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第一章

7.夏合宿

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 夏休みに入った。セミの活動も一段と活発さを増し、なにをするにも耳に障るようになってきた。
 夏休みといってもテニス部の練習は毎日ある。むしろ授業がない分、練習時間は長くなる。早く上手くなりたい俺にとっては嬉しい限りだ。
 練習メニューはこれまで通り体力強化や基礎練習がメイン。試合形式の練習なんてもっての外だ。監督曰く、夏の暑さに耐え得るだけの体力をつけることが必要で、夏をどう乗りきるかで秋からの成長度合いも変わってくるんだとか。そのためには基礎となる練習をみっちりすることが一番効果的らしい。どっちにしろまだ基礎のなっていない俺にはぴったりだ。
 ただ頭を突き刺すようなこの鋭い日差しは勘弁してほしい。髪の毛が焼け焦げてしまいそうだ。熱中症になるかも、なんてふざけてでも言えない。明日からは帽子を持ってこよう。
「遅くなりましたー!」
 補習を終えたハルがコートにやってきた。先輩たちに笑われながらも急いで準備をして練習に混ざる。
 期末テストの結果はというと、俺は見事に赤点を回避した。苦手な数学はあと三点で赤点だったけど、太一が解説してくれたところがドンピシャでテストに出てくれたお陰でなんとか赤点は免れた。その問題が解けていなかったら赤点は必至だっただろう。二人には耳にタコができるくらいお礼を言った。でもハルは赤点を二つ取ってしまった。ただ二つともギリギリのところでの赤点ということもあり、補習を受ければ一学期の評点は赤点にならずに済むとのこと。中間テストでは十個も赤点を取っていたんだ。それが二つにまで少なくなったことは太一と南のお陰に違いない。でも二人は「あれだけ教えたのに赤点取るとかありえない」って言っていたけど。
 話は変わるけど、八月上旬のこの時期にインターハイの全国大会が行われる。昨日ハルが先輩と話していたところを聞いたけど、団体戦で優勝したのは大阪代表の成宮北高校だったらしい。東京代表の二校は惜しくも準々決勝で敗退してしまった。でもベスト8まで勝ち上がったのはさすがだ。熊谷のショットに会場中が沸き立つ光景が目に浮かぶ。
 ちなみに個人戦のシングルスを制したのは同じく成宮北高校の人で、ダブルスを制したのは福岡泰山高校の人だった。その話をしている時のハルはやけに楽しそうに見えた。そういえばなにがなんでも全国へ行きたいって言っていたけど、それほど惹きつけられるところなのか、全国は。
 夏休みの前半は毎日学校へ行っては練習の繰り返しで瞬く間に過ぎていった。遊ぶ暇なんてこれっぽっちもない。ただ疾風の如く過ぎ去っていった日々と引き換えに、体では確かな成長を感じていた。それは皮膚を刺すような日差しによって肌の色が何層にも黒く塗り上がったことや、鼻の周りからボロボロと皮が剥がれ始めたことではなく、以前よりも確実にボールを強く打ち込むことができるようになったことや、ボレーやサーブのミスも大分減ってきたことだ。それでも先輩たちやハルとラリーをすると簡単に打ち負かされてしまうから、俺の球なんてまだまだ遅いし軽いんだなって実感させられる一方だった。まぁ数ヶ月練習しただけでいきなり上手くなれるなんて思ってないから別に落ち込みはしない。これからこれから。
 夏休み後半に入ってくるといよいよ合宿が始まる。場所は山梨県山中湖。東京よりは断然涼しい、というのがバスを降りて最初に思ったことだ。
 合宿は全部で四泊五日。これほど長い宿泊日数は今まで経験したことがない。家族旅行でも中学の修学旅行でも二泊三日が最高だった。だから四泊も家を離れることに早朝から俺の心は踊っていた。
 でもその浮かれた気持ちはほんの数時間後に打ち砕かれた。
 東京から近いこともあって合宿所までは三時間くらいで着いた。着いたらすぐに練習開始。しかも午前中はずっと走り込みだ。ステップ走にインターバル走、中距離走。いつもの倍は走っている。合宿開始から早二時間で1年は全員がダウン。俺もトイレに直行した。
