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第二章 葉
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「佐竹さん、エミちゃんが、伝染病の可能性もあるって言ってましたよ。この部屋、消毒したんですかね。伝染病だったらまずいですよね」
「誰だよ、エミちゃんって」
「科捜研の山田恵美さん。同期なんです」
佐竹と鈴木は豊洲の高層マンションに来ていた。千葉県警の富田が見せた植物の写真が気になり、豊洲の現場を確かめずにはいられなくなった。
二人は、見落とした物はないか、背を屈めて各部屋を調べていた。
「結構、家庭的なんですよね。料理もよくするらしくて、得意な料理はグラタンと、確かハンバーグと……」
鈴木は恵美の話をグタグタとしていた。佐竹は背を伸ばし、ゴキゴキと音を立てて首を二三度、左右に倒すと、
「鈴木、わかったから、黙って探せ」と怒った。
「ちゃんと調べてますよ。そんな大声出さなくったって、二人しかいないんだから聞こえますよ」
「一々文句を言うな」
「だって、探せって言われても、鑑識の田代さんが調べた後でしょ」
「鈴木! しゃべってないで真面目に調べろ」
「分かりましたよ。そんなに怒ると体に悪いですよ。それこそ頭の血管が切れて、ここで死んだらミイラになっちゃいますよ」
鈴木はブツブツ言いながら、風呂場からキッチンに歩いて行った。
風呂場の脱衣カゴにワイシャツとネクタイが入っていた。キッチンの流しには汁の残ったカップ麺が残っている。死んだ高橋は、直前まで普段と変わらない生活をしていたようだった。
鈴木は、
「佐竹さん、何もありませんよ。早く、帰りましょうよ」
と何度も言っていた。恵美に伝染病かもしれないと言われたことが、ひどく気になっているようすだった。
目の前の床に、ミイラになった遺体があったと思うと、佐竹も良い気持ちはしなかった。
もちろん、首つり自殺した死体や、刺殺され血溜まりの中で苦悶の表情を浮かべていた死体がいいわけではないが、ミイラよりは人間味があるような気がする。
部屋には、まだ消毒の臭いが残っていた。国立予防研究所の検査でも、ウイルスや病原菌は検出されていないが、伝染病の疑いが完全に消えた分けではなかった。検出されない未知の物質の可能性もある。
とは言え、この部屋に入った警察関係者やマンションの管理人も、上の階や下の階の住人にも、特に問題となるような症状は出ていない。千葉県警の話を聞いても、小尾の職場やアパートの周辺で、新たにミイラになった人間はいないようだから、今のところ伝染病説は除いていいようだ。
ミイラになって発見された高橋義男は、三ヶ月前に離婚していた。古い言い方をすれば、痴情のもつれ、というのは殺人の理由としては定番なのだが、部屋に女性が訪れていた様子はなかった。
元の妻は、愛人がいるようなことを言っていたが、関根という女性に事情聴取したところ、
「ええ~、高橋部長ですか」とあからさまにバカにしたような口調で、
「だって、あの人、デブでハゲなんですよ。それにケチだし」と言った。そして、
「私、もうすぐ結婚しますから」と同棲している男の名前を言った。
病死が一番可能性が高い。病死なら、その理由が何にせよ、佐竹が扱う仕事ではない。
上司から「一応調べろ」とは言われたものの、ミイラになった理由を調べるのは警察ではなく、医者か研究者の仕事だ。
「やっぱり、すごい景色ですね」
鈴木がベランダに出て、東京湾の景色を眺めていた。
「他の部屋はすんだのか」
「終わりましたよ。向こうの部屋はガラガラですから」
「そうか。それじゃ、そろそろ……」
帰るかと、佐竹が言いかけた所で、
「佐竹さん」と鈴木が大声を出した。
「どうした」
佐竹は、ベランダに向かって慌てて走り出し、居間に置かれたガラステーブルで足をしたたかに打った。
「イテェ」
佐竹は、足を引きずりながらベランダに出た。
「どうした」
「ほら、これ」
鈴木は薄緑色の細い葉を佐竹に渡した。
「ここにあったんですよ」
鈴木はベランダの隅を指さした。
「同じ、ですかね」
「どうかな……」
佐竹は手の平に置かれた小さな植物を見た。同じかもしれないが、違うかもしれない。二人とも植物に詳しくはない。同じかどうか分かるわけがなかった。それでも、多分同じだろうと佐竹は思った。刑事のカンというやつだ。
どこから来たんだ……。佐竹は部屋の中に目をやった。観葉植物などは置かれていない。
風か……。風に吹かれて、四十八階まで吹き上げられて来たのか。海の近くは風が強い、少し強い風が吹けば、軽い物なら舞い上がるだろう。
佐竹は、ベランダから下を覗いた。さすがに高い、車が豆粒のように見える。地面に向かって吸い込まれそうになる。佐竹は、このまま落ちていきそうな気がしてすぐに顔を引っ込めた。
鈴木の携帯電話が鳴った。
「はい、鈴木です。はい……はい……そうですか」
鈴木が真面目な顔になった。
「分かりました。すぐ、そちらに廻ります」
鈴木は携帯電話を切り、
「佐竹さん」と言った。
「何だ?」
「また、ミイラです」
「なに? また?」
「ええ。今度は、深川です」
「深川……ホントかよ」
