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虫 派遣先に入って来た後輩が怖い
第15話
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翌日から、職場の雰囲気は悪化していた。指揮命令担当の堺は、私に仕事を伝え、麻生さんにも教えておいてね、と言ったあと、二人の間に流れる凍りついた空気を読んだらしい。はるかにも同じ仕事を直接教えていた。
そんな日が、長すぎる日が、一日すぎて、二日すぎて、一週間すぎて、二週間すぎた。空気が変わる気配はまったくなかった。
前と違うのは、私が話しかけようとすると、スッとはるかのほうで目をそらして、別の仕事をしに行ってしまうことがあること。
そして、契約更新の話を持って、派遣会社の営業がやってきた。
「更新のお願いが来ています。どうしますか? 続けますか?」
答えにつまった。営業の女性は、ビシッとスーツを着こなして、ん? と形のいい唇をにっこりさせて、目を合わせてきた。
「迷っています」
「ちょっと小耳にはさんだんだけど、麻生さんと、喧嘩とか、したりするの?」
指揮担当者め。
「そんなことないです」
うーん、と営業は納得できかねる雰囲気で首をかしげた。
「どう? 麻生さんが嫌い? 苦手だったり、仕事がしにくいってこと、あるかな?」
私の口から出た言葉がもとで、麻生の仕事での信頼がなくなってはたまらない。
「嫌いじゃないです。好きです。仕事もしやすいです。たしかに、喧嘩はしたんです。したかもしれないけど、麻生さんは仕事もできるし、フォローもしてくれるし、すごくいいパートナーみたいな感じです」
「そっかー……」
営業は頷いた。
「指揮担当の堺さんが、気をまわして言ってくれたんだけど、そういうことなら、良かったわ。会社的には、二人さえよければ、二人ともにいてもらいたいって思ってるそうなのよ。迷っているのは、どういうことで迷ってます?」
「……前にいた派遣さんが、結婚しちゃったでしょう。なんだか、結婚っていうことじゃなくて、私も年だなって……新しい資格が取れるような仕事を、考えてみてもいいのかなって。紹介予定派遣で正社員を希望する方向に、考えてみてもいいのかなって……迷ってるんです」
口からでまかせの「迷う理由」がスラスラと出てきた。営業は目を輝かせた。
「それは、しっかり考えてますね」
「でも、……まだ全然方向が見えてなくて。ま、迷ってるんです。だから」
「何も予定を立てずにやめても仕方ないですしね。わかりました。そういうことなら、契約は今回1年ではなくて、半年くらいにして、様子をみましょうか?」
「お願いします」
「じゃあ次、麻生さんと話をするから、呼んできてもらっていいですか?」
そうだ……女同士には、結婚がない。派遣同士には、強いつながりもない。契約更新をどちらかがしなかったら、簡単に終わる。
私の中で、熱くなりすぎた熱をとるために、パソコンのファンのようなものがうるさい音をたてて回りだした。
はるかに話しかけるまでもなかった。私が席に戻ってきて、はるかの顔を見ただけで、はるかは席を立って、営業のいる、人のいない休憩室へと向かっていった。
目が合った一瞬、はるかは、たずねるような表情をしたが、なにも聞かなかった。
どうするだろう。はるかは。更新、するのだろうか。もう来月にでもやめてしまうだろうか。
戻ってきたはるかは、黙って隣の席についた。
「半年って、なんの半年ですか」
「聞いたんだ」
それはそうだろう。順番が後だったら、私も営業に、はるかが何を希望しているか聞いている。
「資格を取って逃げるんですね」
え?