 そうだよな。今は合宿中なんだよな。浮かれている場合じゃない。気合いを入れ直さないと。
 それでもお昼ご飯のいい匂いが漂ってくるとお腹はぐぅと鳴るもので、ついついたんまりと食べてしまった。やばい、午後も走り込みあったら絶対に吐く、って思ったけど午後はボールを使った練習をやると聞いて一安心。苦しいは苦しいけど。
 午後の練習を始める前だった。いつものように整列していると、監督がぞろぞろと大勢の若い人たち――俺たちより少し年上に見える――を連れてきた。総勢十人といったところだ。なかには金髪の人もいる。いいのか、あれ。
「皆に紹介する。2年生は去年もお世話になったから分かると思うが、我が吹野崎高校テニス部のOB・OGの先輩方だ。今日と明日、練習の手伝いをしてもらうからあいさつするように」
『よろしくお願いします!』
 先輩たちは全員大学生で、毎年監督がわざわざ声をかけて招集しているとのこと。全員大学では部活やサークルでテニスを続けている現役生だ。
 そこからは全員で球出しやラリーの練習をやった。人数は大きく増えたけど、それ以上に使えるコートが普段の倍の六面に増えたから実質いつもより多くボールを打つことができた。ちなみにコートのサーフェスはクレーと呼ばれる土。いつもはオムニコートと呼ばれる砂入りの人工芝で練習しているからクレーコートでやるのは初めてだ。クレーは他のサーフェスに比べると球足が遅くなってボールが跳ねるらしいけど、その違いについてはいまいち分からなかった。
 俺のいた練習コートにはOBの宇城うきさんがコーチに来てくれた。
「桜庭くんは腕で力任せに打とうとしている傾向があるから、体全体を使って打つように気をつけて。特に足ね」
「はい!」
 宇城さんは部員一人ひとりのフォームをチェックして細かく丁寧に教えてくれる。言葉だけじゃなくて実際に打って見本も見せてくれるんだけどそれが上手いのなんの。宇城さんに教えられているだけで上手くなったような錯覚に陥るくらいだ。
 宇城さんにはラリーの相手もしてもらった。宇城さんのショットはバウンドしてからもボールが伸びてくるもんだから、まるでボールが意思を持って襲いかかってくるようだった。なんというか、すげぇ気持ち悪かった。でも同時にすげぇ打ちづらくもあった。生きている球ってこういうボールのことを言うのか。
「どうすれば上手くなれますか?」
 思いきって宇城さんに聞いてみた。
「そうだなぁ。やっぱりたくさんボールを打つことかな。もちろんただむやみに打っているだけじゃダメだ。常に考えながら打たないと意味がない。でも、ボールを打った分だけ上手くなる。俺はそう思うよ。だからがんばって」
 と肩を叩かれた。たくさんボールを打つこと、か。そりゃそうだよな。上手くなることに近道なんてないし、今の俺にできることもそれくらいだ。よしっ、この合宿中は誰よりもたくさんボールを打つぞ!
 合宿中でも練習の最後にはラインタッチがある。午前中に走り込みをしているだけあっていつもより体が重い。それでも監督の怒号に耐えながらなんとか走りきった。
 練習が終わったらすぐに夕飯だ。今日のメニューは合宿ご飯の王様、カレーライスだ。合宿先で食べるカレーは不思議なもので、なんら変哲のないカレーが家やお店で食べるものより何倍もおいしく感じる。家でつくってもらうカレーの方がじゃがいもがゴロッとしているし、お店で食べるカレーの方がスパイスが効いているのにそのどれよりもおいしい。
 隣のハルと向かいの太一は早食い競争しているようで、スプーンとお皿の不協和音を盛大に発しながらカレーを胃に流し込んでいる。と思ったら同時に勢いよく立ち上がり厨房の方へ早歩き。もっと味わって食えばいいのに。いただきますをして開始三分の食堂に、『おかわり! 大盛りで!』という二人の声が響いた。
