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 大森は着替えると、小野木の研究室に向かった。行きたくはないが、他に足を戻す方法はありそうになかった。何としてでも、小野木にもう一度、注射を打ってもらわなくてはならない。
「あらっ。大森さん」
 大森の姿を見ると、小野木の秘書、佐藤友恵は明るい声をだした。
「日本新記録おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
 大森は言いながら、研究室の奥をのぞいた。
「小野木先生、今日は休みですよ」
 友恵が言った。小野木の部屋のドアは閉まっていた。
「休み……ですか」
 大森はため息をついた。
「昨日から大阪なの、学会と、それから何か大事な用事があるからって。来るのは来週の月曜日」
「そうですか」
 肩すかしをくらった気分だった。自分のマンションから、小野木の研究室に来るまで、何をどう話すか。どう、頼めばいいか。もし注射を断られたら、どうしようか。頭の中でいろいろと考えてきた。
 断られたら、研究を誰かに言うと脅してみるとか、いや、土下座をして頼んでみるとか、迷いに迷いながら部屋のドアをノックした。それが、留守だ。
 どうする? 小野木が不在ではここにいても仕方がない。
「急用なら、携帯の電話番号を教えましょうか。あまりかけてくるなって言われてるけど、大事な用件なら」
 大森の真剣そうな顔を見て、友恵が言った。
「あっ……そう……いえ、結構です」
 大森は一瞬、迷ってが断った。電話では話しづらい内容だ。
「それじゃ、また、来週……」と大森が帰ろうとすると、
「あっ、待って。サイン、お願いしていい?」と友恵が言った。
「えっ、ああ、いいですよ」
「私が大森さんを知ってるって言ったら、友だちにもサインを頼まれちゃって」
「はあ」
「ええと、何にしてもらえばいいかな……」
 友恵は机やバッグの中をゴソゴソと探しだした。
「サインペンでしょ。それに……ノートじゃ変だし……」
 机の上の電話が鳴った。
「はい、小野木研究室ですが」
 友恵は受話器を首にはさみ、机の引き出しを開けて、適当な紙を探していた。
「はい……小包ですか……はい……わかりました……印鑑ですね」
 友恵は受話器を置くと、
「事務所に小包が届いたらしいの。すぐ、もどるから、ちょっと、ここにいてもらって、いいかしら」と大森に言った。
「ええ、いいですよ」
「それじゃ、お願いします。あっ、そうだ、ここがいいかな」
 机の上には女性雑誌が広げられていた。夏の旅行、海外リゾート特集。若い女性がワイキキの浜辺で微笑んでいた。友恵は雑誌のページをめくった。夏のリゾート特集の次は、オリンピック特集だった。注目選手の中に大森の写真があった。
「ここに」
 友恵はサインペンで大森の写真の下を指した。
「お願いしますね。すぐ戻りますから」
 友恵が小走りで部屋を出ていき、大森は友恵がいなくなるとと、ため息をついた。
 オリンピック特集。期待の日本人選手が紹介されていた。前回のオリンピックで金メダルを取った水泳選手。世界選手権で優勝したハンマー投げの選手、マラソン、体操、卓球と、種々雑多な競技の選手が入り交じっていた。その中に大森の顔写真も掲載されていた。
 大森幸司、陸上競技百メートル、日本新記録保持者。日本選手権で出した記録、九秒八三は、今シーズン、世界三位に相当する。
 オリンピックの百メートル競技では、日本人として初めての決勝進出、さらには、メダルが期待できる、と紹介されていた。
 一週間前、紹介記事と同じ夢を自分も見ていた。世界記録とオリンピックでのメダル。それも金メダルだ。しかし、今は、どうだ……。
 大森は部屋を見回した。奥に小野木の部屋がある。大森は立ち上がり、教授室に歩いていった。ドアノブに手をかけ、静かに引くと、ドアは音もなく開いた。鍵はかかっていなかった。
 大森は部屋をのぞいた。小野木の姿はもちろんなかった。飾り気のない部屋だった。手前に小さな応接セットあった。そして、窓際には、いつも小野木が座っていた机と椅子があり、壁の本棚には専門書が並んでいた。
 大森は部屋に入り、滑るように机に近づき、机の引き出しを開けた。
 一度、大森のデータを机の袖にある引き出しに入れているのを見た覚えがあった。
 大森は、引き出しの中から見覚えのあるファイルを抜き出した。
 ファイルには、「MP1の筋肉繊維に及ぼす効果と運動能力の向上について」と、題されたレポートが挟み込まれていた。
