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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない

果実 第22話

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 児島さんが、仕事のあとに、「今日は空いてる……?」と聞いてきた。
 昨日、思いつめた表情で「隆史と、会ってくる」と言っていたから、その話をするんだろうと思った。
「うちに来ますか?」
「……うん」
 歯切れが悪い。もうそこで、覚悟していた。
 別れるのをやめた、と言われることを。別れ話がこじれたか。もしくは私に言いづらいことがあったとか。別れ際になにかあったか。胃は痛かったが、児嶋さんの歯切れの悪さの中には、すごく考えている空気があった。
 別れました?
 そう聞くだけのことが、難しかった。
 児島さんが罪悪感にさいなまれるような表情をしてたから。私に対しての表情なのか、それとも隆史さんに何か痛いところでも突かれたのか。傷つくようなことでも言われた?
「児嶋さん」
 彼女からその話を出してくれるのを待っていたが、いっこうに話し出さないので、私から切り出した。
「ん?」
「別れたとき、最後に何かしました?」 
 私はずるかった。先制した。別れるのをやめた、そう言われたくなかったから。気弱な児嶋さんが、やっぱり別れないとダメだ、と思い直すように。
 児嶋さんが、しまった、言いにくい、という顔をした。なんでこの人はこんなに反応が素直なんだ?
「なにが……?」
「だから隆史さんと、何もなかったんですか、昨日」
 児嶋さんは、簡単に未練を断ち切れるタイプじゃない。別れ際のキスぐらいは無理やりにでも笑ってスルーする。いや、スルーじゃない、ちゃんと聞かないと。私が別れさせたんだ。本当は児嶋さんに「あんたのせいで別れた、後悔してる!」そう責められてもいいぐらいだから。だいたい、隆史さんと別れて、本当にこの人は大丈夫なのか……。
「しなかったよ」
 別れてない。そう言われなかったことに少し安堵した。
 安堵ついでに、飛び上がりたいような大人げない気持ちがわきあがる。
 やっぱりはるかと別れる、と今日になって言われる線は消えた。 
「もう、隆史のことは、ほんと受け入れられないみたいで」
 この表情、なんだろう。隆史さんを受け入れられなかったことに対してのものなのか。
「私のことは?」
 ふと、言いたくなった。
「え?」
「私のことは受け入れられますか?」 
 児嶋さんが黙った。
 隆史さんのことを受け入れられなくなったからって、私を受け入れられるわけじゃないんでしょう、というモヤモヤした気持ちもあり、もし受け入れられるような空気があるなら、少し進みたい、という気もあった。
 私は黙って彼女の頬に手を伸ばした。唇に触れるまでの勇気は出ず、その横を撫でた。
 嫌がってくれないと期待する――。
「あの」
 児嶋さんから何の反応もないことに焦れる。
「返事、してください。私じゃなくたって、誤解すると思いますよ!」
「わからないよ」
 児嶋さんは困惑したように私を見つめた。
 あ……ダメだ、キスしたい。
 抱き込んでしまいたい衝動。
「たとえば、いま、キスしたらイヤなのかどうかって!」
 叫んだときには、そうできる体制になっていた。児嶋さんの唇が、開きかけの花びらのように甘い香りで私を魅惑していた。時間が止まってしまったみたいだ。
 ――やめろ。バカ。抑えろ。
 私は児嶋さんから飛び退くように離れた。
「ゴメンナサイ! ちょっと……もうあの、いや、あのですね、ゴメンナサイ」
 頬を叩いて頭を冷やそうとした。
 好きだ。好きだ……。そう言ってそのまま手を出してしまいそう。
 抑えろ。
 目を覚ませ。
「うう~」
 何がキスだ、調子にのりすぎだ。だいたいキスしたら、もっともっと、になるに決まってる。
 そんな風に唸っていた時間が長かったのか。児嶋さんがゆっくりと言った。
「キスだけなら」
 どくっと心臓と頭に血が行った。
 静かに、トーンを落とした声で。
「ゆっくりとなら」
 児嶋さんが言う。
 まずい……。理性が飛ぶ。
 キスしたいですよ。何? 本当に? 本当にするよ? わかってる?
 児嶋さんはゆっくりとなら進んでもいいと思っているのかもしれない。子供同士のようなちゅーならいいとでも思っているのかもしれない。でも。児嶋さんが声を出したら、あんな――前のようなあんな声をだしたら、キスは唇まででは終わらない。
「いいですよ。無理しなくて」
 私は逃げた。
 だいたいこの前だって、いいって言っておいて泣き出すし――おあずけ食らって凹んだし。なにより、自分が浮かれすぎていて、感情が暴走するのが怖い。
「いつかは最後まですることになるんですから」
 私は未練がましくならないように、へらず口をたたいた。自分に言い聞かせたかったのもあるし、児嶋さんに、最後までを想像させたかったのもある。
「どこまでならストップ! って思わずに済むか、確かめてみるのもいいと思うの」
 この人は、いま私が飛び掛かりそうな状態だってわかって言ってるのか?
 いますごく期待するような事を言わなかったか?
 でも。
 本当に……。本当に、わからないんだ、児嶋さん。
 キスぐらいならしてもいいって、そう思ってるのか……。これは、確かめたいということでもあるだろうし。
 児嶋さんが家に帰るまでに、やっぱり確かめましょうと言いだそうか迷ったが、もうそんな勇気は出なかった。どうしてそんなもったいないことをしたんだろう。不思議でしかたがない。