 そういえばお昼の時もそうだったけど、ご飯の時は先輩後輩関係なく全員で準備をして、食べ終わったら全員で片づけをした。普通体育会系の部活では後輩が早く来て準備をしたり、最後まで残って後片づけをするという風習があると思っていたけど、吹野崎ではそのような風習はなくて先輩後輩関係なく全員で協力して準備や片づけをする。もちろんOB・OGの人も、監督も。どんなに疲れていても、自分のことを自分でやれないようなヤツにはテニスをやる資格も飯を食う資格もないということなんだろうか。でも俺はそういうの好きだけどな。
 夕飯後は一刻も早く風呂に入って汗臭い体を洗い流したかったけど、風呂場がそんなに大きくないということでそれはさすがに先輩たちから入ることになった。1年は自室へ戻ったけど、七人全員が入れる部屋はなかったから二部屋に分かれた。俺の部屋はハル、太一、南の四人だ。
「大富豪やろうぜ」
 太一の呼びかけで部屋の中央に集まって座る。四人が密集したことで汗が染み込んだ服や靴下の臭いが膨張して鼻の奥を刺激する。
「うわっ! くっせー」
 たまらず太一が鼻をつまんだ。元水泳部の太一はこの苦しみを味わったことがないんだろうな。
「俺たちはこの臭さに慣れてるからな」
 俺からすればサッカーの時の方がひどかった。練習帰りに家へ入る時は必ず風呂場へ直行して足を洗うように厳しくしつけられていたくらいだ。それをやらないと母さんマジで怒るんだよな。
「むしろ自分の足の臭いを嗅いで『くさっ!』ってなるのが病みつきになるんだよな」
「分かるそれ!」
 ハルと二人で自分たちの片足を持ち上げて鼻へと近づけ、『くさっ!』とすぐに足を離す。目が合ってゲラゲラと笑い合った。
「お前ら気持ち悪いわ」
 太一はゴキブリを見つけた時のような目で俺たちを見ていた。南は爆笑している。
「もう配るぞー」
 痺れを切らした太一がトランプの山を四等分に分けていこうとした時だった。
「邪魔するぞー」
 風呂から上がったばかりのOBの先輩が四人やってきた。今日俺のコーチをしてくれた宇城さんもいる。でもそれ以外の人は分からない。
「里中さん!」
 そのうちの一人にハルが嬉しそうに声をかける。きっとハルのコートでコーチをしてくれた人なんだろう。
「お! トランプか。俺たちも混ぜてもらえるか?」
「もちろんです!」
 先輩たちも円に加わり面積が広がる。大富豪は地域や年代でローカルルールが異なるからってことで、代わりにババ抜きをすることになった。
「どうよ、合宿初日は?」
 ババ抜きの開始と同時に俺の左隣に座った宇城さんが問いかける。真っ先に答えたのはハルだった。
「楽しいです! でも疲れました!」
「それだけかよ!」
 小学生のような薄っぺらい回答にすかさず里中さんがツッコむ。でも一気に場が和んだ。
「他のみんなは?」
 宇城さんが俺の顔を覗き込みながら手札を差し出してきた。
「そうですねぇ」
 俺は一番右を取った。しまった! ババだった。
「午前中は走り込みだけだったので疲れましたけど、午後はたくさん打てましたし。なにより宇城さんに教えてもらえたのがすごく勉強になりました」
 ババを取ったことがバレないように平静を装いながら話した。宇城さんを見ると「へぇー」と俺にしか分からない不敵な笑みを浮かべながら俺を見ていた。この人、絶対ドSだ。
 俺は宇城さんのペースに乗せられないよう目を逸らし、右隣のハルに手札を突きつけた。ハルは軽々とババを引いていった。
「やべっ!」
 ハルは思わず言ってしまった口を手で塞いだけどもう遅い。
「そう言ってもらえると俺たちが来た意味もあるってもんよ」
 鼻高々に里中さんが言った。ハルの右隣に座っている里中さんは一層警戒しながらハルの手札を引いたけど、それもまたババだったらしく部屋全体に悲痛な叫び声が響いた。
「そうだな」
 笑いながら宇城さんが話を続ける。
「俺たちは明日もいるからな。分からないことがあったらじゃんじゃん聞いてくれ」
『はい!』
 廊下の方からキャプテンの「風呂行くぞー」という声が響いてきて、2年生がぞろぞろと風呂場へ向かう足音が聞こえてきた。
「それはそうと」
 足音が過ぎ去ったあたりで、さも重大なことがあるかのような前置きで里中さんがみんなの視線を集める。
