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第一章 奇跡
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東京、潮見。JCDC、日本疾病対策センター。感染症対策部第一課。
窓の外には、夏の日差しに輝く東京湾が見えていた。
麻生京子がマグカップにコーヒーを入れ、自分の席に座ると、机の上の電話が鳴った。
「はい、感染症対策部」
第一課です、と言いかけたところで、電話の相手が、「麻生君?」と言った。
「はい、麻生です」
「長沼だけど、すぐに、第二会議室に来てくれる」
「第二会議室ですか? はい、分かりました」
「急いで」
「はい」
よほど緊急の用件なのか、いつも冷静な長沼にしては、ひどく慌てた口調だった。
新型インフルエンザでも発生したのか、と京子は周囲を見回した。新型インフルエンザやSARSのような感染症が確認されたのなら、センター全体が緊張した雰囲気になるのだが、他の人は通常の業務を淡々とこなしているだけで、変わった様子は感じられなかった。
どうやら電話は自分にだけ掛かってきたらしい。何かミスでもしたのだろうか、一瞬、悪い考えが浮かんだが、特に思い当たるようなことはなかった。
最近の仕事と言っても、花粉症患者の推移を示すグラフの作成とハシカに感染した患者の集計を行ったぐらいだった。
「何だろう?」
自分が呼ばれる理由が全く見当が付かない。京子は、首をひねりながら席を立った。
エレーベーターに乗り、八階のボタンを押した。会議室は建物の最上階にあった。
日本疾病対策センター。通称JCDCは、アメリカの疾病予防管理センター(CDC)をモデルに作られた組織だった。
名前こそ似ているものの、その内容は大きく異なっていた。
アメリカのCDCは、本部、支部をあわせ一万五千人の人員を抱え、エボラウイルスなど致死率が高い感染症にも対応できるレベル4というクラスの実験室を自前で有し、感染症の発生や最新の治療法、研究の情報などを常に発信し続ける、世界の感染症対策の中枢と言っていい組織だった。
一方、京子がいるJCDCは、これから充実させるとは言うものの人員は、本家の百分の一程度で、自前の研究施設も持っていなかった。
新型インフルエンザなどの感染症が発生した場合、対策本部はJCDCに設置されることになっていたが、本部長には厚生労働大臣が就き、防衛省などが補佐することとされていて、JCDCにはどのような権限があるのか、よく分からない微妙な組織になっていた。
エレベーターが止まり、ドアが開くと目の前に長沼がいて、京子を手招きをした。
「麻生君、急いで。君が最後だから」
「は、はい」
京子は、長沼の後ろから、小走りで会議室に向かった。
集まっていたのは二十名あまりで、大半は、京子も見知っていた顔だった、副センター長の石田や海外情報課の課長などJCDC内の人間に国立感染症研究所、国際医療センターの職員や研究者、それに自衛隊病院の関係者。所属ははっきりしないが、多分大学病院の医師だろうと思える人も数名いた。
残りの数名については、心あたりが無かった。もちろん全ての研究者や医療関係者と知り合いと言うわけではないのだから、知らなくても不思議ではないのだが、その数名に関して言うと、明らかに医療関係者とは違う雰囲気を漂わせていた。
一人はダークスーツに眼鏡をかけた男性、多分、政府関係者、厚生労働省の役人だろうと京子は思った。偏見かもしれないが、その男性からは、親しみやすさというのが、全く感じられなかった。
もう一人は、警察か自衛隊の男性。制服は着ていないのだが、背広の上からでも、広い肩幅と厚い胸、筋肉質の引き締まった体が分かった。
以前行われた新型インフルエンザの発生を想定した訓練で、指揮にあたっていた防衛省の人間に雰囲気がよく似ていた。
「それでは全員集まったようですので、まず、次のビデオをご覧下さい。アメリカ、ルイジアナ州で撮られたビデオです」
副センター長の石田が言うと、前のスクリーンに映像が流れた。
男性の映像だった。白人、年齢は四十歳前後、もしかしたらもう少し若いかもしれない。留置場に入れられているらしく、鉄の檻が映っていた。
