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ドクターストップ
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響子ちゃんが帰り、暇さんが心霊写真の封印を終えると、外はすっかり夕暮れになっていた。わたしは細々としたお片付け以外、ほとんど何も出来ていない。
洋室に戻ったとき、わたしは暇さんに聞いた。
「あの、暇さん。わたし、こんな調子で良いんですか?」
「あっはっは! 初日なんてこんなものだろう。それに、響子の悩み相談も手伝ってもらったようなものさ。ふたりだけだとダメなんだよねぇ、お互い我が強いから喧嘩腰になっちゃって。都子君は良いクッションになってくれたよ」
たしかにふたりはお互いにかなり意思が強い。
わたしという他人がいなかったら、議論ももっと加熱してしまっていたかもしれない。
「それであの、暇さん。お悩み相談のときは、まずはそばに居て勉強しながら、出来ることをしようと思っているのですが」
「うんうん、素晴らしい心掛けだね。僕は良い助手に恵まれたよ」
「なのですが、お客様も来ないときはどうしたら良いでしょうか? 一応真面目にお掃除とかはしているんですけど、それでも時間が余る気がします」
今日の様子を見ていると、そんな日が多くなると思わざる得ない。
その間に何か、わたしに出来ることはあるのだろうか。
暇さんはというと、キレイな顔をかすかに傾けていた。
「うーん、都子君は尊敬に値するやる気の持ち主だ。だけど、うちもスタッフを雇ったのは今回が初めてでね。ノウハウと言うのかなぁ、そういうのぜんぜん出来てないんだよ。いやぁ、参った参った。よし、今は時間が空いているし、都子君、座りたまえ。色々なこれからの僕らの未来を決めようじゃないか!」
これからの僕らの未来を決めるって、だいぶ意味違ってきちゃうような――。
ああ、これからわたしはこの人形のように美しい彼女の、こんなボケを流していかないといけないのか……。恋愛経験値不足のわたしには、大変なことかもしれない。
「じゃ、じゃあ失礼します」
向かい合うように腰掛けて、話し合いがスタートした。
「ええっと、まず大事なのは家賃だよね。これは、暇堂を開店させておくことと、部屋を綺麗に維持管理してくれることで不問とする。そこは、良いかな?」
「はい! 恵まれすぎているほどだと思っています。宜しくお願い致します」
「ふむ! ではこれはお互いにメリットがあり決定だね。次はやっぱりアレだよねぇ、お給料だよねぇ。都子君だってうら若き乙女であるし、色々入用だろう。そうだなぁ、時給二千円くらいでどうだい?」
へっ? ただの雑用にいきなりそんなに!?
聞き間違いかと思いわたしはつい「二千って言いました?」と聞いてしまう。
「うん、僕としてはもっと奮発したいところなんだけど、まずは二千円でどうかな?」
「貰いすぎですよ、時給なんて千円頂けたら幸いだと思っていました。ほとんど、わたしが押しかけてお願いしている立場ですから」
「あらら、君は慎ましいねぇ都子君。では間をとって千五百円、決まり!」
パチンと手を叩いて、強引に決定を下されてしまう。
家賃がかからない上に時給千五百円――。これはホワイト企業暇堂である。
「あの、暇堂さんの営業日と時間はどうなっているんですか?」
「そうだね。僕の趣味でやっているようなところだから、基本年中無休。でも都子君は休日をきちんと週に二日とること。それと時間は割りと適当だけど、ざっくり言うなら午前十時から、午後七時だよ。ただうちの店の特性上、前後することもあるのは理解しておいて欲しいかな」
「はい、かしこまりました」
悩みを万引き受けるのが、暇堂である。
相談者さんのことを考えるなら、営業時間だってカチッと決める事は難しいだろう。
それにしても休日二日かぁ、何曜日にすればよいのかな。それも、お店の様子を見て決めていくことにしよう。
「お客さんがいないときはいつでも休憩時間みたいなものだけど、必要なときはいつでも休憩とってくれていいからね。ほら、労働基準法とかであーだこーだあるしさ」
「わかりました。でもお仕事がお仕事なので、休憩してても何かあったら呼んでください」
「まったく、出来過ぎだなぁ都子君は。助かるなぁ、あっはっは!」
暇さんこそ、色々大盤振る舞い過ぎです……。
こんな恵まれた職場で良いのだろうか。少しでも暇さんに雇って失敗だったと思われぬように、わたしもしっかり勉強してお役に立たなければ。
「あとは何かな、ご飯かな?」
「ご飯、ですか?」
「うん、各自でとっても良いし、お互いとなり同士なんだから一緒に食べてもいいし、どうしようかなーって。ただ、僕は朝だけはこれっ! って決まっているんだけどね」
「えっと、ご迷惑になるかもわかりませんし、まずは夕飯はご一緒するというのはどうでしょうか? お昼ご飯は、お客様のご来店を考えても時間をずらした方が良いと思うんですよね」
ほんとは毎日三食暇さんとご一緒したい。けどここはちゃんとお店のことも考えねば!