「お前ら、彼女はいるのか?」
「なんだよ。そんなことかよ」
 先輩たちの呆れ返る声が漏れてきた。
「なんだよって、重要なことだろー」
「はいはい。高校の時からずっと彼女がいない里中くんにとっては重要ですね」
 先輩たち全員からあしらわれる。
「お前らに俺の気持ちは分かんないんだよぉ」
 半泣き状態になる里中さん。それを見て先輩たちは爆笑している。
「でも確かに、今時の高校生の恋愛事情は気になるところだ。俺たちからしたらもう青春の甘酸っぱい恋愛なんてできないからな」
 宇城さんの顔にまたドSな表情が帯びる。やばい、目が合ってしまった。
「いやいやいや。いないですよ俺は」
 慌てて否定する。順々に他の三人も聞かれ、結局誰もいないという結論が導き出された。いつの間にかババ抜きは里中さんの負けで勝負が決まっていた。
「なんだよお前ら! 情けないぞ!」
「お前に言われても説得力がねぇよ、里中」
「ぐぬぬ」
 悶絶する里中さんに俺たちも笑ってしまった。
「でもまだ八月ですよ、八月。高校生になってまだ半年も経ってないんですよ、俺たち」
 ハルが食い下がる。が、里中さんの力説は続く。
「恋に年も月も関係ないぞ、若造諸君! それにハルぅ、まだってなんだよまだってぇ。さてはお前、狙ってる子でもいるのか? お兄さんに相談してみろよ」
 里中さんは問い詰めるようにハルの肩に手を回した。
「だーかーら、いないですってばぁ。それより里中さんは自分のことを心配した方がいんじゃないですか?」
「言ったなこのヤロウ」
 里中さんは肩を組んでいる逆の手でハルの頭をくしゃくしゃにした。ハルも楽しそうだ。
「でも俺、あの子はかわいいと思ったぞ。髪が長くて色白な子。確か今日の練習では4番コートにいたな」
 宇城さんが言うと他の先輩たちも賛同し始めた。里中さんを除いて。
「誰だよその子。俺見てないんだけど」
「そういうところだよ、里中。常に張っておかないと」
 宇城さんは両手の人差し指を立ててアンテナのポーズを取った。ただ宇城さんがそのポーズをすると俺には鬼の真似をしているようにしか見えない。
「だよなぁ。俺いつもそういう話に乗り遅れるんだよな」
 里中さんは肩を落とし、見るからに落胆の色を見せている。
「大学生でもどの子がかわいいとかの話はするんですね」
「するよ! するする! めっちゃする!」
「1年の頃なんて毎日だったよな」
 またもや先輩たちが頷き合う。里中さんを除いて。
「がっかりしたか、桜庭くん?」
 肩をポンと叩かれながら宇城さんに笑顔で問われる。
「い、いえ。別にがっかりしたわけじゃないですけど、もっとこうなんか……大学生は大人なイメージだったので……」
 しまった! 失礼なことを言ってしまったかも。でもそんな心配は無用とばかりに先輩たちに大笑いされた。
「確かに、俺も高1の時はそんなこと思ってたな。けど実際はどうだろう。精神年齢はあまり変わってないかもな」
「言えてる」
 今度は里中さんを含む全員が頷いた。
「なんか将来が不安になるようなこと言って悪いな」
「い、いえ」
 否定はしたけど顔は引きつっていた気がする。
「それよりその子はどうなんだよ」
 4番コートにいた子って誰だ? 目の前の練習に精いっぱいだったから他のコートのことなんて見てなかった。
「あー、多分それ光野っすね。アイツはやめておいた方がいいですよ。かわいく見えるかもしれないですけど高飛車なヤツなんですよ」
 太一が答えた。きっと前にテストの結果を上から言われたことを思い出しているんだろう。期末テストも負けたって言ってたし。
「えーいいじゃん! 高飛車ってことは上から見下してくれるんだろ。ウヘヘヘ」
「里中、お前そういうところがダメなんだよ」
 確かに、里中さんのダメっぷりが垣間見えてしまった気がする。先輩たちもそれにはさすがに苦笑いしていた。
「まぁ里中は置いといて。あんな美人、大学にもそうそういないからな。誰かいかないともったいないぞぉ。先輩としてのアドバイスだ」
 ありがたいご教授だったけど俺たちはみんな苦笑いだった。俺たちの反応が鈍かったからか光野の話はそこで終わってしまった。