男は部屋の隅でうずくまり、時折、顔を上げ、濁った目をカメラに向けていた。髪はボサボサで無精髭が伸びていた。ひどく痩せていた。頬がこけ、頬骨が見えている。雰囲気は、治療法が見つからなかった頃のエイズ患者に似ていた。
病気には違いない。感染症か新種のウイルスか。京子は、頭の中で自分が知っている感染症の症状を考えた。
ペスト、コレラ、マラリア、エボラ出血熱……。どれも違いそうだった。
男が何かしゃべっていた。聞き取れない。言葉を聞き取ろうと耳をすました時、突然、男が顔を上げ、カメラに向かって歯をむき出し、「グワー」と威嚇した。
「オオ」
全員から驚きの声が上がった。そして、すぐに、また男が静かになると、安堵の溜息がもれた。
ビデオが終了し、
「この男性は、ビデオに撮られた翌日、拘置所で死亡しています。死因は衰弱死とされていますが、原因は不明です」と石田は言った。
「さらに、これはビデオが撮られる二日前、同じ男性の写真です」
スクリーンに男の写真が写し出された。
「ほお」
誰かが驚きとも溜息とも取れる声をだした。写真の男は、痩せてはいるが、それほど激しい痩せ方ではない。通常の範囲だろう。
さらに、続いて、写真が切り替わった。
「こちらは、三週間前と思われるものです」
写し出されたのは、どちらかと言えば恰幅の良い、にこやかに笑った男性だった。少々運動不足気味なのだろう。下腹のあたりにぜい肉がついている。
「男性は、町のファストフード店で、他の客と争いになったところを警官に捕らえられました。そして、その三日後、警察署の拘置所で死亡しました。さらに、こちらは、アメリカではなく、シンガポールのショッピングモールで、観光客が偶然、撮影したものですが……」
映像が切り替わり、人々が逃げ惑っている様子が映し出された。よく見ると、男性が一人、暴れているようだった。
「この後、この男は取り押さえられ、警察署に留置されましたが、やはり、三日後に死んでいます」
スクリーンに世界地図が現れ、赤いスポットが、五カ所点滅していた。
「普通の生活をしていた人間が、突然、暴れだし、その後、体重が減少し、死に至ると言ったケースが、複数例報告されています」
テーブルに資料が置かれていた。京子は資料に目を落とした。奇病のリストだ。五件。アメリカ、シンガポール、フランス、オーストリア、そして香港。
一件一件、石田が説明した。いずれのケースも、普通に穏やかな生活を送っていた人が、急に凶暴になり、警察に拘束され、餓死していた。
「まだ、事例としては数件であり、ただの偶然かもしれませんが、新しいウイルスや感染症の恐れも捨てきれませんので、各部門におきまして、似たような事例がないかどうか、早急に調査をお願いいたします」
石田はメンバーを見回し、
「何か、ご質問は?」と言った。
五、六人から手が上がった。
「どうぞ」
石田が女性を指名した。
「国立感染症研究所の小山内です。その患者、患者というのが適切かどうか分かりませんがともかく、患者からは病原菌やウイルスは検出されたのでしょうか」
石田は、一瞬考え、
「現在のところ、いずれのケースでも新たな病原菌やウイルスが検出されたという報告は入っていません」と答えた。
「詳しい検査は行われたのでしょうか?」
「報告には検査方法の詳細までは、書かれていませんが、通常の司法解剖レベルということも考えられます」
「それでは未知のウイルスの可能性も捨てきれないということですか?」
「断定はできませんが、多分」
男性が手を上げた。
「はい、どうぞ」
「疾病対策センターの杉山です。感染が広がっているといった報告はあるのでしょうか」
「いえ、今のところは、入っていません」
「でしたら、感染症というよりも、他の原因を考えたほうが良いのではないでしょうか、例えば有害な化学物質による汚染や麻薬の常習のような」
「麻薬の可能性は低いと思いますが、それも含めて調査をお願いします」
「調査範囲は、国内と言うことでしょうか」
「基本的には、国内になりますが、海外に気になるような事例がある場合には、細大漏らさず、報告をお願いします」