 隆史さんと会わなくなってから、児嶋さんはかえって生き生きとするようになった。
「寂しくなったりしません?」
 聞くと、大丈夫だと答える。
「はるかといると、楽しいから、忘れる」
 確かに笑顔が増えた。
 今も児嶋さんは、コタツの上に小さなデコパーツをたくさん並べて、100円均一で買ったばかりの姫系のケースの中に整理している。口元にはずっと、好きなものを触っている時のハートマークをそのまま溶かしたようなほほ笑みが浮かんでいる。
「児嶋さんといると、なんだか、ぶどう食べてるみたいな気持ちになるんですよね?」
 私はもうデレデレだった。
「えぇ? 何それ?」
 児嶋さんは少し呆れ顔になった。
 整理しおえたケースの蓋を閉じると、児嶋さんは聞いた。
「なんでぶどうなの?」
「私がいちばん好きな果物だからです」
 児嶋さんの耳がかあっと赤くなった。
「もっと、」
 重いかな、と迷ったが……どっちみち私は重いし押しが強い。もう……いいや。
「もっと、一緒にいたいです」
 伝えるのなら、きちんと。
 児嶋さんの目をみて言うと、何秒か児嶋さんは私を見たままになった。心臓がぎゅうっと苦しくなった。児嶋さんは、急に痛そうな表情をした。戸惑ったようにうつむいた。
「そんなこと言って」
 児嶋さんはちょっと笑った。嫌悪めいた笑いが入っていた。
「そんなこと言って?」
「……ううん」
 聞き返されると思っていなかったらしい。児嶋さんはごまかした。
 そんなこと言って、なんなんだ。そのままにしたくないような表情してた。
 なにか、児嶋さんの奥底にあった引っ掛かりを見た気がしたのだ。追及したくなるような何か。
 私は彼女の手をとってこっちを向かせた。きちんと伝えられれば、「そんなこと言って」の続きを否定できる気がして。
「そんなこと言って……何です?」
 目を合わせると、児嶋さんは動揺したように顔をそむけた。逃げる視線を追いかける。児嶋さんは私の目をじっと見て言った。
「またそうやって軽い気持ちで言……」
「軽い気持ちじゃないですよ?」
 思わず、怒っていると取られかねないような強めの声が出た。じっと見つめると、児嶋さんは返事につまってしまった。このままキスしたい。したいけど、そういうこっちの感情を察して児嶋さんは視線をそらそうとする。
「さっき言いかけたの別のことですよね?」
 かすかに、とられた手を児嶋さんがひっこめようとする。私は、児嶋さんと同じぐらいかすかな力でひきとめた。
 ――言わないとこのままキスしますよ。
 そういう内容を込めて見つめる。実際にはしない、無理にしないと約束したからしない――でも、そういうつもりで見つめると、児嶋さんには伝わるから。
 児嶋さんは言おうとして唇を開き、また閉じ、意外な言葉を唇から吐いた。
「……好きになる側のが飽きるのが早いよね」
 苛ついた内心を、柔らかい声音で包んで。一般論としてじゃなく、私に言ってるんだとわかった。まるで、責めるように。
「なんですか、それ?」
 好きになる側のが飽きるのが早い? 私が飽きるって?
「私に飽きられたくないんですか?」
 児嶋さんの頬に赤みが差した。
「ごめん、一般論を言ってみただけ。ごめん」
 私に好かれていることを、完全に受け入れている児嶋さんに、ときどきびっくりする。なにかフォローしたいと思ったけれど、困ってしまった。何を言ったら児嶋さんが納得するのか思いつかず、私は首をかしげたまま呆然としてしまう。
「よく、わかんないですけど……私は、あまり、一般的な女子じゃないですね」
 児嶋さんは視線をそらしたまま黙っていたが、突然口の端をにやりとさせ、そのまま噴き出した。
「そうだよね……!!」
 憮然としてみせたが、場の雰囲気が和んだのでホッとした。そしてこのやりとりを、他のやりとりと同じように、しばらく私は毎日の日課のように反芻した。ちょっとした言葉、表情、一緒にいる時間、全部が宝物みたいだった。
 とにかく、私はデレデレで。そのにやけきった日々に、突然冷水を浴びせられる日が来ることを、あまり考えていなかった。
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