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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない

果実 第18話

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 ファミレスは閑散としていた。窓際で小山のような女がパフェを食べながら何か書いているほかは、人がいない。こう寒くては夜中に出歩く人も少ないのだろう。
 二人でものを食べるのは本当に久しぶりだ。終電まで、あと15分くらい。あまり時間はなかった。
 彼女はクレープシュゼットを食べていた。オレンジリキュールの柑橘の爽やかな香りの中、幸福の象徴のように太陽色に染まったクレープが、一切れ、また一切れと児嶋さんの唇に運ばれていく。バターの柔らかい香りが合わさって、児嶋さんのまわりを贅沢な空気が包んでいた。私も同じものを食べたかったが、児嶋さんを好きなあまり真似していると思われたら気持ち悪がられてしまいそうで、ふつうのプリンパフェを頼んでしまった。
 頬杖をついて見つめる私を無視して、彼女はひたすら食べている。
「なにがあったんですか?」
 クレープを切り分けるナイフの動きが止まる。
「うーん……麻生さんに、相談したかった」
「なにを?」
「……声が聞きたかっただけかも」
 心臓がドクッと全身に血液を送り込んだ。なぜそういうことをサラッと言う? 細胞が沸き立っている。児島さんはちょっと俯いて、正直な話、とつけたした。声の神妙さが、体にずくんと響く。
「わざわざ、隆史さんとのデートをブチ切ってこっち来たわけですよね。何かあったとしか思えないです」
 児嶋さんは困ったように首をかしげた。
 唇がふにゃふにゃに歪んでいた。
「どういう風に会ってたんですか」 
「……前みたいに、ごはん食べに行って、公園に行ったの」
 児嶋さんは黙ってしまった。もやっとしてきた胸の霞を払って、先をうながす。
「それで、ホテル行こうって流れになって? 隆史さんが言い出したんでしょうか?」 
「ちがう……私が、そう言いそうになったから」
 聞きたくなかった。意味もなく眉間にぎゅうっと力が入っていく。私は目をとじて、自分の感情をやりすごした。
「いやで……嫌になって、聞いてる?」 
「き、聞いてます」
「別れる前は、そういうパターンだったから」
「そういうパターンって、児嶋さんがホテルに誘う流れですか」
「んー」
 児嶋さんは、まだ頬に赤味を残したまま、頭を八の字にぐんにゃりと振って否定した。
「ご飯とか食べたら、どっちかの家か、ホテルに泊まる流れだよ。別にだから、そういうことが、したいんじゃなくても、まだ離れたくなくて……」
「意味不明です」
 ついぶっきらぼうに言ってしまった。私の荒げた口調に、児嶋さんは口をつぐんで、怒られた子供みたいに私を見た。 
 理解できないわけじゃない。むしろ、わかる。
 でも、そういう相談なら別の友人にだってできるだろう。
(まだ離れたくなくて……)
(ホテルに泊まる流れだよ……)
(そういうことがしたいんじゃなくても……)
 ぐるぐると、彼女の放った言葉が私の胸のなかに入れずに跳ね回っている。
 私の気持ちを真面目に受け取っているなら、目の前でそこまで聞かせようとは思えないだろう。私がどんな気持ちになるかわかっていたら。
 ……だめだ。ちゃんと聞け。友達に聞かされれば普通に答えるような、なんでもない会話だ。児嶋さんは、私に話すことにしたんだ。さっきまで泣いてたんだ。自分勝手に感情を押しつけるな。
 私は目を閉じた。できるかぎり穏やかに聞こえるように、ゆっくりと言った。
「離れたくないなら、離れなきゃいいんじゃないですか?」
 声音が優しくない。自分ではっきりとわかった。
 受け入れることができないのに、また先をうながした。
「それで?」
 児嶋さんは私を見つめて言った。
「怒ったの?」
「怒ってませんよ……」
 彼女はうつむいて、
「怒ってるよ」
 小さな声で私の首をしめた。
 ああもう! どういう態度をとれというんだ。怒ってない、泣きそうなだけだよ!