「もう少し、具体的な症状とか何か、お教え願えないでしょうか。すいません、東都病院の広沢ですが」
「健康だった人間が、急に暴力的になり、急激に痩せていき、死に至る。現在はこの程度の情報しかありませんが、新たな情報が入りましたら、すぐにご連絡します」
「わかりました」
誰かが、「バイオテロのような……」とつぶやいた。
「その可能性につきましても」と石田が言いかけると、隣に座っていた男が手で発言を制した。京子が自衛隊員のような、と感じた男だった。
「それは、今のところ考える必要はないかと思います。発生した地域や場所がテロの標的になるような場所ではないですし、そのような情報も入ってきていません」
「そうですか」
「ご質問がなければ、これで終了します。ともかく、まずは情報収集をお願いします。また、何か新たな事態が生じた際には、皆様にお集まりいただくことがあるかもしれませんが、その時にはよろしくお願いいたします」
会議が終わり、京子は長沼と一緒にエレベーターに乗った。
「麻生君は、似たような症状の患者が報告されてないか、過去に遡って調べて下さい。何か分かったら、僕に報告してくれればいいから」
長沼が言った。
「分かりました……」
「麻生君は情報検索のスペシャリストなんだよね」
「え、ええ、まあ、資格だけは……」
京子は薬学出身にしては珍しく、情報検索能力試験という資格を持っていた。ただ、就職に有利になるように、と資格学校に通って取ったもので、それほど情報検索に詳しいというわけでもなかった。
「それと今回の件は、他の人には言わないように」
長沼が言った。
「はい……」
なぜですか? という京子の顔を見て、
「まあ、大げさにして、おかしな噂が立ってもまずいし。さっき誰かが聞いてたように、麻薬患者かもしれないしね、平気でおかしな記事を書く記者もいるから」
と長沼は付け加えた。
三流週刊誌の記者と飲みに行っている職員の噂もある。恐ろしげな感染症やウイルスの記事は、季節毎、結構商売になる。あまり話を広めておかしな噂が立つのを気にしているのだろう。
京子は、長沼の言葉に完全に納得したわけではないが、一応うなづいた。
エレベータが五階で止まり、ドアが開いた。
「それじゃ、すぐに取りかかってくれ」
長沼が言った。
京子は、「はい」と答え、お辞儀をすると、 長沼が、
「そう言えば、城戸君、大変だったね」
と唐突に言った。
長沼がエレベータを降り、京子が一人残った。急に城戸の名前が出て来た。一瞬のことで何も反応できなかった。思い出を汚されたような嫌な気分だった。
京子は席に戻り、息を一つ吐いた。緊張で体が硬くなっていた。一体、あの会議は何だったんだろう。京子は改めて思った。なぜ、自分が呼ばれたのか、思い当たる理由が無い。重要な役職にいるわけではないし、特別な能力があるわけでもない。
京子が疾病対策センターに職を得たのは、専門的な知識を買われたわけではなく、ゼミの教授が、所長と親しかったことや、たまたま結婚退職者が出たことが理由だろうと思っていた。それと、情報検索に関する資格を持っていたことも、少しは関係していたかもしれない。
採用された職種は、研究職ではなく、事務職だった。任されている仕事も、資料の集計やグラフの作成、病院への聞き取り調査、そう言ったものが主だった。
まあ、きっと、自分だけが暇そうだから呼んだのだろう、と京子は思うことにした。考えても、他に理由は見つけられそうになかった。
それにしても、別れ際、長沼が城戸の名前を口にした事が心を重くしていた。
城戸と自分の関係を長沼は、どこで知ったのだろう。城戸と付き合っていたことを同僚の誰かに話したことがあっただろうか。
もちろん、噂というのは本人以外は、みんな知っているものだし、フィンランドの事件は、バイオ関係の人間の間では、少し話題になった。それは、研究がどうのと言うわけではなく、男女七人が雪で閉じ込められた研究所で全員死亡したという三面記事的な興味からだった。
きっと、長沼も誰かから噂を聞いたのだろう、と京子は考えた。それにしても、自分と城戸の事を職場の人間が知っていると思うと、何とも嫌な気分だった。
