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第一章 小説家と担当者
010 それぞれの生き方
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山奥へ行ってから一か月が過ぎた。
引っ越しのタイミングで、あの村で起こった事故や行方不明者を捜すために警察のメスが入ると、新聞の一面で飾った。
生きたまま人を穴に突き落とす。恐ろしい儀式だ。もし今もそんなものが続いているとしたら、早急に調べてほしい。
クリスは香山と近江さんとは連絡先を交換しなかったらしい。これも一期一会だと、笑っていた。彼は自分の素性を調べるためにあの村へ行き、今思うと風習を調べたいと言ったのはただの口実だったのではないか。
テーブルに置かれた数種類の新聞は、クリスが買ってきたものだ。どれもこれも村の行方不明者についてで、儀式については触れられていない。
マスコミに紛れてこぞって考古学者も向かっているらしいが、果たして井戸が儀式に使われた大穴だと誰が気づくだろう。生きたまま人を放り込むなんて、どうかしている。たとえ黄泉の門を塞げたとしても、罰が当たる。
一度僕は井戸の底に入っている。投げられたわけではないが、身体の底から震える恐怖は二度と忘れやしない。
「どうしたの?」
キッチンに立っていると、クリスが後ろから抱きしめてきた。
「あっちょっと、僕懇親のプリンが……」
「上手にできてるよ、カラメルソース」
僕とクリスは恋人同士になった。彼の中では旅行中にすでに付き合っていたらしいが。
「ん…………」
キスを受け止め、シャツの中で暴れる手をはたき落とす。
僕の悩みがこれだ。
あきらかに身体を求める彼を、素直に受け止めきれない。
本当は、ものすごくしたいのに。
「せめてハグしてもいい?」
寂しそうに笑うから、僕から背中に腕を回した。嫌なわけじゃないんだよ、と心を込めて。
「ほんとは……僕は、」
「ん?」
「……素直になれなくて、つらい」
「大丈夫、分かってるよ」
簡単に離れていく手を離したくない。
ずっとずっと好きだったのに、一番近しい位置にいるのは夢だと感じる。
「デートしよっか。俺たちしたことないんじゃない?」
「俺たちっていうか、僕デート自体したことない」
「じゃあ行こう! どこまでも!」
「先生、それより締め切りを」
「……はーい」
デートの約束は嬉しい。けれど、同じ家に住んでいてもプライベートと仕事は別だ。
向かい合って、もう一度唇を交わす。
幸せで、同時に幸せを怖いと感じるのも哀れな僕の人格だ。
彼のように、素直に笑いたい。
事件から半年も経つと、記憶を奥にしまい込むのがうまくなってきた。断片的にやってくる恐怖は、次第に薄れて思い出さなくなる。
俺の恐怖はというと、井戸にいた彼を発見したときだ。生きているのか死んでいるのか分からない状況で、彼の怯えた顔を見た瞬間、希望は捨ててはいけないと強く願った。
「こんにちは」
田舎から出たことがないというわりに、東京駅には馴染んでいるように見える。
近江香苗から連絡が来たのは、ほんの数週間前のことだ。連絡先を交換しなかったため、出版会社に直接連絡が来たときは驚いた。短い文章と連絡先が書いてあり、すぐに連絡を取った。
東京に行くから会いたいと言う彼女に、俺は分かったと一言だけ告げた。ただし、会うのは俺だけだ。それは心の最奥から、彼女を含めた村人たちを信用していないからかもしれない。なぜなら、恋人を儀式の犠牲にしようとしていたからだ。逃す準備を整えてくれたのは感謝しているが、不信感はどうやっても拭えない。
「こんなに電車が走っているんですね」
「村はバスが数本通っているだけだったね」
「都会に来るのが夢だったんです。ああ、すごい。こんなに土産物屋がたくさん」
「帰りに買っていく?」
「止めておきます。私がここにいると誰も知らないもの」
「家族も?」
「ええ。あなたと会っていると話したら、絶対に反対される」
初都会記念に、女性が好きそうなカフェに案内した。
十種類以上のマフィンが売りのカフェで、絶対に喜んでもらえると確信していたのに、彼女曰く「どら焼きが好きです」。撃沈した。いろんな意味で、女心は分からない。
「電話でも少し触れましたが、あなたが自分の素性を知りたがってたように、私も自分のことが知りたいんです」
「君の伯母に会わせろってことだね」
香苗の伯母は、俺の母親にあたる。
「母さんに相談したら、もう鬼だよ。あの顔は。勝手に母方の家を調べてるなんて話したら、頭から角が生えてた」
「それは……すみません。どうやってあの家から逃れたのか、女の生き方をどうやって決めたのか、知りたいんです。それに家族にも会ってみたい。あそこは地獄です」
「今大変らしいね」
他人事のように言えるのは、ニュースでしか状況を知らないからだ。
警察はメスを入れるどころか、手術にまで手を伸ばしている。逮捕者が何人か出て、全国のマスコミのネタになってしまった。
