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第四章 荒れ地
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夜の九時半。和泉は八時まで「花房」で働き、その後駅前でラーメンを食べ、自分のアパートに帰ってきた。
大きな地震がくればつぶれてしまいそうな古い木造のアパートだった。もっとも、和泉が日本にいるのは、せいぜい一年の内、二、三ヶ月で、あとは世界中を転々としているのだから、古くても狭くても気にはならなかった。
建物の陰に男が一人立っていた。和泉は立ち止まり、「ニール」と声を掛けた。
男が陰から出て来た。ニール・ギタヒ、アフリカのニジェールから来ていた留学生だった。
「久しぶり」
和泉が軽く手を上げた。
「こんばんは、和泉さん」
ギタヒが頭を下げた。
「入れよ」
和泉が部屋のドアを開け、ギタヒに入るように促した。
部屋にはベッドと机と椅子、冷蔵庫、それに簡単な二人掛けのソファがあるだけで、テレビもエアコンもなかった。
「適当に坐って」
ギタヒは床に座った。和泉は冷蔵庫から缶ビールを出し、ギタヒに渡した。
「久しぶり」
和泉は、カチンとギタヒの缶にあてて、ビールを飲んだ。
「この前、お母さんに会ってきたよ。元気そうだった。妹さんに赤ちゃんが生まれて、君が送ってくるお金でミルクが買えると喜んでいた。みんな元気だから心配しなくていいからって」
ギタヒは、うなずき、ビールで口を濡らした。
「研究室に行ってないんだって」
「……」
ギタヒは黙ってうつむいていた。
「僕が言える立場じゃないけど」
「……」
「何かつまみでも出そうか」
和泉は冷蔵庫を開けてみたが、ビールのつまみになりそうな物は何もなかった。
「そうだ、さっき何か貰って……」
和泉はバッグの中から野沢菜の漬け物を取りだした。花を届けに行った先で貰った信州土産だった。
「麻生さんの部屋の前にいたのは、君だろ?」
和泉は、漬け物をつまみながら言った。
ギタヒは一瞬、ビクッとし、「……はい」とうなづいた。
「どうして?」
「……」
「泥棒ってことはないよな」
「違います」
「それじゃ、どうして?」
「それは……どうしても、知りたいことがあって」
ギタヒは消え入りそうな声で答えた。
「知りたいこと? 研究?」
「はい」
「それなら、研究室の誰かに聞けばわかるんじゃないの?」
ギタヒは首を振った。
「何なの? 僕に分かることなら、調べてあげるけど」
ギタヒはもう一度首を振った。
「そう、まあ、言いたくなければ言わなくても……」
和泉はビールを飲みながら、思い詰めた様子のギタヒを見た。
「和泉さんは……」
ギタヒが小声で言った。
「なに?」
「麻生さんの自殺、信じますか?」
「麻生さんの自殺? 二ヶ月前の? 僕は、アフリカにいたから、よく分からないけど。お子さんがガンで亡くなって、悲嘆のあまりって聞いたけど」
「一緒にアフリカに行くって、約束していたんです」
「誰と? ニールと? 麻生さんが?」
ギタヒがうなずいた。
「どうして、麻生さんがアフリカに……」
「私の故郷は荒れ地です。何も生えない荒れ地です」
ギタヒが話し出し、和泉は、良く知ってるとうなずいた。事実、和泉はギタヒの故郷に何度も足を運んでいた。
文字通り、ギタヒの故郷は荒れ地だった。
ニジェールはサハラ砂漠の南の縁、サヘルと呼ばれる地帯に位置していた。
サヘルとはアラビア語で岸辺の意味を持つ。岸辺と言っても、海や川の岸辺を意味しているわけではなく、サハラ砂漠を縦断してきた商人たちが緑を目にし、川の岸辺と似ているので、「岸辺」と呼んだようだ。
かつては名前の通り、サヘル一帯は緑豊かな土地だったのだが、近年は深刻な砂漠化が進み、土地は荒れ果て、干ばつと飢餓に苦しむ土地になっていた。