マグカップのコーヒーは冷め切っていた。京子は窓の外を見た。青空が広がっていた。どうやら梅雨は明けたらしい。しかし、京子の心は青空とはいかなかった。
窓の外には、夏の日差しに輝く東京湾が見えていた。
麻生京子がマグカップにコーヒーを入れ、自分の席に座ると、机の上の電話が鳴った。
「はい、感染症対策部」
第一課です、と言いかけたところで、電話の相手が、「麻生君?」と言った。
「はい、麻生です」
「長沼だけど、すぐに、第二会議室に来てくれる」
「第二会議室ですか? はい、分かりました」
「急いで」
「はい」
よほど緊急の用件なのか、いつも冷静な長沼にしては、ひどく慌てた口調だった。
新型インフルエンザでも発生したのか、と京子は周囲を見回した。新型インフルエンザやSARSのような感染症が確認されたのなら、センター全体が緊張した雰囲気になるのだが、他の人は通常の業務を淡々とこなしているだけで、変わった様子は感じられなかった。
どうやら電話は自分にだけ掛かってきたらしい。何かミスでもしたのだろうか、一瞬、悪い考えが浮かんだが、特に思い当たるようなことはなかった。
最近の仕事と言っても、花粉症患者の推移を示すグラフの作成とハシカに感染した患者の集計を行ったぐらいだった。
「何だろう?」
自分が呼ばれる理由が全く見当が付かない。京子は、首をひねりながら席を立った。
エレーベーターに乗り、八階のボタンを押した。会議室は建物の最上階にあった。
日本疾病対策センター。通称JCDCは、アメリカの疾病予防管理センター(CDC)をモデルに作られた組織だった。
名前こそ似ているものの、その内容は大きく異なっていた。
アメリカのCDCは、本部、支部をあわせ一万五千人の人員を抱え、エボラウイルスなど致死率が高い感染症にも対応できるレベル4というクラスの実験室を自前で有し、感染症の発生や最新の治療法、研究の情報などを常に発信し続ける、世界の感染症対策の中枢と言っていい組織だった。
一方、京子がいるJCDCは、これから充実させるとは言うものの人員は、本家の百分の一程度で、自前の研究施設も持っていなかった。
新型インフルエンザなどの感染症が発生した場合、対策本部はJCDCに設置されることになっていたが、本部長には厚生労働大臣が就き、防衛省などが補佐することとされていて、JCDCにはどのような権限があるのか、よく分からない微妙な組織になっていた。
エレベーターが止まり、ドアが開くと目の前に長沼がいて、京子を手招きをした。
「麻生君、急いで。君が最後だから」
「は、はい」
京子は、長沼の後ろから、小走りで会議室に向かった。
集まっていたのは二十名あまりで、大半は、京子も見知っていた顔だった、副センター長の石田や海外情報課の課長などJCDC内の人間に国立感染症研究所、国際医療センターの職員や研究者、それに自衛隊病院の関係者。所属ははっきりしないが、多分大学病院の医師だろうと思える人も数名いた。
残りの数名については、心あたりが無かった。もちろん全ての研究者や医療関係者と知り合いと言うわけではないのだから、知らなくても不思議ではないのだが、その数名に関して言うと、明らかに医療関係者とは違う雰囲気を漂わせていた。
一人はダークスーツに眼鏡をかけた男性、多分、政府関係者、厚生労働省の役人だろうと京子は思った。偏見かもしれないが、その男性からは、親しみやすさというのが、全く感じられなかった。
もう一人は、警察か自衛隊の男性。制服は着ていないのだが、背広の上からでも、広い肩幅と厚い胸、筋肉質の引き締まった体が分かった。
以前行われた新型インフルエンザの発生を想定した訓練で、指揮にあたっていた防衛省の人間に雰囲気がよく似ていた。
「それでは全員集まったようですので、まず、次のビデオをご覧下さい。アメリカ、ルイジアナ州で撮られたビデオです」
副センター長の石田が言うと、前のスクリーンに映像が流れた。
男性の映像だった。白人、年齢は四十歳前後、もしかしたらもう少し若いかもしれない。留置場に入れられているらしく、鉄の檻が映っていた。
男は部屋の隅でうずくまり、時折、顔を上げ、濁った目をカメラに向けていた。髪はボサボサで無精髭が伸びていた。ひどく痩せていた。頬がこけ、頬骨が見えている。雰囲気は、治療法が見つからなかった頃のエイズ患者に似ていた。
