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スカートを履いた日

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「腹減った……」
 ネオンに照らされたアスファルトが、歪んだ万華鏡のように揺れる。
 もうどれほどまともな飯を食っていないだろうか。公園の蛇口で水をがぶ飲みしたのさえ、遠い昔のことに思える。
「何が、トランクひとつに夢だけ詰めておこしください、だよ」
 くだらない、くだらない。何もかもくだらない。
 週刊誌の後ろに描かれていた華やかな世界は、紙より脆い作り物。
 それさえ見抜けずに本当にトランクひとつで飛びだしたオレは、どうしようもない愚か者。
 本当に、何もかもくだらない。
「もう無理。うごけねー」
 道端で大の字になってぶっ倒れても、誰も振り返りはしない。
 ここは、そんな町なんだ。
 狭くて汚い路地裏を全部、嘘と欺瞞で塗り固めてさ。オレみたいなやつが、何も知らずにおかしな夢見てそこに飛び込んでいって。挙句の果てが成れの果て。こんなざまじゃあ天国にも行けるかどうか。
「ちょっとアンタ。店の前で寝られると、邪魔なんだけど?」
 歪んだ視界に、とつぜんゴリラが入り込んできた。
 なんてこった、死ぬときは天使が迎えに来ると信じていたのに。
「都会の天使はゴリラかよ、夢がねーのな」
「ああっ!?」
 ゴリラが不快そうな声をあげた。おまけにカツカツとうるさく地面を叩く。
 ドラミングのように刻まれるゴリラビート。

