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虫 派遣先に入って来た後輩が怖い

第1話

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 派遣社員としてこの課で仕事をはじめて、そろそろ三年になる。  
 私は疲労と孤独で黒くなっていた。朝のうちは暗くないはずの窓の景色も、気持ちが暗いと暗く見える。窓に目の下を黒くした女が映っている。酷いクマだ。
 先月までとなりの席にいた派遣が結婚を機にやめてしまった。  
 旦那はかなりの収入があるらしい。専業主婦でもやっていけるほどだ。昇進とともに職場と住所が変わる彼に、悩んだ挙句、離れ離れになるなら、と結婚を決意したそうだ。 
 彼女には幸せになってもらいたい。同時に入って、三年間、少しずつ仕事を覚えながら仲良くなっていった。三年も一緒にいればその間の苦労も聞いている。幸せになってほしい気持ちには変わりがない。  
 それでも……。この時期、仕事が一気に増える。ひとりで膨大な残業をしなくてはいけない。後ろに山積みにされたダンボール。このダンボールに囲まれて押しつぶされて窒息する夢を、まだ見ていないのが不思議なくらいだ。  
 派遣でこんなに忙しいなら、いっそのこと、責任は増えるけれど社員になったほうがいいのかもしれない……。自分の持分の仕事を終えて次々と帰っていく社員たちを見ながら、昨日はつくづく思った。  
 それでも、入力の仕事は嫌いじゃない。ここの職場は服装が自由だ。私の仕事中の楽しみと言えば、ネイル。それも、ごてごてしていない、微妙な色合いのマニキュアを塗って、薬指に一つだけラインストーンをのせる。こうしていると、いかにクマができていようと、指先を動かす作業中、優雅な気分でいられる。少なくとも、朝のうちは。  
児嶋こじまさん。昨日言ってた、あたらしい子」 
 派遣先の担当の声がして、振り向くと、メガネの女の子が立っていた。  
「ごめんねー。やっぱ一人じゃ無理だったよね」  
 残業の多さを見て、指揮命令担当のさかいは、派遣をもう一人増やすと約束してくれていたのだ。  
麻生あそうはるかといいます。よろしくお願いします」  
 メガネは丁寧に、ふかぶかとお辞儀をして、私を見つめた。ショートカットの毛先がくるくると元気よく跳ねている。その髪がなかったら、地味、おとなしめ……いや、むしろ暗く感じたかもしれない。短い髪のせいか、細い首が長く伸びて、そう華奢そうには見えないのに、鎖骨が美しく目立っていた。ほっぺただけぷっくりとして可愛い系だが、妙に深みのある目つきをしている。  
 私は立ち上がって、指先までしっかり揃えて、彼女に合わせるように丁寧にお辞儀をした。  
「児嶋未来みきです。こちらこそ、よろしくお願いします」  
 彼女がじっと私を見ている。ん? 何か変だったか?  
「麻生はるか」は、私をにらみつけるかのように見たのだ。  
「それじゃ、仕事教えてあげてね。頼むよ」  
 堺はその子を置いて、出張へ行ってしまった。それが、出会いだった。  
   
   
「ああもう! 違いますよ! そこはこうやった方が速いです!」  
 メガネは、厳しかった。  
 彼女は細かい点で作業を効率化する技をたくさん知っていた。教えたのは一日だけで、約一ヶ月で、経験も年齢も飛び越えて、私たちの立場は逆転した。  
 最初は普通に敬語も使い、うまく対処しようとしていた彼女だったが、だんだん見ていられなくなったらしい。たまに爆発して、私をしゅんとさせる。  
 しゅんとさせたあと、  
「……ごめんなさい。今日私、いらいらしてるみたいです」  
 帰りに机を見ると、私の好きなお菓子がどっさり置いてある。  
 児嶋さんへ。今日はごめんなさいでした。普段は児嶋さんのこと、いっぱい、いっぱい尊敬してます。お菓子、いっぱいあるのでどうか食べてください。  
 憎めない。言葉遣いのつたなさもあって、かえってそれが憎めない。憎めない……が、憎めない、イコール居心地がよい、ではない。やっぱりなんだか仕事しづらい。  
 ある日、入力データを渡すと、メガネはチェックをし終えた後、私をちらっと見た。  
「…………?」  
 ちょっと怖い。ああ、嫌いだ、自分のこういう性格が。本当はこっちが先輩なのだから、「仕事しやすい雰囲気で話しかけてもらいたい」くらいは伝えてもいいはずなのに。そうじゃないなら、せめてエクセルの勉強をして自信をつけるとか。  
 メガネは椅子ごとよってきて、私の指先を見た。  
「ちょっと、いいですか」  
「?」  
 ――ちょっといいですか、ときた。なにか言われるぞ。私はなるたけ余裕をよそおって、うつむいた。メガネは私の手を取ると、指先を見て、言った。  
「いいですよね。ミスタイプも少ないし、タッチの音も静かだし。うらやましいです」  
 びっくりした。てっきり、指先ばっかりごてごて飾ってるから仕事もできないんだろう、そんなことを遠まわしに言われるのかと思っていた。素直にそういうと、メガネは悲しそうな顔をした。  
「私、そんなに性格わるくないです」  
「あ、そ、そうかもね」  
 メガネは私のその返事にさらに悲しそうな顔をした。  
「イライラすることがあるのは、ごめんなさいって本当に思ってます。それに、児嶋さんにだけそうしてるんじゃなくて、いつもこんな感じだし」  
 それはどうだろう? 私に対してはなんだか妙につっかかってくる感がある。毎日、すごく頻繁にこちらを見てくるので、なんだか気が抜けない。明らかに私に対しては過剰反応しているようだし。  
 ほら……今だって、こっちを見る見方が、意識せざるを得ないほどまっすぐで、何かの意志がこもっている。  
「私、本当に、静かに、にこやかに仕事をこなせるほうが、どんなにいいかと思っているんですよ?」  
 意外だった。  
「マニキュアとかしたら、指とかおしゃれしたら、ちょっと指先の動きや音にも気を使えるようになりますかね?」  
「あ、ああ、うん、それはそうだと思います。……ああ、怖かった」  
 素直に、そう言ってやったら、メガネは何かに突かれたように私を見た。それから笑い出した。妙にあっけらかんとした、明るい笑顔だった。笑顔のまま、私から目を離さない。何かに感動したような顔をしている。  
「なに?」  
 そう聞くと、メガネは笑ったまま、言った。  
「え、いや、あの。私、女性相手にここまで狙ったような上目遣いする人、初めて見ました」  
「ね……」  
 狙ったような上目遣いだと! やってない。ぜったいやってない!  
「やってない!」  
「わかってます。狙ったような、って言っただけで、別に狙ってるとは言ってないじゃないですか! ただ、児嶋さんがミルク全部飲んじゃって怒られた猫、みたいな目をするから」  
 メガネは慌てている。私は冗談めかして、ふん、とそっぽを向いてやった。  
 意外とノリのいい子なのかもしれない?  
 しかし、まだ仲良くなってもいないのに、そっぽを向いてしまったのは、やりすぎだった。向こうが本気にする番だった。  
「私、本当に、もう、誤解されたくないんですけど! 児嶋さんのこと、嫌いなんかじゃないんですよ!」  
 え……。  
 言葉の最後が、かすれていた。メガネ……泣きそう?  
 職場で、ここまでストレートに話してくる人間は久しぶりだ。  
「わかってます」  
 私はさらっと答えると、  
「仕事しましょ?」  
 口元だけ笑顔を作って、メガネの凝視から逃げた。自分の態度が冷たいのはわかっている。でも、急に感情的な反応を返されて、どうしたらいいのかわからなかったのだ。  
   
