パーフェクト・100mの悪夢

グタネコ

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 次の日から、大森は東和大学のグラウンドで練習を始めた。
 東和大学と昭西大学は、同じ市内の歩いても二十分ほどの場所に位置していた。
 学生数や学部の数など、大学の規模もほぼ同じなのだが、昭西大学は福祉系の学部があることから、真面目な女生徒が多く、落ち着いた雰囲気だった。一方、東和大学は伝統的に、男子学生が多く、スポーツに力を入れていることもあって、体育会系の雰囲気が漂っていた。
 東和大学のグラウンドでは、陸上部とラグビー部が練習をしていて、コーチや部員たちの怒声のようなかけ声が響いていた。
 昭西大の牧歌的でぬるま湯のような練習風景とは雲泥の差だった。
 大森は、高尾に言われて、陸上部員と一緒に、見よう見まねで準備運動をした。
 準備運動が終わると、高尾は、
「寺田」と部員を一人呼んだ。
「はい」
 丸刈りの学生が勢いよく返事をした。ニキビの目立つ学生だった。
「はい。お呼びでしょうか」
 学生は軍隊式の直立不動の姿勢で、高尾の前に立った。
「寺田、これからは、この大森君と一緒に練習をしろ」
「はい」
「大森君、二年の寺田だ。君の練習パートナーになる」
 練習パートナーと言われても何のことなのか分からなかったが、大森はとりあえず、「はい」と、返事をした。
「寺田です。よろしくお願いします」
 学生は勢いよく頭を下げた。
「大森です。よろしく」
 つられて、大森も頭を下げた。
 陸上部員たちは怪訝そうな顔で大森を見ていた。グラウンドにいる学生は、皆、大学名の入ったトレーニングウェアを着ている。大森は一人、容子から贈られた白いウェアを着ていた。よそ者だ。そのよそ者に自分達の監督が指導している。気になるのは当り前だった。
 ただ、大森には部員達の目を気にしている余裕はなかった。オリンピック、コーチ、練習パートナー。初めてのことだらけだった。
 大森の大学では、陸上部と言っても、めいめいが勝手に練習しているだけで、決まったスケジュールも目標もあるわけではない。グラウンドに流れているのは弛緩した空気だけで、緊張感の欠けらも感じられなかった。ここには、身が引き締まるような緊張感がある。
「オリンピックだよ。大森君」
 高尾の言葉が蘇ってきた。本当に自分がオリンピックを目指すんだ。半信半疑だったものが、確信に変わっていった。大森は気持ちが高ぶってくるのを感じていた。
「それじゃ。大森君。まずは体をほぐして、スタートの練習から始めようか」
 高尾は、そんな大森の様子を見て、あえて、柔らかい言い方をした。
 高尾は、自ら大森のスターティングブロックを調節した。
 スタートを確認する。トラックに付く手の幅、腰のあげ方、体重のかけ方。スタートの飛び出し、手の振り上げ、スタート直後の両腕のバランス。一歩目の着地位置、二歩目、三歩目。
「顔をすぐに上げないように。まずは、スタートだから。スタートを改良すれば、コンマ1秒は簡単に縮まる」
 スタートの反応時間を確認する。0.25秒。一流のスプリンターなら0.15秒を切る。高尾の数回の指導で反応時間は0.18秒に縮まった。
 次は、スタートから中間走に入るまでの一連の動作。体が早く起きすぎる欠点。あごが上がる癖。中間走での不必要な体の緊張。
「肩の力を抜いて、手は握らず開いて走る。緊張はだめだ。必死に走っても速くはならない。リラックスして微笑むように走るんだ」
 高尾は大森の走りを細かくチェックしながら、繰り返し繰り返し、丁寧に教えていった。
 当然のことながら、高尾には高尾の思惑があった。大森の指導をボランティアで行っているわけではない。
 指導者としての力量は、選手の記録で測られる。優れた指導理論を持ち、熱心に指導したとしても、結果を残さなければ、何の評価も得られない。
 記録は、努力の前に才能である。いくら努力をしても、越えられない壁は存在する。
 百メートルのトップランナーは、一歩で二メーター五十センチを飛んでいく。百メートルを十秒切って走るには、努力以外のものが必要なのである。
 二週間後、東和大で記録会が行われた。
 大森の記録は十秒0五。非公式であるがオリンピックの標準記録を突破していた。
 高尾はストップウォッチを見ながら、
「よし」と満足そうにうなずいた。
 大森は記録を聞いて、首をひねった。自分ではそれほど速いという感覚はなかった。
 スタートは少し遅れた。隣で走った寺田のほうが一瞬速くストーティングブロックから飛び出していた。走りもまだ、どこかしっくりこない。足の力に上体が追いついていかない感じだった。それで、記録は十秒0五だ。
「どうした」
 高尾は大森に聞いた。
「いえ、何だか、記録が良すぎるから」
「そうか」
「間違いじゃないですか? スタートは遅れましたし、途中も体が浮いた感じで」
「上手く走れてないのに、この記録か……まだ、まだ速くなる」
「いや……それは」
「まだまだ速くなるさ。君の力はこんなものじゃないよ。頑張ろう、オリンピックだから」
 高尾は大森の背中をポンと叩いた。
 好記録を出してから、東和大の陸上部員たちの大森を見る目が変わった。
 スポーツでは強者は無条件で尊敬される。
 オリンピック選手。それは陸上競技を行っている者にとって、あこがれであり夢だ。
 大森が走ると、練習を中断して、その走りを眺めている目があった。顔が大森の走りに合わせて、右から左に振られていく。
 大森も自分が見られているのが分かった。注目されるのは初めての経験だった。それは、恥ずかしくもあり、誇らしくもある、くすぐったいような快感だった。
 三日後。高尾はグラウンドに現れたスポーツメーカーの担当者に大森を引き会わせた。
「田中君、彼は未来の日本記録保持者だよ。ほら、沢田よりずっといい男だろ。今は無名でもオリンピックが終われば日本のヒーローだから」
 高尾は大げさな表現で大森を紹介した。
「先生はみんなヒーローにしちゃいますからね」
 田中という若い担当者は、笑いながら、値踏みするように大森を見た。
「スパイクとウェアだけでいいよ。食費とか何とか言わないから」
「分かりました。まあ、専用のとはいきませんけど、スパイクとウェアは提供させていただきます」
「オッケー。悪いね、いつも」
「その代わり、走り幅飛の時田さんにウチのスパイクを使うように言って下さいよ」
「ああ……わかった、わかった。ただ、女子は俺の担当じゃないしな、それに、彼女は親の関係があってさ」
「そこを先生の力でお願いします」
 大森は、高尾の横に立って、会話を聞いていた。
 高尾に担当者の名前を言われ、とりあえずあいさつをしたが、事情はよくわからなかった。
「何ですか?」
 田中が帰った後、大森は高尾にたずねた。
「彼はジェッツの営業だよ。ジェッツ社に君のスパイクとウェアを頼んだのさ」
 高尾は答えた。
「ジェッツ社のスパイクとウェアですか?」
「そうだよ。今のスパイクとウェアじゃ寂しいだろ」
「はあ……でも」
 ジェッツ社のスパイクは高価だった。今、履いている大森のスパイクに比べ、金額は一桁違う。ジェッツ社のスパイクなら、もちろん文句はないが、大森には簡単に出せる金額ではなかった。
「金は、いらないんだよ」高尾は言った。
「えっ、そうなんですか」
「オリンピックに出るからな。先行投資ってやつだ」
「そうですか……」
 自分にウェアとスパイクが無料で提供される。平凡な表現だが、大森は、まさに狐につままれたような思いがした。
 数日後、ジェッツ社から大森のスパイクとウェアが三組、送られてきた。
 ウェアもスパイクも白を基調に金色のラインが入り、ジェッツ社のロゴが刺繍されていた。
 両方とも最新の最高級モデルだった。大森が身に着けてみると、ウエアもスパイクも測ったようにピッタリ合っていた。
 高尾が言ったように、金は一円も請求されなかった。ただ、試合ではジェッツ社のスパイクとウェアを使用するようにと、大森は高尾から言われただけだった。
 古いスパイクは捨てられた。そして、容子から贈られたトレーニングウエアは部屋の隅に置かれてしまった。
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