 カツカツ、カツカツ。
 ドコドコ、ドコドコ。
 ドンドコカツカツ、ドンドコカツカツ。

 原始のリズムに、夜空がうごめく。
 認めたくない汚い幻想空間に、オレの意識はおぼれるように沈み込んでいった。

・・・

「うっ……」
「目が覚めた?」
「いきなりゴリラッ!?」
 不快な眠りから目覚めると、目の前に金髪ゴリラ。
 オーマイガー、神様ここは天国ですか? 地獄ですか?
 ゴリラはオレの意識が戻った事を確認すると、素早く手首や首筋にごつい手を差し込んできた。無骨な腕なのにするりと入りこむ謎のテクニック。相当に手馴れた感じがある。ゴリラの国の入国審査だろうか。
「オレは、人間で……」
「まだ呆けてるみたいね。ふんが!」
「いてぇ!」
 ゴリラが思い切りオレの頭をはたく。絶対今頭の上で星が回ってるだろコレっていう衝撃とともに、視界が晴れる。オレは辺りを見回した。
「ここは?」
 暗めの照明に照らし出された室内。
 木目調のカウンター机の奥に、酒の瓶がいくつも並んでいる。バーカウンターってやつか。黒が基調のシックなイメージの室内だが、時折り壁にわけのわからない絵がかけられたり、妙なへこみがあったりするのが印象的だ。
 広さとしてはカウンター席に八人、横にテーブル席がふたつほどか。
 全身を包むような柔らかさに気付いて、自分の周囲に視線をめぐらせる。オレが寝かされているのは、革張りの高級そうな黒いソファーであった。
 金髪のゴリラはそのソファーの前で仁王立ちしている。
 奥では黒ベストを着た男が、カウンターの裏で洗い物か何かをしている。恐らく、ゴリラの召使いだ。かわいそうに。
「アンタ、店の前に倒れてたのよ。覚えてないの?」
「倒れて? あっ……」
 ぐぅ~。
 記憶が戻ると同時に、数日間まともに食事していないオレの腹の虫が大きな音でなった。
「身体は正直ね、ほら。動ける?」
 ゴリラが腕でオレを抱え上げるようにして持ち上げた。なんという怪力。オレはあっという間にカウンターの椅子まで運ばれ、気付けば席に座らされていた。
 リクライニングゴリラ。
 頭のなかでオレを運んでくれた親切なゴリラにあだ名をつけた。
「あたしの名前はエリザベス茂美(しげみ)。あんたは?」
 オレがつけたあだ名は、一瞬で破壊された。
 しかも、さらなるインパクトのある名前によってだ。
「オレは、藤岡彰人(ふじおか あきと)」
「古賀史明(こが しめい)だ、よろしくな」
 カウンターの男が、耳に馴染む低めの声で言った。長い髪の間からのぞく、涼しげな目元に整った顔立ち。すらりと伸びた手足はテキパキと動き、いかにも出来る感じの男に見えた。
 ありていに言えば典型的な超イケメンで、ゴリラの好みも案外と王道らしい。
「じゃ、ふたりともさっさと食べちゃいなさい」
 ゴリラ、もとい茂美はカウンターの奥からふたつのどんぶりを持ってきた。
 目の前に置かれたどんぶりからは、食欲を刺激するいいにおいがしている。
 色合いの違う肉が半分ずつ、山盛りに盛られている丼だ。おそらく片方ば豚肉、もう片方は牛肉だろう。細く刻まれたたまねぎと長ネギがタレの色身に染まってよく肉に絡んでいる。