疑問系の言葉を口にすることすら、思い浮かばなかった。
はるかにしては、ねじくれたものの言い方だった。すさんだ、というか……。はるかは疲れたようにうつむいた。
急に世界が色をなくして、沈み始めてしまったように感じた。
はるかの素直な目が、私のせいで歪んだ。
はるかの調子に乗りやすい、信じやすい目が、歪んだ。
きらきらしたこの瞳を守るためだったら、はるかが私のことを嫌いになってもいい。そんなことは、隆史には感じたことはなかった。
後ろで、指揮命令者の堺が困惑しながらウロウロしている気配がある。かわいそうに、何も言えないで様子を伺っている。
はるかは振り向いて、にっこりと笑い、いつもと違う妙に大人びた低い声で言った。
「仕事の話じゃないですよ」
「そ、そうなの?」
人のいいおじさん担当は、もともと下がった眉をおもいっきり下げて、よいしょっと、と小さくつぶやいて書類を持ち上げ、退散した。
「児嶋さんがどうしたいのか、わからない」
それは、私にもわからない。でも話さないと駄目だ。
「帰り、話がしたいんだけど、駄目?」
「いいですよ。じゃ、うちで」
はるかは短く言った。
しかし、その日の夕方、会社の入り口に、隆史が立っていた。
はるかは私から離れると、「じゃ、明日」と言って帰ろうとした。
「はるか!」
「いいですよ。別に。いってらっしゃい」
はるかは、隆史をちらっと見ると、後ろを向いたまま、手だけ私に振って帰った。
もう駄目かもしれない。
信頼……信頼は、なくしたら、大きい。はるかとは、もう駄目かもしれない。どんなにデートを重ねても、もう私が隆史を信じることがないように。
駄目でもいい。もう、ちゃんとしなくてはいけない。
隆史は黙ったまま、私が忘れたという携帯ストラップを手に持ってくるくる回していた。隆史の家の中にいたとき、隆史からメールが入ってきて、携帯を放りなげてしまった。たぶんそのときに落ちてしまったもの。クマクマストラップ。私の好きだったもの。
「もう別れるね」
ストラップと本を受け取りながら、私は言った。
本のタイトルは、「使える!和菓子柄のおもちゃ」だった。何だこれは。こんなの、買った記憶がない。
「未来、なにが駄目だった?」
「だって、浮気してたじゃない。それが駄目だった」
言えなかった単語が口からやっと出てきた。
必死で隠した。今泣いたら、少しでも涙をみせたら、この人に未練を与える。
かつて好きだった人。今でも、まだ、まざまざと体の温度を思い出せる人。信じて笑いあうという、前は当然だったことがもう将来にまったく見えない人。
分け合って食べたパスタは、極上の味がした。抱きしめられて、温かさに安心した。少しぐらい離れても、隆史のことなら待てると、その時は思えた。会えないと事故に遭ったんじゃないかと不安になった。無邪気に隆史と過ごす時間。たったひとつ、ひとつのものがあるかないかで、それらはもう戻ってこない。
一緒に見た景色は、動物たちは、あんなに鮮やかで二人のものだったのに。
もう受け入れられない人。受け入れられないけれど、たぶん、これからも永遠に、心の底で、別の次元の想像のはてで、私たちは付き合い続けている。幸せだった時間のままで。
ずっと怒りで見えなかった。いまさら思い出すなんて、ひどすぎる。私は、この人のことが本当に好きだったんだ。
もうまったく目に入らないのだと、伝えなければ。もう興味がないのだと――。
そう思わせなければ、私のほうで気持ちを断ち切らなければ、この気の弱い、小さなかわいい虫は、引きずる。手足をもがれたままで、痛いままで、ずっと体を引きずって、求め続ける。隆史だって、多分同じなんだ。私と同じなんだ。
