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第七章 植物園
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川合が植物園に向かっていた。運動不足だ。高血圧、高脂血症、尿タンパク、糖尿、心筋梗塞の恐れあり、長年の不摂生のセイで、年々健康診断の数値は悪化している。少し歩いただけで、心臓が苦しくなり、汗が吹きだしてくる。
川合は額に浮かんだ汗を手で拭った。ハンカチを忘れた。いや、元々持っていない。研究室にいるときは、いつ洗ったか覚えていない薄汚れたタオルで汗を拭いていた。
タツミバイオの高橋が死んだようだ。丸山が死んだ。山口も死んだらしい。そして、どうやら、あの蛇のような目をした男もだ。
二ヶ月前、あの夜、あの部屋にいた人間が次々に死んでいく。死んだのが偶然とは思えない。誰か知っていたのか? あの夜のことを。麻生圭子を殺した、氷雨の夜を。
復讐だろうか? だとしたら誰がやっているのか。彼女の死を知った身内の恨みか。彼女の夫は既に死んでいる。新しい恋人でもいたのか?。
他の理由か? 彼女の研究を欲しがっている者が殺したか。しかし、それでは山口や小尾を殺した理由が分からない。
やはり、ただの偶然か……いや……。
川合は繰り返し繰り返し考えてみたが、答えは出てこなかった。
そもそもの始まりは、研究所の縮小だった。大学の方針で、唐突にバイオ研究所の縮小が決まったのが一年前のことだった。学生数の減少による、大学の経費削減が理由だった。
米や野菜の研究は、時間はかかるが、金はそれほどかからなかった。種をまき、水をやり、花が咲けば受粉させ、収穫し、また、翌年種をまく。その繰り返しだ。
品種改良には長い時間が必要だが、費用は、それほど必要ではない。こつこつと忍耐強く、研究を継続させればいい。ところが、遺伝子組換えになると、特別な研究施設が必要になってくる。
バイオ関連の分野は進歩が早い。高額な設備やコンピュータの更新も短期間で必要になる。良い研究をするには費用がかかる。大学にとっては、金を食うだけで、メリットが少ない。学生の理系離れもあって、縮小の方針が出されるのもある意味当然だった。
大学は、流行の人工知能や若者受けするゲーム開発などの学科を作るらしいと噂されていた。人工知能やゲームでは農業の知識は必要ない。
閉鎖される研究室のスタッフには、一年で職を探すように通知がきた。一応、大学としても、再就職先の開拓に努力をすると書かれていたが、全国で大学のポストが減っている現状では、期待するだけムダそうだった。
タツミバイオから来ていた小野が麻生圭子のデータを盗み見ていた。小野に取引を持ちかけた。自分の就職と麻生圭子のデータだ。
あの夜。川合と丸山は、彼女のパソコンから研究データを盗み出そうとしていた。時計は夜十二時を回っていた。二人は、誰もいなくなった研究室で、圭子のパソコンを調べていた。パスワードは、あらかじめ丸山が盗み見ていた。
一つ一つファイルを開き、データを確認する作業は、考えていたよりもはるかに時間がかかった。
過去の論文や実験データなど、パソコンに保存されているファイルの数は膨大だった。 ファイルの作成日時を調べ、新しいファイルから開けていったのだが、目的のファイルはなかなか見つからなかった。
「隠しファイルになっているのかも」
丸山がつぶやいた。
「隠しファイル? 分かるのか?」
丸山はうなずき、キーボードを叩いた。
「これですかね」
丸山がモニターを指さした。
「開けてみろ」
「ええ」
ファイルが開く。川合と丸山の注意は、モニターに向けられていた。
「泥棒」
背中から声が聞こえた。
大声ではない。小さく、囁くような声で、闇の中から聞こえてくるようだった。
椅子に座りキーボードを叩いていた丸山は、一瞬で石になり、目を見開いたまま、動かなくなくなった。