 焦がしネギと焼いた肉の香りに、オレの腹が早くそれをよこせと催促を始めた。
「これ、食っていいのか!?」
「どーぞ。あたしは奥で着替えてくるわ」
 茂美がにっと笑って箸を差し出し、ドアの奥に消える。オレは出された箸を掴むとどんぶりを抱え込むようにして肉と飯を口いっぱいに頬張った。
「うんめぇ!」
 薄切りにされた牛肉は柔らかい食感で、よく炒めたネギとともにたまらない甘さが口の中に広がった。ネギの香ばしい香りとともにしょう油ベースと思われるタレのしょっぱさとニンニクの風味がアクセントになり、さらに食欲を刺激する。
 豚肉に箸を伸ばす。
 こちらも口のなかでとろけるように柔らかだ。丁寧にお酒かなにかに漬け込み、下ごしらえが入念にされているのだろう。しょうがベースで味付けされており、牛肉のこってりした味わいとは異なる味わいが丼を飽きがこないものにさせていた。
 数日ぶりのまともな飯、それも特上の一杯に感動するオレの横に、バーテンダーの男、先ほど古賀と名乗った青年が座った。
 ともに並んで肉どんを食い始める。
「ずいぶん腹を減らしていたみたいだが、この『豚と牛の訳アリ合い盛り丼』は空きっ腹には結構重い。念のため食後にでもこいつを飲んでおけ」
 そういって、目の前に胃薬のカプセルを置かれた。こいつ、イイ奴だ。
「ありがとう。ぷっはぁ~、めちゃくちゃうまい! 生き返ったぁ!」
「これからよろしくな、彰人」
「よろしく?」
「同じ『カマ』の飯を食った仲、だろ?」
 古賀が親指でドアを指差した。その先には、茂美が入っていった部屋がある。
「同じ釜の飯を食う? 同じカマ……おんなじオネエの飯をね。なるほど!」
 皮肉の利いた冗談に、思わず手を打った。
 こいつとは、もしも友達だったらうまくやれるかもしれない。
 そんなことを考えていると、件のカマのドアが開いた。そして奥からはちきれんばかりに膨張した、ピンクの半袖のドレスを身に纏ったエリザベートなゴリラが現れる。
 揺れるフリルはまるで体毛のごとし。とんでもないインパクトであった。
 うっわぁ。腕、太っ……! ってちゃんと毛は全部剃られてるしっ!
 ドシンドシンと足音を立てて接近してきたゴリラが、ドン! とひとつドラミング、もとい胸を叩いた。
「ほ~ら、食うもの食ったら支度よ支度!」
「支度?」
「見ての通り、ここは女装バーだからな。もうすぐ開店時間なのさ」
「マジか! それじゃあオレがソファー席にいちゃまずいよな。えっと、この度は、どうもありがとうございました、このご恩は」
「待てい」
 頭を下げかけたオレの襟首を、茂美の丸太のような腕が掴んだ。
 喰われる、本能的にそう感じた。
 太らせてから食うとは、ゴリラのくせにまるでヘンゼルとグレーテルの魔女のようなやつである。
「アンタ、まさかただ飯食って消えるつもり?」
「え……」
「茂美はな、お前をここで働かせるつもりなんだよ」
 戸惑うオレに向けて、古賀がのんびりとした口調で説明した。
 ここで働く?
 バーって事は、酒を作ったり簡単な料理をしたりして。
 それでもって、お客さんと色々話したりするんだよな?