岩と石、赤茶けた土に砂。風が吹けば、砂ぼこりが舞い上がり、目や鼻や口に入り込んでくる。
「神が捨てた土地と呼ばれています」
水を失った土地では作物は育たない。人々は、毎日、二時間かけて井戸まで行き、水を運んでくる。
乾燥に強い植物の栽培が繰り返し試みられてきたが、砂漠化は年々、広がるばかりだった。
植物は水を保持し、土地に潤いを与えてくれる。植物が無くなると水は一気に蒸発し、土地の温度が上がり、最後には土の中の微生物までいなくなり、土地は死んでしまう。 土地にとって、水分を保持する植物は重要である。乾燥に強く、わずかな水分でも生きていける植物が砂漠化を防ぐ上では何よりも必要なのである。
「麻生さんは、一緒に行って、植物を植えると言ってくれました。花を咲かせて、荒れ地を緑に変えると、約束してくれました」
「それは良い話だけど、思いだけでは、現実は変えられないからね。いろいろな所に働きかけて、援助を要請し、寄付を募って、ボランティア団体にお願いして、干ばつに強い植物を植えて、一つ一つ、繰り返し繰り返し、時間をかけて粘り強くやっていかないと、なかなか変えられない。それは君だって分かってることだろ。そのために、今まで、君の国が置かれている現状をいろいろな手段で訴え」
「成功したんです」
ギタヒが言った。
「訴えて……えっ、成功した? 何が?」
「花です」
「花?」
ギタヒは「はい」とうなづいた。
「成功したから、私の国にも花が咲くと、麻生さんは言いました。花が咲いて荒れ地が緑の土地に変わると」
「成功したら、じゃなくて、成功したと、言ったの?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「そうか……」
和泉は、数年前、麻生圭子に頼まれて論文を読んだことがあった。年齢は和泉よりも少し上のはずなのだが、アフリカで砂漠化防止の活動をしている和泉を圭子は尊敬していたようだった。
理想主義者で完璧主義者、妥協しない一途な研究者というのが和泉の彼女に対する印象だった。現実は理想だけでは動いていかない。時には妥協も必要だ。教授や准教授におべっかの一つも言えば、もう少し、研究費なども融通されたのだろうが、そのような事は、彼女にはできなかったようだった。
渡された論文のタイトルは、
「遺伝子組換え技術による穀物の品種改良」だった。
和泉は題名を見たとき、正直、「ああ、またか」と思った。米国の巨大穀物メジャーが行っているような、病害虫に強く、収穫量を増すための遺伝子組換えかと思ったためだった。目的は、主に収益の向上、金もうけのためである。
品種改良が全て悪いわけではない。品種改良は昔から行われている。寒さに強い米や、味が良いジャガイモやトマトなど、現在、私たちの食卓に並ぶ野菜や穀物のほとんどは、人間によって手を加えられたものだ。品種改良が自体が悪いのではなく、生態系を無視して行われる品種改良が悪いのである。
麻生圭子の論文に戻ると、「どうせ」と思いながら、和泉は読み始めたのだが、論文の内容は、和泉が想像していた物とはだいぶ異なっていた。彼女が取り組んでいたのは、土地の砂漠化の問題を解決するために、乾燥に強く、保水性に優れた植物を開発する研究だった。
現在、全世界で、毎年日本の国土の約三分の一、1200万ヘクタール、に匹敵する、膨大な面積が砂漠化していると推定されている。場所はアフリカからアジア、アメリカ、中東、オーストラリア、ヨーロッパと、まさに全地球上と言っていいほど広範囲に及んでいる。砂漠化を防ぐことは人類の大きなテーマだった。
基本は、乾燥に強く空気中の水分も利用できるエアープランツだった。それに水分を溜めやすいサボテンの遺伝子を組合せ、土からも空気中からも水分を取れるようにする。
