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7、お神輿担ぎと温泉と
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私が彩花荘にやってきて三週間が経った日のこと。
朝ごはんを終えた私は、八百屋さんに行ってキャベツとニンジンともやしを買い、キャベツの塩もみともやしのナムル風を作り終えて部屋にいた。
「そろそろもうすこしレシピを増やしたいなぁ……」
そう思って、簡単レシピがたくさん掲載されているインターネットサイトを見て回っていたが、やはりうちは調理器具不足だ。簡単料理も満足に作れない。
「いつまでここにいるのか決めてないけど……せめてフライパンくらい買おうかな?」
彩花荘の絶望的な台所用品事情に頭を抱えていると、勢いよく玄関が開く音がした。
続いて、ドタドタと廊下を走る音。「祭りだ祭りだ!」と秀男さんが威勢の良い声で叫んでいる。
(祭りって、裏御神楽町は毎日がお祭りじゃないの?)
首をかしげていると、秀男さんが私と蓮人くんの部屋の前で大声を張り上げた。
「蓮人! 響子! 今日は一年に一度の神輿担ぎの日だぞ!」
なるほど、お神輿かぁ。それはたしかに秀男さんがはしゃぎそうなイベントだ。
「誰でも担ぎ手として参加出来る! オレたちも担ぐぞ、準備しろーぃ!」
「えっ、私も担ぐの?」
「オレはやりたくないよ、だりぃ!」
部屋の両側から抗議の声があがっても、秀男さんは一向に気にしない。
「この祭りの町でも神輿担ぎは一年にたったの一度だぞ!? それをみすみす見逃せるかってんだ! そのうえ神輿担ぎが終わったら担ぎ手には昼飯のサービスもある! 楽しいうえに腹も膨れる一石二鳥のイベントだぞ、ほら出てこいお前ら!」
担ぎ手にはお昼も出るのかぁ、気前良いなぁ。
今ひとつ踏ん切りがつかないけれど、秀男さんのテンションは収まりそうにない。
それに一年に一度のイベントなら、参加するのも悪くはないか。ちょうど今日はアルバイトもお休みなことだし……。
「はぁい! 支度するからちょっと待ってて!」
「ネトゲの討伐イベントあるんだけどなぁ……。響子も行くのかよ」
「響子! 聞き分けが良くて大変よろしい! 蓮人、ネトゲのイベントなんてどうせ何度もあるんだろ! 一年に一度の神輿担ぎのほうが重要だ!」
「まぁ、そうなんだけどさ……はぁ」
部屋越しに蓮人くんの大きなため息を聞きながら、私は手早く着替えを済ませて日焼け止めを全身に塗った。特に顔には念入りに。それにしても、神輿担ぎってどれくらいの時間担いでいるんだろ?
お神輿が通過していくのを見物したことは何回もあるけれど、担ぎ手として参加するなんて初めてなので見当もつかない。
私が部屋を出ると、ちょうど蓮人くんも嫌そうな顔で部屋を出てくるところだった。
「秀男さん、お神輿ってどこからどこまでやるの?」
「おう、中央公園の西口から始まって、町内をグルっと一周するんだ。楽しいぞー!」
「町内一周……。楽しいっていうか、結構ハードそうなんだけど……」
「若いやつが何言ってんだ! せっかくの催し物を楽しまなくっちゃ損だ、損!」
私と蓮人くんは秀男さんに引っ張られるようにして家を出て、中央公園の西口に向かった。そこには木造りの立派なお神輿があった。よく目にするタイプのお神輿だ。
神社を模したような造形に、金色の飾りが門のところや屋根にあしらってある。
結構な大きさで、見るからに重そうだ。
周囲にはすでにたくさんのひとたちが集まっていた。町内会長さんの姿もある。
「おー、秀男さん! それに響子ちゃんと蓮人くんも。お揃いで」
「いやいや、こんな一大イベント参加するに決まってるでしょ! 今日は頑張りますよ!」
町内会長さんの言葉に、秀男さんが元気よく返事をする。
時刻が十一時になるころ、集まったひとたちがお神輿のそばに並んだ。
そして町内会長さんの開始の合図とともに、声を合わせて一斉にお神輿を持ち上げた。
「お、おもっ……重いっ!」
お神輿を担ぐ棒を右肩に当てた私は、その重さに思わず情けない声を漏らす。
持ち上げられたお神輿は、先導役のひとの後ろにピッタリとくっつくように動き出す。
「それ、わっしょい! わっしょい!」
私の前に立つ秀男さんが先導役のひとに負けない大きな声でおおはしゃぎしながら担いでいる。すごいパワーで、秀男さんが持ち上げる一瞬だけ肩が軽くなるほどだ。
「響子、蓮人! 声出せ、声! ほらわっしょい! わっしょい!」
「秀男さん、そんなに張り切ったら明日筋肉痛になりますよ!」
「なったらなったで構わねぇ! 筋肉痛も良い思い出じゃねーか!」
暑い! 重い! むさ苦しい!