暇さんは「なるほど、お昼はズラすか。しっかり者だなぁ都子君は」と感心した。
やはりひとりでマイペースにやっていると、誰か入ってきたとき見落とすものもある。
「それで暇さん、朝は決まっていると言いますと?」
私が問うと、暇さんが指を下に向けた。
「このビルの一階、『ドクターストップ』ってお店をやってるんだけどね。そこの定食が絶品なんだ。明日の朝、都子君も食べてみると良い」
「あ、看板は見ました。でもあそこ、なんか夜のお店の雰囲気だったんですけど?」
「ドクターストップは午後九時から午前九時までやっている。寝坊しなければ朝ごはんには間に合うって寸法さ」
なんだか得意げに語る暇さん。
そんなにドクターストップの朝ごはんが気に入っているのであろうか。
でも、夜のお店で朝ごはんって不思議な感じ。どんなものが出てくるんだろう。
「これで、大体のことは決まったかなぁ。いやぁ、こんな話をすると暇堂は会社なんだ、仕事をする場所なんだ! って実感するねぇ、あはは。はてさて、今日のお夕飯はどうしようかねぇ」
「暇さんは、普段はお食事どうされていたんですか?」
「んー、ちょっと我慢して開店したてのドクターストップに行くか、適当に済ませるか、何も食べないか、かなぁ」
なんとも、ひとり暮らしらしい自由さを感じる。
反面、あらゆることに几帳面に見える暇さんにしては意外な緩さだな、とも感じた。
「すごい大雑把ですね……。あの、良かったら今日はわたしを雇って頂いた日ですので、調理器具と調味料があればお鍋を作りたいのですが」
四月に鍋もどうかな、と思ったけど複数人で食卓を囲んで何かを食べるというと、鍋のイメージが強くてついつい言ってしまった。それに、杜撰な食生活を送ってるらしい暇さんに栄養をつけて欲しいという思いもある。
そもそもどうみても、彼女は華奢過ぎる。胸は大きいけど――。
「おお、都子君はなんてマーベラスな提案をするんだ。それ採用! 即採用! 僕も君の食事をごちそうになってみたいしね。ついでに、この辺の簡単な地理も説明しながら行こう。よし、そうと決まればレッツゴーさ!」
暇さんが早足に玄関に向かう。即断の人だなぁ。
でも、この辺りの地理に関してさりげなく気を使ってくれたのはとても嬉しい。
ふたりでビルの外に出ると、不意に暇さんが右手を差し出した。
「え、暇さん、あの、これは……?」
「うん? 案内してあげるから、ついておいで、さあ」
小首を傾げた暇さんが、さも当然というように再度手を出す。
「えっ、あ、はい! そそそ、そうですよね、はい!」
差し出された手を、緊張しながら掴む。
暇さんの右手と私の左手がくっついて、暇さんの体温が……すぐ横にわたしより少し背の高い暇さんの整った顔。ときどき、手をぎゅって握って来るし……色々やばい!
わたしは手を握られるたびにぎゅって返して暇さんの手のひらをこっそり堪能する。
突然の展開に顔が赤くなる――夕焼けはこの赤面を隠してくれているだろうか。
「あそこが最寄りのコンビニ、あっちに雑貨店、ここの精肉店は揚げ物が美味しくて――」
暇さんにコンビニや雑貨店を案内されたあと、スーパーに入る。
買い物かごを手にするときに、つないだ手が離れてしまう。
残念な気持ちもあるけど、手をつないだまま食材の買い物なんて出来ないし……。
わたしが手にしたショッピングカートを、暇さんがそっと持ってくれた。
「暇さん、鍋の味にお好みってありますか?」
「いや、無いよ。僕は色んな味を楽しみたいんだ。だから、都子君のオススメが良いかな」
「オススメですか、難しいですが、頑張ります!」
まずは鍋の素である。万が一辛いのが苦手な可能性もあるので、あっさり豚骨味。
何度か使ったことのある素で、豚骨の旨味はよく出るのに脂っこくなく食べやすい。
おかずは白菜、脂身の少ない豚肉、ニンジンに大根にエリンギ。
ちょっと意外かもしれないけど、そこにもやしと油揚げを入れる。
「ほうほう、鍋にもやしに油揚げかい。どうなるのか楽しみだねぇ」
もやしは栄養豊富で安い。量も出るのでお腹もいっぱいになるし、味が染み込みやすいのもポイントだ。油揚げも同じく味が染み込みやすく、野菜以外の食感を入れることで食事にメリハリをつけてくれる。
「やぁやぁ、なんだかごちそうな雰囲気になってきたね。都子君、アルコールはだいじょうぶかい?」
「はい、強くはないですが多少は飲めます」
「じゃあ、今日はお鍋とお酒にしよう。都子君の歓迎パーティーだ。って、パーティーなのに主賓に料理を作ってもらっていたら可笑しいか。はははっ」
暇さんは笑って、ビールの五百缶をいくつかカートに入れた。お酒は弱くはないようだ。
わたしはお気に入りのフルーツサワーを二種類いれる。勤務初日に泥酔姿など見せられないので、アルコール度数の低いものを選んだ。
はー、暇さんと並んで買い物しているだけで、胸がきゅってするほど幸せだー。
レジに進むと、店員さんが手際よくスキャンして自動の清算台においてくれた。
財布を出そうとしたわたしを制して、暇さんがさっさとお会計を済ませてしまう。
「暇さん、何もお支払いいただかなくても!」
「こちらが手料理をごちそうになるんだから、支払いくらい当然でしょ」
横を向いて微笑みかける暇さんの王子様感たるや――。
これはいけない、天然のタラシである。暇さん……だめ、沙也加の言う事じゃないけど、これホントに好きになっちゃう……。
わたしが惚けている間に、具材の入った袋もすべて持ってくれる。
暇さんてば、何気にものすごくエスコート上手……?
もうすっかり夕方なので、わたしは帰宅すると和室で早々に準備にかかった。
まずは切った白菜と大根を鍋の底につめ、鍋の素を入れて煮込み開始。出汁がしっかり出てきたらニンジン、次いでもやし、エリンギ。油揚げとお肉はすぐ煮えるので最後だ。
日がすっかり沈んだころ、食事の準備が整ったわたしは洋室に暇さんを呼びに行った。
「ありがとう、楽しみだなぁ。って、アレだね。お互い連絡とりずらいし、都子君がだいじょうぶなら連絡先を交換してもよいかな? 今度から電話かメールかアプリで呼んでくれたらいいし」
「はい、もちろんです! 上司と部下の間柄なワケですし!」
とか言ってみても、やっぱり暇さんと連絡先交換はちょっとドキドキ感はあったり。
や、役得感半端なし!