私の中に、隆史のかたちをして、隆史のように、なおも求め続ける小さな虫がいる。もう、痛まなくていいよ。ぜんぶ、痛いものは切ってしまおうよ。
「別れてください」
「してないよ」
「わかるよ。そういうの」
隆史は否定しなかった。あきらめたような顔をしていた。
「それで様子がおかしかったのか」
自分の作り出している沈黙が肌を刺す。私は喉元から出そうな塊を押し込めている。
「結婚しようって、もう一回言いにきたのに」
「それに、好きな人、できたから」
「わかった」
それが最後だった。
3年間付き合って、私は隆史と別れた。
そんな日が、長すぎる日が、一日すぎて、二日すぎて、一週間すぎて、二週間すぎた。空気が変わる気配はまったくなかった。
前と違うのは、私が話しかけようとすると、スッとはるかのほうで目をそらして、別の仕事をしに行ってしまうことがあること。
そして、契約更新の話を持って、派遣会社の営業がやってきた。
「更新のお願いが来ています。どうしますか? 続けますか?」
答えにつまった。営業の女性は、ビシッとスーツを着こなして、ん? と形のいい唇をにっこりさせて、目を合わせてきた。
「迷っています」
「ちょっと小耳にはさんだんだけど、麻生さんと、喧嘩とか、したりするの?」
指揮担当者め。
「そんなことないです」
うーん、と営業は納得できかねる雰囲気で首をかしげた。
「どう? 麻生さんが嫌い? 苦手だったり、仕事がしにくいってこと、あるかな?」
私の口から出た言葉がもとで、麻生の仕事での信頼がなくなってはたまらない。
「嫌いじゃないです。好きです。仕事もしやすいです。たしかに、喧嘩はしたんです。したかもしれないけど、麻生さんは仕事もできるし、フォローもしてくれるし、すごくいいパートナーみたいな感じです」
「そっかー……」
営業は頷いた。
「指揮担当の堺さんが、気をまわして言ってくれたんだけど、そういうことなら、良かったわ。会社的には、二人さえよければ、二人ともにいてもらいたいって思ってるそうなのよ。迷っているのは、どういうことで迷ってます?」
「……前にいた派遣さんが、結婚しちゃったでしょう。なんだか、結婚っていうことじゃなくて、私も年だなって……新しい資格が取れるような仕事を、考えてみてもいいのかなって。紹介予定派遣で正社員を希望する方向に、考えてみてもいいのかなって……迷ってるんです」
口からでまかせの「迷う理由」がスラスラと出てきた。営業は目を輝かせた。
「それは、しっかり考えてますね」
「でも、……まだ全然方向が見えてなくて。ま、迷ってるんです。だから」
「何も予定を立てずにやめても仕方ないですしね。わかりました。そういうことなら、契約は今回1年ではなくて、半年くらいにして、様子をみましょうか?」
「お願いします」
「じゃあ次、麻生さんと話をするから、呼んできてもらっていいですか?」
そうだ……女同士には、結婚がない。派遣同士には、強いつながりもない。契約更新をどちらかがしなかったら、簡単に終わる。
私の中で、熱くなりすぎた熱をとるために、パソコンのファンのようなものがうるさい音をたてて回りだした。
はるかに話しかけるまでもなかった。私が席に戻ってきて、はるかの顔を見ただけで、はるかは席を立って、営業のいる、人のいない休憩室へと向かっていった。
目が合った一瞬、はるかは、たずねるような表情をしたが、なにも聞かなかった。
どうするだろう。はるかは。更新、するのだろうか。もう来月にでもやめてしまうだろうか。
戻ってきたはるかは、黙って隣の席についた。
「半年って、なんの半年ですか」
「聞いたんだ」
それはそうだろう。順番が後だったら、私も営業に、はるかが何を希望しているか聞いている。
「資格を取って逃げるんですね」
え?