でも、この雰囲気も筋肉痛も、秀男さんの言うように思い出に変わるなら――。
ジリジリと陽が照りつけるなかで、私もヤケになって声をあげた。
「もうヤケだー! わっしょい! わっしょい!」
「いいぞ響子、わっしょい! わっしょい!」
「これじゃ毎日の食卓といっしょじゃねーか……」
汗を流しながらもクールな蓮人くんがため息をついた。
私の額にも、汗が伝う。お神輿が、増宮米店の前を通過しようとしていた。
店頭から外に出ていた都子さんが、私たちに声をかける。
「いよっ! 彩花荘! 秀男さん相変わらず元気ええなぁ」
「もちろんさぁ! わっしょい! わっしょい!」
「響子ちゃんも頑張ってるね! 応援してるで!」
「都子さん、ありがとうございます! わっしょい! わっしょい!」
「蓮人くんは声出さな! 色男だからって気取っちゃアカンで!」
「そういうワケじゃないですよ。はぁ、わっしょい、わっしょい」
蓮人くんが投げやりな掛け声ともつかぬ合いの手を入れる。
都子さんに見送られたお神輿が、さらに町内を進んでいく。
「詩人さん! 秀男さんと響子さんも、がんばってね!」
壁が白く塗られた清潔感を感じる一軒家を通ったとき、窓から灯里さんが身を乗り出して手を振ってくれた。灯里さんの家はここにあったのか、覚えておこう。
「やれやれ、変なとこ見られちまった。はいはい、がんばりますよ……」
「おう灯里ちゃん! 俺は絶好調だぜー! わっしょい! わっしょい!」
「灯里さん! 頑張ってまーす! わっしょい! わっしょい!」
中央公園の西口から出発して、町内を半分回って東口についたとき、お神輿の一行が一度止まった。ここでいったん休憩らしい。
折り畳み式のテーブルがふたつ並べてあり、紙コップが並んでいた。
中には氷の浮かんだ麦茶。今の私には嬉しすぎる差し入れだ。
「ぷっはぁ! 美味しいですね!」
「やっぱ夏は麦茶だな! 喉も身体も潤うぜ!」
「ふぅ……まだ半分か……先は長いな」
テーブルの一角には飴が盛られていた。塩飴だという。
「皆、飴もしっかり舐めてね。塩分も補給しないと熱中症になっちゃうからね」
町内会長さんのアドバイスで、各々が飴を口にしていく。
十五分ほど休んだところで、再び先導役のひとが前に立った。
皆で声を合わせてお神輿を持ち上げて、残りの行程へと進んでいく。
私はすでに全身汗まみれだ。だけど、こんなに汗をかいて何かをしたのっていつぶりだろう。小さな子供のときに夢中で走り回ったときのような感覚。
大人になってから、こんな感覚を味わうなんて不思議だ。だけどそれは決して不快な感じではなくて、大変だけど心地よいような……皆でひとつのことをこなす一体感が嬉しかった。
(秀男さんの言う通り……これで筋肉痛になっても、それさえ良い思い出になるのかも)
そんなことを思いながら、残りの道のりを声を上げながらお神輿を担いで進む。
秀男さんはノリノリに、蓮人くんもいつの間にか小さな声だけど声を出すようになって、皆で町内を回っていく。
そしてたどり着いたゴールのすぐそばには、とんかつ屋さんがあった。
その軒先に、たくさんのとんかつ弁当が並んでいる。
ピーッと先導役のひとが笛を吹き、お神輿を止めた。ここでお神輿はおしまいらしい。
「がっはっは! あー楽しかった! 担ぎたりねぇくらいだぜ!」
「やってみるとなんだか楽しいものですね、秀男さん。蓮人くんもお疲れ様」
「ホントに疲れた……。ネトゲのイベントで徹夜したときより体力使ったわ……」
私たちがお神輿を置いて肩を回したりほぐしたりしていると、町内会長さんが皆の前に立って言った。
「皆さんお疲れ様! かつ元さんの揚げたてとんかつ弁当があるから、神輿担ぎで疲れた身体に美味しいご飯をどうぞ!」
皆が一斉にかつ元さんと呼ばれたとんかつ屋さんの軒先に集まる。
「よっしゃ、神輿担ぎのあとに揚げたて弁当とは最高だな!」
「とんかつだぁ、うちじゃお肉なんか食べれないから、嬉しいですね!」
「まぁ、なんてったって最下層だからな、肉は食えん。……しかしハードなイベントをこなした報酬にしては割に合わないような……」
蓮人くんの思考はどこまでもネットゲーム基準、いかにも彼らしかった。
だけど、私たちのために敷かれたブルーシートのうえで食べるとんかつ弁当は最高に美味しかった。
「ホントに揚げたて! あったかい、ううん熱いくらい。そのうえサクサク! さいこー!」
「こりゃあうめぇ! おかわりしたいくらいだ! 何個でも食えるぜ!」
「確かにうまいけど……オレは早くも身体が痛いぜ」
そう言って肩と足をさする蓮人くん。秀男さんは「誰よりも頑張っていたから」と町内会長さんの許可を得て二個目のお弁当をもらい、大喜びで食べている。
とんかつの下には千切りキャベツ。つけものにソースにからし。ごはんには黒ゴマと梅干し。シンプルなお弁当が最高のごちそうだ。記念に写真を撮ればよかった! と私が後悔したときには、私自身すでにお弁当の三分の二を平らげてしまっていた。
「いっけない! 私としたことが、ついついがっついちゃった……」
気持ちを切り替え、お神輿の写真をパシャリ。お弁当に食らいつくように食べてる秀男さんもパシャリ。嫌がる蓮人くんも撮影して、またひとつ夏の思い出が出来た。
(それにしても、身体を動かした後に青空を眺めながら美味しいものを食べるって最高!)
