パーフェクト・100mの悪夢

グタネコ

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「大森ですが……」
 マンションに帰り、大森は友恵に教えてもらった番号に電話をした。
「えっ? 誰?」
 小野木が出た。
「あの……大森です」
「誰?」
「あの、以前に、大学で、注射を打って貰った……」
 小野木の不機嫌そうな口調に、大森の声は普段よりも一層小さくなった。
「君ね。誰か分からないけど。今、会議中でね。忙しいんだよ」
「あの、注射のことで……」
「だから、迷惑なんだって」
 小野木が電話を切った。大森は携帯電話を見つめた。小野木の声が耳に残っていた。本当に会議で忙しいのか、電話の後ろでは笑い声が聞こえていた。
 全く相手にされなかった。用件を聞かれることもなかった。怒りが心の奥から這い上がってきた。電話は切れた。大森の心の中でも何かが切れたような気がした。
 週末、大森は自分の部屋から一歩も出なかった。テレビもつけず、電気も消えていた。小野木に対する怒りだけがわいてきた。
 三日後、月曜日、夜。小野木の研究室のドアノブに手をかける大森の姿があった。目の下には暗いクマができていた。
 ドアが静かに開き、薄く開けたドアの隙間から大森は滑り込むように部屋に入った。
 奥の教授室から咳払いが聞こえ、小野木がいることがわかった。
 大森は音を立てないように歩き、小野木の部屋の入り口に立った。
 小野木は論文に目を落とし、大森が入ってきたことに気が付かなかった。
「先生」
 大森が言った。
「あっ、ああ」
 小野木は顔を上げ、大森を見た。
 老眼鏡の焦点が合わないのか、目を細め、
「君か……」と言った。
「こんな時間に、何だね?」
「ご存じだったんでしょ」
「何をかね」
「薬の効果が消えていくことですよ」
「薬?」
「去年、僕に注射した」
「注射?」
「とぼけないでください」
 大森の目がすわっていた。夜に忍んできている。雰囲気が尋常ではない。
 理由は定かではないが、刺激しないほうが良い。とりあえず話を聞いて、落ち着かせよう、と小野木は考え、椅子から立ち上がり、
「話があるなら、こっちでゆっくり聞こうか」と大森を応接椅子に誘った。
 大森は立ったまま動こうとしなかった。
「コーヒーはどうだね。インスタントだが」
「いいえ」
「ぼくは入れるけど、君もよかったら」
 小野木は教授室を出て、隣の秘書の部屋に行き、電気ポットの置かれた食器棚に向かった。
「消えるんです」
 大森が呟いた。
「分かるんです」
「分かる?」
 小野木は食器棚から自分のコーヒーカップを取りだした。
「足が、元に戻っていくのが」
「……そう」
「あとどのくらいですか?」
「何が?」
「僕の体が元に戻るのは」
「元には戻るか……」
「答えて下さい。あと、何ヶ月かと聞いているんだ」
 大森は大声を出した。
 小野木は体をビクッとさせ、大森に振り返った。
「……すいません。気持ちが落ち着かなくて」
「まあ、いいさ。気にしなくても。ただ、答えようがないんだよ。私にもどうなるか、よくは分からない」
 小野木は大森に背を向け、コーヒーの粉を探した。
「なにしろ人間のデータはほとんどないからね。完全に元に戻ってしまうのか、戻らないのか。戻るとしたらいつになるのか。効果が消えていくことはマウスの実験からも推測がつくが、なにしろ人の場合はデータがなくてね」
「もう一度、同じ注射をしてくれませんか」
「もう一度?」
「ええ」
「もう実験は終わったんだよ。あれは、もう終わったんだ」
 小野木は背を向けたまま答えた。
「オリンピックがあるんです」
「そうだ、代表に決まったそうだね。陸上部の浜崎君から聞いたよ。おめでとう」
「もう一度、注射をお願いします」
「だから、もう、あれは。副作用もあるし」
「副作用……」
「心筋に負担がかかるんだよ、二度目は特に。マウスの実験でも」
「実験、実験って、ぼくはマウスじゃない」
 大森はまた声を荒らげた。
「すまない。気にさわったら許してくれ。そんな気持ちじゃないんだ」
 小野木はインスタントコーヒーを探し出し、ビンの口を開けた。
「……先生は、なぜ僕を選んだんですか」
 大森がたずねた。
「選んだ理由……」
 小野木はインスタントコーヒーをカップに入れ、ポットからお湯を注いだ。コーヒーカップに半分ほど溜まったところでお湯が出なくなった。
「あれ? 終わりかな」と言いながら、小野木はポットの上蓋を開け、中をのぞき込んだ。
「先生」
「ああ、君を選んだ理由は……」
 小野木がポットの中をのぞき込んでいた。 大森の手が小刻みに揺れていた。いらだっていた。抑えきれない怒りが足下からわき上がってきていた。
 怒りは小野木に向けられていた。目の前にいる猫背の小男が自分の人生をだめにしようとしている。世界記録を出すはずだった自分を壊そうとしている。完璧な自分の未来をこの男がぶち壊そうとしている。
 冷静に考えれば、小野木がいなければ、今の大森はなかった。薬の効果が消えるのなら、オリンピックは諦めればいい、元にもどるだけだ。
 しかし、もちろん、そんな考えが浮かぶはずはなかった。自分は優れているという甘美な感情を一度知ってしまうと、それを捨て去るのは難しい。例えそれが、誤った手段で得られたものであったとしてもだ。
「陸上部、全員の運動能力や遺伝的特性を調べて……あちっ」
 ポットを逆さにすると、残ったお湯が小野木の手にかかった。
「あちちち」
 大森の質問よりコーヒーのほうが重要らしい。
「先生」
 言葉に怒りがあった。
「データから、君が一番平凡だったんだよ」
「平凡?」
「土着の日本人のようだし、親族に有名な人もいないし。スポーツの記録も、学業成績も平凡で目立たない。あまり優れた人間を選んで、もし、効果が出すぎて飛び抜けた記録を出されてもね。騒ぎになってしまう。ただ、君の場合、正直、私も、能力がここまで伸びるとは、予想外で……少し、お湯を沸かして……」
「平凡……」
「記録が伸びたのは、治療の影響だけではなくて、君の努力と元々の才能も……」
 小野木が振り向くと、目の前に大森が立っていた。鬼の形相だった。
「大森君……」
「平凡? 僕は平凡じゃない」
「お、落ち着いて」
 体が震えていた。顔が紅潮している。目は見開かれ、意識は闇の中に飛んでいた。
 大森の両手が小野木の肩に伸び、細い肩をわしづかみにした。
「僕は平凡じゃない。世界で一番速く走れる男だ。平凡じゃない」
 大森が揺する。小野木の頭が上下に激しく揺れた。
「お、大森君。落ち着いて、落ち着いて話し合おう」
「平凡じゃない、僕は、僕は、平凡じゃない」
 コーヒーカップが床に落ちて割れた。
「お、大森く、ん」
 小野木が胸を押さえた。
 大森は、まだ肩を掴んで小野木を揺すっていた。
「お、あっ、あっ」
 小野木が胸を抱えながら、床に崩れ落ちていった。
 大森は、ようやく我に返り、床に倒れた小野木を見た。
(何だ……)
 小野木が倒れていた。
 自分がやった? いや違う。肩を揺すっただけだ。
「あっ、あ……」
 小野木の、うめき声が小さくなり、わずかに痙攣し、そして、全く動かなくなった。
「せ、せん……」
 大森は屈んで小野木の様子を見た。口元にかすかにアワを吹いていた。目は見開いている。焦点は合っていない。
 脈拍を確かめる勇気はなかった。
 ―死んでいる。
 大森は、ゆっくりと立ち上がり、部屋を見回した。誰もいない。静かだった。音がしなかった。
 建物には人が残っていないのか、物音を聞きつけて誰かが部屋に向かっているような様子は感じられなかった。
 冷蔵庫が目に入った。友恵が宅急便で届いた荷物をしまった冷蔵庫だった。
 大森が冷蔵庫を開ける。アンプルが並んでいた。ラベルを調べる。冷蔵庫の奥に「MP1」のラベルが貼られたアンプルがあった。「これか……」
 使い捨ての注射器も揃っていた。大森は、震える手でアンプルを開け、中の液体を注射器に採った。そして、迷わず、左腕にさした。 ピストンを押すと、透明な液体が体の中に入っていった。
「フー」
 息を吐く。不安が消えていく。打ってすぐ変わるわけがないのだが、急激に気持ちは落ち着いていった。
 打ち終わり、大森は大きく深呼吸し、冷たい目で、床に倒れている小野木を見た。
 死んで当然だ。相手は自分の人生を破滅させようとしている男だった。いつも自分の上から、蔑むような目で観察していた男だ。
 マウスを見るのと同じ目で自分を見ていた。実験だ。自分は体の大きなマウスだった。小野木はこの部屋から、自分の努力を観察していた。トレーニングをして、記録を上げていくのを、マウスが回し車を回しているのと同じように感じていたに違いない。
 記録が伸び、十秒を切り、世界新記録までねらえる位置まで来たのは、小野木の薬が全てではない。自分の努力もあったはずだ。
 小学校六年の秋。市のスポーツ大会で二着になった。中学では校内で一番早かった。高校、大学では誇れるような記録は残していないが、それでも、0・1秒を縮めるために本を読み、トレーニングを工夫した。その成果が今の記録につながったはずだ。それを、人の努力も知らないで、二十メートルも走れないくせに、こいつは、オレを平凡だと言った。
 平凡。誰がだ。誰が平凡だ。世界で一番速く走れる人間のどこが平凡なんだ。
「平凡じゃない」
 大森は小野木の遺体を残して、研究室から出ていった。