病気には違いない。感染症か新種のウイルスか。京子は、頭の中で自分が知っている感染症の症状を考えた。
ペスト、コレラ、マラリア、エボラ出血熱……。どれも違いそうだった。
男が何かしゃべっていた。聞き取れない。言葉を聞き取ろうと耳をすました時、突然、男が顔を上げ、カメラに向かって歯をむき出し、「グワー」と威嚇した。
「オオ」
全員から驚きの声が上がった。そして、すぐに、また男が静かになると、安堵の溜息がもれた。
ビデオが終了し、
「この男性は、ビデオに撮られた翌日、拘置所で死亡しています。死因は衰弱死とされていますが、原因は不明です」と石田は言った。
「さらに、これはビデオが撮られる二日前、同じ男性の写真です」
スクリーンに男の写真が写し出された。
「ほお」
誰かが驚きとも溜息とも取れる声をだした。写真の男は、痩せてはいるが、それほど激しい痩せ方ではない。通常の範囲だろう。
さらに、続いて、写真が切り替わった。
「こちらは、三週間前と思われるものです」
写し出されたのは、どちらかと言えば恰幅の良い、にこやかに笑った男性だった。少々運動不足気味なのだろう。下腹のあたりにぜい肉がついている。
「男性は、町のファストフード店で、他の客と争いになったところを警官に捕らえられました。そして、その三日後、警察署の拘置所で死亡しました。さらに、こちらは、アメリカではなく、シンガポールのショッピングモールで、観光客が偶然、撮影したものですが……」
映像が切り替わり、人々が逃げ惑っている様子が映し出された。よく見ると、男性が一人、暴れているようだった。
「この後、この男は取り押さえられ、警察署に留置されましたが、やはり、三日後に死んでいます」
スクリーンに世界地図が現れ、赤いスポットが、五カ所点滅していた。
「普通の生活をしていた人間が、突然、暴れだし、その後、体重が減少し、死に至ると言ったケースが、複数例報告されています」
テーブルに資料が置かれていた。京子は資料に目を落とした。奇病のリストだ。五件。アメリカ、シンガポール、フランス、オーストリア、そして香港。
一件一件、石田が説明した。いずれのケースも、普通に穏やかな生活を送っていた人が、急に凶暴になり、警察に拘束され、餓死していた。
「まだ、事例としては数件であり、ただの偶然かもしれませんが、新しいウイルスや感染症の恐れも捨てきれませんので、各部門におきまして、似たような事例がないかどうか、早急に調査をお願いいたします」
石田はメンバーを見回し、
「何か、ご質問は?」と言った。
五、六人から手が上がった。
「どうぞ」
石田が女性を指名した。
「国立感染症研究所の小山内です。その患者、患者というのが適切かどうか分かりませんがともかく、患者からは病原菌やウイルスは検出されたのでしょうか」
石田は、一瞬考え、
「現在のところ、いずれのケースでも新たな病原菌やウイルスが検出されたという報告は入っていません」と答えた。
「詳しい検査は行われたのでしょうか?」
「報告には検査方法の詳細までは、書かれていませんが、通常の司法解剖レベルということも考えられます」
「それでは未知のウイルスの可能性も捨てきれないということですか?」
「断定はできませんが、多分」
男性が手を上げた。
「はい、どうぞ」
「疾病対策センターの杉山です。感染が広がっているといった報告はあるのでしょうか」
「いえ、今のところは、入っていません」
「でしたら、感染症というよりも、他の原因を考えたほうが良いのではないでしょうか、例えば有害な化学物質による汚染や麻薬の常習のような」
「麻薬の可能性は低いと思いますが、それも含めて調査をお願いします」
「調査範囲は、国内と言うことでしょうか」
「基本的には、国内になりますが、海外に気になるような事例がある場合には、細大漏らさず、報告をお願いします」
「もう少し、具体的な症状とか何か、お教え願えないでしょうか。すいません、東都病院の広沢ですが」
「健康だった人間が、急に暴力的になり、急激に痩せていき、死に至る。現在はこの程度の情報しかありませんが、新たな情報が入りましたら、すぐにご連絡します」