ずうっとお神輿の棒を担いでいた右肩が痛む。だけど、今はそれすら愛おしい。
お弁当を食べ終え食休みをして、お神輿を皆で中央公園の倉庫にしまって解散。
私たちは彩花荘に帰ると、それぞれの部屋に帰った。
私は心地よい疲れとともに昼寝。目が覚めたときにはすでに夕方だった。
「汗もかいたし、シャワー浴びよっかな」
私がタオルを持って部屋を出ると、ちょうどトイレにでも行っていたのか廊下で秀男さんと顔を合わせる。
「なんだ響子、シャワーか?」
「はい。汗もいっぱいかいちゃったし、夕飯前に浴びておこうかなって」
「オレは夜に温泉に行く予定だぞ。響子もそうしろ! 疲労回復にはシャワーなんかより温泉だ温泉!」
秀男さんがニッと笑って言った。
「温泉!? この町、温泉があったんですか!?」
「なんだ、もう結構長くここに住んでるのに、お前知らなかったのか?」
「知りませんでした……。でも、私も今日は温泉行きたいです! 癒されたい!」
むうう、蓮人くんのくれた地図には温泉なんて描かれてなかったぞ。
必要最低限のお店の位置くらいしか……いや、いかにも蓮人くんらしいと言えばそうだけど。そういえば、地図に描かれていた運動公園と海にも行っていないなぁ。ふとそんなことを思ったりもした。
私は秀男さんと夕飯のあとに温泉に行く約束をして、部屋に戻った。
夕飯まで、スマートフォンをいじったり小説を読んだりして時間を潰す。
「秀男さん、響子、めしだぞー!」
今日のご飯当番の蓮人くんの声がして、私は読んでいた本から顔をあげた。
最近気づいたことだけど、蓮人くんがご飯当番のときのお米はちょうどよい歯ごたえで美味しい。一方秀男さんが当番のときは、お米が固かったり逆に水っぽかったりする。
こんなところにも性格が出るんだなぁ、と思いながら日々私はご飯を食べていた。
「蓮人、夕飯食い終わったらオレと響子は温泉行くからな、お前も来い!」
「ネトゲが……と言いたいとこだけど、まぁ今日は疲れたしね。温泉も悪くないか」
「蓮人くん、地図に温泉描いておいてくれたらよかったのにー。私温泉の存在、今日初めて知ったんだからね!」
蓮人くんは浅漬けに箸を伸ばしつつ「悪い悪い」と大して気にしてない風に言った。
「んもう、私、温泉大好きなのにー」
だけど、今日は楽しみだな。どんな温泉かな。お神輿を担いだあとに浸かる温泉は、さぞかし気持ちよいだろうなぁ。
お馴染みの夕食を終えて蓮人くんが片付けを済ませると、三人でタオルを持って温泉に行く準備をした。
「おっしゃあ! 行くかぁ!」
「楽しみ楽しみ! ここから温泉は近いの蓮人くん?」
「近くもないが遠くもない、そんな感じだな」
わかるようなわからないような説明を受け、秀男さんたちについていく形で温泉に向かう。普段使わない、増宮米店とは逆の方向の道でなんだか目新しい。
中央公園で毎日お祭りが開催されてるから、ついついそこばっかり見ちゃってて、私はここに来て三週間になるのに決まったルート以外の道は知らなかった。真夏の暑い中散策する気にならなかったっていうのも、正直なところ。
「見えてきたぞ、アレだ」
蓮人くんが指さす先には大きな看板が輝いている。
『御神楽の湯』神様が楽しむ湯なんていい感じの名前。地名をとっただけかもだけど……。
受け付けで会計を済ませると、ロッカーキーを受け取って秀男さんと蓮人くんは男湯へ。私は女湯へと別れて行った。
「あ、ちゃんとコーヒー牛乳がある。温泉のあとの楽しみにしとこうっと!」
温泉にコーヒー牛乳とフルーツ牛乳は正義!
温泉で汗を流した後に飲む牛乳は格別だ。楽しみも出来たところで、女湯の暖簾をくぐる。脱衣所で服を脱いで、ヘアゴムで髪を結んでお風呂場へ。
スーパー銭湯ほどの大きさはないけれど、室内のお風呂に薬湯に露天風呂に、と一通りそろっているのが嬉しい。全部堪能しちゃおっと。
まずは身体を洗って、昼間の汗を流す。お風呂場の鏡で改めて自分の顔をよく見ると、お父さんにつけられた爪痕ももうすっかり消えている。よおく見て、ちょっとわかるかどうかってくらいだ。痕にならなくて良かった。
「さぁ、身体も洗ったし温泉温泉!」
まずは室内の温泉を堪能し、薬湯で身体の芯まで暖まる。いったんあがって温度を低めに設定したシャワーを浴びて身体を冷ます。火照った身体にぬるいシャワーが気持ちよい。
「それじゃあお待ちかね、露天風呂に行こうかな!」
なんて言ったって、温泉はやっぱり露天風呂だ。夜空を見上げながら浸かる温泉の心地よさったらない。はぁー、っと大きく息を吐いて露天風呂を味わっていると、私の視界に見慣れた顔が映り込んだ。
「あらぁ、響子ちゃんやない。温泉に来るなんてめずらしいのねぇ」
「都子さん、こんばんは! 私、この町の温泉の存在を今日初めて知って、それで彩花荘の皆、で……」
裸の都子さんを見て、思わず言葉に詰まってしまった。
都子さん、スタイル抜群だしお胸も大きい……着痩せするタイプだったんだ……!
「あら、そうなの。アタシはここの温泉良く来るんよ。今日は彩花荘の皆で来たん?」
「はい! お神輿担ぎの疲れを癒そうって、秀男さんの提案で」
「そらいいわぁ、今日は響子ちゃんも頑張ってたもんなぁ、どれ、肩でも揉もうか?」
「そんな! 悪いですよ、せっかく都子さんだって疲れを取りに温泉に来ているのに……」
遠慮する私を気にすることなく、都子さんが私の後ろに回り込んで肩に手を伸ばしてきた。そのまま、神輿担ぎで固まった肩をゆっくりと揉み解してくれる。
普段から重いお米を扱っているだけあって都子さんの腕力は強く、私の肩に心地よく食い込んでくる。温泉にマッサージなんて、最高のリラクゼーション!
