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 青井容子は、大森に言ったように、就職試験を受けるために実家に戻った。
 ただ、大森には週明けの月曜日に故郷に帰ると言ったのだが、容子は予定を変えて土曜日に東京を離れた。東京にいると、大森のことを考えてしまう。それが辛くて、早めに帰ることにした。
 老人福祉センターへの就職は順調だった。
 都会よりも地方のほうが高齢化や老人福祉の問題は深刻だ。
 息子や娘は故郷を離れ、都会に就職すると、地元にはもう戻ってこない。一度、都会での楽しみを知ってしまうと、田舎に帰って親と一緒に暮らすのは難しい。
 親は年を取り、いつか連れ添った相手がこの世を去る、自然と地方には一人暮らしの高齢者が増えていく。
 健康だった体も、年をとれば、いつしか病気がちになり、誰かの世話を必要とするようになる。子どもは帰ってこない。特別養護老人ホームや介護付きの老人ホームが必要になる理屈だ。
 資格を持っている若い人材は、必要なのだが、なかなか集まってこない。若者は何としても採用したい。人を選んでいる余裕などないのだ。
 容子の採用試験も、試験とは名ばかりで、
筆記試験はなく、面接だけだった。その面接も、父親と中学校まで一緒だったという人事部長と、「お父さんは元気か」とか、「お婆さんの病気はだいじょうぶか」とか、世間話をしただけだった。そして、最後に、
「一応、内定と言うことで、後で書類を送りますから」と言われた。
 容子は大森に言った水曜日には帰らず、週末まで実家で過ごした。
「学校はいいの?」
 母の昌子は、縁側に座ってぼんやりと山をながめている娘を心配して言った。
「だいじょうぶ。就職試験だって言えば、休んでも欠席にならないから」
「そう……」
 東京を離れるのが寂しいのだろう、と、昌子は考えた。
 人生は自由だ、なんて幻想にすぎない。ほとんどの人間は、世間のしがらみという蜘蛛の糸に足や手を取られて動けなくなる。
 昔、地元から離れて東京で働いてみたかった自分がいた。それが、結局、地元の農協に就職し、夫と結婚して、子どもを育てている。
 子どもは大学四年と高校三年の二人姉妹だ。長女は、親元に戻って就職する道を選んだ。夫は手放しで喜んでいたが、自分は複雑な気分だった。
 縁側でぼんやりとしている娘に、
「お前は自由に生きていいんだよ」と声をかけたくなる。
「私たちのことは考えなくてもいいんだから」
 長女という足かせを壊して飛んでいっていい。
 しかし……と、思う。どこに飛んでいった所で自由は蜃気楼のように、追っても追っても捕まえられず、いつか消えて無くなってしまう。
「お母さん」
 容子が声をかけてきた。
「買い物があったら行ってこようか」
「そう……それじゃ……。ええと、夕飯は……」
 昌子は冷蔵庫を開けた。
「何にするの?」
「何にしようか……」
 長女と目が合った。何だか急に大人びた娘の顔が目の前にあった。
「ねえ、久しぶりだから、一緒に、買い物に行こうか?」
 昌子が言った。
「えっ、いいけど」
「じゃ、行こう。ちょと待って、すぐ着替えるから」
「お母さん。着替えなくてもいいよ。駅前のスーパーでしょ」
「せっかくだからさ。何か食べようよ。車でちょと行った所にファミリーレストランができたから、ほら、甘い物でも」
「ええ? お母さんと?」
「いいじゃない。たまには、お父さんとじゃ、そんな所、行けないし」
「まあ、いいか」
 母が着替えに部屋に戻り、容子は「うーん」と伸びをした。

 容子とカレーを食べた十日後、大森はアパートをかわった。
「一流になるためには、環境も大事だ。隣の音が聞こえる安アパートじゃ、ゆっくり休めないだろう」
 高尾からのアドバイスだった。
「今のままでだいじょうぶです」と大森は言ったが、
「まあ、俺にまかせろ」と高尾に押し切られてしまった。
 新しい部屋は東和大学から、歩いて十分足らずの場所に建つマンションだった。契約の手続や必要な費用は全てジェッツ社が出した。入居した後の家賃や光熱費もやはりジェッツ社が支払うことになっていた。