川合はゆっくりと振り返った。そこには、髪は乱れ、頬がやせこけ、暗がりに目だけが異様に光る麻生圭子の姿があった。
「泥棒」
もう一度。
おかしくなっている。瞬きをしていない。ゆっくり、揺れるように歩いてくる彼女を見て、川合は思った。
丸山は、震えていた。
「泥棒」
声が大きくなった。
「泥棒。泥棒!」
彼女が叫び声を上げようとした、川合は飛びかかり口をふさいだ。
彼女が抵抗し、川合が抑えようとして二人はもつれて倒れた。
「ガツン」と彼女は机の角に頭を打ち、床に倒れた。
麻生圭子が動かなくなった。
「あ、麻生さん」
川合が彼女の体を揺すったが、ピクリともしなかった。
死んだ? 白目をむいていた。口からは沫を吹いている。息は? 脈はあるのか?。
川合は顔を近づけた。まだ、息はしているようだった。生きているとすれば、必要なのは救急車だ。打ち所が悪ければ命にかかわる。急がないとダメだ。
どうする……川合は回らない頭で考えた。救急車を呼べば、研究データを盗もうとしていたことを話さなくてはならない。
謝れば許してくれるだろうか。彼女は、「いいわよ」と水に流してくれるだろうか。
それはない。絶対にない。彼女は、大学に言いつけるに決まっている。多分、いや、きっと警察に訴えるだろう。そうなれば、自分の人生はお終いだ。
丸山は頭を抱え、ガタガタと震えていた。何の役にも立ちそうになかった。
突然、川合の頭に、山口の顔が浮かんだ。
アイツだ……。
山口は高校時代の同級生だった。当時はそれほど親しいわけではなかったのだが、十年振りに出席したクラス会で、たまたま隣の席になり、昔のアイドルの話で盛り上がった。
クラス会の後、飲み屋に流れ、二人とも離婚していることや、ギャンブルと女で失敗したこと、さらには、同じ持病を持っていることなどを話しながら明け方まで飲んだ。
その後も、何度か飲みに行き、一緒に競馬にも行った。
山口は雑誌に記事を書いていると言い、暴力団とも繋がりがあると自慢げに話した。
「まあ、いろいろな」
危ない橋も何度か渡ったとほのめかしていた。
酔っぱらいの話だ。悪がって、ヤクザの組長と知り合いだ、ぐらい言う奴はいくらでもいる。話半分か、千に三つか。真実は、せいぜい、話の一割にもならないだろう。
それでも、アイツなら何か知恵を出すかもしれない、と川合は思った。金を出せば何でもやる男を知っているとも言っていた。
「何かあったら言ってくれよ」
川合は山口の言葉を信じたかった。金で済むなら、それが一番良い。
川合は山口に電話をかけた。事情を説明すると、山口は簡単に、「分かった」と言った。
二十分もしないで山口は来た。二人だった。陰険な蛇のような目の男と一緒だった。小尾だった。ヤクザか、と川合は思ったが、どうやら違うようだった。
丸山は、部屋の隅に座り込んでブツブツと分けの分からない事をつぶやいていた。
川合は落ち着こうと、タバコに火を付けようとしたが、手が震えてライターに火がつかなかった。
「救急車を呼ぶしかないだろう」
山口が倒れている麻生圭子を見ながらつぶやくと、
「それはだめだ」と川合は慌てて言った。
「救急車は絶対にダメだ。大騒ぎになってしまう。何とかバレない方法を考えてくれ」
「そうだな……それじゃ……一度、外へ運び出して、それから……ダメか……」
山口が腕を組み、考えていると、横から小尾が、
「自殺ってことに」とボソッと言った。
「自殺?」
「ええ」
「できるのか?」
「まあ」
小尾が山口の耳元で何事がつぶやくと、山口は目を見開き、驚いた表情になった。
「遺書でも置いておけば……」
「そうだな……それしかないか……」
山口がつぶやくようい言うと、小尾が倒れていた彼女を担ぎ上げ、山口と一緒に部屋を出て行った。
しばらくして、「ドサッ」という音が聞こえ、川合と丸山が体を硬くした。
山口と小尾が帰っていた。山口は血の気が引いていたが、小尾は平然としていた。
