぱいご飯を詰め込んでいたもんだから思わずむせてしまった。急いでお茶を流し込む。
「ゲホッゲホッ。なんだよ急に」
「いるのか? いないのか?」
「……いないけど」
 なんだよー、と自分のことでもないのに兄ちゃんは悔しそうに頭を抱えた。そういえば合宿の時もOBの先輩たちに同じようなこと聞かれたっけ。大学生はみんなそういう話が好きなのか?
「彼女はいいぞー。瞬もつくった方がいい」
「へいへい」
 兄ちゃんには長いことつき合っている彼女がいる。名前はミホちゃん。高校の時からだから今年で……四年とかになるのか。こんなに長くつき合っているのに今もつき合いたてのカップルみたいに仲がいいのはホントにすごいと思う。うちにもよく遊びに来ていたから俺もミホちゃんとは仲がいい。親も公認って感じ。明るくて気が利くできた人で、兄ちゃんにはもったいない。
「俺も高校生に戻りてぇなぁ」
 兄ちゃんは湯のみに二杯目のお茶を注ぐと今度は飲む前にフーフーする。
「高校生はやっぱ青春だよなぁ。あー、お茶うめぇ。十代の甘酸っぱい恋。くぅ、いいねぇ。甘酸っぱい恋愛なんて高校生の時にしかできないぞ。お前はその機を逃していいのか!」
「もう兄ちゃんうるさい。俺は今テニスのことで頭がいっぱいなの」
 俺たち兄弟のやり取りを見て母さんはニヤニヤしている。なんか恥ずかしい。ってなんで俺が恥ずかしがらなきゃいけないんだ。兄ちゃんのバカ。
「テニスかぁ。確かに瞬、楽しそう」
 狙って言ったわけじゃなかったけど上手く話を逸らせたようだ。兄ちゃんはコロコロと話の種を変える人だからコントロールはしやすい。
「うん。超楽しいよ」
「よかったな」
 大学生が高校生の頭をわしゃわしゃ撫でてくる。俺は犬か。
「でもよかったよ、ホント。ねぇ母さん」
 兄ちゃんはキッチンの母さんに同意を求める。母さんも「そうね」と答えた。
「よかった? なんで?」
「なんでって、ちょうど一年くらい前のことだよ」
 兄ちゃんがそう言い出して、あぁと思った。
「瞬、めっちゃ元気なかったじゃん。受験だっていうのに勉強もろくにやってなかったみたいだし」
「あの頃は確かに干からびてたね」
「どうしたんだって聞こうとしたけど、そんな雰囲気でもなかったからさ。こっそり母さんに聞いたんだよ」
 兄ちゃんと母さんが目を合わせて頷く。
「中学での最後の試合が原因だったらしいな。あっ、別にそれを今更掘り返そうっていうじゃないよ。でもあの頃に比べて今の瞬は本当に楽しそうだからよかったなって思って」
 あの時は本当につらくて、苦しくて、たくさん悩んだけど、今はサッカーをやめてよかったと思える。
「受験の悩みとかだったら相談に乗れたんだけどね。ほら、知っての通り俺運動苦手だし。部活なんて入らずに勉強しかやってこなかったからさ。練習の大変さとか人間関係の難しさとか、正直あまり分からない」
 でも、と兄ちゃんは続ける。
「瞬があんなに落ち込んでいるのを見るなんて初めてだったし、心配だった。兄としてなにか力になってあげたい気持ちはあったんだ。でも結局なにもできなかった。そのことをゴメンなってずっと言いたくて」
 兄ちゃんがそんなことを思っていたなんて全然知らなかった。驚きで中々言葉が出てこなかったけど、兄ちゃんの優しさは俺の心をあったかくしてくれた。受験勉強につき合ってくれた兄ちゃんの姿が不意に蘇ってきて涙腺が緩む。
「兄ちゃんが謝ることないよ。それになにもできなかったって言うけど、俺の勉強につき合ってくれたじゃん。あれは本当に助かったよ。ありがとう」
「そうか。少しでも瞬の力になれたんなら俺も嬉しいよ」
 兄弟の会話を静かに見守ってくれていた母さんが口を開いた。
「実は母さんもね、どうやって瞬を元気づけようか考えていたんだけど中々いい案が浮かばなくて。お兄ちゃんにもいろいろ相談したの」
 二人はまた目を合わせて頷いた。
「そうしたらお兄ちゃんが『超豪華なご馳走をつくるのはどうか』って考えてくれたのよ」
「リフレッシュになるかと思って買い物に行かせたのも俺の案」
 兄ちゃんは自慢げに親指で自分を指している。そうだったんだ。あれは兄ちゃんが。
 あの日、親水公園でハルが楽しそうに、自由にテニスをする姿を見て俺はどこか吹っ切れたところがあった。そのお陰であの日以降は勉強に集中できたし、吹野崎にも入れて今は楽しくテニスをすることができている。だから兄ちゃんが俺を励ます案を考えてくれなかったら、あの日に母さんがご馳走をつくるって決めていなかったら、買い物をするために外へ出ていなかったら、今の俺はなかったかもしれない。
 そう思ったら目の前の二人へ感謝の気持ちがどっと溢れてきた。それはあの日のことやテニス部のこと、ハルのことを伝えたい気持ちに変わって言葉として溢れてきた。
 その後は三人で夜遅くまで話し続けた。二人は黙って、時には笑いながら俺の話を聞いてくれた。
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