虫 ~派遣先に入って来た後輩が怖い~

銀色小鳩

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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない

果実 第10話

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 深夜に目が覚めた。児嶋さんは腕の中で、寝息をたてていた。
 児嶋さんの手が私の袖をつまんで、かすかに引いた。離れないで、というみたいに。
「…………」
 からだが、ずきずきして、フワフワする――。
 児嶋さんの手を、優しく包むように握って、袖から放させた。ベッドの布団を引っ張って、彼女と私ごとくるみこむ。児嶋さんはそのまま、私の首に手を回して抱きついてきた。ぎゅうっと身体が愛しさに揉みこまれる。髪を撫でる。倒れ込みそうになって、肩を抱いた。
 やわらかい。
 体が熱い。胸の奥が……。魂の中心が、とろとろと蕩けて熱く高揚している。抱き合っているだけなのに、夢の中に浮いているみたいだ。
 心臓のドキドキが、彼女の胸に、彼女の背中に回した腕に、伝わっていきそうだ。
 彼女のゆっくりとした呼吸音と体温。
 ふいに泣きたくなった。


「好きなら、なんで私に触れてこなかったの?」
 好きなものは好き、嫌なものは嫌。
 沙耶は好きだと思うと自分から行動するタイプで、私にもすぐに好きだと言ってきた。
 その沙耶がプラトニックでいたいというなら、恥ずかしいからとかではなくて、本当に生々しい行為を望んでないんだ。そう思っていた。体に触れられるのが怖い、プラトニックでいたい、そう言っていたのは沙耶だったから。
 男の人、無理なの。そういうことも、今はできないの。怖いから。
 沙耶が浮気をしたのは、あるセクシャルマイノリティのサークルの、悪い噂のある女性だった。何人もの女性に手を出してはすぐに飽きるような人間だったのを、私は知っていた。
 その女性と浮気を、いや本気かもしれない……付き合いをはじめて、出かけるようになった辺りから、沙耶は少しずつ不安定になっていった。
「はるかに触られるの、怖かったの。でも、そんなの変わるじゃん。変わるんだよ。変わったのに、気づいてほしかった」
「言われなきゃわからないよ。そういうこと、していいなら、言ってほしかった。他の人に行く前に、言うでしょ?」
 誰にでも期待させる行動をわざと取り、ころころととりつくように、しなだれかかるように覆いかぶさり、決して責任を取ろうとしなくなった沙耶を、いつしか私は見たくないと思うようになっていた。
 持ち物を奪うかのように強引に人の心を自分の方に向けさせ、誰々とホテルに言った、キスをしたとはっきり言うようになった沙耶を。
 私を好きじゃなかったとは思わない。彼女の背中に手を回せばいつも早い心音は伝わってきたし、泣きながらしがみつかれもした。
 結局、沙耶の気持ちだけはよくわからない。彼女は、体の関係を求めているようにも見えたし、そうでない「何か」を求めているようにも見えた。単にドキドキするような恋愛を求めているようにも見えた。私にはわからない。
 沙耶はどうして、突然たくさんの相手と寝たんだろう。
 私がつまらない人間だったから、興味をなくしただけかもしれない。
 結局、くだらない言い合いをして、沙耶が部屋にくる回数は減っていった。やっぱり好きだ、もういちどちゃんと言おうと追いかけた時には、もう遅かった。沙耶は、戻ってこなかった。
 私は、彼女の何に、応えてあげられなかったんだろう。
 児嶋さんが私の服をぎゅっとにぎっている。その指を見て、沙耶もそんなふうに服をにぎっていたことがあったのを思い出す。透明感のある、小さな指で、なぜか新生児に指をにぎられたような感じがした。
 急に、私の見たくないと言った沙耶の浮気っぷりが、泣きわめくしかできない赤ん坊の必死のもがきと重なって見えてくる。
 今ならすこし、わかるかもしれない。沙耶が、セックスを本当にしたかったのか、したくなかったのか、そんなことはわからない。それ以上に重要なこと。