山口と小尾はすぐに部屋を出た。川合は遺書を書き、圭子の机の上に置いた。ほどなく、サイレンの音が聞こえてきた。川合はおびえた丸山をなだめすかして、研究データを全て取りださせ、部屋から出た。
三日後、川合は山口に金を渡した。計百万円。山口が適当に話をでっち上げ、三流週刊誌に掲載させた。
『悲劇。女性研究者が人生を悲観して、屋上から身を投げる』
警察は自殺と断定した。誰も麻生圭子の自殺を疑わなかった。
あの夜、取り出した麻生圭子のデータは全て小野に渡した。
これで、何もかも終わったはずだったのに、小野が研究データが足りないと言ってきた。遺伝子組換えに関する重要な部分が抜けていた。彼女が盗まれることを心配してデータを隠したようだった。
データを盗む前に、川合は麻生圭子に声をかけていた。研究室が閉鎖されれば、彼女も職を失う。一緒にタツミバイオに移ることを提案したのだが彼女はそれを拒否した。
「私の研究をお金儲けの道具にはしません」
研究成果を無償で一般に公開すると言う。
タダで? なぜだ? 川合には理解できなかった。
あの留学生と一緒にアフリカに行って、砂漠を緑に変えるのだという。
川合には彼女は狂っている、としか思えなかった。夢と現実の区別がつかなくなっているのだ。
自分は何度も説得しようとした。研究を完成させるためにも、会社の協力が必要だと繰り返し説明した。
しかし、全て拒否された。あれは、仕方がなかった。ああするより、彼女の研究を盗むより他に方法は無かったんだ。川合は勝手な理屈を考えていた。
植物園が近づき、川合は歩みを遅くした。中で小野が待っているはずだった。
もしかしたら……。
川合の頭に、小野の顔が浮かんだ。あの三人を殺したのは、あいつかもしれない。タツミバイオの高橋を含めれば四人だ。小野が四人を殺し、今度は、オレを待ち伏せて、殺そうとしているんじゃないか。小野が研究を独り占めしようとして、全員殺した。そう考えれば辻褄が合う。
まあ、やれるものなら、やってみろ。
川合は、華奢で青白い顔の小野を思い浮かべて思った。こう見えても中学では柔道部だった。あんな男に負けるわけがない。
雷の音が近づいてきた。川合は、植物園の入り口のドアをゆっくり開け、周囲に目を配りながら入っていった。
川合が植物園に入っていくと、ギタヒが建物の陰から現れ、川合の後に続いた。
川合を見張っていたわけではなかった。ギタヒは、ただ麻生圭子の「花」を探し続けていた。あの花が荒れ地を救う、唯一の希望だと信じていた。何としても、あの時見た花を探しだし、故郷を緑に変えたかった。
圭子のマンションに行ったが、入れなかった。ギタヒが研究所に来たのは、何かあてがあったからではなく、他にもう探す場所が無くなったからだった。
ギタヒが研究棟に入ろうとしたとき、川合が建物から出て来た。ただの偶然だった。
川合の雰囲気がおかしかった。何かある、とギタヒは感じ、川合の後からついていった。
もしかしたら、彼があの花を隠したのではないか。そう思った。
川合は考えに夢中で、ギタヒのことは全く気がついていなかった。
川合がコソコソと植物園に入っていった。
「やっぱり、あそこか」
ギタヒは確信した。「花」は植物園にある。
ギタヒは、川合に気づかれないように注意しながら、彼の後ろから静かについていった
ギタヒの感は間違っていなかった。麻生圭子の花は、確かに植物園にいた。
圭子は、遺伝子組換えによって品種改良した花を実験室で培養した後、植物園に移した。あの夜の三日前のことだった。
植物園は「花」にとって、最適の環境だった。「花」は乾燥に強かったが、乾燥が好きな分けではなかった。成長には水と養分が必要だ。
植物園には水と養分が豊富に用意されていた。水がまかれ、肥料が与えられる。「花」は静かに成長していった。
圭子が死んで二ヶ月後、「花」は充分成長していた。そして、ある日、目覚めてように、一斉に花を咲かせ、種を飛ばした。
