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雨と不死身の富士見さん
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雨が降る度 心にやどる
雨音が呼ぶ あまい幻惑
傘に真っ赤な花が咲いた日
私の世界は鼓動を止めた
瞳に映る夢とうつつが
空の涙でひとつに溶ける
今日もあなたに会いたいですと
願う思いはシトシトしめる
やまない雨は無いというけど
空が晴れても 私はどしゃぶり
雨 雨 ふれふれ あの人に
雨 雨 ふれふれ 会いたいな
……
「ありがとうございました!」
「まった来てねぇ~ん! 茂美ずっと待ってるぅ!」
「またねー、ママ! それに可愛い新人ちゃん!」
ふたり連れのお客さんを、茂美と共に店先で見送る。
ともに店の新規のお客さんだったが、終始上機嫌で店での羽振りも良かった。
また飲みに来てくれるだろうか?
楽しく酔って気さくに笑う、ひとの良い彼らの遠くなる背中を見つめながら、そんなことを思ったりした。
だってあのひとたち、オレのことを何回も可愛いって褒めてくれたんだもん。
ドクターストップに所属して今日で五日目。
少しずつここの仕事にも慣れてきた。
自分自身も女装するお客さん、時にはそれをスタッフにアシストして欲しいひともいる。
まったく女装はしないけど、女装した子が好きなお客さん。
そういうのじゃないけど、いわば怖いもの見たさの好奇心でやってくるお客さん。
茂美の評判を聞いて、悩みを抱えてやってくるお客さん。
いろんな人と接して、オレも少しずつ勉強出来てきた気がする。
そして、先輩男の娘であるナルの協力により、オレの女装も日々進化しているのだ。
メイクの仕方、手や足の仕草、表情の作り方、女性らしい声の出し方など。
教われば教わるほどに、お客さんのウケもどんどん良くなっていった。
それが嬉しくて、オレは心と身体を着替えることにガッツリとのめり込んでいく。今ではメイク道具もカラコンも必須アイテムだ。
女性らしい声の出し方は喉の使い方がポイントだから、のど飴も必須。
そんなふうにして、お店のオレは、昔の自分とは別の顔。
「雨、強くなってきたわね」
横に立っていた茂美が、夜空を見上げていった。
先ほどまでは小降りだった雨が、今では街中で雨音を立てている。
店の屋根と雨粒がぶつかって、まるでオーケストラを奏でるように鳴り始めた。
「こんなに大降りじゃあ、今日はもうお客さんも来ないかもな」
「そうでもないわ」
「こんな雨の日に? 通りにもぜんぜんひとがいなくなっちゃったぜ?」
「こんな雨の日だからこそよ」
そう呟いて、茂美が店のなかに引っ込んだ。
「雨だから? どういうことだろ」
真っ暗な夜を、どんよりとした灰色の雲が覆っている。
分厚い空をしばし見上げて、オレは茂美のあとを追った。
「史明、本格的に降ってきたわ」
「ほう。それなら今日は不死身の富士見さんのおでましだな」
「ふじみのふじみさん?」
ドクターストップには雨宿りに来る常連さんでもいるのだろうか?
それにしても『ふじみのふじみさん』とはなんだろう。
「古賀、ふじみのふじみさんってなんだ? 常連さんの苗字と名前か?」
「ああ、そういえばお前にはまだ富士見さんの説明をしていなかったな」
洗い場のグラスに落としていた視線をあげて、古賀が口を開く。
「不死身の富士見さんってのはな。富士見さんっていう女のひとのあだ名だ」
「ふじみっていうと、絶対死なないってやつ?」
「そうそう。あだ名が決して死なない『不死の身』で、名前が『富士山を見る』と書いて富士見さん、まさに不死の身体をもつひとだ」
「それで、ついたあだ名が『不死身の富士見さん』か」
不死の身体をもつ女性。
一体どれほどのごついゴリラ女、もとい恰幅のいい女性なのだろう。
なにせあの茂美や古賀にまで、不死身って呼ばれちゃうわけだからな。
そんなお客さんが来るのであれば、こっちも新人として気合いを入れなければ。身繕いをして化粧直しを――。
そう思って化粧ポーチに手を伸ばしたとき、店のドアベルがなった。
入り口に目を向ける。
雨の音とともに入ってきたのは、肌の白い女性であった。
胸元まで伸びた、艶やかな黒い髪。色素の薄い、どこか憂いの色を帯びた瞳。透き通るような透明感をまとう、夜が似合いそうなひと。
しかし、こんな吹きだまりの夜の店にはまるで不似合いな、清楚な空気を漂わせてた女性だ。
「あの、えーっと……ここは、いわゆる夜のお店で」
「どうも」
にこりと微笑むこのひとは、店を間違えたのか、それとも道に迷ったのか。
そんなオレの逡巡を、茂美の野太いカマ声が切り裂いた。
「あぁら! 富士見さん、いらっしゃ~い!」
えっ、このひとが不死身の富士見さんっ!?