「でも若いっていいよなぁ」
「青春だなぁ」
 先輩たちは口々にそんなことを漏らしている。
「そういえば、都大会はどうだったんだよ」
 宇城さんが思い出したように言った。
「男女ともにベスト16でした」
 悔しげにハルが答える。でも先輩たちの反応は対照的だった。
「ベスト16だと! ひょえー。うちも強くなったもんだな」
「宇城さんの時はそんなに強くなかったんですか?」
「俺たちの時はダメダメよ。よくて三回戦を突破するくらいだったからな。でも俺たちが2年の時に小田原監督が来て、そこから吹野崎が少しずつ強くなっていったのは知ってるよ」
 宇城さんは今大学4年生だって言っていたよな。その宇城さんが高2の時からだから……
「じゃあ監督は今年で六年目なんですね」
 太一に先を越されてしまった。
「三回戦を勝てるかどうかのチームを六年でベスト16まで引き上げるなんて、やっぱり監督はすごい人なんですね」
「元プロ、だしね」
 ハルがつけ加える。
「俺たちも新しい監督が来るって聞いた時はどんな人が来るんだろうって思ってたわけよ。そしたら見た目からしてとんでもなくおっかない人が来たもんだから、それはもうみんなびっくりしてさ。練習は走り込みやら基礎練習やらでみっちりしごかれるし、毎日怒鳴られるわで、それまでの監督とはなにもかもが一変して大変だった。……そういえば」
 なにやら宇城さんが里中さんに目配せをしている。里中さんは、まさか! という顔をして仕切りに首を横に振り続けているけど、その制止も虚しく宇城さんがまたドSの表情で話し始めた。
「過去に小田原監督が激怒したことがあってな。粗相を犯したヤツがいるんだよ」
「あっ! それってもしかして、ラインタッチの時、体力温存のためにわざと遅く走ってた人が監督に激怒されて漏らしたっていう話ですか?」
「そうそれ! その人物とは紛れもなくこの里中くんでーす!」
 宇城さんは両手を里中さんの方へ向けた。その笑顔は実に悪魔の微笑みそのものだ。
「漏らしたっていっても小の方だからな! ていうかなんでお前ら知ってるんだよ!?」
「先輩から聞きました。小田原監督の怖さを代表するエピソードだって。代々語り継がれているらしいですよ」
「代々語り継がれているだと! 宇城! てめぇ言いふらしやがったな!」
「よかったじゃないか。伝説みたいになってて」
「よくねぇよ。恥ずかしいだろぉ」
 里中さんは両手で顔を覆い隠してしまった。
「まぁまぁ、顔上げろよ」
 噂を広めた張本人に慰められているんだから里中さんも立場がない。
「で、どうだったんですか? 怒った時の監督は」
 渋々聞いてみると、里中さんは顔を覆っていた手をゆっくりと取った。その顔は青白く血色を変え強張っており、目も大きく見開いている。まるで幽霊を見た人の顔、というよりは里中さん自身が幽霊みたいに見えて、目が合うと背筋に冷たいものが走った。思わず唾をゴクリと飲み込む。発する声も恐怖からかかすれていて、まるで怪談話をするみたいに低いトーンでゆっくりと話し始めた。
「それはもう、怖いなんてもんじゃないよ。あれはそう、例えるなら……鬼だ。殺意に満ちた怪物。だからなにも抵抗できなかったし、体のいたるところに力も入らなかった」
「それでお漏らししちゃったと?」
「うん」
 顔は怖いままでも宇城さんからの問いには素直に頷く。
「1年、風呂いいぞー」
 タイミングがいいのか悪いのか、遠坂先輩が顔を覗かせてきた。先輩は里中さんと目が合って驚いたのか、「ヒイッ!」と喉の奥から声にならない音を発するとそのまま逃げていった。
「よーし、じゃあここまでだ。邪魔して悪かったな。風呂入ってこい」
 宇城さんがその場を収めて、俺たちは風呂へ行く支度を進める。でも里中さんだけはあの不気味な顔のままビクとも動かない。四人全員支度が終わり風呂場へ向かおうとした時、固まっていた里中さんが俺たちの方へ顔を向けておもむろに言葉を発した。
「一つ忠告しておくけど、年に一度、監督が鬼と化す時が必ず来る。その時は誰かが犠牲になるからね。今のうちから覚悟しておいた方がいいよ」
