パーフェクト・100mの悪夢

グタネコ

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 数日後。大森は高尾に誘われて、都内の高級ホテルで食事をした。ジェッツ社の担当者、田中も同席していた。
 大森は珍しく、ジャケットを着て、ネクタイをしめていた。成人式に親が買ってくれた紺のジャケットだった。
「大森君、こういうレストランにも少しずつ慣れておかないとね。正式な場所に出るようになると、いろいろマナーが必要になるからね」
 レストランの入り口で、高尾は大森に言った。
「はい」
 大森は緊張して答えた。
 大森にとって、かしこまったレストランで、フルコースのフランス料理を食べるのは初めての経験だった。
 窓際の席が用意されていた。窓の外には、東京の夜景が見えていた。
 ウェーターがナイフとフォークを揃えていった。
(外側のナイフとフォークから)大森は、緊張しながら、昨日、本で調べたマナーを思い出していた。
 親戚のおじさんの結婚式で、一度、フランス料理のフルコースが出たことがあるが、その時には、「ねえちゃん、箸を持ってきて」
と、平気で言うような雰囲気での食事だった。
 大森は横目でレストランの様子をうかがった。ファミリーレストランと違う、大声で話している人はいなかった。
 男性は背広、女性はドレスが多い。スープをすする音はしない。「ガチャ、ガチャ」と耳障りな音を出す人もいない。「カチャ。カチャ」と軽やかな音が聞こえるだけだ。
 ひどい失敗をしそうで、大森は、食事はいいから、もう帰りたくなった。
「正式に契約できそうですよ」
 ジェッツ社の田中が言った。大森の奨学金の話だった。
「そりゃ、よかった。なあ、大森君」
 高尾は多少大げさなほど、弾んだ声で言った。
「ありがとうございます」
 ジェッツ社からの奨学金は、大学卒の初任給ほどの額になるはずだった。
「決まったら書類を持ってきますから」田中が大森に向かって言った。
「お願いします」大森は頭を下げた。
 決まったのは大森だけではなかった。大森には知らされなかったが、高尾とジェッツ社の間にはアドバイザー契約が結ばれる予定だった。
「お飲み物はどうなさいますか」
 ウエーターが尋ねた。
「少しぐらいならいいだろ、なあ、大森君。ワインでもどうだ」
 高尾が言い、「はい」と、大森はこたえた。
「少し、遅れてますね」
 田中が腕時計を見た。
「あ、あれじゃないか」
 高尾が、レストランの入り口に現れた女性を指さして言った。ショートカットの大きな瞳の女性だった。
 田中が女性に向かって手招きをした。
 女性は、「あっ」と声を出し、笑顔を田中に返した。
「すいません。遅れちゃって」
「仁科さん一人なの、田上先生は?」
 女性は敬花大学の仁科奈月だった。
「先生は急に用事ができたから、私、一人で行きなさいって……すみません」
「仁科さんが謝らなくても」
「あれかな、あの人は病気だから」
 高尾が言った。
「おさかんですからね。田上先生は」
「今度は銀座のママだっけ」
 高尾が言うと、仁科は
「私、知りません」と言って、首を振った。
「ごめん、ごめん。つまんないこと言っちゃって」
  高尾と田中が笑った。大森は、話が分からず、曖昧に微笑み、菜月に目をやった。
 菜月が大森に軽く会釈をした。
「あれ、初めてだっけ、大森君と仁科君は」
 高尾が言った。
「はい」大森が答えた。
「そうか、二人とも、学生陸上界では結構、有名人だから、知ってるものだとばかり思っていたよ」
「いいえ」大森は首を振った。
「大森君、こちらは、仁科菜月さん、敬花大学の三年?」
「いえ、二年です」
「まだ二年か、前途洋々だね」
「いいえ、そんな」
「五千メートルの学生記録保持者、で良いのかな?」
「はい」
「今年の国内ランキングは、社会人を入れても一番ですよ」田中が口を挟んだ。
「オリンピックの最有力候補だね」
「とんでもないです」
「それで、こっちが、大森君」
 大森は菜月に向かって会釈をした。
「百メーターの……」
 何と言おうか、高尾が迷っていると、
「関東大会で勝った方ですよね」と菜月が言った。
「そうそう」
「仁科です。よろしくお願いします」
 菜月は立ち上がり、大森に挨拶をした。
 大森も慌てて立ち上がろうとして、ナイフとフォークが跳ね、大きな音を立てた。
「若いね、二人とも」
 高尾が言い、田中が笑った。
 大森が照れたように頭をかきながら坐った。
 ワインが運ばれて来て、グラスに注がれた。
「それでは、君たちの将来に」
 高尾が言い、乾杯した。
 菜月は「私は、お酒は」と断ったが、「格好だけでも」と田中に言われて、グラスを持ち、唇だけ濡らした。
 前菜、スープと料理が運ばれて来た。
 菜月が慣れた手つきで料理を口に運んでいくのを、大森は、映画でも見るような目で、見とれていた。