何のために風習があるのか考えさせられる。生きている人間を救うためと考えていたが、結局は人間に還ってくる。救えたのは何か。犠牲になるものが多すぎる。
「女の生き方って言い方が気になったけど、そんなに自由がない感じ?」
「はい。ないです」
彼女は一寸の迷いもなく答える。
「時代が時代ですから、反発する人も多いんです。それがいろんなしがらみがあって、声を上げられなかった。今回、警察が介入してくれて、そのきっかけを作ったのはクリスたちです。何十年も前に風習から逃れた人の生き方を、私は知りたい」
「俺も初めて聞くんだよねえ。なんせ口を割らないから」
母親に連絡を取り、待ち合わせ場所を決めた。父と共にアメリカと日本を行き来しているため、この機会を逃すと次はいつになるか。
俺がゲイだってカミングアウトしたとき、はいはいそうですか、と驚きもせずに目の前のケーキを食べ続けた母。悩んでいたのがバカみたいで俺も吹っ切れた瞬間だ。母の口癖だった「悪いことはせず好きに生きろ」が表れた態度だった。
久しぶりの再会でも感動の再会はまったくなく、まるで友達のようなノリだ。
「元々私はこういう性格だから、物心ついたときには反発心がとてつもなくあった。将来の結婚相手を決められて、女が大学に行くなんてもってのほかだ、すぐに結婚して子を産めって。今じゃ考えられないでしょうが、そういう時代と地域なのよ」
「反発して、よかったと思いますか?」
母と香苗はよく似ていた。千夏曰く、俺と香苗もよく似ているだそうだが、どこと言われてもうまく答えられない。
「思うよ。心から」
母の答えには迷いはなかった。
「家を出なかったら後悔してたと思う。可能性の話だけど、生まれた子供も犠牲になったかもしれない。私があそこにいても不幸の連続しかなかった。女は子供を産む機械になり、一生風習に縛られて生きていく。冗談じゃないね。香苗の人生は、香苗で決めるべき」
「私……医者になりたいんです。今まで犠牲になった人を思うと、何かできたんじゃないかって思いが強くなって、亡くなった人は救えなくても、抗いたいと思うようになって……」
「いいじゃん、それ」
母は豪快に笑う。
「あの辺は医学を学べる学校はないからね」
「東京に来たいんです。ここなら、何でも揃ってますから」
自分の伯母に会いたかったのも事実だろう。それと同じくらいに、彼女は都会に来たかったのだ。
母はとにかく肯定した。俺に対する生き方を否定しないでいてくれて、今の俺がある。きっと香苗も、生き方を誰かに背中を押してもらいたかったのだ。
話が終わる頃には、香苗は笑うんだと初めて知った。
引っ越しのタイミングで、あの村で起こった事故や行方不明者を捜すために警察のメスが入ると、新聞の一面で飾った。
生きたまま人を穴に突き落とす。恐ろしい儀式だ。もし今もそんなものが続いているとしたら、早急に調べてほしい。
クリスは香山と近江さんとは連絡先を交換しなかったらしい。これも一期一会だと、笑っていた。彼は自分の素性を調べるためにあの村へ行き、今思うと風習を調べたいと言ったのはただの口実だったのではないか。
テーブルに置かれた数種類の新聞は、クリスが買ってきたものだ。どれもこれも村の行方不明者についてで、儀式については触れられていない。
マスコミに紛れてこぞって考古学者も向かっているらしいが、果たして井戸が儀式に使われた大穴だと誰が気づくだろう。生きたまま人を放り込むなんて、どうかしている。たとえ黄泉の門を塞げたとしても、罰が当たる。
一度僕は井戸の底に入っている。投げられたわけではないが、身体の底から震える恐怖は二度と忘れやしない。
「どうしたの?」
キッチンに立っていると、クリスが後ろから抱きしめてきた。
「あっちょっと、僕懇親のプリンが……」
「上手にできてるよ、カラメルソース」
僕とクリスは恋人同士になった。彼の中では旅行中にすでに付き合っていたらしいが。
「ん…………」
キスを受け止め、シャツの中で暴れる手をはたき落とす。
僕の悩みがこれだ。
あきらかに身体を求める彼を、素直に受け止めきれない。
本当は、ものすごくしたいのに。
「せめてハグしてもいい?」
寂しそうに笑うから、僕から背中に腕を回した。嫌なわけじゃないんだよ、と心を込めて。
「ほんとは……僕は、」
「ん?」
「……素直になれなくて、つらい」
「大丈夫、分かってるよ」
簡単に離れていく手を離したくない。
ずっとずっと好きだったのに、一番近しい位置にいるのは夢だと感じる。
「デートしよっか。俺たちしたことないんじゃない?」
「俺たちっていうか、僕デート自体したことない」
「じゃあ行こう! どこまでも!」
「先生、それより締め切りを」
「……はーい」
デートの約束は嬉しい。けれど、同じ家に住んでいてもプライベートと仕事は別だ。
向かい合って、もう一度唇を交わす。
幸せで、同時に幸せを怖いと感じるのも哀れな僕の人格だ。
彼のように、素直に笑いたい。
事件から半年も経つと、記憶を奥にしまい込むのがうまくなってきた。断片的にやってくる恐怖は、次第に薄れて思い出さなくなる。
