42 / 53
果実 派遣先の先輩を好きになりたくない
果実 第24話
しおりを挟む
……つもりだった。
児嶋さんと職場で顔を合わせることは、まだあるのだった。
予想していたことではあったが、児嶋さんがそばにいれば、やっぱり児嶋さんを見てしまう。自分でもう離れると決めたのだから、児嶋さんもそのつもりで拒否したのだから、仕事以外で話しかけるわけにはいかない――。
私だけかもしれない。こんなに、まだ、引きずっているのは。児嶋さんは表面テキパキ働いているように見える。というか、彼女のミスをチェックする私も、集中力がなくなっていたから、本当のところはわからない。
私は、眠れなくなった。
学生時代以来だった。沙耶との別れの後だって、眠れないというところまではいかなかった。
キツい……。
早く離れるんだ。仕事でも離れるんだ。
児嶋さんの声を聞くたびに、その声が体に響いて、動けなくなる。頭の中から彼女を排して、早く自分を取り戻さなくては。
気が付くと、私の手は止まっていて、児嶋さんがどうしたかったのかを考えてしまう。帰ってくださいと言われて、どういう気持ちで帰ったのか。どうしてあんなに泣いたのか。まだ少し、一緒にいたい気持ちは残っているのか。それとも、もう私を拒否したことで、自分でもすっきりとしてしまったか。
仕事中に目が合うと、児嶋さんは、何か言いたそうに私を見つめたままになることがある。
そのあと、私は一日中、児嶋さんが何を言いたかったのかが気になって、眠れなかった。
どうしてあんな表情で私を見るのか。言いたいことを抑えたのか。仕方がないって、そう思っているのか。視線に、抱っこをせがんだときのあの飢えが混ざっている気がして、私は、抱っこはいらないんですかと、余分なことを言い出しそうになる。
どうして、あんな目つきをするんだろう。どうして、あのままにできるんだろう。
どうして。どうして。どうして。
契約更新の話を持って、派遣会社の営業がやってきたとき、私は、やめるつもりでいた。はじめに児嶋さんと話した営業の川田は、入れ替わりに部屋に入ってきた私が椅子に座ると、ニコニコと笑って切り出した。
「麻生さんに、また、更新のお願いが来ています」
眠さも手伝って、川田の顔が2つにぶれて見えた。首の上だけ分裂してる。3つにぶれたらどっかの仏像みたいだ。
「あはは」
「麻生さん?」
「あ、すみません、ちょっと寝てなくて。なんか、ゆるんじゃいました」
「お仕事大変ですか?」
川田は気がかりそうな顔を作って私の顔を覗き込んだ。
私は川田の顔を覗き込み返した。
「児嶋さんにも更新の話、来てますよね?」
さっき、部屋から出てくる児嶋さんに聞きたかったことを、川田に聞いた。
「来てますよ。堺さんから、二人ともにいてほしいという風に聞いています。いったん定着すれば長く勤められる職場みたいですね。児嶋さんもあと半年は続けられるそうですしね」
……半年。
「ここって、一年ごとではなかったですか?」
派遣の更新自体は三か月区切りでも、会社としては来年の決算にあたる12月までは働いてもらいたいと聞いている。
川田は、それは、児嶋さんの事情で、と答えた。紹介予定派遣を望んで、資格取得などを頑張って、次のお仕事に移行する方もいらっしゃるんですよ、と。
――どうして。
私の思ったのは、それだった。児嶋さんは自分から率先して仕事を探すタイプじゃない。こういったら失礼だが、大きく環境を変える勇気とか、あるほうじゃない。派遣なら派遣で、わりと同じ場所で淡々と続けるタイプだ。あれだけ毎日一緒にいて、いままで、正社員になりたいとか、そんな話を一度も聞いたことはない。「そうだね、いろいろ考えてみなくちゃね」とか言いながら、目の前の仕事に集中し続ける。
だから、この話を聞いたとき、私ははっきりと「逃げたな」と感じた。