目の前にいるのは、吹けば飛んでしまいそうなほど華奢な女性である。
オレの想像していた不死身とは、どうにもタイプがまったく違うらしい。
「んもう、今日もこんなに濡れちゃってるわよぉ、はやく入って入って!」
「雨、降ってきたから」
「うんうん、わかるぅ~! さ、カウンター席ごあんなぁ~い」
茂美が腰を無駄に左右にくねらせながら、富士見さんをカウンターへ導いてゆく。どう見てもいらないアクションである。
富士見さんはニコニコしながら、となりの空間に手を伸ばす仕草を見せ、カウンターの椅子に腰かけた。端から二番目の席だ。
(隅っこが嫌いなひとなのかな?)
カウンターの隅の椅子を一度引き、それでも引いた椅子ではなく端から二番目の席に手を伸ばし腰かける富士見さん。
最初に引いた椅子の上は空っぽで、荷物をそこに置くわけでもないようだ。
茂美が椅子の引かれたふたつの席に手際よくグラスを並べる。空いている席にもグラスを置くということは、これが富士見さんのいつものパターンなのだろうか。
例えば、お店を誰かとの待ち合わせとかに使っているような。
ぼんやりと見つめている視線の先では、茂美が「聞いてよ、富士見ちゃん! 私、この間店の前でナンパされちゃって~」と自慢話にひとりで話に花を咲かせていた。
あの時店の前で行われていたのはナンパではなくプロレスのスカウトであったが、そこは茂美フィルターがかかっているのだろう。
茂美は無意識に無意味に、それでいて無慈悲なまでに前向きである。
富士見さんは茂美の話を聞きながら、空いた席のほうに時折笑い掛けていた。
「彰人、ちょっと手伝ってくれ」
不思議な仕草をするひとだと首をひねっていると、古賀に声をかけられた。
そのままスカートを引かれ、店の奥に連れていかれる。
「ほほう、今日は黒か」
「何勝手に下着見てんだよ、このバカ!」
オレのビンタをひらりとかわし、人差し指をオレの唇に当てる古賀。
「今日来てる、富士見さんのことだけどな」
「ふぇ?」
「隣の席、空いているように見えるけど。居るからな、ちゃんと」
「ひゃんほいる?」
抑えつけられた口から変な声しか出ない。
ちゃんと居るってどういうことだ?
オレは心霊的なものは信じない方なのだが。
「富士見さんと、富士見さんの彼氏の翔(しょう)さん。よくふたりでうちに来ていたんだ。この辺りの店を飲み歩くのが好きな彼氏さんでな」
古賀が顔を店のカウンターのほうに向け、思い出すような目をして続けた。
「だけどひどい雨の日に、二人は交通事故にあってさ。曲がり角の出合い頭で、運転手の視認不足ってことらしいが」
「事故……」
「翔さん、助からなくてな。でも、とっさに富士見さんを車からかばったんだって。それで富士見さんにはひとつも怪我は無し」
「それで、不死身って呼ばれているのか?」
オレの言葉に、古賀は首を左右に振った。
「いや、そうじゃない。それから数か月してからな。富士見さん、雨が降るとひとりでこの辺の店を回るようになったんだ。翔さんがいたころと同じ店を、同じコースでな」
「それって……」
「彼氏さんの面影を探して歩いている……。最初は皆そう思っていたんだけどな」
オレの考えを見透かしたように、古賀がやんわりと否定する。
「違うのか?」
「富士見さんには、翔さんが実際に見えているんだ」
「見えている?」
「さっきの様子を見ただろ。ずうっとああしているんだ」
店に入って来た富士見さんの姿を思い出す。
何も無い空間に伸ばした手。
空いた隣の席に向ける微笑み。
口元を抑えて笑う、誰かを意識したはにかみ。
その全ては、もういない翔さんを意識して行っている行為だったのだろうか。
それは、余りにも――。
「なぁに、悲しそうな顔してんだよ」
「だってよ、そんなのって、なんか……つらいよ」
「そりゃあ、悲しい事故だったし、胸に刺さるような出来事だけどな。オレたちがへこんでどうする? 一番つらかったのは、富士見さんだろ」
オレはチラリと店のカウンターで茂美と話す富士見さんを見やった。
「富士見さんは、その……どういう状態なんだ?」
「さあな、ドクターストップは病院でも医者でもない。それを知るのはオレたち店員の役目じゃない。オレたちの関係は、あくまでお客様と店員だろう」
客と店員。
茂美や古賀がドクターストップのなかで徹底しているその線引きは、時にあまりにも残酷に思えることがある。
だけど、その線引きがしっかりしているからこそ。
同情するでもない。
お節介を焼くわけでもない。
何かを否定したりもしない。
すべてを受け入れ、優しく包み込む。
お店にいる間だけはすぐそばで、誰よりもお客さんの気持ちに寄り添い歩く。このやり方が、優しくも微妙な距離の触れ合いを可能にするのだろうか。
そして、その距離こそが『気持ちの触れ合い』をただの上っ面の馴れ合いや傷の舐め合いにさせない、お客さんにとって大切な役割を果たしているのかもしれないのだ。
話は終わりだというようにカウンターに歩きだした古賀を、オレは慌てて呼び止める。
「待った! さっきの続き! 結局、富士見さんが『不死身』って呼ばれている理由ってなんだよ?」
「どんなに強い雨が降っていても、例え台風が直撃していても、電車が止まっていようとも、富士見さんはあの事故があった日のような雨が降れば必ず店にやって来る」
「電車が動かないときまでかよ」
「ああ、営業出来なくて店が閉まっていようが、それでも彼女は来る。しかも、どんな無茶な日にやって来ても、怪我のひとつもしないんだ。そして、店が開くとにっこりと微笑んで『無事で良かった』ってスタッフを気遣ってくれる」
翔さんのおかげかもな、と息を吐いて古賀がカウンターの前に戻っていった。
そこにはさっきと変わらず、茂美と談笑する富士見さんの姿がある。
ふと手を伸ばす先には、オレには見えない翔さんの影。
だけど。
空中に伸ばした富士見さんの細い指が、そっと翔さんの着ているシャツの襟を直してあげている一瞬だけは、オレにも照れて微笑む翔さんの姿が見えた気がしたんだ。
気持ちを引き締めて、店のなかに戻る。
カウンターに入り、茂美の長い話の合間にオレは富士見さんに、そしてそのとなりにいるであろう翔さんに向けて挨拶をした。
「いらっしゃいませ。はじめまして、先日ドクターストップに入店いたしました、新人の彰人です。どうぞよろしくお願いいたします」
「富士見です、よろしくね。……翔さん、ほら見て。とっても可愛い子ね」
富士見さんがにっこりと微笑み、翔さんにそう呟いた。
「はーい、富士見ちゃん、翔さん! 赤裸々明太マヨネーズのフライドポテトおまち!」
「ありがとう、ママ」
「えっ、赤っ!」
富士見さんと翔さんのカウンターの間に置かれたポテト――細かくいえばそこに超えられた多めのソースを見て、オレは思わず声を漏らした。
赤裸々マヨネーズと言われたソースはまさにまっかっか。名前からして明太マヨを使っているのであろうが、それにしても赤い。目を見張っているオレを、富士見さんが楽しそうにほほ笑んで見つめていた。
「ふふ……。彰人くん、マヨネーズがすごく赤くてびっくりでしょ。食べてみる?」
そういうと富士見さんが、箸でつまんだポテトを赤いソースのなかにディップさせた。そのままオレに向けてポテトを差し出してくる。
「最近、翔さんはあんまりいっしょに食べてくれないから、ひとりで食べるのも寂しいの。はい、どうぞ」
あげたての皮付きフライドポテトは美味しそうな香りを漂わせている。その先端で真っ赤なソースがテラテラと輝いていた。オレは大人びた富士見さんが微笑みのなかに見せたあどけない表情にちょっぴりドキドキしながら、口を開く。
あげたてあつあつのポテトとともに口の中に広がるのは、あふれんばかりの明太子の香り、そして質感である。市販の明太マヨでは到底再現しきれない明太子の『粒感』や『新鮮さ』がマヨネーズのなかにぎゅっと凝縮されていた。
ほくほくのポテトに明太子の辛さが馴染み、調和されていく。例えばポテトを扱ったお菓子などで明太マヨと言えば今や定番中の定番だが、それが決して間違いないことを実感させてくれる、ビューティフルハーモニーであった。
あー、これはお酒が飲みたくなる味だぁ!