俺の恐怖はというと、井戸にいた彼を発見したときだ。生きているのか死んでいるのか分からない状況で、彼の怯えた顔を見た瞬間、希望は捨ててはいけないと強く願った。
「こんにちは」
田舎から出たことがないというわりに、東京駅には馴染んでいるように見える。
近江香苗から連絡が来たのは、ほんの数週間前のことだ。連絡先を交換しなかったため、出版会社に直接連絡が来たときは驚いた。短い文章と連絡先が書いてあり、すぐに連絡を取った。
東京に行くから会いたいと言う彼女に、俺は分かったと一言だけ告げた。ただし、会うのは俺だけだ。それは心の最奥から、彼女を含めた村人たちを信用していないからかもしれない。なぜなら、恋人を儀式の犠牲にしようとしていたからだ。逃す準備を整えてくれたのは感謝しているが、不信感はどうやっても拭えない。
「こんなに電車が走っているんですね」
「村はバスが数本通っているだけだったね」
「都会に来るのが夢だったんです。ああ、すごい。こんなに土産物屋がたくさん」
「帰りに買っていく?」
「止めておきます。私がここにいると誰も知らないもの」
「家族も?」
「ええ。あなたと会っていると話したら、絶対に反対される」
初都会記念に、女性が好きそうなカフェに案内した。
十種類以上のマフィンが売りのカフェで、絶対に喜んでもらえると確信していたのに、彼女曰く「どら焼きが好きです」。撃沈した。いろんな意味で、女心は分からない。
「電話でも少し触れましたが、あなたが自分の素性を知りたがってたように、私も自分のことが知りたいんです」
「君の伯母に会わせろってことだね」
香苗の伯母は、俺の母親にあたる。
「母さんに相談したら、もう鬼だよ。あの顔は。勝手に母方の家を調べてるなんて話したら、頭から角が生えてた」
「それは……すみません。どうやってあの家から逃れたのか、女の生き方をどうやって決めたのか、知りたいんです。それに家族にも会ってみたい。あそこは地獄です」
「今大変らしいね」
他人事のように言えるのは、ニュースでしか状況を知らないからだ。
警察はメスを入れるどころか、手術にまで手を伸ばしている。逮捕者が何人か出て、全国のマスコミのネタになってしまった。
何のために風習があるのか考えさせられる。生きている人間を救うためと考えていたが、結局は人間に還ってくる。救えたのは何か。犠牲になるものが多すぎる。
「女の生き方って言い方が気になったけど、そんなに自由がない感じ?」
「はい。ないです」
彼女は一寸の迷いもなく答える。
「時代が時代ですから、反発する人も多いんです。それがいろんなしがらみがあって、声を上げられなかった。今回、警察が介入してくれて、そのきっかけを作ったのはクリスたちです。何十年も前に風習から逃れた人の生き方を、私は知りたい」
「俺も初めて聞くんだよねえ。なんせ口を割らないから」
母親に連絡を取り、待ち合わせ場所を決めた。父と共にアメリカと日本を行き来しているため、この機会を逃すと次はいつになるか。
俺がゲイだってカミングアウトしたとき、はいはいそうですか、と驚きもせずに目の前のケーキを食べ続けた母。悩んでいたのがバカみたいで俺も吹っ切れた瞬間だ。母の口癖だった「悪いことはせず好きに生きろ」が表れた態度だった。
久しぶりの再会でも感動の再会はまったくなく、まるで友達のようなノリだ。
「元々私はこういう性格だから、物心ついたときには反発心がとてつもなくあった。将来の結婚相手を決められて、女が大学に行くなんてもってのほかだ、すぐに結婚して子を産めって。今じゃ考えられないでしょうが、そういう時代と地域なのよ」
「反発して、よかったと思いますか?」
母と香苗はよく似ていた。千夏曰く、俺と香苗もよく似ているだそうだが、どこと言われてもうまく答えられない。
「思うよ。心から」
母の答えには迷いはなかった。
「家を出なかったら後悔してたと思う。可能性の話だけど、生まれた子供も犠牲になったかもしれない。私があそこにいても不幸の連続しかなかった。女は子供を産む機械になり、一生風習に縛られて生きていく。冗談じゃないね。香苗の人生は、香苗で決めるべき」
「私……医者になりたいんです。今まで犠牲になった人を思うと、何かできたんじゃないかって思いが強くなって、亡くなった人は救えなくても、抗いたいと思うようになって……」
「いいじゃん、それ」
母は豪快に笑う。
「あの辺は医学を学べる学校はないからね」
「東京に来たいんです。ここなら、何でも揃ってますから」
自分の伯母に会いたかったのも事実だろう。それと同じくらいに、彼女は都会に来たかったのだ。
母はとにかく肯定した。俺に対する生き方を否定しないでいてくれて、今の俺がある。きっと香苗も、生き方を誰かに背中を押してもらいたかったのだ。
話が終わる頃には、香苗は笑うんだと初めて知った。
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