 でも、オレは――

 あんな悲しい目ばかり見続けてしまって。
 もう一度、仕事として誰かと接することが出来るだろうか。
「実はさ、オレ、拾われる前は元々ホストで」
「アンタの格好を見ればだいたいわかるわよ。その様子じゃあ店から逃げてきたんでしょ?」
「シュリアか、きつい店に引っかかったもんだ」
「あ、それ。オレのスーツ」
 店から借りたスーツ。ご丁寧にも裏地には悪趣味な金糸で店の名が刺繍してある。
 どこかに無くしたと思っていたが、ふたりが脱がせてくれていたらしい。
「手段を選ばず客から金を根こそぎ持ってく悪質なとこね。女の子がどうなろうが知ったこっちゃなしのサイテーなクラブらしいけど、アンタあそこからきつくて逃げてきたわけ?」
「……オレは、悲しかった」
「悲しい?」
 オレの言葉に、茂美の目が光った。
 その輝きを受け止めるようにして、重たい口を開く。
「店に来る女の子たちがさ、皆すっげぇ悲しい目ばっかりしていたんだ。それが、どうしようもなくつらかった。だから……」
「金払って一晩だけひとや夢を買おうって連中は、皆そんなもんよ。決してそれが悪いことってワケじゃあないけどね」
「そうかもな。でもオレはさ、そんな子たちに指名されてすぐそばに座っていても、悲しい目を変えてあげることが出来なかったんだ。どんなに慰めたって笑わせたって、あの子たちは悲しい瞳のまま笑うんだ」
 抑え込んでいた思いが、溢れた。
 親の静止を振り切ってトランクひとつで東京に出てきて、ホストになって。
 そこで悲しい目の子たちを何人も見て――。
 それからずっと、誰にも言えなかった気持ち。
 自分でもバカだと思うほど泣きまくりながら、オレは心につっかえていた気持ちを、全部吐き出した。
「夜中は楽しく恋人ごっこをしてたのに、朝になれば見ず知らずの他人になってしまう。日が昇ったら別の顔で、男も女も知らない顔で消えていく。そりゃあ、アフターとかはあったってそれも仕事のため、金のためだけ――。オレバカだからさ。そんなの、どうしても割り切れなくって。悲しい目のまんまバイバイって言って去っていく女の子たちの後ろ姿に、かける言葉さえ見つけられなくって……」
「アンタ、優しいのね」
 茂美の手がそっと髪に触れる。優しい手つきで、そのままオレの全身をまさぐる。
 ……待って。なんで、身体をまさぐるの?
「サイズはレディースのLでいけそうね、史明」
「茂美、これなんかどう?」
「あら、いいじゃない」
 おもむろに、慣れた手つきでオレを着替えをさせる茂美。なんてパワー、なんて素早さ。
 抵抗する暇も、ツッコミを入れる間さえ与えられずにオレはあっという間に茂美の手によって女装させられていく。服装も、メイクでさえも。
「あの……オレの話、聞いてた? なんで女装させられてるのオレ?」
「聞いてたわよ。ほら、目を閉じないの! ここは女装バーなんだから、当たり前でしょ!」
 ここ、女装バーだったのか。
 茂美は決して趣味であの恰好をしていたワケではないらしい。
「ねぇ、あのさ。どうしても働くならせめて古賀みたいにバーテン……」
「うちはバーテンダーはひとりで足りてるわ」
 抵抗する間もない早業で、オレはあっという間にスカートまで履かされ鏡の前に運ばれる。
「いっちょあがり。ほら、彰人。自分の姿を良く見てみなさい」
 茂美の言葉に、こわごわと目を開く。
 いったいオレはどうされてしまったのだろう……。
 開いた視界の前、鏡の向こうには女子高生の制服を着てあどけない顔をしたボブカットの女の子が、ぎこちなさそうな緊張した面持ちで立っていた。
「え、え、うえええ!? これ……オレ!?」
「んぅ~、グゥ! めっちゃくちゃいいじゃない!」
「ああ、これはなかなかに……」
 気のせいか、古賀が熱っぽく頷く。
 なんでこいつの鋭い視線は下の方にいっているのか。足を見るな足を。
 まったくもともとすね毛が生えない体質で良かったぜ……って!
 いやそうじゃない。オレはそもそもここで働くつもりなどないのだ。
「おい、茂美! 恩はあるけど、オレはここで働くつもりはないよ!」
「まあそう言うな彰人。とりあえず一日だけ、ここにいてみろ」
 身を乗り出したオレを、古賀が小さな声で制した。茂美はオレの訴えを無視するようにカウンターで開店準備に取り掛かっている。
「一日だけって、なんでだよ?」
「さっきお前、お客さんの悲しい目が変えられなくてって言ってただろ。茂美はな、そんな悲しい目だって本当の笑顔に出来る奴だ。だから、今日一日茂美のことをよく見てろ」
「茂美の、何をだよ」
「茂美の全部をさ。何をどうして、どうやって心に傷を負った人を癒していくか……。そうしたら、彰人の悲鳴をあげてるここもちょっとは楽になるんじゃないか?」
 古賀がオレの胸に手を伸ばした。
 で、ついでのように揉んできた。いや、揉むな。ご丁寧にもパッド入りのなにかが入っているようで、揉まれた感触というか、衣服の動きが妙にリアルに感じられてしまう。