小野が植物園に入ってくると、「花」はピクリと反応した。そして、川合が現れると、無数の細い根を付けたツルを静かに伸ばしていった。
川合は額に浮かんだ汗を手で拭った。ハンカチを忘れた。いや、元々持っていない。研究室にいるときは、いつ洗ったか覚えていない薄汚れたタオルで汗を拭いていた。
タツミバイオの高橋が死んだようだ。丸山が死んだ。山口も死んだらしい。そして、どうやら、あの蛇のような目をした男もだ。
二ヶ月前、あの夜、あの部屋にいた人間が次々に死んでいく。死んだのが偶然とは思えない。誰か知っていたのか? あの夜のことを。麻生圭子を殺した、氷雨の夜を。
復讐だろうか? だとしたら誰がやっているのか。彼女の死を知った身内の恨みか。彼女の夫は既に死んでいる。新しい恋人でもいたのか?。
他の理由か? 彼女の研究を欲しがっている者が殺したか。しかし、それでは山口や小尾を殺した理由が分からない。
やはり、ただの偶然か……いや……。
川合は繰り返し繰り返し考えてみたが、答えは出てこなかった。
そもそもの始まりは、研究所の縮小だった。大学の方針で、唐突にバイオ研究所の縮小が決まったのが一年前のことだった。学生数の減少による、大学の経費削減が理由だった。
米や野菜の研究は、時間はかかるが、金はそれほどかからなかった。種をまき、水をやり、花が咲けば受粉させ、収穫し、また、翌年種をまく。その繰り返しだ。
品種改良には長い時間が必要だが、費用は、それほど必要ではない。こつこつと忍耐強く、研究を継続させればいい。ところが、遺伝子組換えになると、特別な研究施設が必要になってくる。
バイオ関連の分野は進歩が早い。高額な設備やコンピュータの更新も短期間で必要になる。良い研究をするには費用がかかる。大学にとっては、金を食うだけで、メリットが少ない。学生の理系離れもあって、縮小の方針が出されるのもある意味当然だった。
大学は、流行の人工知能や若者受けするゲーム開発などの学科を作るらしいと噂されていた。人工知能やゲームでは農業の知識は必要ない。
閉鎖される研究室のスタッフには、一年で職を探すように通知がきた。一応、大学としても、再就職先の開拓に努力をすると書かれていたが、全国で大学のポストが減っている現状では、期待するだけムダそうだった。
タツミバイオから来ていた小野が麻生圭子のデータを盗み見ていた。小野に取引を持ちかけた。自分の就職と麻生圭子のデータだ。
あの夜。川合と丸山は、彼女のパソコンから研究データを盗み出そうとしていた。時計は夜十二時を回っていた。二人は、誰もいなくなった研究室で、圭子のパソコンを調べていた。パスワードは、あらかじめ丸山が盗み見ていた。
一つ一つファイルを開き、データを確認する作業は、考えていたよりもはるかに時間がかかった。
過去の論文や実験データなど、パソコンに保存されているファイルの数は膨大だった。 ファイルの作成日時を調べ、新しいファイルから開けていったのだが、目的のファイルはなかなか見つからなかった。
「隠しファイルになっているのかも」
丸山がつぶやいた。
「隠しファイル? 分かるのか?」
丸山はうなずき、キーボードを叩いた。
「これですかね」
丸山がモニターを指さした。
「開けてみろ」
「ええ」
ファイルが開く。川合と丸山の注意は、モニターに向けられていた。
「泥棒」
背中から声が聞こえた。
大声ではない。小さく、囁くような声で、闇の中から聞こえてくるようだった。
椅子に座りキーボードを叩いていた丸山は、一瞬で石になり、目を見開いたまま、動かなくなくなった。
川合はゆっくりと振り返った。そこには、髪は乱れ、頬がやせこけ、暗がりに目だけが異様に光る麻生圭子の姿があった。
「泥棒」
もう一度。
おかしくなっている。瞬きをしていない。ゆっくり、揺れるように歩いてくる彼女を見て、川合は思った。
丸山は、震えていた。