「これ、ほんとの明太子が入ってるのか! うまい……すごい美味しいです、富士見さん」
「そうでしょう。私たち、ここに来たときはいつもこれを注文するのよ。……ね、翔さん」
みじん切りにした明太子をしっかりマヨネーズのなかに練りこむ――赤裸々にすることで明太マヨを添え物で終わらぬしっかりとした一品に高めている。それが揚げたてポテトと絡み合い、なんともいえぬ食感と味わいを引き出していた。
結局、オレは富士見さんにポテトの半分近くを食べさせてもらってしまう。そしてそのおいしさに感動しているオレを、富士見さんはとなりにいる翔さんの影とともに笑顔で見守ってくれたのであった。
不死身の富士見さん。
彼女がいつか、もういない翔さんに気付く時が来るのであろうか。
だけど、夢を覚めさせるのはオレたちの仕事じゃないんだ。
翔さんとともにいる今の富士見さんに寄り添うことこそが、ドクターストップの仕事。
外は新宿の街が雨粒のメロディーを静かに奏でたまま。
優しい雨の音色はやむことなく、そっとドクターストップを包み込んでいった。
雨音が呼ぶ あまい幻惑
傘に真っ赤な花が咲いた日
私の世界は鼓動を止めた
瞳に映る夢とうつつが
空の涙でひとつに溶ける
今日もあなたに会いたいですと
願う思いはシトシトしめる
やまない雨は無いというけど
空が晴れても 私はどしゃぶり
雨 雨 ふれふれ あの人に
雨 雨 ふれふれ 会いたいな
……
「ありがとうございました!」
「まった来てねぇ~ん! 茂美ずっと待ってるぅ!」
「またねー、ママ! それに可愛い新人ちゃん!」
ふたり連れのお客さんを、茂美と共に店先で見送る。
ともに店の新規のお客さんだったが、終始上機嫌で店での羽振りも良かった。
また飲みに来てくれるだろうか?
楽しく酔って気さくに笑う、ひとの良い彼らの遠くなる背中を見つめながら、そんなことを思ったりした。
だってあのひとたち、オレのことを何回も可愛いって褒めてくれたんだもん。
ドクターストップに所属して今日で五日目。
少しずつここの仕事にも慣れてきた。
自分自身も女装するお客さん、時にはそれをスタッフにアシストして欲しいひともいる。
まったく女装はしないけど、女装した子が好きなお客さん。
そういうのじゃないけど、いわば怖いもの見たさの好奇心でやってくるお客さん。
茂美の評判を聞いて、悩みを抱えてやってくるお客さん。
いろんな人と接して、オレも少しずつ勉強出来てきた気がする。
そして、先輩男の娘であるナルの協力により、オレの女装も日々進化しているのだ。
メイクの仕方、手や足の仕草、表情の作り方、女性らしい声の出し方など。
教われば教わるほどに、お客さんのウケもどんどん良くなっていった。
それが嬉しくて、オレは心と身体を着替えることにガッツリとのめり込んでいく。今ではメイク道具もカラコンも必須アイテムだ。
女性らしい声の出し方は喉の使い方がポイントだから、のど飴も必須。
そんなふうにして、お店のオレは、昔の自分とは別の顔。
「雨、強くなってきたわね」
横に立っていた茂美が、夜空を見上げていった。
先ほどまでは小降りだった雨が、今では街中で雨音を立てている。
店の屋根と雨粒がぶつかって、まるでオーケストラを奏でるように鳴り始めた。
「こんなに大降りじゃあ、今日はもうお客さんも来ないかもな」
「そうでもないわ」
「こんな雨の日に? 通りにもぜんぜんひとがいなくなっちゃったぜ?」
「こんな雨の日だからこそよ」
そう呟いて、茂美が店のなかに引っ込んだ。
「雨だから? どういうことだろ」
真っ暗な夜を、どんよりとした灰色の雲が覆っている。
分厚い空をしばし見上げて、オレは茂美のあとを追った。
「史明、本格的に降ってきたわ」
「ほう。それなら今日は不死身の富士見さんのおでましだな」
「ふじみのふじみさん?」
ドクターストップには雨宿りに来る常連さんでもいるのだろうか?