「そろそろ、終電ですから。家まで送りますね」
 私は立ち上がり、会計の紙を抜いて、入り口に向かった。
「次の仕事の日、帰りにまた聞きます。終電、逃したら、大変ですから」
 整理してから、要点を絞って相談してもらえないと困る。普段なら、児嶋さんはもうちょっと配慮がある。やっぱりまだ酔ってる。
 店を出たところで、もう一度言った。なるべく優しい響きになるように。
「本当に怒っていませんから」
 児嶋さんは反論しなかった。感情を読まれている気がした。私は目を逸らして駅へと歩き出した。
 今日はもう駄目だ。相談どころじゃない。酔っ払いの垂れ流しの言葉にいちいち感情が反応してしまって、ちゃんと相談に乗る自信がない。終電を逃してまで相談に乗って、こちらまで感情ぐちゃぐちゃになったら。そのまま部屋に泊めでもしたら。
 後姿を見て、児嶋さんが私を怒らせたと勘違いすることは、想像ができていた。でも、泣きそうな表情を見られたくない。小さなプライドのせいで、振り向けなかった。本当はこんなふうにしたいわけじゃない――ちゃんと朝まで話を聞いて、部屋でとっておきのロイヤルミルクティでも振る舞いたい。せめて、一言いえたら。せめて、手をつなぐだけでもしたら、彼女はわかるだろうか、怒っていないと。
 改札に着いたとき、児嶋さんはまだなんとなくフラフラした印象があった。ふにゃっと首をかしげて、私を見つめ、それじゃおやすみなさいと言って手をふった。
「いえ、家まで送りますよ?」
「え? いいよ。終電で送ったら、麻生さん、帰ってこれないよ?」
「ネカフェにでも泊まります。なんか、危なっかしくて、嫌です。送りますから」
「そんなの、私が嫌だよ! いいから。いいから。大丈夫だから」
 彼女はそう言って、改札を通り、ついて入ろうとした私を押し戻して止めた。
「こーなーいーで!!」 
 慌てて身を引くと、彼女はくしゃくしゃと笑った。あれ以来のはじめての笑顔に、胸がきゅんと音をたてた。
 反則だ。心が溶ける。
「ありがとう」
 児嶋さんはにいっと笑って、私の目に直接きらきらした星を届けると、くるりと踵を返してホームへの階段を駆け上がっていった。
 
 
 私もお酒でも飲もうかな。苦手だけど。
 家に向かう道すがら、自販機で、さっき児嶋さんが飲んでいた酒をみつけた。同じものばかり鞄に入っていた。この銘柄が好きなのか。
 私は酒を買った。もしかしたら、友達に戻れるのかもしれない。
 都合のいい言葉だけをリフレインして、いい気分で眠れるようにスタンバイだ。
 ――声が聞きたかっただけかも。
 ――声が聞きたかっただけかも。
 ――声が聞きたかっただけかも!
 マンションの前まで来たとき、私の皮膚がぴりっとした。
 そのままエレベーターホールに歩みをすすめた。背後の気配が、私についてきた。心臓がはねあがった。
 視線を全身に受けて、指先までこわばっていく。
 深夜、普段なら人通りのない道だ。目立つものなんて痴漢注意の看板くらいだ。
 もちろん、同じビルの住人かもしれない。たまたま帰りが一緒の方向なだけ。ただ、視線が私の背中にロックオンしてるだけ。
 エレベーターに一緒に入られるのは嫌だった。私は自然に階段へ向かった。気配の主はエレベーターホールで立ち止まらず、そのまま私についてきた。
 え……。
 心臓が危険回避せよと鐘を打っている。
 やばいやばいやばい。
 昇りはじめた階段は、4階まで通路がない。部屋を知られたくない。通路まで出て、どうにかして外で巻こう。もう、すぐ後ろに足音と息の音が聞こえる。どこか、家族で住んでいそうな家のチャイムを鳴らそうか。
 よかった。児嶋さんと別れたあとで……。
 背後の影が、タプンと液体の音をさせた。ザッと血の気が引いた。
 ちょっと、嫌なんですけど。怖いんですけど。
 なに? タプンって、何の液体? まさか、灯油とか、ガソリンとかそういう――。
 今日未明若い女性が焼死体となっているのが発見されました……死体は深夜1時から3時までの間に、何者かに襲われたものとみて警察は捜査しています、被害者の住むマンションに、放火の形跡が見られ――もう駄目だ!