「はあぁ、気持ちいいです。都子さん、ありがとうございますぅ」
「ええでええで、今日お神輿で町を盛り上げてくれたんやし、ささやかなお礼や」
しばし温泉とマッサージを味わっていると、男湯のほうから秀男さんの大声が響いた。
「響子ー! オレたちはもうあがるぞー! お前もあがってこいよー」
「いけない、秀男さんたちもう出ちゃうんだ!」
「男はこういうときせっかちでアカンね。ここは都子さんに任せとき」
都子さんはそういうと、男湯のほうに身を乗り出して声を張った。
「秀男さーん、蓮人くーん! 響子ちゃんはアタシと温泉つかってるから先にあがっときー! 響子ちゃんはアタシが責任もって送るからだいじょうぶよー!」
「み、都子さん!? じゃあ、お任せしちゃって! おい、いくぞ蓮人!」
「なに慌ててんだよ秀男さん、言われなくても行くって」
秀男さんが焦ったように言う。その様子がおかしくて、ふたりで顔を見合わせて笑った。
「都子さん、マッサージありがとうございました! もうだいじょうぶですから! 都子さんが疲れちゃう!」
「そうかい? ほならちょっと風に当たって話そうか」
都子さんに誘われて、私たちは露天風呂のお湯に足先だけつけて、石作りの縁に腰掛けた。夏の夜風が火照った身体を適度に冷まして気持ちよい。
「どや、響子ちゃん。この町での生活にも慣れてきた?」
「はい。秀男さんも蓮人くんも良くしてくれますし、都子さんにもお世話になりっぱなしで……灯里さんも仲良くしてくれて、徐々に馴染めて来ています」
「それなら良かったわぁ。最下層ーなんて言われるけど、あのふたりも気の良い子たちやもんね。って秀男さんに子なんて言うたら失礼かな、ふふっ」
会話も途切れて、ふたりで静かに夜風にあたる。
私は失礼かな、とも思ったけど都子さんにこの町に来た理由を聞いてみることにした。
誰がどんな理由でここに来たのか。今揺れている私の気持ちはそれを知りたかったのだ。
「あの、都子さん。答えたくなかったらぜんぜん無視していただいて結構なんですけど……どうして都子さんはこの裏御神楽町にやってこられたんですか?」
「アタシがここに来た理由? あんまり面白味もない話だけど、ええか?」
「はい。自分でも最近ここに来たことに迷いがあって……ぜひ聞いてみたいです」
私がそう言うと、都子さんはほほの汗を軽く拭って言った。
「アタシがここに来た理由はねぇ、婚約者のDVなんよ」
「婚約者さんの暴力で……」
「最初は優しいひとだったんだけど、結婚を決めていっしょに暮らすようになってからだんだん変わっていってなぁ。ときどき暴力を振るわれるようになったんさ。それであるとき、こっぴどく殴られたときにヤケになって車で家を飛び出したんや」
夜空を見上げるようにして、真面目な顔で都子さんが続けた。
「それでな、もうなんもかんもイヤになって車を走らせていたらトンネルに差し掛かってな。そこを抜けても知っている道に出るはずだったのに、やってきたのはこの裏御神楽町。アタシ、あとでここが絶望を感じたひとが集まる町って知ってなぁ。自分はそんなに追い詰められていたんかなって」
でもねぇ、っと都子さんは笑った。心の色は、ちょっとだけ陰っていた。
「ここの暮らしはとっても気に入っているし、今では来て良かったって思ってるんよ。婚約者っていっても結納済ませたワケじゃないし、放置や放置! 着信やメッセージアプリもブロックしたった!」
ふふっ、ともう一度笑って都子さんが言った。
「響子ちゃんもここに来たっていうことは何かとってもつらいことがあったんやろ。その参考になるような話じゃない、ありふれたことで申し訳ないけど、こんな感じ」
「いやいやそんなことないです! すごく参考になりました。私も暴力が関係してここにやってきた人間なので……」
私は都子さんにここに来た理由であるお父さんのことを話した。心の色が見えることは伏したまま――。
「そうかぁ、お父さんがお酒浸りになったうえに暴力をなぁ。そりゃあ大変だね」
「都子さんだって、きっと私よりひどい暴力だっただろうし、辛かったんだなって……」
「でも、恋人の縁なんてサクッと切ってしまえるやろ。親子は縁はそうはいかんからなぁ。響子ちゃんの苦労は並大抵のもんじゃあないんやろうね」
そう言って、都子さんが私の髪を撫でた。
――親子の縁は簡単に切ることは出来ない、か。本当に、その通りかもしれない。
下を向いて黙ってしまった私に、都子さんが明るい声で話しかけてきた。
「よし! 湿っぽい話はいったんここで終わり! また何か悩むことがあったらこの都子さんがいつでも相談に乗るけぇな! すっかり湯冷めしてもうた。もう一度暖まって、帰るとしようか。彩花荘のふたりも響子ちゃんの帰りがあんまり遅かったら心配するやろ」
「はい、そうですね!」
都子さんの優しい表情に私も笑顔で返しながら、もう一度露天風呂で暖まりなおす。
そうして温泉を出て、髪を乾かしてお待ちかねのコーヒー牛乳を飲んで外に出た。
だいじょうぶですよ、と言ったけど、都子さんは私を彩花荘の前まで送ってくれた。
「都子さん、わざわざ家の前までありがとうございました」
「秀男さんたちに責任持って送るって言ったからな。ちゃんと約束は果たさんと」
そういうと、都子さんが私を軽くきゅっと抱きしめた。温泉の香りが私の鼻孔をくすぐった。都子さんのやわらかな感触が私を包み込む。
「自分ひとりで抱え込んじゃアカンよ。響子ちゃんには彩花荘のふたりもいるし、もちろんこの都子さんだっておるんやから。いつでも頼ってな」
「はい、ありがとうございます。とっても心強いです」
彩花荘の前で解散すると、私は家の中に戻った。秀男さんが台所のテーブルでうちわを仰いで涼んでいた。
「おう響子! ずいぶんゆっくりしてたんだな、のぼせないように気を付けろよ!」
「はい。ゆっくり温泉に浸かって、今日の疲れも吹っ飛びました。秀男さんも涼しくしてくださいね」
きっと、エアコンのないこの台所で私の帰りを待っていてくれたのだろう。
ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが混じりつつ、私は精一杯笑って部屋に戻った。
部屋に戻ると、今日の思い出が一気に去来した。お神輿を担いで、美味しいお弁当を食べて、温泉に浸かって都子さんの話を聞いて――。
親子の縁はそうはいかんからなぁ。その言葉が引っ掛かった。
いつかは向かい合わなくてはいけないと思いつつも避け続けていたもの。
だけど――。
「いつまでもこのままには出来ないよね」
どうしようという思い。お父さんもつらかったんだなと今では思えるようにもなってきている。それとは別に、今はこの裏御神楽町とお祭りの日々を楽しもうという気持ちが混ざって複雑な思いになる。そんなとき、私の足が微かに痛んだ。肩も重い。
――筋肉痛も良い思い出になる、か。
私はお神輿を担いでいた自分を思い出して、お神輿の写真を見て、気分を切り替える。
心地よい温泉の暖かさとお神輿担ぎの疲労感に包まれたまま、私はゆっくりとまどろんでいった。
朝ごはんを終えた私は、八百屋さんに行ってキャベツとニンジンともやしを買い、キャベツの塩もみともやしのナムル風を作り終えて部屋にいた。
「そろそろもうすこしレシピを増やしたいなぁ……」
そう思って、簡単レシピがたくさん掲載されているインターネットサイトを見て回っていたが、やはりうちは調理器具不足だ。簡単料理も満足に作れない。
「いつまでここにいるのか決めてないけど……せめてフライパンくらい買おうかな?」
彩花荘の絶望的な台所用品事情に頭を抱えていると、勢いよく玄関が開く音がした。
続いて、ドタドタと廊下を走る音。「祭りだ祭りだ!」と秀男さんが威勢の良い声で叫んでいる。
(祭りって、裏御神楽町は毎日がお祭りじゃないの?)
