虫 ~派遣先に入って来た後輩が怖い~

銀色小鳩

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果実 派遣先の先輩を好きになりたくない

果実 第4話

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 会った当初から、なんとなく口を出したくなるような、文句をつけたくなるような、うずうずとした感情が、私の中でとぐろを巻いていた。
 人一倍、仕事ができなければ。自分を支えていけるだけの、仕事を持たなければ。
 ずっと、男性を好きになれるのか――考えてきた。男性が嫌いだと感じたことはない。トラウマなんて、何もない。むしろ、嫌いだと感じるのは女性のほうが多かった。でも、好きになるのも女性ばかりだ。このまま女性しか好きになれないようなら、覚悟をきめよう。独りで生きることを。
 仕事はずっと頑張ってきた。特に沙耶が部屋にくるようになってからは。
 一緒にいたいと願うなら、私がいなくなった後のことまで考えたかった。沙耶にとっては、重くて迷惑なだけの感情だったかもしれない、ただ……「一緒にいて欲しい」と言う権利がほしかった。
 会社が突然潰れた。
 自分の能力や性格を見極めもせずに、金融系だのデパート系だののアルバイトも経験してみたが、明らかに私は異質だった。意気込んで、仕事を改善しようとすればするほど、職場で浮いた。
 麻生さん、確かにあなた、仕事はできるかもしれないけど、いいじゃない、そんなにものを言わなくても? 先輩方のやりたいようにやらせておけばいいのよ、変なやり方でも、ハイって言っとけばいいの。あなた、損するわよ。
 麻生さんって、絶対に恋バナに乗ってこないよね。仕事の鬼って感じ――。
 結局、仕事を頑張るといったって、女性の多い職場で人間関係が下手ではどうしようもない。派閥の多い女性特有の争いごとにもなじめなかった。態度が悪い、目付きが悪い。そう言われる。中途採用なのに生意気な私を、せっかく好いてよくしてくれる人がいても、私はそういう人たちからも距離を置いていた。媚びて群れて、仕事以外のことで一喜一憂するのが面倒で。昼休憩ぐらいは一人になりたいと感じてしまう。
 沙耶と自然消滅して、会わなくなってから、体調を崩して仕事ができなくなった。
 親友のエリが、ずっと私のそばにいた。
 私を、どん底の精神状態から引き上げようとして、彼女はなんでもやった。海外に移り住むと言っていた予定をずらして、私の部屋にきて、しょっちゅう泊まり込み、食事を差し入れた。
「放っておいてほしい」と頼んだら、「やだね!」と言われた――、「あたしの本当の親友はあんただけなんだよ、なんでも言える相手がいなくなったら、あたしの寿命が縮むんだ。こっちの生死にかかわる。あたしの問題なんだから、気にしないで受け取っておけばいいんだよ」――と。
 人にあんなにしてもらったことはない。
 エリは、登録だけでもと言って派遣会社に登録に行かせ、動く気力のない私を旅行に連れて行った。彼女でも作ればどうにかなるだろうと、色々なバーへ連れて行き、飲み会(という名の合コン)を開き、人を集めて旅行(という名の合コン)をした。
 その時期、私は妙に人に好かれた。人に優しくなっている自覚はあった。弱っていたから。がつがつする気持ちもなかったし、多分、隙もあっただろう。私のどこを気に入るというのか、かわいい、かっこいいと言って、タチネコ関係なしに、いろいろな人間が寄ってきた。
 がつがつはしていなかった――そんな気力がなかった。そのかわり、いちいち突っぱねたり、振ったりする気力もなかった。今思うと、やっていることは、かなり、いいかげんだったと思う。
 しばらくすると、登録した派遣会社のうち数社から連絡がきた。
 派遣でやっていくつもりはなかったが、合コン続きで貯金も底を尽きかけていた。エリもこれ以上心配させられない。なにがなんでも正社員と焦るな、ちょっと休憩だ。自分に合う職種や空気を見極めよう。
 休憩? いつまで休憩すればいい?
 派遣での仕事を何回かこなすうちに、体は少しずつ元気になっていく。
 でも、元気になると、焦る余裕まで出てくる。「もっとできるのに」と。
 友人がきちんと将来の展望も持って日々頑張っているのに。就職し、または結婚して子供をつくり、または恋人を見つけて猫を飼い……ビアンの友達だって、だんだんと自分なりの生活を構築しつつある。
 結局、いまだに私は、「勉強中」の札を掲げてもがいているだけにすぎない。派遣で、ずっとやっていくのか。まだだ、これからだ、だって私は今だって勉強している。夢だってあったんだ。学生の時だって、沙耶がいたときだって、楽しかった。今がスランプなだけだ。これからだ――。
 沙耶がいたとき、仕事では、統括する役割まで持っていた。意見もそれなりに通った、工夫のしがいもあった。なぜか私は上司に目をかけられ、引き上げられ、それなりにいい仕事をさせてもらえた。毎日押し付けられる無理難題をクリアするたび、成長の実感が持てた。
 今のこれは、なんだ? いつまで続ければいい? 続けていて、大丈夫なのか。
 どうして。なんでこんな簡単な仕事を……。いや、単純だから重要度が低いわけじゃない、こういう仕事をきちんとこなせないでどうする。こういう仕事を大事に……きちんと……丁寧に。ああ、もう! データエントリーなんか!