 恐怖心の限界で、頭の中の高速テロップをぶち破り、振り向いた。
 児嶋未来が、左手に酒瓶を持って、にこにこして立っていた。
 一気に力が抜けた。
「はぁぁぁあ!? な、な、に、を! やってんですか!?」
「泊めて?」
 階段に座り込んだ。
 車に轢かれかけて以来のスリルに心臓がばくばくいっている。
 恨めしげに見上げると、彼女は罪のない笑顔をふやけさせていた。
「一緒に♪ 飲みましょう。ね?」
「!!! いま、すごく、怖かったんですからね!」
 彼女は面白そうに私を見ると、頭をぐりぐり撫でてきた。
「とーめて?」
 こいつ……上目遣いで……! ダメだ、ダメダメダメ!
「終電、乗れなかったんですか? もう……あぁ~~……今タクシー呼ぶから待っててください」
 児嶋さんの手を握って外へ連れ出し、携帯でタクシー会社の電話番号を調べる。その手から彼女が携帯を取り上げた。
「帰らない」
「…………」
「話すまで、帰らない。せっかく酔ったのに!」
 頭がぐるぐるしてきた。
 児嶋さんは咎めるみたいに私を見た。
「まだ話が終わっていないよ」
 何を話すって?
 そうか。そういうことなのか。朝までファミレスか……あくまで隆史の話を、聞かせるのか。私に。了解。
「聞きます……」
 しかたがない。そのかわり、泣くぞ本当に。泣いてやる。ファミレスまで引き返そうと手を引っ張った。
「ヤダ――ッ!」
 突き帰されるものと誤解したのか。深夜のマンションの前、突然の声に驚いて振り向いた。
 抱きつかれていた。顔面が火照る。火照った頬に、自分の反応にうろたえて、私は言葉を返すのをわすれた。
「やだよ……」
 児嶋さんは頬に水流を作って、私の服の胸元に爪をたてたまま私を見ていた。
「麻生さんは、私のこと、好きなの?」
「す……きですよ?」
 声がひっくり返った。
「どうして避けるの。好きならちゃんと縛っててよ!! そんなんじゃ、ぜんぜんわからない!」
 完全に、言う言葉をなくしてしまった。なにも思いつかない。抱きつかれたまま突っ立っている私の頭上で、蛍光灯がちかちかと点滅するのを、ぼんやりと見てしまう。ええと。これは。なんでしょう……? 告白と見ていいのか? それとも違うのか?
「抱っこ」
「はい?」
「抱っこ」
「してます。いま、してますよね! 抱っこ!」
 抱きつかれているというのが正しいのかもしれないが。心臓が大量に血を送りすぎて、私の頭はパンク寸前だ。
 ああ、そうか、追いかけられたから余計にそうなんだ。頭の奥で、一割も残っていない冷静な部分が分析する。怖くてドキドキしてると、一緒にいた相手に恋をしていると勘違いしやすいって、心理講座で聞いたことがある。もとから恋してる場合はどうなるんだ。
「もっと抱っこ。麻生さん、抱っこ……」
 どうして、そんなふうに、心臓をわしづかみにする瞳で見る? 児嶋さんが涙をぼろぼろ垂れ流しているのを見て、負けた。恋愛は勝ち負けじゃない、とよく言う。詭弁だ――力関係は存在する。児嶋さんが真剣に感情をぶつけてくる。泣くほど、児嶋さんが何かをほしがるなら、涙の理由が何であっても、抵抗なんかできない。
「う、うち、来ますか? もういいや。泊まります?」
「うん!」
 いま泣いたカラスがもう笑ってる。
 児嶋さんは片手に持った酒瓶を陽気に振り回しながら、私の部屋へあがりこんできた。  
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