つつがなく連絡先を交換し、和室に戻る。
ガスコンロを出し鍋を置いて、取り皿やお箸、アルコールを並べて準備オーケー。
ふたりで手を合わせて「いただきます」と言うとふたりの晩御飯が始まった。
鍋の大根をふーふーして口に含んだ暇さんに、笑みがこぼれる。
「美味しい! とても美味しいよ都子君。君は本当に多才だ、料理までこんなに上手とは」
「あはは、お口に合ったんなら良かったです」
暇さんは、大喜びで鍋を平らげてくれた。
ビールも進んだが、酔った様子はまったくない。
わたしも胸を撫でおろしつつ、サワーをお供に鍋を食す。うん、我ながら上出来かも。
食事を終えると、わたしが制するのも聞かずに暇さんが洗い物と片付けをしてくれた。
どうしてもと聞かないので、わたしも並んで洗い終わった食器を拭いたりする。
ふたりで過ごせば洗い物だって楽しい時間になっちゃうから不思議。
「じゃあ、今日はありがとう、都子君。営業時間も終わったし、今日はここまでにしよう。僕は今日は洋室で寝たい気分だから、君はこのまま和室で過ごしてくれたまえ」
「かしこまりました。今日はありがとうございました、明日からもよろしくお願いします」
「ははっ! そんなにかしこまらないでいいよ。まぁ、徐々に打ち解けていこう。それじゃあ、また明日ね」
不意に暇さんが、わたしの頬に頬を重ねて来た。
アルコールのせいかほのかに暖かい暇さんの頬、そして目の前に整った顔!
腰が砕けてしまいそうな私を、暇さんの手が支えていた。
その頬も腕も「おやすみ、都子君」という言葉とともにすり抜けていく。
頬に残る体温を無くさないように、わたしは自分のほほに手を添えた。
和室を出て行く暇さんに「お休みなさい」と言って、深呼吸してから部屋を見まわす。
わたしにとっては初めての場所。
今日は洋室でも和室でも、色々あったなぁ。
楽しかった思いばかりだけど、それでも身体は疲労を感じた。わたしは早めにシャワーを浴びて、窓際のイスに腰掛けてこれという見る物もない外の景色をぼんやりと見る。ポツポツと見える電灯の明かりだけの、静かな場所。
そんな佇まいも暇堂には相応しい気もした。
やがてウトウトと眠気がやってきたので、少し早いけどお布団を敷いて横になる。
「不思議な一日だったな。でも、とっても楽しかった。これからも、こんな夢のような毎日が続きますように」
心の中でそう祈って、わたしは静かに睡眠の誘惑に身を任せていった。
翌朝、はやくに目が醒めたわたしは顔を洗ってゆっくりと和室を見て回った。
昨日のご飯の支度で食器の出し入れもあり、棚などの位置はわかっていたが、どこにどんなものが入っているかまではまだ把握しきっていないのだ。
朝ごはんは決まっているそうなので心配ないが、何時ごろ食べにいくのだろう。
ふと耳を澄ませると、洋室の方で音がした。暇さんも起きたのかもしれない。
朝食のことも聞きたいし、わたしは洋室に向かった。
ノックをするといつもより眠そうな声で「開いてるよ」とお決まりの言葉が返ってくる。
「失礼します。おはようございます」
挨拶をしたが、暇さんの姿はない。奥でコーヒーでも淹れているのかもしれなかった。
奥に行くと、少し寝癖頭の暇さんがぼうっとしている。
流しの水が出しっぱなしだったので、止めようと身を乗り出すと、その身体を優しく暇さんが抱きしめた。体温が密着して、暇さんの香りが、不意に濃くなって――。
「おはよう」
それだけを告げて、暇さんは早々に離れて居間のほうに向かっていった。
……って、いきなり寝起きの声で抱きしめておはようですか!?
や、やっぱり暇さんはどこか距離感がおかしい。こんなの心臓に悪すぎる。
突然のイケメン女子の優しい抱擁に、わたしはドキドキがドキドキしてドキドキしている。
ああ、わたしまで考えがまとまらない。
「都子君、良かったらブルーマウンテン、濃いめに淹れてくれるかい? 君の分もね」
暇さんの声で我れに返ったわたしは「か、かしこまりました!」と慌てて返事をした。
コーヒーメーカーなどの準備をして、電気ケトルの熱湯を一度、二度、三度とわけて注いでいく。濃いめとの注文だったので、少しゆっくりめに蒸らした。
「お待たせいたしました」
カップをふたつ持って、テーブルに置き向かい合って座る。
さっきのアレがなんだったか聞きたかったけれど、暇さんは無言で美味しそうにコーヒーを飲んでいた。どうやらお口にあったらしい、良かった。
朝の少し気怠い眠気を、コーヒーのカフェインがゆっくり覚醒させていく。
「ああ、そうだ都子君。営業時間前は君の自由時間でもあるのだから、あまり僕のことを気にしないでもいいからね。どうも、僕は怠惰で寝坊なところがあってね。寝ぼけることも多々あるんだ、君に甘えすぎても悪いからね」
あの抱擁も寝ぼけの賜物ですか? 暇さんの寝ぼけ、恐るべし。
「はい、ありがとうございます」
そんなとりとめのない会話をしてコーヒーを飲み終えると、暇さんが「さて」と言って立ち上がった。
「そろそろドクターストップに朝ごはんを食べに行こうか」
時刻は朝の七時半。暇さんに連れられて、わたしは部屋を出て階段を降りる。
一階のドクターストップは今まで閉まっているところしかみたことなかったが、開店中はかなりケバいネオンライトに照らし出されている。朝の光を浴びてなお、その輝きがわかるほどである。