首をかしげていると、秀男さんが私と蓮人くんの部屋の前で大声を張り上げた。
「蓮人! 響子! 今日は一年に一度の神輿担ぎの日だぞ!」
なるほど、お神輿かぁ。それはたしかに秀男さんがはしゃぎそうなイベントだ。
「誰でも担ぎ手として参加出来る! オレたちも担ぐぞ、準備しろーぃ!」
「えっ、私も担ぐの?」
「オレはやりたくないよ、だりぃ!」
部屋の両側から抗議の声があがっても、秀男さんは一向に気にしない。
「この祭りの町でも神輿担ぎは一年にたったの一度だぞ!? それをみすみす見逃せるかってんだ! そのうえ神輿担ぎが終わったら担ぎ手には昼飯のサービスもある! 楽しいうえに腹も膨れる一石二鳥のイベントだぞ、ほら出てこいお前ら!」
担ぎ手にはお昼も出るのかぁ、気前良いなぁ。
今ひとつ踏ん切りがつかないけれど、秀男さんのテンションは収まりそうにない。
それに一年に一度のイベントなら、参加するのも悪くはないか。ちょうど今日はアルバイトもお休みなことだし……。
「はぁい! 支度するからちょっと待ってて!」
「ネトゲの討伐イベントあるんだけどなぁ……。響子も行くのかよ」
「響子! 聞き分けが良くて大変よろしい! 蓮人、ネトゲのイベントなんてどうせ何度もあるんだろ! 一年に一度の神輿担ぎのほうが重要だ!」
「まぁ、そうなんだけどさ……はぁ」
部屋越しに蓮人くんの大きなため息を聞きながら、私は手早く着替えを済ませて日焼け止めを全身に塗った。特に顔には念入りに。それにしても、神輿担ぎってどれくらいの時間担いでいるんだろ?
お神輿が通過していくのを見物したことは何回もあるけれど、担ぎ手として参加するなんて初めてなので見当もつかない。
私が部屋を出ると、ちょうど蓮人くんも嫌そうな顔で部屋を出てくるところだった。
「秀男さん、お神輿ってどこからどこまでやるの?」
「おう、中央公園の西口から始まって、町内をグルっと一周するんだ。楽しいぞー!」
「町内一周……。楽しいっていうか、結構ハードそうなんだけど……」
「若いやつが何言ってんだ! せっかくの催し物を楽しまなくっちゃ損だ、損!」
私と蓮人くんは秀男さんに引っ張られるようにして家を出て、中央公園の西口に向かった。そこには木造りの立派なお神輿があった。よく目にするタイプのお神輿だ。
神社を模したような造形に、金色の飾りが門のところや屋根にあしらってある。
結構な大きさで、見るからに重そうだ。
周囲にはすでにたくさんのひとたちが集まっていた。町内会長さんの姿もある。
「おー、秀男さん! それに響子ちゃんと蓮人くんも。お揃いで」
「いやいや、こんな一大イベント参加するに決まってるでしょ! 今日は頑張りますよ!」
町内会長さんの言葉に、秀男さんが元気よく返事をする。
時刻が十一時になるころ、集まったひとたちがお神輿のそばに並んだ。
そして町内会長さんの開始の合図とともに、声を合わせて一斉にお神輿を持ち上げた。
「お、おもっ……重いっ!」
お神輿を担ぐ棒を右肩に当てた私は、その重さに思わず情けない声を漏らす。
持ち上げられたお神輿は、先導役のひとの後ろにピッタリとくっつくように動き出す。
「それ、わっしょい! わっしょい!」
私の前に立つ秀男さんが先導役のひとに負けない大きな声でおおはしゃぎしながら担いでいる。すごいパワーで、秀男さんが持ち上げる一瞬だけ肩が軽くなるほどだ。
「響子、蓮人! 声出せ、声! ほらわっしょい! わっしょい!」
「秀男さん、そんなに張り切ったら明日筋肉痛になりますよ!」
「なったらなったで構わねぇ! 筋肉痛も良い思い出じゃねーか!」
暑い! 重い! むさ苦しい!