それにしても『ふじみのふじみさん』とはなんだろう。
「古賀、ふじみのふじみさんってなんだ? 常連さんの苗字と名前か?」
「ああ、そういえばお前にはまだ富士見さんの説明をしていなかったな」
洗い場のグラスに落としていた視線をあげて、古賀が口を開く。
「不死身の富士見さんってのはな。富士見さんっていう女のひとのあだ名だ」
「ふじみっていうと、絶対死なないってやつ?」
「そうそう。あだ名が決して死なない『不死の身』で、名前が『富士山を見る』と書いて富士見さん、まさに不死の身体をもつひとだ」
「それで、ついたあだ名が『不死身の富士見さん』か」
不死の身体をもつ女性。
一体どれほどのごついゴリラ女、もとい恰幅のいい女性なのだろう。
なにせあの茂美や古賀にまで、不死身って呼ばれちゃうわけだからな。
そんなお客さんが来るのであれば、こっちも新人として気合いを入れなければ。身繕いをして化粧直しを――。
そう思って化粧ポーチに手を伸ばしたとき、店のドアベルがなった。
入り口に目を向ける。
雨の音とともに入ってきたのは、肌の白い女性であった。
胸元まで伸びた、艶やかな黒い髪。色素の薄い、どこか憂いの色を帯びた瞳。透き通るような透明感をまとう、夜が似合いそうなひと。
しかし、こんな吹きだまりの夜の店にはまるで不似合いな、清楚な空気を漂わせてた女性だ。
「あの、えーっと……ここは、いわゆる夜のお店で」
「どうも」
にこりと微笑むこのひとは、店を間違えたのか、それとも道に迷ったのか。
そんなオレの逡巡を、茂美の野太いカマ声が切り裂いた。
「あぁら! 富士見さん、いらっしゃ~い!」
えっ、このひとが不死身の富士見さんっ!?
目の前にいるのは、吹けば飛んでしまいそうなほど華奢な女性である。
オレの想像していた不死身とは、どうにもタイプがまったく違うらしい。
「んもう、今日もこんなに濡れちゃってるわよぉ、はやく入って入って!」
「雨、降ってきたから」
「うんうん、わかるぅ~! さ、カウンター席ごあんなぁ~い」
茂美が腰を無駄に左右にくねらせながら、富士見さんをカウンターへ導いてゆく。どう見てもいらないアクションである。
富士見さんはニコニコしながら、となりの空間に手を伸ばす仕草を見せ、カウンターの椅子に腰かけた。端から二番目の席だ。
(隅っこが嫌いなひとなのかな?)