暇さんは躊躇なく木製のドアを開き「茂美、来たよ」と告げた。私も中に入る。
店内はカウンター席が八つくらい。
それとテーブル席がふたつのそれほど広くないバーと言った感じだ。
奥から、巨大な人影がやってきた。
「あーら、暇ちゃんいらっしゃい! ってなに可愛い女の子連れてるのよぉ! んもう隅に置けないわねぇ、ちょっとちょっと、あたしにこの子を紹介しなさいよぉ!」
元気なお姉さん口調とは裏腹の、ムッキムキの腕を露出させて、ピチピチのピンクに白いフリルの付いたドレスを着ている筋骨隆々な人が現れた。
彫りが深すぎて、失礼ながらゴリラのようだ。そんな人が、長い金髪を振り乱している。あれ、地毛かな? カツラかな? この人が、茂美さんなのだろうか。
「やあ茂美。話は朝食の準備の間にするからいつもの『牛と豚のワケあり定食』ふたつ」
「はーい、よろこんでー!」
茂美さんと、奥からバーテンさんの恰好をした男性が料理を始めた。
暇さんは手短に茂美さんにわたしたちのいきさつを話す。茂美さんは嬉しそうに「いやーん、なにそれ! 運命感じちゃうー!」と野太い声でモジモジしながら言った。
茂美さんに「はい、ワケあり定食ふたつお待ち!」と出された四角いお盆の上を見る。
ご飯にお味噌汁にサラダ。それに三種類の漬物が二切れずつ。
メインプレートのご飯は丼形式で右側に牛肉、真ん中に野菜炒め、左に豚肉。スタミナつきそうなご飯。朝からしっかり食べるんだな、暇さん!
「朝食は一日の食事の中でも一番大切だと言われているんだよ。朝にしっかり食べて、一日分のエネルギーを摂取しなければならない。そのうえ茂美の食事なら味も栄養も満点だ」
圧倒されていたわたしを見透かしたように、暇さんが言った。
わたしたちは「いただきます」と声を揃えて食事に取り掛かる。
まずは野菜炒め。シンプルな塩コショウメインで、ちょっと何か優しい風味がついてる。
豚肉は生姜焼きに近い感じ、お肉が柔らかくて食べやすい。牛肉の方はもっと柔らかい!
そのうえ甘辛い味付けが食欲をそそる。
「うわぁ、これすっごい美味しいです!」
「だろう、僕は毎朝食べに来てしまうくらいさ」
「あーら、ホメても何もでないわよぉ、おふたりさん!」
お肉にちょっと味がくどいと感じたら野菜炒めと漬物の出番。
お味噌汁やサラダで口をすっきりさせるも良し。なんともバランスの考えられた一品だ。
とっても贅沢な朝食を、わたしは幸せな気持ちで平らげた。
「ごちそうさまでした、茂美さん!」
「都子ちゃん、て言ったわよね。いつでもいらっしゃい」
「はい!」
「それじゃあ茂美、ごちそうさま。また明日」
暇さんがお支払いもせずに出口に向かう。
レジが出口にある? でもバーのスタッフは誰も動かない。
暇さんがドアに手をかけたとき、茂美さんが今までにない強い声で「暇」と言った。
「なんだい、茂美?」
「新しい子を雇ったのなら、きちんと一人前に育てあげなさいよ。わかってるわね?」
「ああ、言われるまでもない。理解しているつもりだよ、茂美。それじゃ」
暇さんがバーを出て行く。わたしも一礼して後を追いかけた。
ふと店を出て看板を見直すと『女装バー ドクターストップ』とあった。
そうか、ここは女装バー。それで茂美さんのあの恰好なワケね……。
洋室に戻ったとき、わたしはさっきの茂美さんの言葉の意味を聞いた。
「暇さん、茂美さんの発言なにか引っ掛かります。育ててあげろって言い方気になって」
暇さんはイスに腰深くかけると、息を吐いて言った。
「茂美はね、僕の悩み相談の師匠なんだよ」
「ええ、あの茂美さんが、お悩み相談の先生なんですか!?」
「茂美は悩み相談を女装バーって形でやっているけどね。僕は悩みを万引き受ける暇堂のこの仕事のやり方を、茂美に仕込まれた。だから、都子君のこともちゃんと育てろっていう師匠からのメッセージみたいなもんだね。やれやれ、茂美は自分の一番弟子を信用してないなぁ、ったく」
あのパワフルの塊のような茂美さんが、こんな飄々とした暇さんの師匠――。
とても意外な事実である。
わたしが言葉を失っていると、顔色を察したのか暇さんが続けた。
「茂美には茂美のやり方があるし、僕には僕のやり方がある。そして、それぞれに相手にとって相性のよい悩み相談の相手にもなりうる。時々、茂美に紹介されてここに来る人もいるんだよ。ま、適材適所ってやつだね。その代わり、朝飯はおごらせているけれど」
ふふっ、と可笑しそうに暇さんが笑った。
暇さんの言う通り、茂美さんと暇さんじゃ見た目から雰囲気までまったく違う。
それに、場所もお悩み相談所とバーである。それぞれ、人によって話しやすい場所、心の開きやすい場所があるのだろう。ふたりは全く真逆に見えて、だからこそ良いコンビなのかもしれない。
「なんだか、このビル全体が悩みを万引き受ける場所みたいですね」
「うぅん、それは言い得て妙かもしれないね。それぞれに助け合って成り立っている部分は、確かにあるよ。ただ、茂美の普段の仕事はバーのママだけれどね」
暇さんと茂美さん。
見た目もスタイルもまったく異なるふたり。
彼らによって、真の暇堂が完成しているのだろう。
私も早くそこに加われるように、頑張らなくちゃ!