「泥棒」
声が大きくなった。
「泥棒。泥棒!」
彼女が叫び声を上げようとした、川合は飛びかかり口をふさいだ。
彼女が抵抗し、川合が抑えようとして二人はもつれて倒れた。
「ガツン」と彼女は机の角に頭を打ち、床に倒れた。
麻生圭子が動かなくなった。
「あ、麻生さん」
川合が彼女の体を揺すったが、ピクリともしなかった。
死んだ? 白目をむいていた。口からは沫を吹いている。息は? 脈はあるのか?。
川合は顔を近づけた。まだ、息はしているようだった。生きているとすれば、必要なのは救急車だ。打ち所が悪ければ命にかかわる。急がないとダメだ。
どうする……川合は回らない頭で考えた。救急車を呼べば、研究データを盗もうとしていたことを話さなくてはならない。
謝れば許してくれるだろうか。彼女は、「いいわよ」と水に流してくれるだろうか。
それはない。絶対にない。彼女は、大学に言いつけるに決まっている。多分、いや、きっと警察に訴えるだろう。そうなれば、自分の人生はお終いだ。
丸山は頭を抱え、ガタガタと震えていた。何の役にも立ちそうになかった。
突然、川合の頭に、山口の顔が浮かんだ。
アイツだ……。
山口は高校時代の同級生だった。当時はそれほど親しいわけではなかったのだが、十年振りに出席したクラス会で、たまたま隣の席になり、昔のアイドルの話で盛り上がった。
クラス会の後、飲み屋に流れ、二人とも離婚していることや、ギャンブルと女で失敗したこと、さらには、同じ持病を持っていることなどを話しながら明け方まで飲んだ。
その後も、何度か飲みに行き、一緒に競馬にも行った。
山口は雑誌に記事を書いていると言い、暴力団とも繋がりがあると自慢げに話した。
「まあ、いろいろな」
危ない橋も何度か渡ったとほのめかしていた。
酔っぱらいの話だ。悪がって、ヤクザの組長と知り合いだ、ぐらい言う奴はいくらでもいる。話半分か、千に三つか。真実は、せいぜい、話の一割にもならないだろう。
それでも、アイツなら何か知恵を出すかもしれない、と川合は思った。金を出せば何でもやる男を知っているとも言っていた。
「何かあったら言ってくれよ」
川合は山口の言葉を信じたかった。金で済むなら、それが一番良い。
川合は山口に電話をかけた。事情を説明すると、山口は簡単に、「分かった」と言った。
二十分もしないで山口は来た。二人だった。陰険な蛇のような目の男と一緒だった。小尾だった。ヤクザか、と川合は思ったが、どうやら違うようだった。
丸山は、部屋の隅に座り込んでブツブツと分けの分からない事をつぶやいていた。
川合は落ち着こうと、タバコに火を付けようとしたが、手が震えてライターに火がつかなかった。
「救急車を呼ぶしかないだろう」
山口が倒れている麻生圭子を見ながらつぶやくと、
「それはだめだ」と川合は慌てて言った。
「救急車は絶対にダメだ。大騒ぎになってしまう。何とかバレない方法を考えてくれ」
「そうだな……それじゃ……一度、外へ運び出して、それから……ダメか……」
山口が腕を組み、考えていると、横から小尾が、
「自殺ってことに」とボソッと言った。
「自殺?」
「ええ」
「できるのか?」
「まあ」
小尾が山口の耳元で何事がつぶやくと、山口は目を見開き、驚いた表情になった。
「遺書でも置いておけば……」
「そうだな……それしかないか……」
山口がつぶやくようい言うと、小尾が倒れていた彼女を担ぎ上げ、山口と一緒に部屋を出て行った。
しばらくして、「ドサッ」という音が聞こえ、川合と丸山が体を硬くした。
山口と小尾が帰っていた。山口は血の気が引いていたが、小尾は平然としていた。
山口と小尾はすぐに部屋を出た。川合は遺書を書き、圭子の机の上に置いた。ほどなく、サイレンの音が聞こえてきた。川合はおびえた丸山をなだめすかして、研究データを全て取りださせ、部屋から出た。
三日後、川合は山口に金を渡した。計百万円。山口が適当に話をでっち上げ、三流週刊誌に掲載させた。