私よりも先に児嶋さんが、私と会社で会うことを避ける行動を取ったことに、体中の力が抜けた。
「麻生さん?」
「答え、いつまで待っていただけますか」
「あ、まだ、すぐじゃなくて全然大丈夫。2、3日中にお返事もらえれば」
川田はニコリと笑った。
自分はやめようと考えていたくせに、おかしいのかもしれない。だけど、私は、……私が限界になったのは、もともと、押しても押しても中途半端に逃げ続ける児嶋さんに、どうしても意識が行くのを避けられないからだ。
私は半年でももたないから、すぐにでもやめることを考えていたのに、児嶋さんは半年待てるほどの余裕があるのか。
「会社をやめる」「かも」しれない、そのために半年の猶予をもつ、という児嶋さんの考え方は、そのまま、隆史さんとうまくいかないかもしれないから麻生さんといたけど、もういいや、さよなら、といわれたみたいだった。
いままで感じていた、少しは私と一緒にいることを喜んでいたのではないか、という期待が一気に崩れた。
児嶋さんが急に、冷たく見えた。私ともう一緒にいませんという消極的な行動が。消極的だからこそ、冷たく見えた。
もう疲れた。
「半年って、なんの半年ですか」
部屋に戻って、児嶋さんの隣に座ると、私は久しぶりに児嶋さんに口を開いた。
「聞いたんだ」
「資格をとって逃げるんですね」
わざと、嫌味を言った。もういい。どうせそういうことでしょう。もう恋愛なんかしない。最初から好きになんてなりたくなかったんだ。もう二度とこんな馬鹿な真似はしない。どうせ反論もしないでさらりとかわすだけだ、この人は。
児嶋さんがあまりに何も言わないので、顔を上げた。彼女は私を見たまま、真っ暗闇に放り出されたかのような表情をしていた。私の嫌味に傷ついた顔とは違った。まるで、一番大切な人にでも突き放されたかのような表情。その表情、誤解をするから。
突き放されたという表情の奥に、危険な場所に行く子供を抱き止めようとするような空気を感じた。
こんな顔、いままでで一度もしたことない……。
私の中に、その視線に対しての「何」「どうして」が広がっていった。
背後にも視線を感じた。
指揮命令の堺が、会話を聞いて、いそいそと近寄ってきていた。今の会話の流れじゃ、この会社から逃げるのかというケンカに見えたんだろう。
「仕事の話じゃないですよ」
「そ、そうなの?」
堺は納得できなさそうだったが、無理に納得した表情を作って、場を外した。
「児嶋さんがどうしたいのか、わからない」
思わず呟いた。
「帰り、話がしたいんだけど、駄目?」
「いいですよ。じゃ、うちで」
うちに来る覚悟があるならね。っていうか、話の内容的に、外じゃなかなかできないかもね。
やけくそな気持ちが、もう一度話す勇気をくれた。話がしたい? なんの話を。会社をやめる理由? 居心地わるくなったからやめる言い訳を、私は聞かされるのか。それとも隆史さんとよりを戻したとでも聞かされるのか。
やっぱり、うちで話すんじゃなくて、あとでメールで送ってもらえませんか……勘弁してください、そう言おうか、迷いながら一緒に帰ろうとした夕方。
隆史さんが会社の入り口に立っていた。
――ああ。ほら。児嶋さんには、いるんだ、こういう人が。私といるときだって、しばらく会ってないときだって、いつもいるんだ、隆史さんが。私にできることなんて何一つない。
「じゃ、明日」
夢の中にでもいる気分で、私は児嶋さんに背を向けた。急に涙があふれてきて、どうしていいかわからなかった。
「はるか!」
「いいですよ。別に。いってらっしゃい」
こっち、見ないで。もう私をかき乱さないでほしい。
後ろを向いたままで手を振って、そのまま会社の出口を通り抜け、児嶋さんから姿が見えないだろう距離まで来て、私は走り出した。