さらには、水を求めて、自ら移動できる能力も付加させる、とあった。一見、植物が移動するというと、荒唐無稽な話に思われてしまいそうだが、例えば、タンポポはその種を綿毛によって風に運ばせるし、西部劇にでてくる、バードケージプランツという植物は、乾期の間は丸くなり、風に吹かれて移動していく。転がっている内に、湿気がある場所に着けば、そこに定着して繁殖する。
麻生圭子の論文には水分補給の対象として、空気中、土中、さらには、昆虫や小動物まで、考えることができると書かれていた。
エアープランツ、サボテン、蔦、苔、食中植物、などなど、様々な遺伝子を調べ、遺伝子組換えを行うことで、砂漠化を防ぐ究極の植物を作れる可能性があると、論文は結ばれていた。
和泉が論文を読み終えると、
「どうですか?」と遠慮がちに聞いた。
和泉は、「できるといいね」と答えた。
若い研究者にありがちな気負った点は気になったものの、本当にこのような植物が出来れば、砂漠化を防げるかもしれないと、読む者に希望を持たせるような内容だった。
ただ、遺伝子組換えや、植物の品種改良の実際を知っている和泉にすると、「とても実現は無理だろう」と思わざるを得なかった。
遺伝子組換えは、石を金に変える現代の錬金術でも、かぼちゃを馬車に変える魔法でもない。有用な特徴を持った遺伝子を特定し、他の生物に組み込んでみても、期待通りの機能が発揮される保証はない。発揮されるどころか、多くの場合、成長すらしない。
複数の遺伝子を組み込み、期待通りの働きをさせることなど、まさに奇跡なのだ。
それが、ギタヒによれば、彼女は成功させたという。
どんな花なんだ? 和泉は純粋に研究者として興味を持った。
「君は見たの? その花?」
和泉はギタヒに聞いた。
「はい」
ギタヒはうなづいた。
「どんな花だった」
「エアープランツ、蔦、サボテン、ローズオブジェリコ……」
ローズオブジェリコ(ジェリコのバラ)というのは、乾燥した砂漠の中でも半世紀は生きると言われている植物だ。乾燥すると、身を丸めただの枯草にしか見えなくなるのだが、水に浸すと、あっと言う間に葉を広げ、緑に変わっていく復活のバラだ。地球上で最も乾燥に強い植物の一種だった。
「イメージできないな。見てみたいな、どこにあるんだろう? 研究室?」
ギタヒは、首を振った。
「それじゃ……」
「わかりません」
「ああ、それで……あそこにいたのか」
ギタヒはうなづいた。
「初めてじゃないんだ。何度も行ったんだ。そうだろ」
「そうです。あの花が最後の希望なんです。荒れ地を緑に変える最後の花なんです。どうしても探さないと……」
「片山先生は、知らないの?」
研究室の教授だった。
「分かりません」
「丸山にでも、聞いて見るかな……」
助手の丸山は、和泉と同期だった。
「和泉さん、丸山さんは……」
ギタヒが言った。
「えっ? どうして」
「それは……」
ギタヒは言いよどんだ。
和泉がバッグから携帯電話を取りだそうとしたとき、恵美から預かった、あの「葉」が出て来た。
「それは……」
ギタヒが葉を見て言った。
「ああ、これは、何でも……」
ギタヒが真剣な顔で葉を見つめていた。
「もしかして、これが……」
「見せて下さい」
ギタヒが手を伸ばし、葉を手に取った。
「どう……」
「はっきりとは。一度だけ、ちょっと見ただけなので……」
「そうか……」
和泉が葉を見た。
何だ、これは? 葉が枯れていない。一体、何日経っているのか分からないが、葉は鮮やかで瑞々しい緑を保っていた。
「これかもしれないな……」
和泉はつぶやいた。
和泉は携帯電話をとりだし、電話をかけた。
「松島さん、久しぶり、和泉です」
電話口の向こうから城東大学の松島の声が聞こえてきた。
「おお、久しぶり、どこへ行っていたんだ、またアフリカか」
「ええ、まあ、それで、ちょっと、お願いがあるんですが」
「何だ」
「遺伝子解析を一件、お願いしたいんですが……できれば、急ぎで」