 大森の血液検査の結果や、トレーニング後の運動能力の上昇を示すデータなども、レポートの後ろに付けられていたのだが、全て英語で書かれていたため、大森には内容を理解することはできなかった。ただ、「OMORI」と打たれたデータが自分の物だろうということだけは推測できた。
 MP1というのは、速筋を成長させる遺伝子を活性化させる効果のある薬物だった。広い意味でとらえれば、筋肉増強剤の一種と考えることができるのだが、旧来の筋肉増強剤が、全ての筋肉の成長をうながすのと異なり、この薬物は速筋のみを選択的に成長させる効果があった。
 筋肉には速筋と遅筋があり、速筋は瞬発的な動きに、遅筋は継続的な動きに適している。一流の短距離選手は速筋の割合が非常に高く、長距離選手は逆に遅筋の割合が高い。MP1は、その速筋のみを選択的に成長させる効果があった。
 レポートで書かれていたように、マウスでの実験は終わっていた。後は、人間だった。
 マウスと同じように人間でも速筋は増えるのか、増えるとしたらどの程度増えるのか、その結果、トレーニングによって運動能力はどの程度増すのか。調べるべき項目は多種多様にわたっていた。人種、性別、年齢、環境、能力、トレーニングの強度、効果の持続性。
 もちろん、人体実験は違法である。しかし、元々違法な薬物の開発に法律は考慮されない。あるのは金と力の論理だけである。
 マウスのデータでは、運動能力はMP1接種後、十パーセント上昇し、ピークに達した後、下降して、元に戻っていた。
 マウスのグラフの上に、大森のデータが赤い○で打たれていた。同じように上昇し、ピークに達していた。ただ、実験はそこで終わっていた。終了したわけではなく、中断である。理由は、MP1の効果が持続しないことと副作用の危険性が明らかになったためだった。
 大森はレポートを見たが、内容を理解することはできなかった。グラフは上昇し、しばらくすると下降している。能力が上がり、また元に戻ったのだろうと、大森は思った。自分も同じなら、能力は元に戻ってしまう。
 友恵の足音が聞こえ、大森はあわてて、ファイルを戻して、教授の部屋から出た。
「すいません。遅くなって」
 友恵が小包を持って帰ってきた。
「すぐに、冷蔵庫に入れてくださいって言うから」
 友恵が部屋の隅に置かれた、小さな冷蔵庫の中に、持ってきた荷物をしまった。
 大森は冷蔵庫を見た。友恵の陰になり、はっきりとは見えなかったが、冷蔵庫の中に薬のアンプルのような物が入っているのが見えた。
「あ、あの、それじゃ。帰ります」
 大森が言い、部屋から出て行った。
「あ、はい」
 友恵は振り返ったが、すでに大森の姿は無かった。
 結局。小野木には会えなかった。大森は、仕方なく東和大学に行ったが、着替えて、練習をする気にはなれなかった。足が違う。元に戻ると思うと、怖くて走る気になれないのだ。
 マウスのデータで示されていたように、確かに、大森の足は元に戻りつつあった。しかし、事態は大森が自分で考えているほど悲惨な状態ではなかった。
 薬剤の効果が消えたとしても、接種前に戻るわけではない。接種後、大森は、初めて専門的なトレーニングをし、専用のスパイクを用意され、専門のコーチに指導された。筋肉が付き、スタートが改善され、中間走もフィニッシュも一流選手と見劣りがしなくなった。悲観せずに走れば、十秒二か三では走れたはずだった。だが、十秒を切るのは難しい。そこが限界である。自己記録との差は、確かにこの薬の効果だった。
 大森は、寒気がすると嘘をついて、グラウンドを去った。
「体調には気を付けろよ」高尾は心底心配そうな表情で大森を見送った。
 大森は、自分のマンションには帰らずに、もう一度小野木の研究室に行った。忘れ物をしたわけでも、友恵に頼まれたサインをするために戻ったわけでもなかった。小野木の携帯電話の番号を友恵に聞くためだった。
 電話で話してもどうにもならないかもしれない。しかし、小野木が戻るという来週まで、不安で、とても待てそうになかった。
 足の違和感は、疲れたせいだろうとか、薬の効果は簡単には消えないとか、心配ならもう一度打ってあげようかとか、気休めでも何でもいいから、小野木の話を聞きたかった。
 友恵は、大森が戻ってきたことを素直に喜んだ。大森は女性雑誌にサインをし、友恵から小野木の電話番号を聞いた。
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