「わかりました」
誰かが、「バイオテロのような……」とつぶやいた。
「その可能性につきましても」と石田が言いかけると、隣に座っていた男が手で発言を制した。京子が自衛隊員のような、と感じた男だった。
「それは、今のところ考える必要はないかと思います。発生した地域や場所がテロの標的になるような場所ではないですし、そのような情報も入ってきていません」
「そうですか」
「ご質問がなければ、これで終了します。ともかく、まずは情報収集をお願いします。また、何か新たな事態が生じた際には、皆様にお集まりいただくことがあるかもしれませんが、その時にはよろしくお願いいたします」
会議が終わり、京子は長沼と一緒にエレベーターに乗った。
「麻生君は、似たような症状の患者が報告されてないか、過去に遡って調べて下さい。何か分かったら、僕に報告してくれればいいから」
長沼が言った。
「分かりました……」
「麻生君は情報検索のスペシャリストなんだよね」
「え、ええ、まあ、資格だけは……」
京子は薬学出身にしては珍しく、情報検索能力試験という資格を持っていた。ただ、就職に有利になるように、と資格学校に通って取ったもので、それほど情報検索に詳しいというわけでもなかった。
「それと今回の件は、他の人には言わないように」
長沼が言った。
「はい……」
なぜですか? という京子の顔を見て、
「まあ、大げさにして、おかしな噂が立ってもまずいし。さっき誰かが聞いてたように、麻薬患者かもしれないしね、平気でおかしな記事を書く記者もいるから」
と長沼は付け加えた。
三流週刊誌の記者と飲みに行っている職員の噂もある。恐ろしげな感染症やウイルスの記事は、季節毎、結構商売になる。あまり話を広めておかしな噂が立つのを気にしているのだろう。
京子は、長沼の言葉に完全に納得したわけではないが、一応うなづいた。
エレベータが五階で止まり、ドアが開いた。
「それじゃ、すぐに取りかかってくれ」
長沼が言った。
京子は、「はい」と答え、お辞儀をすると、 長沼が、
「そう言えば、城戸君、大変だったね」
と唐突に言った。
長沼がエレベータを降り、京子が一人残った。急に城戸の名前が出て来た。一瞬のことで何も反応できなかった。思い出を汚されたような嫌な気分だった。
京子は席に戻り、息を一つ吐いた。緊張で体が硬くなっていた。一体、あの会議は何だったんだろう。京子は改めて思った。なぜ、自分が呼ばれたのか、思い当たる理由が無い。重要な役職にいるわけではないし、特別な能力があるわけでもない。
京子が疾病対策センターに職を得たのは、専門的な知識を買われたわけではなく、ゼミの教授が、所長と親しかったことや、たまたま結婚退職者が出たことが理由だろうと思っていた。それと、情報検索に関する資格を持っていたことも、少しは関係していたかもしれない。
採用された職種は、研究職ではなく、事務職だった。任されている仕事も、資料の集計やグラフの作成、病院への聞き取り調査、そう言ったものが主だった。
まあ、きっと、自分だけが暇そうだから呼んだのだろう、と京子は思うことにした。考えても、他に理由は見つけられそうになかった。
それにしても、別れ際、長沼が城戸の名前を口にした事が心を重くしていた。
城戸と自分の関係を長沼は、どこで知ったのだろう。城戸と付き合っていたことを同僚の誰かに話したことがあっただろうか。
もちろん、噂というのは本人以外は、みんな知っているものだし、フィンランドの事件は、バイオ関係の人間の間では、少し話題になった。それは、研究がどうのと言うわけではなく、男女七人が雪で閉じ込められた研究所で全員死亡したという三面記事的な興味からだった。
きっと、長沼も誰かから噂を聞いたのだろう、と京子は考えた。それにしても、自分と城戸の事を職場の人間が知っていると思うと、何とも嫌な気分だった。
マグカップのコーヒーは冷め切っていた。京子は窓の外を見た。青空が広がっていた。どうやら梅雨は明けたらしい。しかし、京子の心は青空とはいかなかった。
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