「いいよ、一件ぐらい」
「すいません、急いでるんです。明日、お願いできますか」
携帯電話の向こうで、「明日?」と驚いている声が聞こえた。
大きな地震がくればつぶれてしまいそうな古い木造のアパートだった。もっとも、和泉が日本にいるのは、せいぜい一年の内、二、三ヶ月で、あとは世界中を転々としているのだから、古くても狭くても気にはならなかった。
建物の陰に男が一人立っていた。和泉は立ち止まり、「ニール」と声を掛けた。
男が陰から出て来た。ニール・ギタヒ、アフリカのニジェールから来ていた留学生だった。
「久しぶり」
和泉が軽く手を上げた。
「こんばんは、和泉さん」
ギタヒが頭を下げた。
「入れよ」
和泉が部屋のドアを開け、ギタヒに入るように促した。
部屋にはベッドと机と椅子、冷蔵庫、それに簡単な二人掛けのソファがあるだけで、テレビもエアコンもなかった。
「適当に坐って」
ギタヒは床に座った。和泉は冷蔵庫から缶ビールを出し、ギタヒに渡した。
「久しぶり」
和泉は、カチンとギタヒの缶にあてて、ビールを飲んだ。
「この前、お母さんに会ってきたよ。元気そうだった。妹さんに赤ちゃんが生まれて、君が送ってくるお金でミルクが買えると喜んでいた。みんな元気だから心配しなくていいからって」
ギタヒは、うなずき、ビールで口を濡らした。
「研究室に行ってないんだって」
「……」
ギタヒは黙ってうつむいていた。
「僕が言える立場じゃないけど」
「……」
「何かつまみでも出そうか」
和泉は冷蔵庫を開けてみたが、ビールのつまみになりそうな物は何もなかった。
「そうだ、さっき何か貰って……」
和泉はバッグの中から野沢菜の漬け物を取りだした。花を届けに行った先で貰った信州土産だった。
「麻生さんの部屋の前にいたのは、君だろ?」
和泉は、漬け物をつまみながら言った。
ギタヒは一瞬、ビクッとし、「……はい」とうなづいた。
「どうして?」
「……」
「泥棒ってことはないよな」
「違います」
「それじゃ、どうして?」
「それは……どうしても、知りたいことがあって」
ギタヒは消え入りそうな声で答えた。
「知りたいこと? 研究?」
「はい」
「それなら、研究室の誰かに聞けばわかるんじゃないの?」
ギタヒは首を振った。
「何なの? 僕に分かることなら、調べてあげるけど」
ギタヒはもう一度首を振った。
「そう、まあ、言いたくなければ言わなくても……」
和泉はビールを飲みながら、思い詰めた様子のギタヒを見た。
「和泉さんは……」
ギタヒが小声で言った。
「なに?」
「麻生さんの自殺、信じますか?」
「麻生さんの自殺? 二ヶ月前の? 僕は、アフリカにいたから、よく分からないけど。お子さんがガンで亡くなって、悲嘆のあまりって聞いたけど」
「一緒にアフリカに行くって、約束していたんです」
「誰と? ニールと? 麻生さんが?」
ギタヒがうなずいた。
「どうして、麻生さんがアフリカに……」
「私の故郷は荒れ地です。何も生えない荒れ地です」
ギタヒが話し出し、和泉は、良く知ってるとうなずいた。事実、和泉はギタヒの故郷に何度も足を運んでいた。
文字通り、ギタヒの故郷は荒れ地だった。
ニジェールはサハラ砂漠の南の縁、サヘルと呼ばれる地帯に位置していた。
サヘルとはアラビア語で岸辺の意味を持つ。岸辺と言っても、海や川の岸辺を意味しているわけではなく、サハラ砂漠を縦断してきた商人たちが緑を目にし、川の岸辺と似ているので、「岸辺」と呼んだようだ。
かつては名前の通り、サヘル一帯は緑豊かな土地だったのだが、近年は深刻な砂漠化が進み、土地は荒れ果て、干ばつと飢餓に苦しむ土地になっていた。
岩と石、赤茶けた土に砂。風が吹けば、砂ぼこりが舞い上がり、目や鼻や口に入り込んでくる。
「神が捨てた土地と呼ばれています」