 焦りのなかで、児嶋さんがふわっと優しく笑うのを見るとき、私は目をつむってしまいたくなることがある……。なんで笑えるんだ? この単純作業で? いつ切られてもおかしくない派遣で? こんなにとろくて?
 ああ、いいよね、なんだか、守ってあげたくなる。
 きっとこの人は、私のように悩むことなどないんだろう。仕事を押し付けられることはある、でも嫌われてはいない。会社の人間関係で悩むことも、そう多くないだろう。彼女の柔らかい雰囲気に惹かれて、一緒にいたいと望む人間なんかいくらでも寄ってくる。さっさと結婚していく姿が、問題なく歳を重ねていく姿が想像できる。結婚してからも仕事を頑張ってほしいと言われれば笑顔で対応するだろうし、必要だと思えば簡単にやめて、柔軟に生きていくだろう。これはこれでいい。そういう生き方ができる人。
 彼女を見ていると、思い知らされる。私がうまくいかないのは、仕事を頑張っているからじゃない。仕事の鬼だと言われるのは、仕事ができるからじゃない。人と違うからでも、セクシャルマイノリティだからでもない。柔軟性がないからだ。仕事ができるようになれば救われると、思っていたいだけだ。
 私は、なにか、コミュニケーションスキルのようなものが足りていない――。焦って空回りしている自分に、ヒステリックな感じすらしてくる。
 爪をきれいにして、可愛い洋服を着て、自分の好きな空気をまとって、おだやかに仕事している児嶋さんを見ていると、いつのまにかぼんやりとして、彼女の雰囲気のなかに、のまれている。自分は自分だとでもいうように背筋を伸ばして、彼女はリズムよく淡々とキーを打つ。その風景が、少しずつ、体に染み込みつつある。
 彼女は、初めの印象のように、恋愛のことばかり考えているわけでもないようだった。むしろそれは私のほうだったんじゃないか。彼女は恋愛話など一回も振ってこなかった。
 どんなに疲れていても、人に対して柔らかい。態度を、男女で分けるわけでも、派閥で分けるわけでも、上司か掃除のおばさんかで分けるわけでもなかった。私に対しても、笑顔の質を変えない。彼女のまわりには温かい、むしろ熱い空気が漂っている。私が彼女のそばにいると「熱い」と感じるだけかもしれないが。
 強そうなわけでもない児嶋さんの笑顔には、柔らかい光のなかでまどろむみたいな感覚がある。ただ……自分を見せようとはしてこない。
 まるで、貝のようだ。桜色の薄い、今にも割れそうな殻の奥に、柔らかな震える身が透けて見えるのに、それが周りからは見えていないと安心している。踏み込みすぎるとぴしゃりと蓋を閉じてしまうような、貝のような敏感さを、彼女のまとう空気は隠している。
 たぶん、私は児嶋さんに嫉妬している。私が好きになることはあり得ても、児嶋さんが私を恋愛として好きになることはないだろう。そういう意味も含めて、嫉妬しているのかもしれない。
 どこか、児嶋さんへの気持ちには、沙耶への思いが入り混ざって、見分けがつかなくなっている。
 彼女は、私がはじめに思ったほどには、甘ったれでも、自分の意見がないわけでも、寄生虫でもない。どうして沙耶と似ているなんて思ったんだろう。彼女の笑顔が温かいのは、余裕があるからではなかったかもしれない。相手の気持ちをほぐそうとして出す笑顔だから温かいのかもしれない。彼女はちっとも弱音を吐かない。
 スムーズに行くように、人を傷つけないように、人によって接し方や教え方を変える。時には自分が損な役割を引き受けながら、優しい口調で堺や私に「こうしてもいいですか」と提案し、駄目ならさっさと身をひいた。気は弱いが、柔軟で、しなやかだ。
 仕事自体はあまり早いと言えなかった。段取りをあまり考えていないせいだ。児嶋さんの仕事の才能は、あるとしたら、「対・人」に対して働くものだ。彼女は人あたりがよくて、優しい。
 優しい人間は、たいていは自分自身が傷つきやすいから優しいのだ。そこを考えて付き合わないと傷つける……。わかっては、いたが、私にはそれがうまくできない。
 初めは教えてもらうのに手一杯だった私は、家での勉強時間が増えてくるにつれ、児嶋さんの作業の無駄にも気づくようになってしまっていた。
「あ、」
 声をあげて、壁に身体をぶつけた児嶋さんが、眩暈を起こしたように立ち尽くす。
 大丈夫ですか? 大丈夫ですか?
