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第一章 奇跡
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朝、東京。出勤前、麻生京子はメールの着信音に、体を硬くした。
「………」
内容を確認すると、メールはカード会社からの知らせだった。
『お客様の来月の請求金額が確定しました』
京子は、ため息をつき、携帯を閉じた。
恋人だった城戸祐介が死んでから半年あまりが過ぎていた。
「四月には帰るから、そしたら結婚しよう」
去年の秋、城戸は、そう言い残し、フィンランドに旅立っていった。
一冬かけて研究を完成させ、世界中に投資を呼びかける。ベンチャー企業を立ち上げ、成功すれば、数年で世界的な名声と巨額の富を得られる。夢のような未来を城戸は自信満々に語っていた。
「絶対に成功する。百パーセント。失敗なんてあり得ない。完璧な計画なんだ」
若手の研究者が七人集まった。男性四人に女性が三人。アメリカ、イギリス、フィンランド、トルコ、シンガポール、中国、日本と人種も国籍も異なる七人がオーロラが輝くフィンランドの空の下で、冬の間、研究に没頭する。
研究の詳細を京子は知らなかったが、どうやら人の免疫を活性化させる研究のようだった。
「発表するまでは、誰にも言わない約束だから」
お互い、恋人にも家族にも秘密にする約束らしい。もっとも、京子は、城戸が行っている研究に興味はなかった。話されてもよく分からないだろうし、世界的な名声も巨額の富にも関心はなかった。本音を言えば、城戸には、大学か公的な研究所に勤めて欲しかった。結婚し、子どもを授かり、平凡で幸せな家庭を築ければそれで充分満足だ。ただ、城戸が楽しそうにしている姿を見るのは、それはそれで幸せな気分になれた。
城戸の方は、まるで子どものように、「秘密、秘密」と言いながら、京子に話したくて仕方がない様子で、「まあ免疫の活性化は」とか「ブリッグスの論文によると」とか独り言のように言っていた。
「それって、研究のこと?」と京子が聞くと、「えっ、何か言ってた? ずっと考えているから、つい口に出るんだ。忘れて忘れて」と言い訳していた。
研究所の場所は、フィンランドの北部、北極圏に位置するトゥリ空港より、更に車で二時間ほど北に走った小さな湖の近くだった。
冬は樹氷が森を飾り、空にオーロラが輝く。こう書くと、ロマンチックな風景を想像しがちだが、実際には、人の背丈ほど積もった雪に冬の間は閉じこめられ、一番近い商店に行くにも、車でゆうに一時間はかかる僻地だった。
ウイルスや病原菌、遺伝子などを扱う研究は、それ相応の設備が必要になる。ベンチャー企業を目指す若者にとって、研究施設を整えるのは大きな問題だった。
フィンランドに研究所を見つけたのは、偶然だった。バイオ系のベンチャー企業が資金繰りに失敗し、持っていた研究所も閉鎖されることになり、半年間格安に借り受けることができた。 研究所には生活できる部屋も付いていた。
「自炊だって。僕も料理をすることになるらしい」
包丁を持ったこともないはずなのに、城戸は嬉しそうだった。
若い男女が同じ屋根の下で三ヶ月から四ヶ月共同生活をする。京子はトラブルを心配したが、城戸は、「そんな暇はないよ」と京子の心配を笑い飛ばした。
冬の間に研究をまとめ、春にはカナダに研究所を移す。結婚後は、しばらくカナダで生活する。何もかも順調だった、はずなのに……。
吹雪で外に出られない、とクリスマスの前日、連絡があった。外へは出られなくても、ネットは繋がっていて、毎日カメラの向こうから城戸の笑顔が送られてきていた。
連絡が途絶えたのは、一月十日。その二日前に、吹雪で電線が切れたらしい、とメールが届いていた。次の日のメールには、このまま電気が来ないと、研究を止めて、帰るかもしれないと書かれていた。パソコンや携帯電話のバッテリーも切れると、連絡できなくなるけど心配しなくても大丈夫だから、と結ばれていた。
そして、三月、城戸が死亡したと知らされた。連絡は城戸の母、佐代子からだった。
佐代子は、「祐介が……」と言ったきり、言葉につまった。姉の治子が電話を替わり、城戸がフィンランドで死んだことを京子に伝えた。
「死んだ?」
「ええ、強盗に入られたみたいで……」
「強盗……」
「らしいというだけなんですど……」
発見時、遺体の損傷が激しく、当局の判断で火葬にしたということだった。
日本に戻ったのは、遺骨と私物が入ったボストンバッグが一つだけだった。
母親がクリスチャンだったこともあり、葬儀は家の近くの教会で質素に執り行われた。城戸の家族は、母親と城戸の姉の二人だけだった。父親は、城戸が高校生の時、既にガンで亡くなっていた。親類も少なく、葬儀に参列したのは、教会の信者を含めても二十人ほどだった。
京子も葬儀の列に加わり、祭壇に花束をささげた。しかし、遺体は既に火葬されていて、祭壇に飾られた写真だけでは、恋人の死を納得するのは難しかった。
城戸の死から半年が経っていた。今でも、気がゆるむと、フッと目の前に城戸の笑顔が浮かんできて、涙がこみ上げて来そうになる。
京子はハイヒールを履いた。
仕事に行こう……。一人で家にいるよりも、忙しく仕事をしているほうが、気が紛れる。