意気込んだものの、その日の暇堂の営業は閑古鳥が鳴いたまま終わったのであった。
洋室に戻ったとき、わたしは暇さんに聞いた。
「あの、暇さん。わたし、こんな調子で良いんですか?」
「あっはっは! 初日なんてこんなものだろう。それに、響子の悩み相談も手伝ってもらったようなものさ。ふたりだけだとダメなんだよねぇ、お互い我が強いから喧嘩腰になっちゃって。都子君は良いクッションになってくれたよ」
たしかにふたりはお互いにかなり意思が強い。
わたしという他人がいなかったら、議論ももっと加熱してしまっていたかもしれない。
「それであの、暇さん。お悩み相談のときは、まずはそばに居て勉強しながら、出来ることをしようと思っているのですが」
「うんうん、素晴らしい心掛けだね。僕は良い助手に恵まれたよ」
「なのですが、お客様も来ないときはどうしたら良いでしょうか? 一応真面目にお掃除とかはしているんですけど、それでも時間が余る気がします」
今日の様子を見ていると、そんな日が多くなると思わざる得ない。
その間に何か、わたしに出来ることはあるのだろうか。
暇さんはというと、キレイな顔をかすかに傾けていた。
「うーん、都子君は尊敬に値するやる気の持ち主だ。だけど、うちもスタッフを雇ったのは今回が初めてでね。ノウハウと言うのかなぁ、そういうのぜんぜん出来てないんだよ。いやぁ、参った参った。よし、今は時間が空いているし、都子君、座りたまえ。色々なこれからの僕らの未来を決めようじゃないか!」
これからの僕らの未来を決めるって、だいぶ意味違ってきちゃうような――。
ああ、これからわたしはこの人形のように美しい彼女の、こんなボケを流していかないといけないのか……。恋愛経験値不足のわたしには、大変なことかもしれない。
「じゃ、じゃあ失礼します」
向かい合うように腰掛けて、話し合いがスタートした。
「ええっと、まず大事なのは家賃だよね。これは、暇堂を開店させておくことと、部屋を綺麗に維持管理してくれることで不問とする。そこは、良いかな?」
「はい! 恵まれすぎているほどだと思っています。宜しくお願い致します」
「ふむ! ではこれはお互いにメリットがあり決定だね。次はやっぱりアレだよねぇ、お給料だよねぇ。都子君だってうら若き乙女であるし、色々入用だろう。そうだなぁ、時給二千円くらいでどうだい?」
へっ? ただの雑用にいきなりそんなに!?
聞き間違いかと思いわたしはつい「二千って言いました?」と聞いてしまう。
「うん、僕としてはもっと奮発したいところなんだけど、まずは二千円でどうかな?」
「貰いすぎですよ、時給なんて千円頂けたら幸いだと思っていました。ほとんど、わたしが押しかけてお願いしている立場ですから」
「あらら、君は慎ましいねぇ都子君。では間をとって千五百円、決まり!」
パチンと手を叩いて、強引に決定を下されてしまう。
家賃がかからない上に時給千五百円――。これはホワイト企業暇堂である。
「あの、暇堂さんの営業日と時間はどうなっているんですか?」
「そうだね。僕の趣味でやっているようなところだから、基本年中無休。でも都子君は休日をきちんと週に二日とること。それと時間は割りと適当だけど、ざっくり言うなら午前十時から、午後七時だよ。ただうちの店の特性上、前後することもあるのは理解しておいて欲しいかな」
「はい、かしこまりました」
悩みを万引き受けるのが、暇堂である。
相談者さんのことを考えるなら、営業時間だってカチッと決める事は難しいだろう。
それにしても休日二日かぁ、何曜日にすればよいのかな。それも、お店の様子を見て決めていくことにしよう。
「お客さんがいないときはいつでも休憩時間みたいなものだけど、必要なときはいつでも休憩とってくれていいからね。ほら、労働基準法とかであーだこーだあるしさ」
「わかりました。でもお仕事がお仕事なので、休憩してても何かあったら呼んでください」
「まったく、出来過ぎだなぁ都子君は。助かるなぁ、あっはっは!」
暇さんこそ、色々大盤振る舞い過ぎです……。
こんな恵まれた職場で良いのだろうか。少しでも暇さんに雇って失敗だったと思われぬように、わたしもしっかり勉強してお役に立たなければ。
「あとは何かな、ご飯かな?」
「ご飯、ですか?」
「うん、各自でとっても良いし、お互いとなり同士なんだから一緒に食べてもいいし、どうしようかなーって。ただ、僕は朝だけはこれっ! って決まっているんだけどね」
「えっと、ご迷惑になるかもわかりませんし、まずは夕飯はご一緒するというのはどうでしょうか? お昼ご飯は、お客様のご来店を考えても時間をずらした方が良いと思うんですよね」
ほんとは毎日三食暇さんとご一緒したい。けどここはちゃんとお店のことも考えねば!