 児嶋さんは、視線に気付くと、ふいと向こうを向いてしまう。黙ってみていると、ゆっくり手をつきながら自分の席について、彼女はミネラルウォーターを飲む。
 こんなに毎日残業する必要あるか? 社員になんでもかんでも押し付けられているんじゃないのか? 派遣の立場にいるのに、社員より帰るのが遅いなんて。だいたい、作業がまわりくどい。必要最小限の作業にしぼって工夫すれば、寝る時間だって作れるだろうに。
 なんでそんな仕事の仕方なんだ。工夫してすばやく終わらせて、さっさと休憩すればいいのに。
 彼女は笑顔だ。ふにゃふにゃした部分を、私に見せもしないで。弱気な光が瞳に浮かんだ直後だけ、突然プイと無表情になる。ただ、弱さを見せられたら見せられたで、腹が立つのかもしれない。
 ……彼女が弱そうに見えたら見えたで、守ってあげたくなるような空気に対して、ヒガみ根性が顔を出した。彼女が頼れる先輩に見えればライバル視したくなった。隙のなさを見せ付けられれば、冷たくされたように感じた……どうして自分だけでどうにかしようとするのかと、詰りたくなった。そして、にっこりと微笑まれてすべての感情が和らぐ。
 私は、性質のわるい感情を持て余しはじめていた。
「麻生さんが来てくれたおかげで、残業、減ったよ」
そう言って児嶋さんは笑う。
「――減ったって、児嶋さん」
 昨日も4時間残業したのに? 私に内緒で?
「減ったよ?」
 彼女は言う。私が彼女のタイムカードを毎日チェックしていることを知らずに。
 私が入る直前は、毎日終電で帰っていたという。残業が減ったのは確かなんだろうが、社員のが早く帰っている以上、児嶋さんの残業の多さは理不尽だ。
「昨日もちゃんと帰ったし。今日も早めに帰れそう」
 うそつきです。うそつきですよね? 児嶋さん。じゃあなんでさっき夜食用のビスケットを買ったんだ? それで夕飯を済ませるつもりなのか?
 口をひらきかけて、言葉を飲み込んだ。
 彼女の勝手だ、そんなことを言ってどうする。私は彼女のお母さんでも友達でも、なんでもない。
 彼女は私が黙ったのを見て、首をかしげた。
「残業は別に麻生さんのせいじゃないよ?」
「誰のせいとかじゃなくて、児嶋さんが残るなら私もやりますから」
「なんで? いいのに……」
 児嶋さんは驚いたそぶりで、にこやかに返し、そして、言い張る。
「帰っていいよ。私やるから」
「やります」
「いいって。お疲れさまでした」
 ぴしゃり。児嶋さんの口元から、向こうを向くぎりぎりで笑みが消えた。
「…………」
 ……は?
 むかっときた。
 ――この人。
 取り付く島もない。……優しく笑いはするけれど、ちっともこっちの言うことを聞いてやしない。
 それに、ああ、いつものその笑顔、会社での人間関係用のスマイルだね。疲れすぎて、今日はスマイル保ててないよ。私に対しての温かい笑顔、作り笑いだって気付きましたよ。今!
 本当は仕事をし続けたいだけなんじゃないのか? 間に合わないと無理やり思い込もうとしてるんじゃないのか?
 そこまでして残業したいのか。
 わかった。
 じゃあ、このダンボールをもう全部なくしてやる。さっさとなくして、残業したくたってできないようにしてやる。
 児嶋さんの責任感の強さや優しさは尊敬していた。仕事に影響の出ないように、できるかぎり人に優しくする。仕事は実技だけじゃない、わかってる。立場を弁えながら、一歩距離をおいて、全体がうまくまわるように気を使う。
 ……そういう冷静さや柔軟さの何分の一でもあれば、私は、こんなに人間関係で苦労しないで済んでいただろう。
 でも、児嶋さんは自分の限界をわかっていない。
 私はパソコンスクールの先生をしている知り合いに電話をかけた。ネットの巨大掲示板に質問の書き込みをした。作業を簡単にできる方法があれば、ぜんぶ端からやってみようと思った。家でひとりで何回も試した。
 ここは数式を入れて自動的に直せばいい。こっちの作業は取り込み前にやらないで、あえてエラーで出すほうがいい、エラー文章をコピーして置換だ。そのほうが速い。
 空回っている……私はまた、仕事ができればどうにかなる、という馬鹿な思い込みの癖を、そのまま実行している。わかっていても、なかなか空回ることをやめられない。児嶋さんは踏み込ませてくれない。私は仕事でしか踏み込めない。
 いや、踏み込む――踏み込もうとは思わないけど……、仕事以外で。
 新しい数式、リンクのつけかた、仕事時間を短縮できる方法をなんでも調べた。
 調べるそばから児嶋さんにもすべて伝えた。  
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