『悲劇。女性研究者が人生を悲観して、屋上から身を投げる』
警察は自殺と断定した。誰も麻生圭子の自殺を疑わなかった。
あの夜、取り出した麻生圭子のデータは全て小野に渡した。
これで、何もかも終わったはずだったのに、小野が研究データが足りないと言ってきた。遺伝子組換えに関する重要な部分が抜けていた。彼女が盗まれることを心配してデータを隠したようだった。
データを盗む前に、川合は麻生圭子に声をかけていた。研究室が閉鎖されれば、彼女も職を失う。一緒にタツミバイオに移ることを提案したのだが彼女はそれを拒否した。
「私の研究をお金儲けの道具にはしません」
研究成果を無償で一般に公開すると言う。
タダで? なぜだ? 川合には理解できなかった。
あの留学生と一緒にアフリカに行って、砂漠を緑に変えるのだという。
川合には彼女は狂っている、としか思えなかった。夢と現実の区別がつかなくなっているのだ。
自分は何度も説得しようとした。研究を完成させるためにも、会社の協力が必要だと繰り返し説明した。
しかし、全て拒否された。あれは、仕方がなかった。ああするより、彼女の研究を盗むより他に方法は無かったんだ。川合は勝手な理屈を考えていた。
植物園が近づき、川合は歩みを遅くした。中で小野が待っているはずだった。
もしかしたら……。
川合の頭に、小野の顔が浮かんだ。あの三人を殺したのは、あいつかもしれない。タツミバイオの高橋を含めれば四人だ。小野が四人を殺し、今度は、オレを待ち伏せて、殺そうとしているんじゃないか。小野が研究を独り占めしようとして、全員殺した。そう考えれば辻褄が合う。
まあ、やれるものなら、やってみろ。
川合は、華奢で青白い顔の小野を思い浮かべて思った。こう見えても中学では柔道部だった。あんな男に負けるわけがない。
雷の音が近づいてきた。川合は、植物園の入り口のドアをゆっくり開け、周囲に目を配りながら入っていった。
川合が植物園に入っていくと、ギタヒが建物の陰から現れ、川合の後に続いた。
川合を見張っていたわけではなかった。ギタヒは、ただ麻生圭子の「花」を探し続けていた。あの花が荒れ地を救う、唯一の希望だと信じていた。何としても、あの時見た花を探しだし、故郷を緑に変えたかった。
圭子のマンションに行ったが、入れなかった。ギタヒが研究所に来たのは、何かあてがあったからではなく、他にもう探す場所が無くなったからだった。
ギタヒが研究棟に入ろうとしたとき、川合が建物から出て来た。ただの偶然だった。
川合の雰囲気がおかしかった。何かある、とギタヒは感じ、川合の後からついていった。
もしかしたら、彼があの花を隠したのではないか。そう思った。
川合は考えに夢中で、ギタヒのことは全く気がついていなかった。
川合がコソコソと植物園に入っていった。
「やっぱり、あそこか」
ギタヒは確信した。「花」は植物園にある。
ギタヒは、川合に気づかれないように注意しながら、彼の後ろから静かについていった
ギタヒの感は間違っていなかった。麻生圭子の花は、確かに植物園にいた。
圭子は、遺伝子組換えによって品種改良した花を実験室で培養した後、植物園に移した。あの夜の三日前のことだった。
植物園は「花」にとって、最適の環境だった。「花」は乾燥に強かったが、乾燥が好きな分けではなかった。成長には水と養分が必要だ。
植物園には水と養分が豊富に用意されていた。水がまかれ、肥料が与えられる。「花」は静かに成長していった。
圭子が死んで二ヶ月後、「花」は充分成長していた。そして、ある日、目覚めてように、一斉に花を咲かせ、種を飛ばした。
小野が植物園に入ってくると、「花」はピクリと反応した。そして、川合が現れると、無数の細い根を付けたツルを静かに伸ばしていった。
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