暇さんは「なるほど、お昼はズラすか。しっかり者だなぁ都子君は」と感心した。
やはりひとりでマイペースにやっていると、誰か入ってきたとき見落とすものもある。
「それで暇さん、朝は決まっていると言いますと?」
私が問うと、暇さんが指を下に向けた。
「このビルの一階、『ドクターストップ』ってお店をやってるんだけどね。そこの定食が絶品なんだ。明日の朝、都子君も食べてみると良い」
「あ、看板は見ました。でもあそこ、なんか夜のお店の雰囲気だったんですけど?」
「ドクターストップは午後九時から午前九時までやっている。寝坊しなければ朝ごはんには間に合うって寸法さ」
なんだか得意げに語る暇さん。
そんなにドクターストップの朝ごはんが気に入っているのであろうか。
でも、夜のお店で朝ごはんって不思議な感じ。どんなものが出てくるんだろう。
「これで、大体のことは決まったかなぁ。いやぁ、こんな話をすると暇堂は会社なんだ、仕事をする場所なんだ! って実感するねぇ、あはは。はてさて、今日のお夕飯はどうしようかねぇ」
「暇さんは、普段はお食事どうされていたんですか?」
「んー、ちょっと我慢して開店したてのドクターストップに行くか、適当に済ませるか、何も食べないか、かなぁ」
なんとも、ひとり暮らしらしい自由さを感じる。
反面、あらゆることに几帳面に見える暇さんにしては意外な緩さだな、とも感じた。
「すごい大雑把ですね……。あの、良かったら今日はわたしを雇って頂いた日ですので、調理器具と調味料があればお鍋を作りたいのですが」
四月に鍋もどうかな、と思ったけど複数人で食卓を囲んで何かを食べるというと、鍋のイメージが強くてついつい言ってしまった。それに、杜撰な食生活を送ってるらしい暇さんに栄養をつけて欲しいという思いもある。
そもそもどうみても、彼女は華奢過ぎる。胸は大きいけど――。
「おお、都子君はなんてマーベラスな提案をするんだ。それ採用! 即採用! 僕も君の食事をごちそうになってみたいしね。ついでに、この辺の簡単な地理も説明しながら行こう。よし、そうと決まればレッツゴーさ!」
暇さんが早足に玄関に向かう。即断の人だなぁ。
でも、この辺りの地理に関してさりげなく気を使ってくれたのはとても嬉しい。
ふたりでビルの外に出ると、不意に暇さんが右手を差し出した。
「え、暇さん、あの、これは……?」
「うん? 案内してあげるから、ついておいで、さあ」
小首を傾げた暇さんが、さも当然というように再度手を出す。
「えっ、あ、はい! そそそ、そうですよね、はい!」
差し出された手を、緊張しながら掴む。
暇さんの右手と私の左手がくっついて、暇さんの体温が……すぐ横にわたしより少し背の高い暇さんの整った顔。ときどき、手をぎゅって握って来るし……色々やばい!
わたしは手を握られるたびにぎゅって返して暇さんの手のひらをこっそり堪能する。
突然の展開に顔が赤くなる――夕焼けはこの赤面を隠してくれているだろうか。
「あそこが最寄りのコンビニ、あっちに雑貨店、ここの精肉店は揚げ物が美味しくて――」
暇さんにコンビニや雑貨店を案内されたあと、スーパーに入る。
買い物かごを手にするときに、つないだ手が離れてしまう。
残念な気持ちもあるけど、手をつないだまま食材の買い物なんて出来ないし……。
わたしが手にしたショッピングカートを、暇さんがそっと持ってくれた。
「暇さん、鍋の味にお好みってありますか?」
「いや、無いよ。僕は色んな味を楽しみたいんだ。だから、都子君のオススメが良いかな」
「オススメですか、難しいですが、頑張ります!」
まずは鍋の素である。万が一辛いのが苦手な可能性もあるので、あっさり豚骨味。
何度か使ったことのある素で、豚骨の旨味はよく出るのに脂っこくなく食べやすい。
おかずは白菜、脂身の少ない豚肉、ニンジンに大根にエリンギ。
ちょっと意外かもしれないけど、そこにもやしと油揚げを入れる。
「ほうほう、鍋にもやしに油揚げかい。どうなるのか楽しみだねぇ」
もやしは栄養豊富で安い。量も出るのでお腹もいっぱいになるし、味が染み込みやすいのもポイントだ。油揚げも同じく味が染み込みやすく、野菜以外の食感を入れることで食事にメリハリをつけてくれる。
「やぁやぁ、なんだかごちそうな雰囲気になってきたね。都子君、アルコールはだいじょうぶかい?」
「はい、強くはないですが多少は飲めます」
「じゃあ、今日はお鍋とお酒にしよう。都子君の歓迎パーティーだ。って、パーティーなのに主賓に料理を作ってもらっていたら可笑しいか。はははっ」
暇さんは笑って、ビールの五百缶をいくつかカートに入れた。お酒は弱くはないようだ。
わたしはお気に入りのフルーツサワーを二種類いれる。勤務初日に泥酔姿など見せられないので、アルコール度数の低いものを選んだ。
はー、暇さんと並んで買い物しているだけで、胸がきゅってするほど幸せだー。
レジに進むと、店員さんが手際よくスキャンして自動の清算台においてくれた。
財布を出そうとしたわたしを制して、暇さんがさっさとお会計を済ませてしまう。
「暇さん、何もお支払いいただかなくても!」
「こちらが手料理をごちそうになるんだから、支払いくらい当然でしょ」
横を向いて微笑みかける暇さんの王子様感たるや――。
これはいけない、天然のタラシである。暇さん……だめ、沙也加の言う事じゃないけど、これホントに好きになっちゃう……。
わたしが惚けている間に、具材の入った袋もすべて持ってくれる。
暇さんてば、何気にものすごくエスコート上手……?
もうすっかり夕方なので、わたしは帰宅すると和室で早々に準備にかかった。
まずは切った白菜と大根を鍋の底につめ、鍋の素を入れて煮込み開始。出汁がしっかり出てきたらニンジン、次いでもやし、エリンギ。油揚げとお肉はすぐ煮えるので最後だ。
日がすっかり沈んだころ、食事の準備が整ったわたしは洋室に暇さんを呼びに行った。
「ありがとう、楽しみだなぁ。って、アレだね。お互い連絡とりずらいし、都子君がだいじょうぶなら連絡先を交換してもよいかな? 今度から電話かメールかアプリで呼んでくれたらいいし」
「はい、もちろんです! 上司と部下の間柄なワケですし!」
とか言ってみても、やっぱり暇さんと連絡先交換はちょっとドキドキ感はあったり。
や、役得感半端なし!