 菜月は華やかだった。ショートカットの髪に、白のブラウスと紺のスカート、平凡な装いなのだが、菜月の周りだけライトが当たっているように華やかだった。
「田中君」
 大森と菜月を見ながら高尾が言った。
「オリンピックに内定したら、二人でCMっていうのはどうかね」
「いいですね。美男美女ですからね」
「絵になるだろ」
「宣伝部に同期がいますから、その時には、ちょっと言ってみますよ」
 メインディッシュは牛フィレ肉のステーキだったのだが、大森は、緊張していて料理の味は良く分からなかった。
 菜月はデザートのケーキを食べ、紅茶を口に運んでいた。自然で柔らかな仕草に大森が見とれていると、菜月が大森に顔を向けた。菜月と目が会うと、大森は慌てて目を反らした。
 大森は自分では、意識していなかったが、自信が猫背を伸ばしていた。そして、記録が顔に輝きを与えていた。
 人は立場によって顔付きや雰囲気が変わっていく。田舎からでてきた猫背の青年は、ギリシャ彫刻を思わせる精悍なスポーツマンに変わりつつあった。
 食事が終わり、レストランを出て、大森は高尾と別れた。
 良い気分だった。一流ホテルのレストラン。フランス料理、ワイン、奨学金、そして、仁科菜月。記録を出せば、世の中が華やいでいく。
 電車の座席に腰を下ろし、大森は、「フー」と息を吐いた。ワインの酔いが心地よかった。
 駅に着き、大森は電車から降り、フワフワとした足取りで、商店街のアーケイドの下を歩いていった。
 駅の反対側にショッピングセンターができてから、昔からある商店街は寂れていた。
 夜も九時を過ぎると、ほとんどの店はシャッターを下ろし、開いているのは、コンビニと片言の日本語を話す、妖しいホステスを揃えたスナックだけだった。
 酔っぱらいが一人、ゆらゆらと歩いて来て、立ち止まり、ズボンのチャックを開け、電柱に向かって小便をしだした。
 ジャワジャワという音が、大森を現実に引き戻した。
 大森が向かっているのは、階段がギシギシなるアパートだった。高級マンションでも、有名なホテルでもない。三階建ての木造アパートの二階。日当たりの悪い北側の部屋。一時間前にいたシャンデリアの輝いていたホテルから隣の部屋の声が聞こえてくる安アパートに戻る。
 いつ建てられたか分からない、カビくさい臭いの籠もるアパートが大森の現実だ。
「あっ……」と大森は声を出した。
「そうだ……」
 外で食事をとって遅くなると、容子に連絡を入れてなかった。
 金曜日、お互いに用事がなければ、大森の部屋で夕飯を食べることになっていた。用事ができたら、連絡をする約束だ。それを、大森は忘れていた。
 大森は携帯電話を取り出し、容子の携帯に掛けようとして、途中で止めた。
 腕時間は十時五十分を示していた。容子のアパートの門限は十一時。いつもなら、容子は十時半ごろ大森の部屋を出ていく。
 容子はまだ、部屋で自分を待っているだろうか。大森は歩みを遅くした。菜月の笑顔が頭に残っていた。今は容子に会いたくなかった。
 大森はアパートの近くまでくると、すぐには、階段を上がらず、横に回って部屋の明かりを確認した。
 明かりは消えていた。どうやら、容子はもう帰ったようだった。
 大森はアパートの階段を音を立てないよう静かに登っていった。
 部屋の前につき、鍵を開け、ドアを引いた。部屋は暗かった。
 電気を点け、大森は部屋の中を見回した。六畳程度の広さしかない部屋だ。一目で部屋中を見渡せる。
 容子は居なかった。
「ふー」と大森は息をはいた。
 肉じゃががテーブルの上で冷めていた。その横に、「夕飯は作って置きました。遅くなったので、今日は帰ります。容子」と、書き置きが残されていた。
 
 マイク・ロジャース。
 ヨーロッパで一番速い男は、ロンドンの郵便局で働く物静かな二十六歳の父親だった。
 彼は、ヨーロッパ選手権百メートルで三連覇していた。
 有名になってから、コマーシャルの誘いはいくらでもあるのだが、敬虔なクリスチャンでもある、この若い父親は、華やかな世界には全く興味を示さなかった。
 競技会が日曜日に開かれると、家族と教会に行くからと、言って休んでしまうような男だった。
 二番目の娘が去年のクリスマスの日に生まれていて、今、彼の興味は、百メータの記録よりも、ハイハイをしている娘がいつ立ち上がるかにあった。
 彼の人生において陸上競技の位置は家族よりも、信仰よりも、さらには郵便配達の仕事よりも下だった。
 百メートルの記録は九秒九0。別に人種にこだわるわけではないが、彼は現在、白人のチャンピオンでもあった。
 アメリカの陸上選手のように、様々なスポンサー企業から金を得て、競技に専念すれば、さらに記録が伸びたかもしれない。しかし、彼は、現在の生活のまま競技を続けることを選んでいた。
 英国は、早々と彼をオリンピック代表に決定していた。
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