疑問系の言葉を口にすることすら、思い浮かばなかった。
はるかにしては、ねじくれたものの言い方だった。すさんだ、というか……。はるかは疲れたようにうつむいた。
急に世界が色をなくして、沈み始めてしまったように感じた。
はるかの素直な目が、私のせいで歪んだ。
はるかの調子に乗りやすい、信じやすい目が、歪んだ。
きらきらしたこの瞳を守るためだったら、はるかが私のことを嫌いになってもいい。そんなことは、隆史には感じたことはなかった。
後ろで、指揮命令者の堺が困惑しながらウロウロしている気配がある。かわいそうに、何も言えないで様子を伺っている。
はるかは振り向いて、にっこりと笑い、いつもと違う妙に大人びた低い声で言った。
「仕事の話じゃないですよ」
「そ、そうなの?」
人のいいおじさん担当は、もともと下がった眉をおもいっきり下げて、よいしょっと、と小さくつぶやいて書類を持ち上げ、退散した。
「児嶋さんがどうしたいのか、わからない」
それは、私にもわからない。でも話さないと駄目だ。
「帰り、話がしたいんだけど、駄目?」
「いいですよ。じゃ、うちで」
はるかは短く言った。
しかし、その日の夕方、会社の入り口に、隆史が立っていた。
はるかは私から離れると、「じゃ、明日」と言って帰ろうとした。
「はるか!」
「いいですよ。別に。いってらっしゃい」
はるかは、隆史をちらっと見ると、後ろを向いたまま、手だけ私に振って帰った。
もう駄目かもしれない。
信頼……信頼は、なくしたら、大きい。はるかとは、もう駄目かもしれない。どんなにデートを重ねても、もう私が隆史を信じることがないように。
駄目でもいい。もう、ちゃんとしなくてはいけない。
隆史は黙ったまま、私が忘れたという携帯ストラップを手に持ってくるくる回していた。隆史の家の中にいたとき、隆史からメールが入ってきて、携帯を放りなげてしまった。たぶんそのときに落ちてしまったもの。クマクマストラップ。私の好きだったもの。
「もう別れるね」
ストラップと本を受け取りながら、私は言った。
本のタイトルは、「使える!和菓子柄のおもちゃ」だった。何だこれは。こんなの、買った記憶がない。
「未来、なにが駄目だった?」
「だって、浮気してたじゃない。それが駄目だった」
言えなかった単語が口からやっと出てきた。
必死で隠した。今泣いたら、少しでも涙をみせたら、この人に未練を与える。
かつて好きだった人。今でも、まだ、まざまざと体の温度を思い出せる人。信じて笑いあうという、前は当然だったことがもう将来にまったく見えない人。
分け合って食べたパスタは、極上の味がした。抱きしめられて、温かさに安心した。少しぐらい離れても、隆史のことなら待てると、その時は思えた。会えないと事故に遭ったんじゃないかと不安になった。無邪気に隆史と過ごす時間。たったひとつ、ひとつのものがあるかないかで、それらはもう戻ってこない。
一緒に見た景色は、動物たちは、あんなに鮮やかで二人のものだったのに。
もう受け入れられない人。受け入れられないけれど、たぶん、これからも永遠に、心の底で、別の次元の想像のはてで、私たちは付き合い続けている。幸せだった時間のままで。
ずっと怒りで見えなかった。いまさら思い出すなんて、ひどすぎる。私は、この人のことが本当に好きだったんだ。
もうまったく目に入らないのだと、伝えなければ。もう興味がないのだと――。
そう思わせなければ、私のほうで気持ちを断ち切らなければ、この気の弱い、小さなかわいい虫は、引きずる。手足をもがれたままで、痛いままで、ずっと体を引きずって、求め続ける。隆史だって、多分同じなんだ。私と同じなんだ。
私の中に、隆史のかたちをして、隆史のように、なおも求め続ける小さな虫がいる。もう、痛まなくていいよ。ぜんぶ、痛いものは切ってしまおうよ。
「別れてください」
「してないよ」
「わかるよ。そういうの」
隆史は否定しなかった。あきらめたような顔をしていた。
「それで様子がおかしかったのか」
自分の作り出している沈黙が肌を刺す。私は喉元から出そうな塊を押し込めている。
「結婚しようって、もう一回言いにきたのに」
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