水を失った土地では作物は育たない。人々は、毎日、二時間かけて井戸まで行き、水を運んでくる。
乾燥に強い植物の栽培が繰り返し試みられてきたが、砂漠化は年々、広がるばかりだった。
植物は水を保持し、土地に潤いを与えてくれる。植物が無くなると水は一気に蒸発し、土地の温度が上がり、最後には土の中の微生物までいなくなり、土地は死んでしまう。 土地にとって、水分を保持する植物は重要である。乾燥に強く、わずかな水分でも生きていける植物が砂漠化を防ぐ上では何よりも必要なのである。
「麻生さんは、一緒に行って、植物を植えると言ってくれました。花を咲かせて、荒れ地を緑に変えると、約束してくれました」
「それは良い話だけど、思いだけでは、現実は変えられないからね。いろいろな所に働きかけて、援助を要請し、寄付を募って、ボランティア団体にお願いして、干ばつに強い植物を植えて、一つ一つ、繰り返し繰り返し、時間をかけて粘り強くやっていかないと、なかなか変えられない。それは君だって分かってることだろ。そのために、今まで、君の国が置かれている現状をいろいろな手段で訴え」
「成功したんです」
ギタヒが言った。
「訴えて……えっ、成功した? 何が?」
「花です」
「花?」
ギタヒは「はい」とうなづいた。
「成功したから、私の国にも花が咲くと、麻生さんは言いました。花が咲いて荒れ地が緑の土地に変わると」
「成功したら、じゃなくて、成功したと、言ったの?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「そうか……」
和泉は、数年前、麻生圭子に頼まれて論文を読んだことがあった。年齢は和泉よりも少し上のはずなのだが、アフリカで砂漠化防止の活動をしている和泉を圭子は尊敬していたようだった。
理想主義者で完璧主義者、妥協しない一途な研究者というのが和泉の彼女に対する印象だった。現実は理想だけでは動いていかない。時には妥協も必要だ。教授や准教授におべっかの一つも言えば、もう少し、研究費なども融通されたのだろうが、そのような事は、彼女にはできなかったようだった。
渡された論文のタイトルは、
「遺伝子組換え技術による穀物の品種改良」だった。
和泉は題名を見たとき、正直、「ああ、またか」と思った。米国の巨大穀物メジャーが行っているような、病害虫に強く、収穫量を増すための遺伝子組換えかと思ったためだった。目的は、主に収益の向上、金もうけのためである。
品種改良が全て悪いわけではない。品種改良は昔から行われている。寒さに強い米や、味が良いジャガイモやトマトなど、現在、私たちの食卓に並ぶ野菜や穀物のほとんどは、人間によって手を加えられたものだ。品種改良が自体が悪いのではなく、生態系を無視して行われる品種改良が悪いのである。
麻生圭子の論文に戻ると、「どうせ」と思いながら、和泉は読み始めたのだが、論文の内容は、和泉が想像していた物とはだいぶ異なっていた。彼女が取り組んでいたのは、土地の砂漠化の問題を解決するために、乾燥に強く、保水性に優れた植物を開発する研究だった。
現在、全世界で、毎年日本の国土の約三分の一、1200万ヘクタール、に匹敵する、膨大な面積が砂漠化していると推定されている。場所はアフリカからアジア、アメリカ、中東、オーストラリア、ヨーロッパと、まさに全地球上と言っていいほど広範囲に及んでいる。砂漠化を防ぐことは人類の大きなテーマだった。
基本は、乾燥に強く空気中の水分も利用できるエアープランツだった。それに水分を溜めやすいサボテンの遺伝子を組合せ、土からも空気中からも水分を取れるようにする。
さらには、水を求めて、自ら移動できる能力も付加させる、とあった。一見、植物が移動するというと、荒唐無稽な話に思われてしまいそうだが、例えば、タンポポはその種を綿毛によって風に運ばせるし、西部劇にでてくる、バードケージプランツという植物は、乾期の間は丸くなり、風に吹かれて移動していく。転がっている内に、湿気がある場所に着けば、そこに定着して繁殖する。