でも、この雰囲気も筋肉痛も、秀男さんの言うように思い出に変わるなら――。
ジリジリと陽が照りつけるなかで、私もヤケになって声をあげた。
「もうヤケだー! わっしょい! わっしょい!」
「いいぞ響子、わっしょい! わっしょい!」
「これじゃ毎日の食卓といっしょじゃねーか……」
汗を流しながらもクールな蓮人くんがため息をついた。
私の額にも、汗が伝う。お神輿が、増宮米店の前を通過しようとしていた。
店頭から外に出ていた都子さんが、私たちに声をかける。
「いよっ! 彩花荘! 秀男さん相変わらず元気ええなぁ」
「もちろんさぁ! わっしょい! わっしょい!」
「響子ちゃんも頑張ってるね! 応援してるで!」
「都子さん、ありがとうございます! わっしょい! わっしょい!」
「蓮人くんは声出さな! 色男だからって気取っちゃアカンで!」
「そういうワケじゃないですよ。はぁ、わっしょい、わっしょい」
蓮人くんが投げやりな掛け声ともつかぬ合いの手を入れる。
都子さんに見送られたお神輿が、さらに町内を進んでいく。
「詩人さん! 秀男さんと響子さんも、がんばってね!」
壁が白く塗られた清潔感を感じる一軒家を通ったとき、窓から灯里さんが身を乗り出して手を振ってくれた。灯里さんの家はここにあったのか、覚えておこう。
「やれやれ、変なとこ見られちまった。はいはい、がんばりますよ……」
「おう灯里ちゃん! 俺は絶好調だぜー! わっしょい! わっしょい!」
「灯里さん! 頑張ってまーす! わっしょい! わっしょい!」
中央公園の西口から出発して、町内を半分回って東口についたとき、お神輿の一行が一度止まった。ここでいったん休憩らしい。
折り畳み式のテーブルがふたつ並べてあり、紙コップが並んでいた。
中には氷の浮かんだ麦茶。今の私には嬉しすぎる差し入れだ。
「ぷっはぁ! 美味しいですね!」
「やっぱ夏は麦茶だな! 喉も身体も潤うぜ!」
「ふぅ……まだ半分か……先は長いな」
テーブルの一角には飴が盛られていた。塩飴だという。
「皆、飴もしっかり舐めてね。塩分も補給しないと熱中症になっちゃうからね」
町内会長さんのアドバイスで、各々が飴を口にしていく。
十五分ほど休んだところで、再び先導役のひとが前に立った。
皆で声を合わせてお神輿を持ち上げて、残りの行程へと進んでいく。
私はすでに全身汗まみれだ。だけど、こんなに汗をかいて何かをしたのっていつぶりだろう。小さな子供のときに夢中で走り回ったときのような感覚。
大人になってから、こんな感覚を味わうなんて不思議だ。だけどそれは決して不快な感じではなくて、大変だけど心地よいような……皆でひとつのことをこなす一体感が嬉しかった。
(秀男さんの言う通り……これで筋肉痛になっても、それさえ良い思い出になるのかも)
そんなことを思いながら、残りの道のりを声を上げながらお神輿を担いで進む。
秀男さんはノリノリに、蓮人くんもいつの間にか小さな声だけど声を出すようになって、皆で町内を回っていく。
そしてたどり着いたゴールのすぐそばには、とんかつ屋さんがあった。
その軒先に、たくさんのとんかつ弁当が並んでいる。
ピーッと先導役のひとが笛を吹き、お神輿を止めた。ここでお神輿はおしまいらしい。
「がっはっは! あー楽しかった! 担ぎたりねぇくらいだぜ!」
「やってみるとなんだか楽しいものですね、秀男さん。蓮人くんもお疲れ様」
「ホントに疲れた……。ネトゲのイベントで徹夜したときより体力使ったわ……」
私たちがお神輿を置いて肩を回したりほぐしたりしていると、町内会長さんが皆の前に立って言った。
「皆さんお疲れ様! かつ元さんの揚げたてとんかつ弁当があるから、神輿担ぎで疲れた身体に美味しいご飯をどうぞ!」
皆が一斉にかつ元さんと呼ばれたとんかつ屋さんの軒先に集まる。
「よっしゃ、神輿担ぎのあとに揚げたて弁当とは最高だな!」
「とんかつだぁ、うちじゃお肉なんか食べれないから、嬉しいですね!」
「まぁ、なんてったって最下層だからな、肉は食えん。……しかしハードなイベントをこなした報酬にしては割に合わないような……」
蓮人くんの思考はどこまでもネットゲーム基準、いかにも彼らしかった。
だけど、私たちのために敷かれたブルーシートのうえで食べるとんかつ弁当は最高に美味しかった。
「ホントに揚げたて! あったかい、ううん熱いくらい。そのうえサクサク! さいこー!」
「こりゃあうめぇ! おかわりしたいくらいだ! 何個でも食えるぜ!」
「確かにうまいけど……オレは早くも身体が痛いぜ」
そう言って肩と足をさする蓮人くん。秀男さんは「誰よりも頑張っていたから」と町内会長さんの許可を得て二個目のお弁当をもらい、大喜びで食べている。
とんかつの下には千切りキャベツ。つけものにソースにからし。ごはんには黒ゴマと梅干し。シンプルなお弁当が最高のごちそうだ。記念に写真を撮ればよかった! と私が後悔したときには、私自身すでにお弁当の三分の二を平らげてしまっていた。
「いっけない! 私としたことが、ついついがっついちゃった……」
気持ちを切り替え、お神輿の写真をパシャリ。お弁当に食らいつくように食べてる秀男さんもパシャリ。嫌がる蓮人くんも撮影して、またひとつ夏の思い出が出来た。
(それにしても、身体を動かした後に青空を眺めながら美味しいものを食べるって最高!)