 慣れないスカートのなかとオレの心に、なんともいえない隙間風が吹き抜けていった。
「胸が楽にって言ったってよ……こんな、突然……」
 そう言い掛けた時、店のドアが開いた。
 くたびれたスーツを来た痩せたおじさんが店の中に入ってくる。
「あーら野木さんじゃない、いらっしゃい。どぉ~ぞ! そこのソファーに掛けて」
「うん、ありがとう、ママ」
 茂美に促され、野木とよばれた中年の男性はソファーに腰かけた。すかさず茂美もとなりに座る。
 古賀が、慣れた手つきでふたりにロックグラスを差し出した。どうやら、ここの常連さんらしい。
「……ママ、オレもう死にたい」
 注がれたお酒をあおったあと、おもむろに野木さんが口を開いた。
「やーだもー! またいきなりそんなこと言ってー。んもう、どしたのどしたのー?」
「仕事がきつすぎる。うち、いわゆるブラック企業ってやつでさ、会社が終わるのはいつも終電後で、もう十日も家に帰れてない。まるで奴隷だよ。このまま仕事に殺されるくらいなら、せめて自分で死に方を選びたいんだ」
「やだぁ、そんなにおうちに帰れてないの? さみしいわぁ、ひどい話ねぇ」
 大げさにため息をついた茂美が、ポンと一度手を打ち鳴らした。
「うん、茂美ってばいいこと思いついたわ。野木さん、そんな会社やめちゃいなさい!」
「そんな簡単に言われても……。いやでも、会社をやめたらどうやって生きていけばいいんだい、ママ?」
「さあね。茂美わかんなーい。でもね、どう死ぬかを選ぶより、どう生きるか選ぶ道のほうがずっと素敵でしょ? だから、どうしようもなくなったら、会社をやめな。人生やめちゃ、ダメだよ」
「ママ……」
 ふたりは静かに言葉を交わしていく。
 茂美のとなりで、野木さんは子供のように何度も頷いている。
 死にたい、生きたい。それは酔いの中で交わされる、戯言なのかもしれない。
 それでも、茂美の言葉は温かかった。野木さんの目の中には、少しだけ柔らかな光が宿り始めていた。
「茂美は悲しい目を、変えられる……」
 野木さんが、茂美の腕につかまって大きな声で泣きだした。
 その肩に、古賀がそっとブランケットをかけた。茂美は何度も頷きながら、子供を励ますように優しく頭を撫でていた。
 同じ夜の世界なのに、オレが勤めていたホストクラブとはぜんぜん違う。この店のなかには、あったかいような少しくすぐったいような、奇妙な優しさがある。そんな気がした。
 スカートの下の足は、相変わらずスースーと寒い。
 それでもオレの胸の奥には、さっきよりも温かい風が吹き始めていた。
「ううっ……ママぁ……!」
「よ~しよし、こんなに頑張っちゃって。野木さんは良い子良い子」
 泣きじゃくる野木さんを、茂美は優しく抱きしめる。
 ドレスからはみ出した揺れる胸毛、野木さんを包み込む剛腕。野太い腕に押し包まれる、背を丸めて小さくなったサラリーマン。
 ゴリラの授乳のようなシュールな光景だ。
 そのくせ、不思議と野木さんと茂美の姿は、オレの心の何かに触れた。
 オレにはどうしても出来なかった、何かに。
 終電もなくなるような時間まで働く、くたびれたいい大人の涙。
 あんな風に自分のつらさを素直に誰かにさらけ出せたら、そして受け止めてもらえたら……何かが変わるんじゃないだろうか。
「とんだブラックに勤めているみたいだな、野木さんも大変だ」
 古賀がふたりに気を使いオレを後ろの方に連れ出した。
「オレははじめましてのひとだから全然わかんないけど、どう大変なんだ?」
「ハードな仕事と、家に帰れないもんで距離が出来ちまった家族とで、板挟み状態だとさ」
「へえ。でもそれって、現代ではちょっとツイてない普通のお父さんの姿ってやつじゃないのか?」
 そう言ったオレの顔を見て、古賀が小さく首を振った。
「普通のお父さんをしていたら、生きるのが大変じゃないのか? 違うだろ。普通っていう言葉に包んだって、ひとはそれぞれ違う。抱えている苦しみだって、皆違うものだ。普通だろで片付けていたら、ひとりひとりの顔をきちんと見れないぜ」
「あっ! そう、だよな……」
 こんなの普通。こんなの当たり前。
 じゃあ普通ってなんだろう。当たり前ってどんな基準だろう。
 考え込んでいるオレに、古賀が野木さんのことを話してくれた。
 彼は残業で終電を逃すと、よくここに来るらしい。会社で寝泊まりするのは息が詰まるし、ビジネスホテルの代金は馬鹿にならないという理由だそうだ。
「ホテルは高いだろうけど、それを言うならこういう店も高いんじゃないか?」
「野木さんはIT関連の会社に勤務しているらしくてな。下手すりゃ一日誰とも言葉を交わさない職場だと聞いた。だから、気軽に会話が交わせるような場所に飢えているって言ってたよ」
 朝から晩まで、無言で机に向かう日々。家にすら帰れずに、一日中……。
 その上、奥さんとはまったく口もきかず、年ごろの娘は家にほとんどいない父親に全く興味を示さないのだという。