つつがなく連絡先を交換し、和室に戻る。
ガスコンロを出し鍋を置いて、取り皿やお箸、アルコールを並べて準備オーケー。
ふたりで手を合わせて「いただきます」と言うとふたりの晩御飯が始まった。
鍋の大根をふーふーして口に含んだ暇さんに、笑みがこぼれる。
「美味しい! とても美味しいよ都子君。君は本当に多才だ、料理までこんなに上手とは」
「あはは、お口に合ったんなら良かったです」
暇さんは、大喜びで鍋を平らげてくれた。
ビールも進んだが、酔った様子はまったくない。
わたしも胸を撫でおろしつつ、サワーをお供に鍋を食す。うん、我ながら上出来かも。
食事を終えると、わたしが制するのも聞かずに暇さんが洗い物と片付けをしてくれた。
どうしてもと聞かないので、わたしも並んで洗い終わった食器を拭いたりする。
ふたりで過ごせば洗い物だって楽しい時間になっちゃうから不思議。
「じゃあ、今日はありがとう、都子君。営業時間も終わったし、今日はここまでにしよう。僕は今日は洋室で寝たい気分だから、君はこのまま和室で過ごしてくれたまえ」
「かしこまりました。今日はありがとうございました、明日からもよろしくお願いします」
「ははっ! そんなにかしこまらないでいいよ。まぁ、徐々に打ち解けていこう。それじゃあ、また明日ね」
不意に暇さんが、わたしの頬に頬を重ねて来た。
アルコールのせいかほのかに暖かい暇さんの頬、そして目の前に整った顔!
腰が砕けてしまいそうな私を、暇さんの手が支えていた。
その頬も腕も「おやすみ、都子君」という言葉とともにすり抜けていく。
頬に残る体温を無くさないように、わたしは自分のほほに手を添えた。
和室を出て行く暇さんに「お休みなさい」と言って、深呼吸してから部屋を見まわす。
わたしにとっては初めての場所。
今日は洋室でも和室でも、色々あったなぁ。
楽しかった思いばかりだけど、それでも身体は疲労を感じた。わたしは早めにシャワーを浴びて、窓際のイスに腰掛けてこれという見る物もない外の景色をぼんやりと見る。ポツポツと見える電灯の明かりだけの、静かな場所。
そんな佇まいも暇堂には相応しい気もした。
やがてウトウトと眠気がやってきたので、少し早いけどお布団を敷いて横になる。
「不思議な一日だったな。でも、とっても楽しかった。これからも、こんな夢のような毎日が続きますように」
心の中でそう祈って、わたしは静かに睡眠の誘惑に身を任せていった。
翌朝、はやくに目が醒めたわたしは顔を洗ってゆっくりと和室を見て回った。
昨日のご飯の支度で食器の出し入れもあり、棚などの位置はわかっていたが、どこにどんなものが入っているかまではまだ把握しきっていないのだ。
朝ごはんは決まっているそうなので心配ないが、何時ごろ食べにいくのだろう。
ふと耳を澄ませると、洋室の方で音がした。暇さんも起きたのかもしれない。
朝食のことも聞きたいし、わたしは洋室に向かった。
ノックをするといつもより眠そうな声で「開いてるよ」とお決まりの言葉が返ってくる。
「失礼します。おはようございます」
挨拶をしたが、暇さんの姿はない。奥でコーヒーでも淹れているのかもしれなかった。
奥に行くと、少し寝癖頭の暇さんがぼうっとしている。
流しの水が出しっぱなしだったので、止めようと身を乗り出すと、その身体を優しく暇さんが抱きしめた。体温が密着して、暇さんの香りが、不意に濃くなって――。
「おはよう」
それだけを告げて、暇さんは早々に離れて居間のほうに向かっていった。
……って、いきなり寝起きの声で抱きしめておはようですか!?
や、やっぱり暇さんはどこか距離感がおかしい。こんなの心臓に悪すぎる。
突然のイケメン女子の優しい抱擁に、わたしはドキドキがドキドキしてドキドキしている。
ああ、わたしまで考えがまとまらない。
「都子君、良かったらブルーマウンテン、濃いめに淹れてくれるかい? 君の分もね」
暇さんの声で我れに返ったわたしは「か、かしこまりました!」と慌てて返事をした。
コーヒーメーカーなどの準備をして、電気ケトルの熱湯を一度、二度、三度とわけて注いでいく。濃いめとの注文だったので、少しゆっくりめに蒸らした。
「お待たせいたしました」
カップをふたつ持って、テーブルに置き向かい合って座る。
さっきのアレがなんだったか聞きたかったけれど、暇さんは無言で美味しそうにコーヒーを飲んでいた。どうやらお口にあったらしい、良かった。
朝の少し気怠い眠気を、コーヒーのカフェインがゆっくり覚醒させていく。
「ああ、そうだ都子君。営業時間前は君の自由時間でもあるのだから、あまり僕のことを気にしないでもいいからね。どうも、僕は怠惰で寝坊なところがあってね。寝ぼけることも多々あるんだ、君に甘えすぎても悪いからね」
あの抱擁も寝ぼけの賜物ですか? 暇さんの寝ぼけ、恐るべし。
「はい、ありがとうございます」
そんなとりとめのない会話をしてコーヒーを飲み終えると、暇さんが「さて」と言って立ち上がった。
「そろそろドクターストップに朝ごはんを食べに行こうか」
時刻は朝の七時半。暇さんに連れられて、わたしは部屋を出て階段を降りる。
一階のドクターストップは今まで閉まっているところしかみたことなかったが、開店中はかなりケバいネオンライトに照らし出されている。朝の光を浴びてなお、その輝きがわかるほどである。
暇さんは躊躇なく木製のドアを開き「茂美、来たよ」と告げた。私も中に入る。
店内はカウンター席が八つくらい。
それとテーブル席がふたつのそれほど広くないバーと言った感じだ。
奥から、巨大な人影がやってきた。
「あーら、暇ちゃんいらっしゃい! ってなに可愛い女の子連れてるのよぉ! んもう隅に置けないわねぇ、ちょっとちょっと、あたしにこの子を紹介しなさいよぉ!」
元気なお姉さん口調とは裏腹の、ムッキムキの腕を露出させて、ピチピチのピンクに白いフリルの付いたドレスを着ている筋骨隆々な人が現れた。
彫りが深すぎて、失礼ながらゴリラのようだ。そんな人が、長い金髪を振り乱している。あれ、地毛かな? カツラかな? この人が、茂美さんなのだろうか。
「やあ茂美。話は朝食の準備の間にするからいつもの『牛と豚のワケあり定食』ふたつ」
「はーい、よろこんでー!」
茂美さんと、奥からバーテンさんの恰好をした男性が料理を始めた。
暇さんは手短に茂美さんにわたしたちのいきさつを話す。茂美さんは嬉しそうに「いやーん、なにそれ! 運命感じちゃうー!」と野太い声でモジモジしながら言った。
茂美さんに「はい、ワケあり定食ふたつお待ち!」と出された四角いお盆の上を見る。
ご飯にお味噌汁にサラダ。それに三種類の漬物が二切れずつ。
メインプレートのご飯は丼形式で右側に牛肉、真ん中に野菜炒め、左に豚肉。スタミナつきそうなご飯。朝からしっかり食べるんだな、暇さん!