ずうっとお神輿の棒を担いでいた右肩が痛む。だけど、今はそれすら愛おしい。
お弁当を食べ終え食休みをして、お神輿を皆で中央公園の倉庫にしまって解散。
私たちは彩花荘に帰ると、それぞれの部屋に帰った。
私は心地よい疲れとともに昼寝。目が覚めたときにはすでに夕方だった。
「汗もかいたし、シャワー浴びよっかな」
私がタオルを持って部屋を出ると、ちょうどトイレにでも行っていたのか廊下で秀男さんと顔を合わせる。
「なんだ響子、シャワーか?」
「はい。汗もいっぱいかいちゃったし、夕飯前に浴びておこうかなって」
「オレは夜に温泉に行く予定だぞ。響子もそうしろ! 疲労回復にはシャワーなんかより温泉だ温泉!」
秀男さんがニッと笑って言った。
「温泉!? この町、温泉があったんですか!?」
「なんだ、もう結構長くここに住んでるのに、お前知らなかったのか?」
「知りませんでした……。でも、私も今日は温泉行きたいです! 癒されたい!」
むうう、蓮人くんのくれた地図には温泉なんて描かれてなかったぞ。
必要最低限のお店の位置くらいしか……いや、いかにも蓮人くんらしいと言えばそうだけど。そういえば、地図に描かれていた運動公園と海にも行っていないなぁ。ふとそんなことを思ったりもした。
私は秀男さんと夕飯のあとに温泉に行く約束をして、部屋に戻った。
夕飯まで、スマートフォンをいじったり小説を読んだりして時間を潰す。
「秀男さん、響子、めしだぞー!」
今日のご飯当番の蓮人くんの声がして、私は読んでいた本から顔をあげた。
最近気づいたことだけど、蓮人くんがご飯当番のときのお米はちょうどよい歯ごたえで美味しい。一方秀男さんが当番のときは、お米が固かったり逆に水っぽかったりする。
こんなところにも性格が出るんだなぁ、と思いながら日々私はご飯を食べていた。
「蓮人、夕飯食い終わったらオレと響子は温泉行くからな、お前も来い!」
「ネトゲが……と言いたいとこだけど、まぁ今日は疲れたしね。温泉も悪くないか」
「蓮人くん、地図に温泉描いておいてくれたらよかったのにー。私温泉の存在、今日初めて知ったんだからね!」
蓮人くんは浅漬けに箸を伸ばしつつ「悪い悪い」と大して気にしてない風に言った。
「んもう、私、温泉大好きなのにー」
だけど、今日は楽しみだな。どんな温泉かな。お神輿を担いだあとに浸かる温泉は、さぞかし気持ちよいだろうなぁ。
お馴染みの夕食を終えて蓮人くんが片付けを済ませると、三人でタオルを持って温泉に行く準備をした。
「おっしゃあ! 行くかぁ!」
「楽しみ楽しみ! ここから温泉は近いの蓮人くん?」
「近くもないが遠くもない、そんな感じだな」
わかるようなわからないような説明を受け、秀男さんたちについていく形で温泉に向かう。普段使わない、増宮米店とは逆の方向の道でなんだか目新しい。
中央公園で毎日お祭りが開催されてるから、ついついそこばっかり見ちゃってて、私はここに来て三週間になるのに決まったルート以外の道は知らなかった。真夏の暑い中散策する気にならなかったっていうのも、正直なところ。
「見えてきたぞ、アレだ」
蓮人くんが指さす先には大きな看板が輝いている。
『御神楽の湯』神様が楽しむ湯なんていい感じの名前。地名をとっただけかもだけど……。
受け付けで会計を済ませると、ロッカーキーを受け取って秀男さんと蓮人くんは男湯へ。私は女湯へと別れて行った。
「あ、ちゃんとコーヒー牛乳がある。温泉のあとの楽しみにしとこうっと!」
温泉にコーヒー牛乳とフルーツ牛乳は正義!
温泉で汗を流した後に飲む牛乳は格別だ。楽しみも出来たところで、女湯の暖簾をくぐる。脱衣所で服を脱いで、ヘアゴムで髪を結んでお風呂場へ。
スーパー銭湯ほどの大きさはないけれど、室内のお風呂に薬湯に露天風呂に、と一通りそろっているのが嬉しい。全部堪能しちゃおっと。
まずは身体を洗って、昼間の汗を流す。お風呂場の鏡で改めて自分の顔をよく見ると、お父さんにつけられた爪痕ももうすっかり消えている。よおく見て、ちょっとわかるかどうかってくらいだ。痕にならなくて良かった。
「さぁ、身体も洗ったし温泉温泉!」
まずは室内の温泉を堪能し、薬湯で身体の芯まで暖まる。いったんあがって温度を低めに設定したシャワーを浴びて身体を冷ます。火照った身体にぬるいシャワーが気持ちよい。
「それじゃあお待ちかね、露天風呂に行こうかな!」
なんて言ったって、温泉はやっぱり露天風呂だ。夜空を見上げながら浸かる温泉の心地よさったらない。はぁー、っと大きく息を吐いて露天風呂を味わっていると、私の視界に見慣れた顔が映り込んだ。
「あらぁ、響子ちゃんやない。温泉に来るなんてめずらしいのねぇ」
「都子さん、こんばんは! 私、この町の温泉の存在を今日初めて知って、それで彩花荘の皆、で……」
裸の都子さんを見て、思わず言葉に詰まってしまった。
都子さん、スタイル抜群だしお胸も大きい……着痩せするタイプだったんだ……!
「あら、そうなの。アタシはここの温泉良く来るんよ。今日は彩花荘の皆で来たん?」
「はい! お神輿担ぎの疲れを癒そうって、秀男さんの提案で」
「そらいいわぁ、今日は響子ちゃんも頑張ってたもんなぁ、どれ、肩でも揉もうか?」
「そんな! 悪いですよ、せっかく都子さんだって疲れを取りに温泉に来ているのに……」
遠慮する私を気にすることなく、都子さんが私の後ろに回り込んで肩に手を伸ばしてきた。そのまま、神輿担ぎで固まった肩をゆっくりと揉み解してくれる。
普段から重いお米を扱っているだけあって都子さんの腕力は強く、私の肩に心地よく食い込んでくる。温泉にマッサージなんて、最高のリラクゼーション!
