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第二章 悪夢

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「てめえ、むかつくんだよ」
 浦積高校。廊下で、罵声が響いていた。
「ふざけんじゃねえ」
 教室でも同じだった。それも、一箇所ではなく、どの階のどの廊下でも、どの学年のどの教室でも大声で争う声が聞こえていた。
 浦積高校は躁状態が続いていた。ただし、しばらく続いていた明るい躁が、今は暗い躁に移っていた。
 目が合ったという理由で、授業中に廊下に出て殴り合いを始める生徒がいた。
 肩が触れた、傘が当たった、顔が気にくわない、腹が減った、どうでもいい理由で、急に大声をだし、殴り合いの喧嘩が始まる。
「うるせえ」
「ばかやろう」
 言葉が意味不明な、うなり声に変わっていく。
「ウオー、ウオー」と獣のように唸りながら殴り合い、もつれ合い、そしてかみつきあっていた。
 学校の雰囲気がささくれだっていた。
 隆夫の教室でも、教室の後ろで二人、今のにも殴り合いの喧嘩を始めそうな雰囲気だった。
 隆夫は罵声も嬌声も気にならなかった。頭の中は、叔父の姿や奈保子の姿、空腹とともに襲ってくる形容しがたい怒りと透の言葉―「友野……いと思ったことはないか?」―が脈絡もなく、フラッシュのように闇に浮かんでは消えていった。
 考えがまとまらない。考えようとすると、焼き肉が浮かんでくる。フライドチキン。ステーキ、ハンバーグ。ともかく、食いたい。
 パンを頬張っている生徒がいた。それをうらやましそうに見つめている目がある。
 食いたい。教室を抜け出して買いに行こうか、それとも、あいつを殴り倒して奪って食おうか。
「神谷。なんとか言えって言ってんだろ」
 堀尾が透の胸ぐらをつかんで、引き上げようとしていた。
 透が堀尾をにらんだ。透の肩が小刻みに揺れていた。
 怒り。強烈な怒り。隆夫には、透の怒りが離れていても伝わってきた。
「何だ。やるのかよお」
 語尾はただのうなり声になっている。堀尾の顔が興奮して赤くなっていた。目がつり上がり、息が荒い。
 透が立ち上がった。
「おう、おうお」
  堀尾は言葉にならない声を出した。
 透の目が鈍く光っていた。
 立ち上がると、透のほうが少し背が高く堀尾を見下ろす格好になった。
 堀尾は無性に腹が立った。
 前は体を縮め、背を丸めて椅子に座っていた。歩くときも教室の隅をこそこそと隠れるようにしていたはずだ。それが、俺の前に立って、にらみ付けてくる。
 このやろう。
 堀尾は、「てめえ」と、大声を出した。
 胸倉をつかんでいた右手を離し、左手で掴みなおした。右手が硬く握られる。
 透がズボンのポケットに手を入れた。
「友野、お前は……いと思ったことはないか」
 隆夫の耳に透の声が聞こえた。
 人を刺したい? 人を殺したい?。
 ナイフだ。
「神谷!」
 隆夫は叫んで、立ち上がった。
 止めろ。刺すな。そんなやつ、刺す価値もない。つまらない怒りと自分の人生を引き替えにするな。
 透と堀尾が隆夫に顔を向けた。
「友野」と堀尾が叫んだ。
「文句、あんのかよ」
 堀尾が隆夫をにらんだ。隆夫が堀尾をにらみかえした。
 堀尾は透から手を放し、隆夫に向かって歩き出した。
「ふざけんな」「ゆるさねえぞ」「こいつら」「ばかやろう」
 堀尾が無意識につぶやいていた。
「絶対…ばかやろう……ふざけやがって」 
 どいつもこいつも、俺様に逆らいやがって、弱虫は弱虫らしく教室の隅で震えていろ。
 自分はクラスの王だったはずだ、残りは奴隷、神谷や友野は最低のカスだったはずだ。それなのに……。
 中年太りのブルドックのような顔が怒りで真っ赤になっていた。
 机と机の間を体を揺らしながら進んでくる。目が据わっていた。机の角に体を当てながらも痛みは感じていなかった。
 生徒が気味悪そうに道を開けた。
 隆夫には、怒りで冷静さを失った堀尾のぎごちない動きが、こっけいなほど遅く感じられた。
 熱い。アドレナリンが大量に放出され、体中を駆け巡っていく。心臓の鼓動が痛いほど響く。
 不思議と頭は冷静だった。
 拳を握りしめる。
 勝てる。力では勝てないかもしれないが、動きは自分が上だ。どこを殴ればいい。鼻か、喉か、それとも急所を蹴り上げるか。
 堀尾は怒りで無防備になっている。思い切り蹴り上げて逃げればいい。隆夫は堀尾との距離を測った。
 透が見つめていた。右手はまだポケットに入れられていた。
 ポケットには絶対にナイフが入っている。もし、自分が堀尾にやられたら、透は堀尾を刺すつもりだ、と隆夫は思った。
 堀尾がうなりながら近づいてくる。
 教室が静かになった。堀尾の引きずるような足音と、机にぶつかる音だけが聞こえていた。
 どこか別の教室で繰り広げられている喧嘩の声と音が、映画のBGMのように感じられた。
 隆夫は身構えた。右足を少し後ろに引く。
 堀尾が近づいてくる。
 隆夫は頭の中で床に線を引いた。堀尾が線を越えたら、顔を殴り、急所を蹴り上げる。堀尾がうずくまる。頭を蹴る。そして……。 その後、自分がどのような行動をとるのか、想像もつかなかった。
 殴れ、殴れ、殴れ。
 心が叫んでいた。死ぬまで殴れ。
 架空の線まであと一歩の時、
「おい、そこ、何やってる」
 教室に数学の教師の大野が入ってきた。
 堀尾が止まった。
「お前ら席に着け」
 堀尾は、「チェ」と、舌打ちすると、
「おい、後でおぼえてろよ」と言って席に戻った。
「まったく。貴様らは」
 大野が授業を始めた。
 隆夫は聞いていなかった。
 手の平に爪の後がついていた。力を入れすぎて、右手がこわばっていた。右手をゆっくり開き、また閉じる。
 教師に止められて、がっかりしている自分がいた。初めての戦いだった。この拳で心ゆくまで殴りたかった。殴られても殴り返す。痛みが心地良い。血の臭い、血の味。
 頬が上気して赤くなっていた。心臓の鼓動が収まらない。隆夫は奈保子を見た。奈保子は頬を赤くし、潤んだような目で隆夫を見ていた。
 隆夫は、アドレナリンが体中に満ちている感覚をしばらく楽しんでいた。
 それは、隆夫だけではなかった。透も堀尾も、クラスの生徒全員が興奮して上気した顔をしていた。

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