 小野木の遺体は、翌日、出勤してきた秘書の友恵が発見した。死因は心筋梗塞と断定された。親族に連絡を取ろうとしたが、小野木には身寄りが誰もいなかった。
 残されていた名刺や住所録から、幾人か連絡を取ってみたが、小野木と親しかったという人間はいなかった。
 小野木の部屋に残されていた本や研究データなどは、引き取り手がなく、段ボール箱に詰められ、大学の倉庫に運ばれた。
 警察も病死ということで、事件として扱うことはなかった。
 大森は、小野木は死んでから一週間ほどは、小野木の死に関して、警察から何か聞かれるのではと心配したが、大森の元には誰も訪ねて来なかった。
 気が付くと、違和感は消えていた。足は世界のトップランナーに戻っていた。
 事件の十日後、東和大学のグラウンドで、大森は全力で走った。記録は九秒九0、足は完全にもどっていた。
「よーし。いいよ。バッチリだ」
 高尾は大声で言った。
 
 オリンピックに出発する一週間前。地元で大森の壮行会が行われた。
 県会議員や高校の校長や顔も知らない後援会長が、挨拶をし、一度も話したことがない中学や高校の同級生が、大森と写真をとりたがった。
 大森が日本代表のジャケットを着て、パリに発った日。容子は机の上の写真立てから、大森の写真を抜き出し、机の引き出しにしまった。
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