「はあぁ、気持ちいいです。都子さん、ありがとうございますぅ」
「ええでええで、今日お神輿で町を盛り上げてくれたんやし、ささやかなお礼や」
しばし温泉とマッサージを味わっていると、男湯のほうから秀男さんの大声が響いた。
「響子ー! オレたちはもうあがるぞー! お前もあがってこいよー」
「いけない、秀男さんたちもう出ちゃうんだ!」
「男はこういうときせっかちでアカンね。ここは都子さんに任せとき」
都子さんはそういうと、男湯のほうに身を乗り出して声を張った。
「秀男さーん、蓮人くーん! 響子ちゃんはアタシと温泉つかってるから先にあがっときー! 響子ちゃんはアタシが責任もって送るからだいじょうぶよー!」
「み、都子さん!? じゃあ、お任せしちゃって! おい、いくぞ蓮人!」
「なに慌ててんだよ秀男さん、言われなくても行くって」
秀男さんが焦ったように言う。その様子がおかしくて、ふたりで顔を見合わせて笑った。
「都子さん、マッサージありがとうございました! もうだいじょうぶですから! 都子さんが疲れちゃう!」
「そうかい? ほならちょっと風に当たって話そうか」
都子さんに誘われて、私たちは露天風呂のお湯に足先だけつけて、石作りの縁に腰掛けた。夏の夜風が火照った身体を適度に冷まして気持ちよい。
「どや、響子ちゃん。この町での生活にも慣れてきた?」
「はい。秀男さんも蓮人くんも良くしてくれますし、都子さんにもお世話になりっぱなしで……灯里さんも仲良くしてくれて、徐々に馴染めて来ています」
「それなら良かったわぁ。最下層ーなんて言われるけど、あのふたりも気の良い子たちやもんね。って秀男さんに子なんて言うたら失礼かな、ふふっ」
会話も途切れて、ふたりで静かに夜風にあたる。
私は失礼かな、とも思ったけど都子さんにこの町に来た理由を聞いてみることにした。
誰がどんな理由でここに来たのか。今揺れている私の気持ちはそれを知りたかったのだ。
「あの、都子さん。答えたくなかったらぜんぜん無視していただいて結構なんですけど……どうして都子さんはこの裏御神楽町にやってこられたんですか?」
「アタシがここに来た理由? あんまり面白味もない話だけど、ええか?」
「はい。自分でも最近ここに来たことに迷いがあって……ぜひ聞いてみたいです」
私がそう言うと、都子さんはほほの汗を軽く拭って言った。
「アタシがここに来た理由はねぇ、婚約者のDVなんよ」
「婚約者さんの暴力で……」
「最初は優しいひとだったんだけど、結婚を決めていっしょに暮らすようになってからだんだん変わっていってなぁ。ときどき暴力を振るわれるようになったんさ。それであるとき、こっぴどく殴られたときにヤケになって車で家を飛び出したんや」
夜空を見上げるようにして、真面目な顔で都子さんが続けた。
「それでな、もうなんもかんもイヤになって車を走らせていたらトンネルに差し掛かってな。そこを抜けても知っている道に出るはずだったのに、やってきたのはこの裏御神楽町。アタシ、あとでここが絶望を感じたひとが集まる町って知ってなぁ。自分はそんなに追い詰められていたんかなって」
でもねぇ、っと都子さんは笑った。心の色は、ちょっとだけ陰っていた。
「ここの暮らしはとっても気に入っているし、今では来て良かったって思ってるんよ。婚約者っていっても結納済ませたワケじゃないし、放置や放置! 着信やメッセージアプリもブロックしたった!」
ふふっ、ともう一度笑って都子さんが言った。
「響子ちゃんもここに来たっていうことは何かとってもつらいことがあったんやろ。その参考になるような話じゃない、ありふれたことで申し訳ないけど、こんな感じ」
「いやいやそんなことないです! すごく参考になりました。私も暴力が関係してここにやってきた人間なので……」
私は都子さんにここに来た理由であるお父さんのことを話した。心の色が見えることは伏したまま――。
「そうかぁ、お父さんがお酒浸りになったうえに暴力をなぁ。そりゃあ大変だね」
「都子さんだって、きっと私よりひどい暴力だっただろうし、辛かったんだなって……」
「でも、恋人の縁なんてサクッと切ってしまえるやろ。親子は縁はそうはいかんからなぁ。響子ちゃんの苦労は並大抵のもんじゃあないんやろうね」
そう言って、都子さんが私の髪を撫でた。
――親子の縁は簡単に切ることは出来ない、か。本当に、その通りかもしれない。
下を向いて黙ってしまった私に、都子さんが明るい声で話しかけてきた。
「よし! 湿っぽい話はいったんここで終わり! また何か悩むことがあったらこの都子さんがいつでも相談に乗るけぇな! すっかり湯冷めしてもうた。もう一度暖まって、帰るとしようか。彩花荘のふたりも響子ちゃんの帰りがあんまり遅かったら心配するやろ」
「はい、そうですね!」
都子さんの優しい表情に私も笑顔で返しながら、もう一度露天風呂で暖まりなおす。
そうして温泉を出て、髪を乾かしてお待ちかねのコーヒー牛乳を飲んで外に出た。
だいじょうぶですよ、と言ったけど、都子さんは私を彩花荘の前まで送ってくれた。
「都子さん、わざわざ家の前までありがとうございました」
「秀男さんたちに責任持って送るって言ったからな。ちゃんと約束は果たさんと」
そういうと、都子さんが私を軽くきゅっと抱きしめた。温泉の香りが私の鼻孔をくすぐった。都子さんのやわらかな感触が私を包み込む。
「自分ひとりで抱え込んじゃアカンよ。響子ちゃんには彩花荘のふたりもいるし、もちろんこの都子さんだっておるんやから。いつでも頼ってな」
「はい、ありがとうございます。とっても心強いです」
彩花荘の前で解散すると、私は家の中に戻った。秀男さんが台所のテーブルでうちわを仰いで涼んでいた。
「おう響子! ずいぶんゆっくりしてたんだな、のぼせないように気を付けろよ!」
「はい。ゆっくり温泉に浸かって、今日の疲れも吹っ飛びました。秀男さんも涼しくしてくださいね」
きっと、エアコンのないこの台所で私の帰りを待っていてくれたのだろう。
ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちが混じりつつ、私は精一杯笑って部屋に戻った。
部屋に戻ると、今日の思い出が一気に去来した。お神輿を担いで、美味しいお弁当を食べて、温泉に浸かって都子さんの話を聞いて――。
親子の縁はそうはいかんからなぁ。その言葉が引っ掛かった。
いつかは向かい合わなくてはいけないと思いつつも避け続けていたもの。
だけど――。
「いつまでもこのままには出来ないよね」
どうしようという思い。お父さんもつらかったんだなと今では思えるようにもなってきている。それとは別に、今はこの裏御神楽町とお祭りの日々を楽しもうという気持ちが混ざって複雑な思いになる。そんなとき、私の足が微かに痛んだ。肩も重い。
――筋肉痛も良い思い出になる、か。
私はお神輿を担いでいた自分を思い出して、お神輿の写真を見て、気分を切り替える。
心地よい温泉の暖かさとお神輿担ぎの疲労感に包まれたまま、私はゆっくりとまどろんでいった。
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