カウンターの隅の椅子を一度引き、それでも引いた椅子ではなく端から二番目の席に手を伸ばし腰かける富士見さん。
最初に引いた椅子の上は空っぽで、荷物をそこに置くわけでもないようだ。
茂美が椅子の引かれたふたつの席に手際よくグラスを並べる。空いている席にもグラスを置くということは、これが富士見さんのいつものパターンなのだろうか。
例えば、お店を誰かとの待ち合わせとかに使っているような。
ぼんやりと見つめている視線の先では、茂美が「聞いてよ、富士見ちゃん! 私、この間店の前でナンパされちゃって~」と自慢話にひとりで話に花を咲かせていた。
あの時店の前で行われていたのはナンパではなくプロレスのスカウトであったが、そこは茂美フィルターがかかっているのだろう。
茂美は無意識に無意味に、それでいて無慈悲なまでに前向きである。
富士見さんは茂美の話を聞きながら、空いた席のほうに時折笑い掛けていた。
「彰人、ちょっと手伝ってくれ」
不思議な仕草をするひとだと首をひねっていると、古賀に声をかけられた。
そのままスカートを引かれ、店の奥に連れていかれる。
「ほほう、今日は黒か」
「何勝手に下着見てんだよ、このバカ!」
オレのビンタをひらりとかわし、人差し指をオレの唇に当てる古賀。
「今日来てる、富士見さんのことだけどな」
「ふぇ?」
「隣の席、空いているように見えるけど。居るからな、ちゃんと」
「ひゃんほいる?」
抑えつけられた口から変な声しか出ない。
ちゃんと居るってどういうことだ?
オレは心霊的なものは信じない方なのだが。
「富士見さんと、富士見さんの彼氏の翔(しょう)さん。よくふたりでうちに来ていたんだ。この辺りの店を飲み歩くのが好きな彼氏さんでな」
古賀が顔を店のカウンターのほうに向け、思い出すような目をして続けた。
「だけどひどい雨の日に、二人は交通事故にあってさ。曲がり角の出合い頭で、運転手の視認不足ってことらしいが」
「事故……」
「翔さん、助からなくてな。でも、とっさに富士見さんを車からかばったんだって。それで富士見さんにはひとつも怪我は無し」
「それで、不死身って呼ばれているのか?」
オレの言葉に、古賀は首を左右に振った。
「いや、そうじゃない。それから数か月してからな。富士見さん、雨が降るとひとりでこの辺の店を回るようになったんだ。翔さんがいたころと同じ店を、同じコースでな」
「それって……」
「彼氏さんの面影を探して歩いている……。最初は皆そう思っていたんだけどな」
オレの考えを見透かしたように、古賀がやんわりと否定する。
「違うのか?」
「富士見さんには、翔さんが実際に見えているんだ」
「見えている?」
「さっきの様子を見ただろ。ずうっとああしているんだ」
店に入って来た富士見さんの姿を思い出す。
何も無い空間に伸ばした手。
空いた隣の席に向ける微笑み。
口元を抑えて笑う、誰かを意識したはにかみ。
その全ては、もういない翔さんを意識して行っている行為だったのだろうか。
それは、余りにも――。
「なぁに、悲しそうな顔してんだよ」
「だってよ、そんなのって、なんか……つらいよ」
「そりゃあ、悲しい事故だったし、胸に刺さるような出来事だけどな。オレたちがへこんでどうする? 一番つらかったのは、富士見さんだろ」
オレはチラリと店のカウンターで茂美と話す富士見さんを見やった。
「富士見さんは、その……どういう状態なんだ?」
「さあな、ドクターストップは病院でも医者でもない。それを知るのはオレたち店員の役目じゃない。オレたちの関係は、あくまでお客様と店員だろう」
客と店員。
茂美や古賀がドクターストップのなかで徹底しているその線引きは、時にあまりにも残酷に思えることがある。
だけど、その線引きがしっかりしているからこそ。
同情するでもない。
お節介を焼くわけでもない。
何かを否定したりもしない。
すべてを受け入れ、優しく包み込む。
お店にいる間だけはすぐそばで、誰よりもお客さんの気持ちに寄り添い歩く。このやり方が、優しくも微妙な距離の触れ合いを可能にするのだろうか。
そして、その距離こそが『気持ちの触れ合い』をただの上っ面の馴れ合いや傷の舐め合いにさせない、お客さんにとって大切な役割を果たしているのかもしれないのだ。
話は終わりだというようにカウンターに歩きだした古賀を、オレは慌てて呼び止める。
「待った! さっきの続き! 結局、富士見さんが『不死身』って呼ばれている理由ってなんだよ?」