児嶋さんと職場で顔を合わせることは、まだあるのだった。
予想していたことではあったが、児嶋さんがそばにいれば、やっぱり児嶋さんを見てしまう。自分でもう離れると決めたのだから、児嶋さんもそのつもりで拒否したのだから、仕事以外で話しかけるわけにはいかない――。
私だけかもしれない。こんなに、まだ、引きずっているのは。児嶋さんは表面テキパキ働いているように見える。というか、彼女のミスをチェックする私も、集中力がなくなっていたから、本当のところはわからない。
私は、眠れなくなった。
学生時代以来だった。沙耶との別れの後だって、眠れないというところまではいかなかった。
キツい……。
早く離れるんだ。仕事でも離れるんだ。
児嶋さんの声を聞くたびに、その声が体に響いて、動けなくなる。頭の中から彼女を排して、早く自分を取り戻さなくては。
気が付くと、私の手は止まっていて、児嶋さんがどうしたかったのかを考えてしまう。帰ってくださいと言われて、どういう気持ちで帰ったのか。どうしてあんなに泣いたのか。まだ少し、一緒にいたい気持ちは残っているのか。それとも、もう私を拒否したことで、自分でもすっきりとしてしまったか。
仕事中に目が合うと、児嶋さんは、何か言いたそうに私を見つめたままになることがある。
そのあと、私は一日中、児嶋さんが何を言いたかったのかが気になって、眠れなかった。
どうしてあんな表情で私を見るのか。言いたいことを抑えたのか。仕方がないって、そう思っているのか。視線に、抱っこをせがんだときのあの飢えが混ざっている気がして、私は、抱っこはいらないんですかと、余分なことを言い出しそうになる。
どうして、あんな目つきをするんだろう。どうして、あのままにできるんだろう。
どうして。どうして。どうして。
契約更新の話を持って、派遣会社の営業がやってきたとき、私は、やめるつもりでいた。はじめに児嶋さんと話した営業の川田は、入れ替わりに部屋に入ってきた私が椅子に座ると、ニコニコと笑って切り出した。
「麻生さんに、また、更新のお願いが来ています」
眠さも手伝って、川田の顔が2つにぶれて見えた。首の上だけ分裂してる。3つにぶれたらどっかの仏像みたいだ。
「あはは」
「麻生さん?」
「あ、すみません、ちょっと寝てなくて。なんか、ゆるんじゃいました」
「お仕事大変ですか?」
川田は気がかりそうな顔を作って私の顔を覗き込んだ。
私は川田の顔を覗き込み返した。
「児嶋さんにも更新の話、来てますよね?」
さっき、部屋から出てくる児嶋さんに聞きたかったことを、川田に聞いた。
「来てますよ。堺さんから、二人ともにいてほしいという風に聞いています。いったん定着すれば長く勤められる職場みたいですね。児嶋さんもあと半年は続けられるそうですしね」
……半年。
「ここって、一年ごとではなかったですか?」
派遣の更新自体は三か月区切りでも、会社としては来年の決算にあたる12月までは働いてもらいたいと聞いている。
川田は、それは、児嶋さんの事情で、と答えた。紹介予定派遣を望んで、資格取得などを頑張って、次のお仕事に移行する方もいらっしゃるんですよ、と。
――どうして。
私の思ったのは、それだった。児嶋さんは自分から率先して仕事を探すタイプじゃない。こういったら失礼だが、大きく環境を変える勇気とか、あるほうじゃない。派遣なら派遣で、わりと同じ場所で淡々と続けるタイプだ。あれだけ毎日一緒にいて、いままで、正社員になりたいとか、そんな話を一度も聞いたことはない。「そうだね、いろいろ考えてみなくちゃね」とか言いながら、目の前の仕事に集中し続ける。
だから、この話を聞いたとき、私ははっきりと「逃げたな」と感じた。
私よりも先に児嶋さんが、私と会社で会うことを避ける行動を取ったことに、体中の力が抜けた。
「麻生さん?」