急に風が吹き、髪の毛が乱れ、背広の裾がバタバタと音を立てた。
「さむっ」
佐竹は寒気を感じたが、それは風のせいだけではなさそうだった。
「誰だよ、エミちゃんって」
「科捜研の山田恵美さん。同期なんです」
佐竹と鈴木は豊洲の高層マンションに来ていた。千葉県警の富田が見せた植物の写真が気になり、豊洲の現場を確かめずにはいられなくなった。
二人は、見落とした物はないか、背を屈めて各部屋を調べていた。
「結構、家庭的なんですよね。料理もよくするらしくて、得意な料理はグラタンと、確かハンバーグと……」
鈴木は恵美の話をグタグタとしていた。佐竹は背を伸ばし、ゴキゴキと音を立てて首を二三度、左右に倒すと、
「鈴木、わかったから、黙って探せ」と怒った。
「ちゃんと調べてますよ。そんな大声出さなくったって、二人しかいないんだから聞こえますよ」
「一々文句を言うな」
「だって、探せって言われても、鑑識の田代さんが調べた後でしょ」
「鈴木! しゃべってないで真面目に調べろ」
「分かりましたよ。そんなに怒ると体に悪いですよ。それこそ頭の血管が切れて、ここで死んだらミイラになっちゃいますよ」
鈴木はブツブツ言いながら、風呂場からキッチンに歩いて行った。
風呂場の脱衣カゴにワイシャツとネクタイが入っていた。キッチンの流しには汁の残ったカップ麺が残っている。死んだ高橋は、直前まで普段と変わらない生活をしていたようだった。
鈴木は、
「佐竹さん、何もありませんよ。早く、帰りましょうよ」
と何度も言っていた。恵美に伝染病かもしれないと言われたことが、ひどく気になっているようすだった。
目の前の床に、ミイラになった遺体があったと思うと、佐竹も良い気持ちはしなかった。
もちろん、首つり自殺した死体や、刺殺され血溜まりの中で苦悶の表情を浮かべていた死体がいいわけではないが、ミイラよりは人間味があるような気がする。
部屋には、まだ消毒の臭いが残っていた。国立予防研究所の検査でも、ウイルスや病原菌は検出されていないが、伝染病の疑いが完全に消えた分けではなかった。検出されない未知の物質の可能性もある。
とは言え、この部屋に入った警察関係者やマンションの管理人も、上の階や下の階の住人にも、特に問題となるような症状は出ていない。千葉県警の話を聞いても、小尾の職場やアパートの周辺で、新たにミイラになった人間はいないようだから、今のところ伝染病説は除いていいようだ。
ミイラになって発見された高橋義男は、三ヶ月前に離婚していた。古い言い方をすれば、痴情のもつれ、というのは殺人の理由としては定番なのだが、部屋に女性が訪れていた様子はなかった。
元の妻は、愛人がいるようなことを言っていたが、関根という女性に事情聴取したところ、
「ええ~、高橋部長ですか」とあからさまにバカにしたような口調で、
「だって、あの人、デブでハゲなんですよ。それにケチだし」と言った。そして、
「私、もうすぐ結婚しますから」と同棲している男の名前を言った。
病死が一番可能性が高い。病死なら、その理由が何にせよ、佐竹が扱う仕事ではない。
上司から「一応調べろ」とは言われたものの、ミイラになった理由を調べるのは警察ではなく、医者か研究者の仕事だ。
「やっぱり、すごい景色ですね」
鈴木がベランダに出て、東京湾の景色を眺めていた。
「他の部屋はすんだのか」
「終わりましたよ。向こうの部屋はガラガラですから」
「そうか。それじゃ、そろそろ……」
帰るかと、佐竹が言いかけた所で、
「佐竹さん」と鈴木が大声を出した。
「どうした」
佐竹は、ベランダに向かって慌てて走り出し、居間に置かれたガラステーブルで足をしたたかに打った。
「イテェ」
佐竹は、足を引きずりながらベランダに出た。
「どうした」
「ほら、これ」
鈴木は薄緑色の細い葉を佐竹に渡した。
「ここにあったんですよ」
鈴木はベランダの隅を指さした。
「同じ、ですかね」
「どうかな……」
佐竹は手の平に置かれた小さな植物を見た。同じかもしれないが、違うかもしれない。二人とも植物に詳しくはない。同じかどうか分かるわけがなかった。それでも、多分同じだろうと佐竹は思った。刑事のカンというやつだ。
どこから来たんだ……。佐竹は部屋の中に目をやった。観葉植物などは置かれていない。
風か……。風に吹かれて、四十八階まで吹き上げられて来たのか。海の近くは風が強い、少し強い風が吹けば、軽い物なら舞い上がるだろう。
佐竹は、ベランダから下を覗いた。さすがに高い、車が豆粒のように見える。地面に向かって吸い込まれそうになる。佐竹は、このまま落ちていきそうな気がしてすぐに顔を引っ込めた。
鈴木の携帯電話が鳴った。
「はい、鈴木です。はい……はい……そうですか」
鈴木が真面目な顔になった。
「分かりました。すぐ、そちらに廻ります」
鈴木は携帯電話を切り、
「佐竹さん」と言った。
「何だ?」
「また、ミイラです」
「なに? また?」
「ええ。今度は、深川です」
「深川……ホントかよ」
急に風が吹き、髪の毛が乱れ、背広の裾がバタバタと音を立てた。
「さむっ」
佐竹は寒気を感じたが、それは風のせいだけではなさそうだった。
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