 泣きたくもなるよな、そりゃあ――。

 泣いている野木さんの震える肩をじっと見つめて、胸の内側がちくりと痛む。
 思い描いた普通の大人は、普通じゃないほど大変なんだ。
 トランクひとつで勝手に家を出ていったバカなオレだって、世間からすればただの大人か。それも、大のバカ大人だ。
 誰にだって、それぞれの痛みがある。
 野木さんの号泣が落ち着いてきたころ、茂美はタバコを取り出した。
「一本、いい?」
 そう聞いた時には、すでにタバコを口にくわえて着火していた。どうやら先ほどの問いかけの答えは『はい』か『YES』しか用意されていないらしい。
 ゆっくりと大きく茂美がタバコを吸う。
 吸う。……吸う。…………吸う。
 ってなげぇよ!
 エリザベス茂美。
 一息でタバコ一本を吸いきるゴリラである。
 鼻から蒸気機関車のように煙を噴き出すゴリラが、消し炭と化したタバコの端を指でつまみながら野木さんに語りかける。
「会社も家も、つらかったわね」
「うん……」
 タバコを持った手を、野木さんの肩に回す。
 吸い尽くされたタバコの灰が、盛大に野木さんのスーツに降り注ぐ。っておい!
 野木さん、あんた頷く前にそのゴリラ殴っていいと思うよ。
「中学生の娘が懐いてくれなくてさ。それが本当につらい。オレ、家族のためにこんなになっても働いてるのに」
「野木さんはおうちのために、家族のために仕事しているんだもんね」
「うん。だけど、働けば働くほど娘は離れてく、それがどうしようもなくつらいんだ」
「そういう年ごろなのねぇ。娘さんと、仲良くしたい?」
 茂美の言葉に、野木さんは何度も頷いた。
「どこか連れてってあげたい。一緒に夕飯を食べたい。買い物に出かけたいし、洗濯物も同時に回したい。それにお風呂に一緒に入りたい」
「最後のは難しいわね」
(最後のは難しいだろ)
 ツッコミが、茂美とかぶった。
 風呂うんぬんはともかくとして、オレの親父もこんなふうに思っていたのかな?
 野木さんを見ていると、自分の父親を思い出す。メールも電話も、まったく返していない。今の自分が情けなさ過ぎて、どうしても返せない。心配かけてるんだろうな。
「野木さん。ちょっと話は変わるけど、貴方は自分のご両親とは仲が良い?」
 茂美がロックグラスに手を伸ばす。手品のようにロックグラスのひとつが消えた。
 手のひらでかすぎだろ。
「うん、両親には感謝してる。きちんと働いて、ボクを大学まで行かせてくれてさ」
「ステキなご両親ね。いつごろからご両親に感謝できるようになった?」
「うーん、いつだったかな。大学生の途中あたりで、親のありがたさに気付いたかな」
 野木さんの組んだ両手のうえに、茂美の手が触れた。
「じゃあさ。野木さんの娘さんも、もうちょっと待ってあげなよ」
「えっ?」
「野木さん、すっごいイイ男だよ。家庭のために仕事を続ける最高のナイスガイ。でも、そのことに娘さんが気が付くのはね。きっと、野木さんがご両親に感謝出来るようになったのころと同じ年ごろなんじゃない?」
「あっ……」
 何かに気付いたように、野木さんが顔をあげた。
 茂美がそっと野木さんの顔に手を伸ばした。

 唐突なアイアンクロー。

 ……ではない。頬を撫でてあげている。
 くすぐったいような光景、店のなかに静かでやわらかな時間が流れた。
「哀しい目、変わっただろ?」
「……ああ」
 古賀の言葉に、素直に頷いた。
 そしてオレは、茂美のことを尊敬し、羨ましくなった。
 哀しい目をそっと包み込む優しさ。丁寧に触れて、癒してあげる心遣い。雑なようで、繊細に編み上げられた言葉。むき出しの心の傷をそっとケアしてあげるテクニック。
 ホストをやっていたとき、オレが自分を指名してくれた女の子たちにやってあげたかったこと。いや、それ以上のことを茂美はやってのけている。オレはそんな茂美の度量と器の大きさに、ただただ純粋に憧れた。

「お釣りはいらないよ」
 そういって五千円札を机の上に置いた野木さんが席をたった。もう、いつの間にか始発が動き出す時間になっている。古賀のため息が聞こえ、オレは古賀の視線を追った。
 カウンターの横、黒い小さなバインダー。そこには、六九八〇円と記されている。
 野木さん、そりゃ確かにお釣りはいらない。でも、お金足りないよ。
 茂美がこちらに向けてまぶたを数度、ビクビクと痙攣させている。ウインクだと気付くまでに数分のときを要した。
「気にするなってこと?」
「そういうこと」
 席を立った野木さんを、茂美が店の外まで送っていく。古賀も店の入り口まで見送りに出るようなので、オレもそれに続いた。歩くと下半身が異様に寒い。
 ……ってそうだよ、オレスカート履かされたままじゃん!
 慌てて店のなかに引っ込もうとしたオレの目が、玄関脇の大きな鏡で止まった。
 ちょっとくたびれた顔はしてるけど。
 ショートボブの茶髪。ゴリラに施されたメイクでいつもより大きく見えるふたつの瞳。
 男にしては細い肩幅と骨格に、なんだか口紅の濃い赤が似合わない初々しい小ぶりの唇。
 ……あれ、オレ、かわいいかも。チェックのスカートから伸びる足は最近メシをろくに食ってなかったせいかスラッとしているし、ブラウスにリボンもいい感じにハマッてるし……。