京子はアパートのドアを開けた。夏の光が顔に当たった。
「………」
内容を確認すると、メールはカード会社からの知らせだった。
『お客様の来月の請求金額が確定しました』
京子は、ため息をつき、携帯を閉じた。
恋人だった城戸祐介が死んでから半年あまりが過ぎていた。
「四月には帰るから、そしたら結婚しよう」
去年の秋、城戸は、そう言い残し、フィンランドに旅立っていった。
一冬かけて研究を完成させ、世界中に投資を呼びかける。ベンチャー企業を立ち上げ、成功すれば、数年で世界的な名声と巨額の富を得られる。夢のような未来を城戸は自信満々に語っていた。
「絶対に成功する。百パーセント。失敗なんてあり得ない。完璧な計画なんだ」
若手の研究者が七人集まった。男性四人に女性が三人。アメリカ、イギリス、フィンランド、トルコ、シンガポール、中国、日本と人種も国籍も異なる七人がオーロラが輝くフィンランドの空の下で、冬の間、研究に没頭する。
研究の詳細を京子は知らなかったが、どうやら人の免疫を活性化させる研究のようだった。
「発表するまでは、誰にも言わない約束だから」
お互い、恋人にも家族にも秘密にする約束らしい。もっとも、京子は、城戸が行っている研究に興味はなかった。話されてもよく分からないだろうし、世界的な名声も巨額の富にも関心はなかった。本音を言えば、城戸には、大学か公的な研究所に勤めて欲しかった。結婚し、子どもを授かり、平凡で幸せな家庭を築ければそれで充分満足だ。ただ、城戸が楽しそうにしている姿を見るのは、それはそれで幸せな気分になれた。
城戸の方は、まるで子どものように、「秘密、秘密」と言いながら、京子に話したくて仕方がない様子で、「まあ免疫の活性化は」とか「ブリッグスの論文によると」とか独り言のように言っていた。
「それって、研究のこと?」と京子が聞くと、「えっ、何か言ってた? ずっと考えているから、つい口に出るんだ。忘れて忘れて」と言い訳していた。
研究所の場所は、フィンランドの北部、北極圏に位置するトゥリ空港より、更に車で二時間ほど北に走った小さな湖の近くだった。
冬は樹氷が森を飾り、空にオーロラが輝く。こう書くと、ロマンチックな風景を想像しがちだが、実際には、人の背丈ほど積もった雪に冬の間は閉じこめられ、一番近い商店に行くにも、車でゆうに一時間はかかる僻地だった。
ウイルスや病原菌、遺伝子などを扱う研究は、それ相応の設備が必要になる。ベンチャー企業を目指す若者にとって、研究施設を整えるのは大きな問題だった。
フィンランドに研究所を見つけたのは、偶然だった。バイオ系のベンチャー企業が資金繰りに失敗し、持っていた研究所も閉鎖されることになり、半年間格安に借り受けることができた。 研究所には生活できる部屋も付いていた。
「自炊だって。僕も料理をすることになるらしい」
包丁を持ったこともないはずなのに、城戸は嬉しそうだった。
若い男女が同じ屋根の下で三ヶ月から四ヶ月共同生活をする。京子はトラブルを心配したが、城戸は、「そんな暇はないよ」と京子の心配を笑い飛ばした。
冬の間に研究をまとめ、春にはカナダに研究所を移す。結婚後は、しばらくカナダで生活する。何もかも順調だった、はずなのに……。
吹雪で外に出られない、とクリスマスの前日、連絡があった。外へは出られなくても、ネットは繋がっていて、毎日カメラの向こうから城戸の笑顔が送られてきていた。
連絡が途絶えたのは、一月十日。その二日前に、吹雪で電線が切れたらしい、とメールが届いていた。次の日のメールには、このまま電気が来ないと、研究を止めて、帰るかもしれないと書かれていた。パソコンや携帯電話のバッテリーも切れると、連絡できなくなるけど心配しなくても大丈夫だから、と結ばれていた。
そして、三月、城戸が死亡したと知らされた。連絡は城戸の母、佐代子からだった。
佐代子は、「祐介が……」と言ったきり、言葉につまった。姉の治子が電話を替わり、城戸がフィンランドで死んだことを京子に伝えた。
「死んだ?」
「ええ、強盗に入られたみたいで……」
「強盗……」
「らしいというだけなんですど……」
発見時、遺体の損傷が激しく、当局の判断で火葬にしたということだった。
日本に戻ったのは、遺骨と私物が入ったボストンバッグが一つだけだった。
母親がクリスチャンだったこともあり、葬儀は家の近くの教会で質素に執り行われた。城戸の家族は、母親と城戸の姉の二人だけだった。父親は、城戸が高校生の時、既にガンで亡くなっていた。親類も少なく、葬儀に参列したのは、教会の信者を含めても二十人ほどだった。
京子も葬儀の列に加わり、祭壇に花束をささげた。しかし、遺体は既に火葬されていて、祭壇に飾られた写真だけでは、恋人の死を納得するのは難しかった。
城戸の死から半年が経っていた。今でも、気がゆるむと、フッと目の前に城戸の笑顔が浮かんできて、涙がこみ上げて来そうになる。
京子はハイヒールを履いた。
仕事に行こう……。一人で家にいるよりも、忙しく仕事をしているほうが、気が紛れる。
京子はアパートのドアを開けた。夏の光が顔に当たった。
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