 沙耶は、本当は、求められることに餓えていたのかもしれなかった。
 ……体だけで満足する女って、ほんとうにいるんだろうか。
 私はそうじゃなかった。触れ合うことで作られてしまう感情がある。
 私にも、自分が苦しいときに、忘れさせてくれた人がいる。沙耶と離れて、エリに色々合コンをセッティングしてもらって……ようやく自分を保てるようになったとき、私には、数人、体の関係つきの「友人」がいた。
 普段は楽しくおしゃべりして、時々いちゃいちゃして、時には真剣に話して、そして体の関係もある、そういう友人。普通の友達には見せない姿を受け入れてくれる、本音を話す友人。
 友人としては悪くなかった。でも、体のつながりを作る相手としては足りなかったんだろう。体を合わせたあとに、背中は空洞を感じていた。ぱっくりと私を飲み込む暗い穴ぼこが、早く寝ないと襲ってくる化け物のように背後に開いていた。
 たいてい受け身だった。セックスで、触れられることは許せても、相手にそういう風に触れる気にはなれなかった。相手に多少合わせはしても、「合わせているだけ」だ。手を繋ぐだけで、頬に触れるだけで満ち足りた、沙耶に対しての気持ちとは全く違っていた。何かをしてあげるのも、相手が喜ぶのも、面倒くさいとしか思わなかった。
 好きでもない相手が達する表情なんか見ても、いとしさも興奮も何もない。ただ疲れるだけだから、受け身ばかりになっていた。
 結局、愛する自信がなかったから、誰かと正面から付き合うことができなかったんだ。引き止めるもののある相手としか関わることができなかったんだ。沙耶を忘れる自信がなかったから。たった一人に心をあずけて倒れてしまうことが怖くて、だから相手は複数いたし、それも「恋愛未満」で、私だけを好きにはならない人間ばかりだった。もしかしたら、沙耶もこういう状態だったのかもしれない。
 二度と誰かと付き合ったりしたくない。あんな苦しい経験はごめんだ、もう、一人の人のことしか考えない、あんな生活はできない。
 でも、本気で好きになりそうになればすっと引いてしまうだけの関わりは、体に触れているのに踏み込まない関わりは、なんて空虚なんだろう?
 これ以上は無駄だ。一人にならないと、駄目になってしまう。
 半年して、そういう人間と一気に関係を切った。体の関係を持つなら、一対一で付き合える関係がいい。ちゃんと私が向き合える人がいい、そう言って切った。
 友情じたいはあったから、「はるちゃんがそう言うなら」「気が向いたら連絡してね」「ちゃんと考えたんだね。元気になったんだね……」、そんなやり取りで終わった。
 プラトニックだから純粋だなんてとんでもない、ただ体の関係がないだけだ。プラトニックだからと言って浮気しないわけじゃないし、体の関係があるから本気で恋愛をしているというわけでもない。だからこそ。
 私は、素直に彼女を求めるべきだった。もっとわかりやすく欲しがるべきだった。たとえそれで彼女が私を好きにならなかったとしても。

 ――好きなら、なんで私に触れてこなかったの?
 ……なんで? 好きだったからだよ、怖かったからだよ! 沙耶を一時の相手にしようとした、他の人たちとは違うと、感じてほしかったから。沙耶を男ぎらいにした人間のようにはならないと、そう思ってきたから――大事だったから。
 伝わらないなら、触れたいとちゃんと伝えて、触れようとすればよかった。
 私は、彼女の何に、応えてあげることができなかったんだろう。 
 沙耶のことを思い出したのは久しぶりだ。人の体温を感じたのも。
 自分から触れたい、そういう欲求を感じたのは、沙耶以来、久しぶりのことだった。
 今までの記憶が一気に噴き出してきて、それがずいぶん前のことだったと気づく。児嶋さんのことばっかり考えて、沙耶のことをこんなに長いこと考えずに済んでいたなんて。
 避けようとしていたはずの児嶋さんの身体はやわらかくて、肌にしみこんでくる。
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