麻生圭子の論文には水分補給の対象として、空気中、土中、さらには、昆虫や小動物まで、考えることができると書かれていた。
エアープランツ、サボテン、蔦、苔、食中植物、などなど、様々な遺伝子を調べ、遺伝子組換えを行うことで、砂漠化を防ぐ究極の植物を作れる可能性があると、論文は結ばれていた。
和泉が論文を読み終えると、
「どうですか?」と遠慮がちに聞いた。
和泉は、「できるといいね」と答えた。
若い研究者にありがちな気負った点は気になったものの、本当にこのような植物が出来れば、砂漠化を防げるかもしれないと、読む者に希望を持たせるような内容だった。
ただ、遺伝子組換えや、植物の品種改良の実際を知っている和泉にすると、「とても実現は無理だろう」と思わざるを得なかった。
遺伝子組換えは、石を金に変える現代の錬金術でも、かぼちゃを馬車に変える魔法でもない。有用な特徴を持った遺伝子を特定し、他の生物に組み込んでみても、期待通りの機能が発揮される保証はない。発揮されるどころか、多くの場合、成長すらしない。
複数の遺伝子を組み込み、期待通りの働きをさせることなど、まさに奇跡なのだ。
それが、ギタヒによれば、彼女は成功させたという。
どんな花なんだ? 和泉は純粋に研究者として興味を持った。
「君は見たの? その花?」
和泉はギタヒに聞いた。
「はい」
ギタヒはうなづいた。
「どんな花だった」
「エアープランツ、蔦、サボテン、ローズオブジェリコ……」
ローズオブジェリコ(ジェリコのバラ)というのは、乾燥した砂漠の中でも半世紀は生きると言われている植物だ。乾燥すると、身を丸めただの枯草にしか見えなくなるのだが、水に浸すと、あっと言う間に葉を広げ、緑に変わっていく復活のバラだ。地球上で最も乾燥に強い植物の一種だった。
「イメージできないな。見てみたいな、どこにあるんだろう? 研究室?」
ギタヒは、首を振った。
「それじゃ……」
「わかりません」
「ああ、それで……あそこにいたのか」
ギタヒはうなづいた。
「初めてじゃないんだ。何度も行ったんだ。そうだろ」
「そうです。あの花が最後の希望なんです。荒れ地を緑に変える最後の花なんです。どうしても探さないと……」
「片山先生は、知らないの?」
研究室の教授だった。
「分かりません」
「丸山にでも、聞いて見るかな……」
助手の丸山は、和泉と同期だった。
「和泉さん、丸山さんは……」
ギタヒが言った。
「えっ? どうして」
「それは……」
ギタヒは言いよどんだ。
和泉がバッグから携帯電話を取りだそうとしたとき、恵美から預かった、あの「葉」が出て来た。
「それは……」
ギタヒが葉を見て言った。
「ああ、これは、何でも……」
ギタヒが真剣な顔で葉を見つめていた。
「もしかして、これが……」
「見せて下さい」
ギタヒが手を伸ばし、葉を手に取った。
「どう……」
「はっきりとは。一度だけ、ちょっと見ただけなので……」
「そうか……」
和泉が葉を見た。
何だ、これは? 葉が枯れていない。一体、何日経っているのか分からないが、葉は鮮やかで瑞々しい緑を保っていた。
「これかもしれないな……」
和泉はつぶやいた。
和泉は携帯電話をとりだし、電話をかけた。
「松島さん、久しぶり、和泉です」
電話口の向こうから城東大学の松島の声が聞こえてきた。
「おお、久しぶり、どこへ行っていたんだ、またアフリカか」
「ええ、まあ、それで、ちょっと、お願いがあるんですが」
「何だ」
「遺伝子解析を一件、お願いしたいんですが……できれば、急ぎで」
「いいよ、一件ぐらい」
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