「どんなに強い雨が降っていても、例え台風が直撃していても、電車が止まっていようとも、富士見さんはあの事故があった日のような雨が降れば必ず店にやって来る」
「電車が動かないときまでかよ」
「ああ、営業出来なくて店が閉まっていようが、それでも彼女は来る。しかも、どんな無茶な日にやって来ても、怪我のひとつもしないんだ。そして、店が開くとにっこりと微笑んで『無事で良かった』ってスタッフを気遣ってくれる」
翔さんのおかげかもな、と息を吐いて古賀がカウンターの前に戻っていった。
そこにはさっきと変わらず、茂美と談笑する富士見さんの姿がある。
ふと手を伸ばす先には、オレには見えない翔さんの影。
だけど。
空中に伸ばした富士見さんの細い指が、そっと翔さんの着ているシャツの襟を直してあげている一瞬だけは、オレにも照れて微笑む翔さんの姿が見えた気がしたんだ。
気持ちを引き締めて、店のなかに戻る。
カウンターに入り、茂美の長い話の合間にオレは富士見さんに、そしてそのとなりにいるであろう翔さんに向けて挨拶をした。
「いらっしゃいませ。はじめまして、先日ドクターストップに入店いたしました、新人の彰人です。どうぞよろしくお願いいたします」
「富士見です、よろしくね。……翔さん、ほら見て。とっても可愛い子ね」
富士見さんがにっこりと微笑み、翔さんにそう呟いた。
「はーい、富士見ちゃん、翔さん! 赤裸々明太マヨネーズのフライドポテトおまち!」
「ありがとう、ママ」
「えっ、赤っ!」
富士見さんと翔さんのカウンターの間に置かれたポテト――細かくいえばそこに超えられた多めのソースを見て、オレは思わず声を漏らした。
赤裸々マヨネーズと言われたソースはまさにまっかっか。名前からして明太マヨを使っているのであろうが、それにしても赤い。目を見張っているオレを、富士見さんが楽しそうにほほ笑んで見つめていた。
「ふふ……。彰人くん、マヨネーズがすごく赤くてびっくりでしょ。食べてみる?」
そういうと富士見さんが、箸でつまんだポテトを赤いソースのなかにディップさせた。そのままオレに向けてポテトを差し出してくる。
「最近、翔さんはあんまりいっしょに食べてくれないから、ひとりで食べるのも寂しいの。はい、どうぞ」
あげたての皮付きフライドポテトは美味しそうな香りを漂わせている。その先端で真っ赤なソースがテラテラと輝いていた。オレは大人びた富士見さんが微笑みのなかに見せたあどけない表情にちょっぴりドキドキしながら、口を開く。
あげたてあつあつのポテトとともに口の中に広がるのは、あふれんばかりの明太子の香り、そして質感である。市販の明太マヨでは到底再現しきれない明太子の『粒感』や『新鮮さ』がマヨネーズのなかにぎゅっと凝縮されていた。
ほくほくのポテトに明太子の辛さが馴染み、調和されていく。例えばポテトを扱ったお菓子などで明太マヨと言えば今や定番中の定番だが、それが決して間違いないことを実感させてくれる、ビューティフルハーモニーであった。
あー、これはお酒が飲みたくなる味だぁ!
「これ、ほんとの明太子が入ってるのか! うまい……すごい美味しいです、富士見さん」
「そうでしょう。私たち、ここに来たときはいつもこれを注文するのよ。……ね、翔さん」
みじん切りにした明太子をしっかりマヨネーズのなかに練りこむ――赤裸々にすることで明太マヨを添え物で終わらぬしっかりとした一品に高めている。それが揚げたてポテトと絡み合い、なんともいえぬ食感と味わいを引き出していた。
結局、オレは富士見さんにポテトの半分近くを食べさせてもらってしまう。そしてそのおいしさに感動しているオレを、富士見さんはとなりにいる翔さんの影とともに笑顔で見守ってくれたのであった。
不死身の富士見さん。
彼女がいつか、もういない翔さんに気付く時が来るのであろうか。
だけど、夢を覚めさせるのはオレたちの仕事じゃないんだ。
翔さんとともにいる今の富士見さんに寄り添うことこそが、ドクターストップの仕事。
外は新宿の街が雨粒のメロディーを静かに奏でたまま。
優しい雨の音色はやむことなく、そっとドクターストップを包み込んでいった。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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