「答え、いつまで待っていただけますか」
「あ、まだ、すぐじゃなくて全然大丈夫。2、3日中にお返事もらえれば」
川田はニコリと笑った。
自分はやめようと考えていたくせに、おかしいのかもしれない。だけど、私は、……私が限界になったのは、もともと、押しても押しても中途半端に逃げ続ける児嶋さんに、どうしても意識が行くのを避けられないからだ。
私は半年でももたないから、すぐにでもやめることを考えていたのに、児嶋さんは半年待てるほどの余裕があるのか。
「会社をやめる」「かも」しれない、そのために半年の猶予をもつ、という児嶋さんの考え方は、そのまま、隆史さんとうまくいかないかもしれないから麻生さんといたけど、もういいや、さよなら、といわれたみたいだった。
いままで感じていた、少しは私と一緒にいることを喜んでいたのではないか、という期待が一気に崩れた。
児嶋さんが急に、冷たく見えた。私ともう一緒にいませんという消極的な行動が。消極的だからこそ、冷たく見えた。
もう疲れた。
「半年って、なんの半年ですか」
部屋に戻って、児嶋さんの隣に座ると、私は久しぶりに児嶋さんに口を開いた。
「聞いたんだ」
「資格をとって逃げるんですね」
わざと、嫌味を言った。もういい。どうせそういうことでしょう。もう恋愛なんかしない。最初から好きになんてなりたくなかったんだ。もう二度とこんな馬鹿な真似はしない。どうせ反論もしないでさらりとかわすだけだ、この人は。
児嶋さんがあまりに何も言わないので、顔を上げた。彼女は私を見たまま、真っ暗闇に放り出されたかのような表情をしていた。私の嫌味に傷ついた顔とは違った。まるで、一番大切な人にでも突き放されたかのような表情。その表情、誤解をするから。
突き放されたという表情の奥に、危険な場所に行く子供を抱き止めようとするような空気を感じた。
こんな顔、いままでで一度もしたことない……。
私の中に、その視線に対しての「何」「どうして」が広がっていった。
背後にも視線を感じた。
指揮命令の堺が、会話を聞いて、いそいそと近寄ってきていた。今の会話の流れじゃ、この会社から逃げるのかというケンカに見えたんだろう。
「仕事の話じゃないですよ」
「そ、そうなの?」
堺は納得できなさそうだったが、無理に納得した表情を作って、場を外した。
「児嶋さんがどうしたいのか、わからない」
思わず呟いた。
「帰り、話がしたいんだけど、駄目?」
「いいですよ。じゃ、うちで」
うちに来る覚悟があるならね。っていうか、話の内容的に、外じゃなかなかできないかもね。
やけくそな気持ちが、もう一度話す勇気をくれた。話がしたい? なんの話を。会社をやめる理由? 居心地わるくなったからやめる言い訳を、私は聞かされるのか。それとも隆史さんとよりを戻したとでも聞かされるのか。
やっぱり、うちで話すんじゃなくて、あとでメールで送ってもらえませんか……勘弁してください、そう言おうか、迷いながら一緒に帰ろうとした夕方。
隆史さんが会社の入り口に立っていた。
――ああ。ほら。児嶋さんには、いるんだ、こういう人が。私といるときだって、しばらく会ってないときだって、いつもいるんだ、隆史さんが。私にできることなんて何一つない。
「じゃ、明日」
夢の中にでもいる気分で、私は児嶋さんに背を向けた。急に涙があふれてきて、どうしていいかわからなかった。
「はるか!」
「いいですよ。別に。いってらっしゃい」
こっち、見ないで。もう私をかき乱さないでほしい。
後ろを向いたままで手を振って、そのまま会社の出口を通り抜け、児嶋さんから姿が見えないだろう距離まで来て、私は走り出した。
11
お気に入りに追加
59
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる