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第一章 奇跡
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京子はパソコンの前で固まっていた。調べろと言われても、何から調べればいいのか見当がつかなかった。感染症に関する情報は、世界中で共有されている。新しい感染症の発生は、アメリカCDCの情報などを参考にすれば良い。会議に掛けるまでもなく、既に誰かが調べているだろうし、京子よりも感染症に詳しい専門家はどこにでもいるはずだ。
試しに、「痩せる 凶暴」などと検索にかけてみたが、出てくるのはダイエットの宣伝か、オカルト系の怪しいサイトやゾンビ映画ぐらいのものだった。
京子は、配布された発生場所と患者のプロフィールを改めて眺めた。
アメリカ、ルイジアナ州、モーゼ。南部の小都市。患者は白人男性、年齢三十五歳、職業自動車セールスマン。
シンガポール、中国系男性、二十八歳、大学職員。
フランス、北部、白人女性、七十五歳、無職。
オーストラリア、メルボルン、黒人男性、五十五歳、タクシー運転手。
香港、アジア系、女性、四十歳、主婦。
分からない……。性別も年齢も人種もバラバラで、何一つ法則性は感じられない。地理的にも離れていて、お互いの事件に関連性はなさそうだった。だいたいリストを眺めて分かるくらいなら、仰々しく会議室に集めたりしないだろう。
京子は軽く伸びをして、立ちあがった。肩が凝っていた。慣れない会議で緊張したせいだろう。京子は気分転換にコーヒーをいれようと水場に歩いていった。
何か引っ掛かっていた。発生した場所……アメリカ、ルイジアナ州。会議室で地名を聞いたときから、どこかで聞いた気がしていた。
アメリカ、南部の小都市。アメリカで行ったことがあるのは、ニューヨークとワシントンだけだ。南部は行ったこともない、知り合いもいない。モーゼという地名をどこかで聞いた気がするのだが、どこだったか思い出せなかった。
南部と言って思い出すのは、ジャズとハリケーンぐらいだ。ハリケーンのニュースででも聞いたのだろうか。京子は、カップにコーヒーを注ぎながら首をひねった。
「京子」
背中から声がかかった。
「だいじょうぶ?」
同僚の水野早紀だった。職場に入ったのは早紀が一年早いのだが、年齢は同じだった。同じフロアーにいるのだが所属は違った。京子は人間の感染症を扱っている課で、早紀は家畜の伝染病の部署だった。
「えっ、ええ、元気よ」
心配そうに顔を覗き込んでくる早紀に京子は答えた。城戸のことを考えて、落ち込んでいると思ったようだった。
「今日、お昼、外に行かない? 美味しいパスタの店、見つけたから」
早紀が言った。
「ええ、いいわよ」と京子は答えてから、
「ありがとう……」と付け加えた。
早紀が自分を気遣って声をかけてくれたことは分かっていた。
「ねえ、少し気分転換したら、良かったら、夜、付き合うわよ」
早紀が自分のカップにコーヒーを注ぎながら言った。
「……」
京子は首を振った。まだ、夜に出歩く気にはなれなかった。
「映画なんてどう? 前は二人で時々、観に行ってたでしょ」
「ええ……」
映画ぐらいなら観てもいいか、と京子は思った。
「誰だっけ、京子が好きだった俳優さん」
「えっ?」
「確か、ほら、ロバート何とか、優しそうな感じの」
ロバート……。
「そうだ……」
京子は思わずつぶやいていた。
「なに?」
早紀が怪訝そうな顔をした。
「あっ、ちょっと、考え事をしていて。ごめん、私、席に戻らないと、仕事が……」
「そう、それじゃ。お昼、だいじょうぶ? 忙しかったら、また他の日にでも」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ごめんね」
思い出した。ルイジアナ州、モーゼ。あの事件だ。
京子は席に戻り、急いで検索した。「ロバート・ブリッグス」
十五万件がヒットする。生物学博士。論文や講演会の要旨。弁護士事務所は同姓同名の他人だろう。
「これ……」
新聞記事があった。デイリールイジアナ。地方新聞のようだ。日付は半年前、自宅が火事になり、夫、妻、息子の三人全員が焼死体で発見されていた。場所は、ルイジアナ州、モーゼ、リストにあった町と同じ名前だった。
京子は、博士のプロフィールを調べた。
ロバート・ブリッグス。三十五歳。国立遺伝子研究所、主席研究員。亡くなる一年前、研究所を辞め、ルイジアナ州立大学に移っていた。
何を研究していたのか、公開されている彼の論文を開け、読んでみたが、専門的な部分は難しく、京子では理解するのは難しそうだった。ただ、幹細胞の増殖と免疫活性を高める研究をしていることは理解できた。
「幹細胞の増殖と免疫……」
城戸の研究と似ているような気がした。もっとも、幹細胞や免疫は、今ブームと言っていいほど盛んに研究されている。似たような研究だとしても別に珍しくはないのだろう。
幹細胞とは、様々な種類の細胞に分化できる能力を持つ細胞のことだった。何らかの方法で人間の体内にある幹細胞を目的の細胞に分化させることができれば、損傷を受けた組織を自己修復することができるようになるはずだ、と考えられている。
免疫力を高めれば、病原菌やウイルスから身を守れることができる。幹細胞を活性化できれば、傷んだ組織が自己修復される。ガンも心臓病も脳梗塞も全て治り健康な体が手にはいるはずだった。
死亡原因は火災によるものらしいが、一部では、自殺も噂されているようだった。
子どもの病気は小児ガンで、奥さんはノイローゼ気味だったらしく、子どもの将来を悲観して、自殺したのではないか、というものだった。
真実かどうか分からないが、警察関係者の話として、博士の遺体の近くに拳銃が残っており、博士は頭に、息子は胸に銃で撃たれた跡が残っていたと書いてあるブログもあった。
「せっかく、息子さんも元気になっていたのに」
という隣人の証言も残っている。
元気になった? 小児ガンが治ったのか?
なぜ? 引っかかる。
「京子」
背中から声がかかった。振り返ると、早紀が立っていた。
「忙しいの? 忙しければ、また……」
「えっ」
腕時計を見ると、十二時を回っていた。既に昼休みになっている。
「えっ、ああ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちょっと調べていただけだから」
「そう、なんだか、難しそうな顔をしてたけど。忙しかったら良いのよ、明日でも、また来週でも」
「本当に、気にしないで、そんな重要な仕事じゃないから」
京子は言いながら画面を閉じた。
早紀は「本当に良いの?」と言う顔をしていた。
「さあ、行きましょう。早く行かないと混んじゃうんでしょ、そのパスタ屋さん」
京子が立ち上がり、明るい声で言った。
「そうそう、いつもいっぱいなの」
「早紀のお勧めはなに?」
「そうね、チーズ系が美味しいけど、シーフードも捨てがたいし」
早紀が一歩前を歩いていた。京子は自分の席を振り返った。画面は消えていた。黒い画面の奥に、さらに暗い闇が潜んでいるような気がした。
試しに、「痩せる 凶暴」などと検索にかけてみたが、出てくるのはダイエットの宣伝か、オカルト系の怪しいサイトやゾンビ映画ぐらいのものだった。
京子は、配布された発生場所と患者のプロフィールを改めて眺めた。
アメリカ、ルイジアナ州、モーゼ。南部の小都市。患者は白人男性、年齢三十五歳、職業自動車セールスマン。
シンガポール、中国系男性、二十八歳、大学職員。
フランス、北部、白人女性、七十五歳、無職。
オーストラリア、メルボルン、黒人男性、五十五歳、タクシー運転手。
香港、アジア系、女性、四十歳、主婦。
分からない……。性別も年齢も人種もバラバラで、何一つ法則性は感じられない。地理的にも離れていて、お互いの事件に関連性はなさそうだった。だいたいリストを眺めて分かるくらいなら、仰々しく会議室に集めたりしないだろう。
京子は軽く伸びをして、立ちあがった。肩が凝っていた。慣れない会議で緊張したせいだろう。京子は気分転換にコーヒーをいれようと水場に歩いていった。
何か引っ掛かっていた。発生した場所……アメリカ、ルイジアナ州。会議室で地名を聞いたときから、どこかで聞いた気がしていた。
アメリカ、南部の小都市。アメリカで行ったことがあるのは、ニューヨークとワシントンだけだ。南部は行ったこともない、知り合いもいない。モーゼという地名をどこかで聞いた気がするのだが、どこだったか思い出せなかった。
南部と言って思い出すのは、ジャズとハリケーンぐらいだ。ハリケーンのニュースででも聞いたのだろうか。京子は、カップにコーヒーを注ぎながら首をひねった。
「京子」
背中から声がかかった。
「だいじょうぶ?」
同僚の水野早紀だった。職場に入ったのは早紀が一年早いのだが、年齢は同じだった。同じフロアーにいるのだが所属は違った。京子は人間の感染症を扱っている課で、早紀は家畜の伝染病の部署だった。
「えっ、ええ、元気よ」
心配そうに顔を覗き込んでくる早紀に京子は答えた。城戸のことを考えて、落ち込んでいると思ったようだった。
「今日、お昼、外に行かない? 美味しいパスタの店、見つけたから」
早紀が言った。
「ええ、いいわよ」と京子は答えてから、
「ありがとう……」と付け加えた。
早紀が自分を気遣って声をかけてくれたことは分かっていた。
「ねえ、少し気分転換したら、良かったら、夜、付き合うわよ」
早紀が自分のカップにコーヒーを注ぎながら言った。
「……」
京子は首を振った。まだ、夜に出歩く気にはなれなかった。
「映画なんてどう? 前は二人で時々、観に行ってたでしょ」
「ええ……」
映画ぐらいなら観てもいいか、と京子は思った。
「誰だっけ、京子が好きだった俳優さん」
「えっ?」
「確か、ほら、ロバート何とか、優しそうな感じの」
ロバート……。
「そうだ……」
京子は思わずつぶやいていた。
「なに?」
早紀が怪訝そうな顔をした。
「あっ、ちょっと、考え事をしていて。ごめん、私、席に戻らないと、仕事が……」
「そう、それじゃ。お昼、だいじょうぶ? 忙しかったら、また他の日にでも」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ごめんね」
思い出した。ルイジアナ州、モーゼ。あの事件だ。
京子は席に戻り、急いで検索した。「ロバート・ブリッグス」
十五万件がヒットする。生物学博士。論文や講演会の要旨。弁護士事務所は同姓同名の他人だろう。
「これ……」
新聞記事があった。デイリールイジアナ。地方新聞のようだ。日付は半年前、自宅が火事になり、夫、妻、息子の三人全員が焼死体で発見されていた。場所は、ルイジアナ州、モーゼ、リストにあった町と同じ名前だった。
京子は、博士のプロフィールを調べた。
ロバート・ブリッグス。三十五歳。国立遺伝子研究所、主席研究員。亡くなる一年前、研究所を辞め、ルイジアナ州立大学に移っていた。
何を研究していたのか、公開されている彼の論文を開け、読んでみたが、専門的な部分は難しく、京子では理解するのは難しそうだった。ただ、幹細胞の増殖と免疫活性を高める研究をしていることは理解できた。
「幹細胞の増殖と免疫……」
城戸の研究と似ているような気がした。もっとも、幹細胞や免疫は、今ブームと言っていいほど盛んに研究されている。似たような研究だとしても別に珍しくはないのだろう。
幹細胞とは、様々な種類の細胞に分化できる能力を持つ細胞のことだった。何らかの方法で人間の体内にある幹細胞を目的の細胞に分化させることができれば、損傷を受けた組織を自己修復することができるようになるはずだ、と考えられている。
免疫力を高めれば、病原菌やウイルスから身を守れることができる。幹細胞を活性化できれば、傷んだ組織が自己修復される。ガンも心臓病も脳梗塞も全て治り健康な体が手にはいるはずだった。
死亡原因は火災によるものらしいが、一部では、自殺も噂されているようだった。
子どもの病気は小児ガンで、奥さんはノイローゼ気味だったらしく、子どもの将来を悲観して、自殺したのではないか、というものだった。
真実かどうか分からないが、警察関係者の話として、博士の遺体の近くに拳銃が残っており、博士は頭に、息子は胸に銃で撃たれた跡が残っていたと書いてあるブログもあった。
「せっかく、息子さんも元気になっていたのに」
という隣人の証言も残っている。
元気になった? 小児ガンが治ったのか?
なぜ? 引っかかる。
「京子」
背中から声がかかった。振り返ると、早紀が立っていた。
「忙しいの? 忙しければ、また……」
「えっ」
腕時計を見ると、十二時を回っていた。既に昼休みになっている。
「えっ、ああ、だいじょうぶ、だいじょうぶ、ちょっと調べていただけだから」
「そう、なんだか、難しそうな顔をしてたけど。忙しかったら良いのよ、明日でも、また来週でも」
「本当に、気にしないで、そんな重要な仕事じゃないから」
京子は言いながら画面を閉じた。
早紀は「本当に良いの?」と言う顔をしていた。
「さあ、行きましょう。早く行かないと混んじゃうんでしょ、そのパスタ屋さん」
京子が立ち上がり、明るい声で言った。
「そうそう、いつもいっぱいなの」
「早紀のお勧めはなに?」
「そうね、チーズ系が美味しいけど、シーフードも捨てがたいし」
早紀が一歩前を歩いていた。京子は自分の席を振り返った。画面は消えていた。黒い画面の奥に、さらに暗い闇が潜んでいるような気がした。
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