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第一章 奇跡

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 浦積高校は開校して、今年で二十年になっていた。海が埋め立てられ、電車の線路が延びて沿線の開発が進み、人口が増える。その予定で作られた高校だった。
 たしかに市の人口は増えはしたのだが、当初の予定より増加の速度は鈍く、さらに、子どもの減少により、近隣地域の高校生の数は頭打ちになっていた。
 ほとんどの生徒は、浦積市内の中学から進学していた。歴史の浅い高校は、他の地区から生徒を呼び入れるだけの魅力に乏しかった。
 クラブ活動を学校の目標にしていることもあり、グランドは広く整備されていた。
 陸上グラウンドとは別に、サッカー用と野球用にグラウンドを取ることができた。
 景気の良い時代に立てられたこともあって、公立高校にしては、カフェテラス式の食堂やコンピュータ室、英会話専用教室など設備も十分すぎるほど行き届いていた。
 それでも、生徒の質は設備にふさわしいとは言えなかった。入学者は百六十名余り、その内、卒業までに、およそ二割が学業不適応で退学していく。卒業生も大学への進学や就職など進路が決まる生徒は、ほぼ半数で、あとは、アルバイトなどのフリーターになった。と、言っても周辺の高校にくらべて、浦積高校が特別悪いわけではなかった。器物の破壊など暴力的な事件は、年に数件にとどまっているし、無気力ではあるが、今時の高校生という尺度に照らせば、生徒の態度も概ね良好だった。
 隆夫の教室は四階建ての校舎の三階にあった。隆夫は教室に入り、窓際の前から三列目、自分の席に座った。
 いつもと変わらない朝の教室だった。男子は無意味な会話でじゃれ合い、女子は四、五人のグループでおしゃべりをしていた。
 チャイムが鳴り、担任の沢陽子が現れても、教室は静かにならなかった。
 沢は顔をしかめ、溜息をついた。今月で三十三歳になった。浦積高校は今年で五年目だった。去年、他の高校への移動願いをだしたのだが、希望は通らなかった。
「席に着いて」
 沢の声は、生徒の話し声にかき消されてしまう。沢は生徒を無視して出席を取り出した。
「芦沢君、安達君、江藤君」
 名前を呼ばれた生徒は、嫌々という感じで手を挙げた。
「渡辺さん、和田さん」
 沢は出欠を取り終わり、生徒の数を数え、もう一度、ため息をついた。
 勉強熱心で教師を慕ってくれる生徒を夢見るのは罪なのだろうか。
 毎日繰り返される決まりきった二、三の注意事項。遅刻はしない。授業中、私語は慎むこと。携帯電話は電源を切ること。アルバイトは学校に届け出ること。
 生徒は誰も聞いていない。コンビニのBGMと同じだ。言葉がただの音になって通りすぎていく。
「来週から期末試験が始まるので、よく勉強をすること」
 沢は最後に、「それから」と言葉を切った。
「一部の生徒とは思いますが、最近、暴力的な行為が目立ちます。みなさん、注意してください」
 暴力的? ほんの一瞬、教室が静かになった。
 暴力的……。誰かガラスでも割ったのか、と隆夫は思った。男子生徒が廊下でサッカーボールを蹴ったり、プロレスのまねごとをしてじゃれ合い、ガラスにぶつかったりするのは珍しい事ではない。
 殴り合いの喧嘩はめったに起こらないが、険悪な雰囲気の小競り合いぐらいは、他の高校と変わらないくらいの頻度で起こっている。
 暴力的……そう言えば……。
 隆夫は、昨日、隣の教室で三人の学生が殴り合っていたのを思い出した。
 自分の体調の変化に気を取られ、周囲の様子に気付いていなかったが、ここ数日、学校全体が祭りのような喧噪状態だった。元々、落ち着きの無かった学生達がさらに騒がしくなっている。
 今朝にしても、担任が出席を取っているのに、無視して席に着かず歩き回り、おしゃべりを止めない生徒が数多くいる。
 夏休みが近いせいだろうと、隆夫はぼんやりと考えたが、沢の「暴力的」と、言う言葉が心の隅に残った。
 出欠を取り終わった後、上西真弓が教室のドアを開けた。
 真弓は、沢に向かって、
「もう、出席とったのかよ。ふざけんなよ」
 と吐き捨てた。
 沢は答えず、出席簿の上西の欄に遅刻と書いた。
「遅刻? マジ?」
 真弓が言った。男子生徒が、口々に、
「いいじゃねえかよ」
「けちけちすんなよ」
 と真弓に同調した。
 隆夫は沢を見た。沢の体が小さく震えているように見えた。
「先生。何とか言えよ」
 真弓が言った。
「てめえら、うるせえんだよ。静かにしろ」
 突然、沢が持っていた出席簿を教壇に叩きつけた。
 教室が静かになった。全員が沢の顔を見た。
「あっ」
 沢は、自分の言葉に驚き、顔を赤らめた。
「あっ、あの、ら、来週は期末試験ですから、今日からクラブ活動は中止です」
 沢は言うと、逃げるように教室から出ていった。
「ヒュー」
 誰かが口笛を吹いた。
「やるじゃん」
「男に振られたんじゃねえの」
 出席簿を叩きつけた瞬間の沢の表情を隆夫は鮮明に覚えていた。
 それは、沢が初めて見せた怒りの表情だった。
 怒りを心の中にため込み、哀しみに変えてしまう人がいる。沢はそういうタイプの人間だった。だったはずなのに、今見せた表情は明らかに怒りの顔だった。それも、とびきりの、鬼の形相だった。
 一時間目のチャイムが鳴り、五分ほど過ぎてから、数学の教師、大野雄三が足を引きずりながら教室に入って来た。
 いつものように不機嫌が顔中に表われていた。定年までまだ五年もある。賽の河原で石を積むような授業を何回行えばいいのだろう。
 大野は教科書を開き、数式を黒板に書き出した。
 隆夫は窓から外を見ていた。教壇では、大野が黒板に向かい、数式を書き続けていた。
 誰も授業を聞いていない、聞こうともしていない。隆夫も数学は分からない。分からないはずなのだが、今日はわかるような気がした。いや、確かに黒板の内容が頭に入ってきた。
 不思議だった。時々、横目で黒板を見ているだけなのに、教師のつぶやきと黒板の数式の意味が理解できた。
 頭がいつもより早く回っている。目が良くなったように、脳の働きも良くなったようだ。
 しかし、隆夫はそのことを肘の発疹ほど、気にとめなかった。授業内容が分かっても、やはり数学はつまらなかった。分かっても分からなくても黒板の数式は隆夫の人生に呪文以上の価値を持ちそうにはなかった。
 外は快晴だった。真夏の太陽が輝いていた。
梅雨明け宣言は、出されていないが、どうやらもう、梅雨前線は消えてしまったらしい。
 隆夫は空が気になった。あれは目の錯覚だったのだろうか。
 あれ……。
 雪……。
 十日前、梅雨の晴れ間に見た、真夏の空に舞う雪は……。
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