 帰り道、メガネが会社の出口で待っていた。私ではないと思ったが、手に抱えている袋を見ると、やはり私を待っていたとしか思えない。袋にはパンパンに、私の好きなお菓子が詰め込まれている。  
 なんだかくらくらしてきた。  
「今日、デートですか?」  
 いきなり聞いてきた。  
「いえ。普通に帰りますよ」  
「これ、受け取ってください」  
 袋を渡してくる。なんだか、男性にプレゼントをされたときのようなデジャブが……。しかも、袋詰めのお菓子というのが、なんというか、馬鹿にされているのか何なのかわからない。  
 でも、メガネは恋する少女か、出待ちのファンのごとき純粋な目でこちらをじっと見ている。この目つきを見れば、馬鹿にしているわけではないってわかるけど……。  
「要りませんって」  
 メガネは、メガネの奥の目だけ、ものすごく悲しげになった。  
「お茶しませんか?」  
 この子は誤解している。私がこの子を嫌っているとでも思っているのだ。菓子でつるような行動も、あまり嬉しくはない。ちゃんと話さないと、こういう行動は続くんではなかろうか。  
 近くの喫茶店で、私たちは話すことにした。したのだ。が……  
   
   
   
「児嶋さんは、それで、いつからここで仕事を?」  
 私が話す暇はほとんどなかった。メガネは私を質問攻めにした。  
 仕事、持っている資格……ここらへんは仕事上の興味かもしれない。しかし、何が楽しいのか、家族構成から血液型から誕生日から、とにかく何から何まで聞いてくる。  
「う、占いでもやるの? 麻生さん」  
「占い? それもいいかもしれませんね。私の知り合いに占い師がいます」  
 真顔で言って、  
「で、よく行くお店とかってどこらへんなんですか?」  
 やっぱり質問攻めにする。こんなにしゃべる人間だと思わなかった。  
 でも、ちょっと違う。普通と違う。  
 普通、このくらいの年齢で、ここまで無遠慮に質問攻めにするなら、必ず出てくる女の子のお約束のような話題がある。それが出ない。  
 どうして恋愛の話題を出さないんだろう? 
 今出されても、私は答えられないかもしれないけれど。  
 そういう話題が出ないまま、質問攻めばかりの喫茶店がよいは定着した。  
 彼女はネイルケアのお店を聞き、自作だとわかると私の爪を触った。新しいマニキュアをつけると、どうやって作ったのか質問してきた。そして私の爪を触っては、その触感が気に入った子供のように指先を握ったままで別の話題に移ることが多かった。  
 麻生は小動物のように可愛らしい。打ち解けてくると、そう思う。初め怖かったのは、麻生いわく、「警戒していたかもしれないです」だそうだ。  
 昔、私と良く似た人に会ったことがあり、その人ときつい喧嘩別れをしてしまったそうだ。外見やしぐさが女性らしくてかなり近い感じがしたので、なんとなくその人を通したフィルターで見てしまい、つい喧嘩っぽくなってしまったのだそうだ。  
「話してみると、似てるところもあるけど、児嶋さんとはまったく違います。その人も別に全部が嫌いなわけじゃなくて、いいところもあったんですけど。児嶋さんはなんというか……もうちょっと細いというか、地味というか、服装ほど派手な性格してないというか、……児嶋さんのほうが孤独そう」  
「ぜんぜんうれしくない評価だわ、それ」  
 麻生は明るく笑い、  
「そんな児嶋さんのほうが好きです!」  
と言った。よくわからない子だ。  
 帰りの時間になると、麻生は会社の入り口で待っている。私もそれに慣れていった。
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