 部屋は、十五階建てのマンションの最上階だった。周囲には視界をさまたげるような建物はなく、窓を開けると、都心のビル群まで見ることができた。ベランダに出て、下を見ると、車や人が模型のように小さく見えた。
 どこの国の城を見ても、権力者は高い所に住みたがるものだ。上から見下ろすと、何も変わっていないのに、偉くなったような気分になる。
 隣の声が聞こえる木造のアパートから、煉瓦の壁を模したオートロックの瀟洒なマンションに移った。
 六畳一間、フローリングの床と言えば聞こえがいいが、ただの板張りだった部屋から、四人家族が十分住めそうな広さで、今度こそ本物のフローリングの部屋に移った。
 前の部屋は歩くと床がギシギシときしんだが、新しい部屋は、小さな揺らぎさえない。 乾燥機付きの洗濯機。冷蔵庫、エアコン、ジャグジーバス。ベッドから掃除機まで、ジェッツ社が生活に必要な家具や日用品一式を用意してくれた。
 前のアパートで使っていたタンスや電気製品はほとんど捨てることになった。
 住まいを変えることは、過去を捨てることだ。大森は意識してはいないが、古いタンスや、中古のテレビ、冷蔵庫と一緒に、昔の、と言っても、わずか半年ほど前なのだが、自分も廃品回収のトラックに乗せてしまった。 引っ越しも、ジェッツ社が用意した業者が行ない。大森は何もしなくてもよかった。
「これ、どうしますか」
 引越業者の帽子を被った、アルバイトらしい若者が部屋の隅に置かれていたジャージを手に取って聞いた。容子から贈られた白いジャージだった。
「あっ……」
 大森は、一瞬考え、「捨ててください」と、答えた。

 アフリカの中央部、独立間もなく、地図にも載せられていない小国で、陸上競技のオリンピック選考会が開かれた。
 部族間の争いがようやく収まり、政府らしきものができ、今回、初めてオリンピックに参加する。
 産業らしい産業はなく、周期的に伝染病がおそい、舗装された道もない。人々は、水を求めて十キロの道を井戸まで歩いていく。
 牛の死がいに黒蠅がたかり、土ぼこりが舞い、電気は首都のごく一部だけしかない。そんな国がオリンピックに参加しようとするのは無謀とも言えるのだが、去年まで、牛を追っていた大統領は、国の国際的な知名度を上げ、外国の支援を受けるためにも、オリンピックに参加すべきだと考えた。
 幸い、選手の派遣費用は、オリンピックを協賛している企業から出ることになった。
 参加するのは陸上競技だけだった。水泳は国内にプールがなく、バレーボールやバスケットボールといった球技は見たこともなかった。
 各部族に声をかけ、足の速い人間を荒野に
線を引いただけの競技場に集めた。
 それでも一万メートルと五千メートルは参加標準記録を破り、オリンピックへの参加が決まった。
 驚きは百メートルだった。百メートルは参加する予定ではなかったのだが、選考会でムサテ・イザワリという、欧米ではほとんど呪文のような名前の若者がオリンピック標準記録を突破してしまった。記録は十秒二0。世界規模の大会では平凡な記録であるが、ただ、この毎日、十キロ先の井戸に水を汲みに行くという若者は素足に借り物のスパイクを履き、立ったままのスタートで百メートルを走った。
 自分が育った村以外の世界は知らず、オリンピックという言葉も聞いたことはなかった青年は、家に帰ることは許されず、そのまま、宿舎に連れていかれた。
 五人兄弟で両親と祖母の八人家族が、雨漏りのする小さな家で、雑魚寝をしていた状態から、一人、ベッドの部屋に移された。
 次の日から、ムサテはわけも分からず、グラウンドで走らされた。白い肌の男から、手をついた、おかしな格好で走り出す方法を習った。
 一ヶ月後、夜、故郷を恋しがって泣くことはなくなっていた。スパイクの紐も手慣れた様子で結ぶようになっていた。そして、記録は九秒九0まで上がっていた。
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