 ……あれ? あれあれ? オレってば、可愛いじゃん!
 変な気持ちだけど、もしかしたら女装って、けっこう楽しいかも……!?
「すっげー可愛いよ、彰人」
 鏡の前の女の子になったようなオレにうっかり見惚れていると、突然古賀が低い声で耳元にささやきかけてきた。
 その手がスカートに伸びて、っておい!?
「ダメだよママ! オレはやっぱり、死にたい!」
 突然表から聞こえてきた、野木さんの叫び声。
 オレは不可抗力な古賀の魔の手のくんずほぐれつからなんとか逃げ出して、店の外に出た。
「やっぱりもう駄目だよ、死にたい! ママ!」
 野木さんが切羽詰まった声で茂美を呼ぶ。その瞬間、茂美が駆け出した。
「おバカー!!!」
 助走をつけた茂美の剛腕から繰り出される、ボディブロー。

 ……え、ここでボディブロー!?

 こういうときってビンタとかして抱き合ったりする、そういうシーンじゃないの!?
「こひゅ!?」
 ゴリラのボディブローを受けた野木さんが、聞いた事もない音をあげて倒れ込んだ。
 きっと胸が張り裂けそう(物理)なのだろう。
 茂美がばんっ、と自分の胸を一度叩き、倒れた野木さんの前に立つ。出たよドラミング。
「どう、野木さん、痛い!?」
「す、凄く痛いれす……」
「それはね、あなたが生きているっていう証拠なのよ!」
「ママ! そういうことなんだね!」
「いや、ちょ待てよ」
 思わず声に出た。いやいや、なにその体育会系理論。
 ホスト業界さえ真っ青な力技の説得だ。
「ママァ……」
「野木さん!!」
 オレの思いをよそに、ふたりは互いに目に涙をため抱き合っている。
 野木さん、いいのかそれで。
 いつのまにかとなりに立っていた古賀が、目を細めてうんうんと頷いている。
「なんとも感動的な光景だな」
「ど こ が ?」
 こいつはどこまで本気でそう言っているのだろうか。
 他の店からもお客さんがぞろぞろと出始めていた。なかには店までタクシーを呼び出しているひともいる。始発まで飲んで帰るつもりが、結局電車に乗るのもだるいほどに疲れてタクシーを呼んでしまう。
 こんな光景は、ホストの時もよく見たもんだ。

 出ていくお客さんたちを見送るとなりの店のオネエ、向かいの店のオネエ、はす向かいのオネエ、オネエ、時々男の娘、そしてまたオネエ。んんん? ここって――。
「この辺は年季の入った女装バーが多いからな」
「すげえ光景だ……」
 なんてこった、至る所でゴリラが人間に手を振っている。なんで皆女装バー勤務なのにそんな良いガタイしてんだよ……。
 父さん母さん、ゴリラの理想郷はここにあります。
 オレは都会のコンクリートジャングルに出てきて、まさかゴリラ溢れるリアルコンクリートジャングルにたどり着くなんて、思いもしませんでした。
「行ってきます」
 身を起こして笑顔になった野木さんが手を振った。
「いってらっしゃい。ちゃんと帰ってくるのよ~」
 茂美が大きく手を振った。夜の街ではよくあるやり取りだ。
(いってらっしゃい)
 野木さんに心の中から、いってらっしゃいの言葉を告げて小さく手をふった。
「ちゃんと言ってあげろよ」
 古賀が、オレをはげますように頭を小突いた。
 朝の冷たい空気を思い切り吸い込んで、気恥ずかしさを胸の奥にしまい込む。
「野木さん、お仕事いってらっしゃい!」
 オレの大声に、野木さんはちょっとだけ振り返り、微笑みながらそっと手をふって答えてくれた。
「家族のために、仕事にいくよ」
 そう呟いて、奥さんや娘さんののために仕事に向かう。
 心の重荷を、ちょっとだけこの店に置いていって……。
 疲れきった野木さんの背中が、オレの目には不思議と大きく頼もしく映った。 
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夏目 沙霧
キャラ文芸
ゆるーっと毎日だらけて、時には人に癒しを与える猫。 その猫達の日常を小話程度にしたものです。 ※猫、しゃべる 文・・・霜月梓 絵・・・草加(そうか) (着色・・・もっつん)

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