「朝食は一日の食事の中でも一番大切だと言われているんだよ。朝にしっかり食べて、一日分のエネルギーを摂取しなければならない。そのうえ茂美の食事なら味も栄養も満点だ」
圧倒されていたわたしを見透かしたように、暇さんが言った。
わたしたちは「いただきます」と声を揃えて食事に取り掛かる。
まずは野菜炒め。シンプルな塩コショウメインで、ちょっと何か優しい風味がついてる。
豚肉は生姜焼きに近い感じ、お肉が柔らかくて食べやすい。牛肉の方はもっと柔らかい!
そのうえ甘辛い味付けが食欲をそそる。
「うわぁ、これすっごい美味しいです!」
「だろう、僕は毎朝食べに来てしまうくらいさ」
「あーら、ホメても何もでないわよぉ、おふたりさん!」
お肉にちょっと味がくどいと感じたら野菜炒めと漬物の出番。
お味噌汁やサラダで口をすっきりさせるも良し。なんともバランスの考えられた一品だ。
とっても贅沢な朝食を、わたしは幸せな気持ちで平らげた。
「ごちそうさまでした、茂美さん!」
「都子ちゃん、て言ったわよね。いつでもいらっしゃい」
「はい!」
「それじゃあ茂美、ごちそうさま。また明日」
暇さんがお支払いもせずに出口に向かう。
レジが出口にある? でもバーのスタッフは誰も動かない。
暇さんがドアに手をかけたとき、茂美さんが今までにない強い声で「暇」と言った。
「なんだい、茂美?」
「新しい子を雇ったのなら、きちんと一人前に育てあげなさいよ。わかってるわね?」
「ああ、言われるまでもない。理解しているつもりだよ、茂美。それじゃ」
暇さんがバーを出て行く。わたしも一礼して後を追いかけた。
ふと店を出て看板を見直すと『女装バー ドクターストップ』とあった。
そうか、ここは女装バー。それで茂美さんのあの恰好なワケね……。
洋室に戻ったとき、わたしはさっきの茂美さんの言葉の意味を聞いた。
「暇さん、茂美さんの発言なにか引っ掛かります。育ててあげろって言い方気になって」
暇さんはイスに腰深くかけると、息を吐いて言った。
「茂美はね、僕の悩み相談の師匠なんだよ」
「ええ、あの茂美さんが、お悩み相談の先生なんですか!?」
「茂美は悩み相談を女装バーって形でやっているけどね。僕は悩みを万引き受ける暇堂のこの仕事のやり方を、茂美に仕込まれた。だから、都子君のこともちゃんと育てろっていう師匠からのメッセージみたいなもんだね。やれやれ、茂美は自分の一番弟子を信用してないなぁ、ったく」
あのパワフルの塊のような茂美さんが、こんな飄々とした暇さんの師匠――。
とても意外な事実である。
わたしが言葉を失っていると、顔色を察したのか暇さんが続けた。
「茂美には茂美のやり方があるし、僕には僕のやり方がある。そして、それぞれに相手にとって相性のよい悩み相談の相手にもなりうる。時々、茂美に紹介されてここに来る人もいるんだよ。ま、適材適所ってやつだね。その代わり、朝飯はおごらせているけれど」
ふふっ、と可笑しそうに暇さんが笑った。
暇さんの言う通り、茂美さんと暇さんじゃ見た目から雰囲気までまったく違う。
それに、場所もお悩み相談所とバーである。それぞれ、人によって話しやすい場所、心の開きやすい場所があるのだろう。ふたりは全く真逆に見えて、だからこそ良いコンビなのかもしれない。
「なんだか、このビル全体が悩みを万引き受ける場所みたいですね」
「うぅん、それは言い得て妙かもしれないね。それぞれに助け合って成り立っている部分は、確かにあるよ。ただ、茂美の普段の仕事はバーのママだけれどね」
暇さんと茂美さん。
見た目もスタイルもまったく異なるふたり。
彼らによって、真の暇堂が完成しているのだろう。
私も早くそこに加われるように、頑張らなくちゃ!
意気込んだものの、その日の暇堂の営業は閑古鳥が鳴いたまま終わったのであった。
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