 フェッフェッフェッ、と最後は身の毛もよだつような鳴き声を残していった。俺たちは全員が戦慄を覚え、意思疎通を図らずとも風呂場までの足を無言で速めていた。
 結局、最後は監督の恐怖エピソードより里中さんの風貌にビビってしまったけど、「監督=怖い、怪物、鬼」などという方程式が無意識に、しっかりと記憶に刻まれることとなった。


 昨日の今日で夢に出てこなかったのはよかったけど、一晩寝ると脳にハッキリと記憶されるもので、監督の顔を見る度に例の方程式が頭をよぎる。その度に無意味な恐怖を抱いては自然と目を逸らしてしまう。
 でも練習が始まればそんなことを考えている余裕なんてない。午前中は昨日同様走り込み。限界の限界まで追い込んだ後に残されたわずかな時間で球出しをした。疲れきっているはずなのに、ボールを打てると思うと不思議と疲れは吹っ飛んだ。球出しも昨日同様宇城さんに見てもらった。
「うん。いい感じだ。昨日俺が言ったことを意識して取り組めているね。その調子でがんばって」
「はい!」
 お昼をたらふく食べた後の午後練も球出しやラリーなどの基礎練習をみっちりとやった。宇城さんのアドバイスのお陰で確かに実感も掴めていて、体全体を使ってスイングする方が球威も上がるしスイングも安定してきた。ラケットでボールを打つ瞬間も〝弾く〟って感じじゃなくて〝押す〟感覚に変わってきている。あとはコースも狙って――
「ナイスショット!」
「ありがとうございます!」
 そんな宇城さんを含めたOB・OGの先輩たちは今日の夕方に帰ってしまう。
「明日からゼミ論書かなきゃー。彼女もほしー」
 相変わらず嘆いている里中さんを横目に黙々と片づけをしていると、宇城さんがさりげなく近寄ってきた。
「お疲れ様です」
「お疲れ。重いでしょ。こっち持つよ」
 各コートのジャグを回収しているところに声をかけてくれて、俺が両手に抱えていたジャグの一つを持ってくれた。
「ありがとうございます。なんかすいません。手伝わせてしまって」
「いいんだよ。それより、桜庭くんこの二日間で大分上手くなったよ」
「ホントですか!」
 手応えは感じていたけどそんなのは微々たるものだと思っていた。でも実際に誰かから言ってもらえると、自分が感じていた手応えが間違っていなかったんだと証明されたみたいで嬉しい。
「うん、ホントホント。俺が言ったこともすぐに吸収しちゃうから、教えるこっちも楽しかったよ」
「それは宇城さんの教え方が上手いんですよ」
「おぉ、嬉しいこと言ってくれるねぇ。あとでジュースおごってやろう」
「やった」
 喜んで少し跳ねたらジャグの中に残っていたドリンクがチャポチャポと音を立てた。
「でも桜庭くんはこれから絶対上手くなるよ。俺が保証する」
「いや、俺なんてまだまだですよ。今日だって宇城さんとのラリーは全部俺からミスっちゃいましたし、球威もまだまだ足りないですし、足だって――」
「最初から全部できる人なんていないよ」
 俺の憂いは軽く笑い飛ばされてしまった。
「でも俺が上手くなるって感じたのは、桜庭くんのその向上心なんだろうな」
 洗い場でジャグの中身を捨てながら宇城さんは言った。
「それがあれば安心だ。来年は俺も社会人だから合宿には来れないけど、試合は見に行くからな。がんばれよ」
「はい!」
「でもって俺や里中なんてちょちょっと抜いちゃえ」
 そこは苦笑いで留めておいた。
 片づけも終わり、最後は部員全員でOB・OGの先輩たちを見送った。
 宇城さんに出会えて本当によかった。テニス以外の話もいろいろできた――そっちは里中さんの印象の方が強く残っている――けど、やっぱりテニスに関して学ぶことが多かった。上手くなってまた宇城さんに見てもらいたいな。その時には、「あの時教えてもらったお陰でここまで上手くなりました」って伝えたい。
 空き缶を握り締めながら見送ったバスは、ゆっくりと山中湖のほとりへと消えていった。
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