監獄の穴と蜜愛の迷宮

不来方しい

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第一章 小説家と担当者

07 一緒にいたい

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 ただ暑いだけではなく湿気がこもりやすい建物で、部屋に戻るとすぐに風呂の準備をした。
 クリスはというと、さっきから部屋に戻ってから窓のチェックをしたり、自分の鞄をあさっている。
「誰かが入った形跡がある」
「え……?」
「窓に触れた?」
「触ってもないし開けてもいないです」
「ほら、ここ」
 指を差す箇所を見てみると、白い埃の一部が消えていた。何かで擦ったような線があり、クーラーの風で飛んだと言い訳しても無理がある跡だ。
「おまけにバックの中も開けられているね。金銭目的じゃないみたいだけど。君も一度確認して」
 財布は持ち歩いているため、お金の心配はない。
 そもそも僕には、中身を開けられたかすら分からない。
「特に取られてはいないみたいだけど……何のために? ツキノワグマじゃないですよね?」
「それなら冷蔵庫に直行だよ。ふふ、面白いこと言うなあ」
 笑われてしまった。ジョークのつもりではなかった。恥ずかしい。
「それだけ俺たちはよそ者だってことさ。俺たちが彼らを探っているように、彼らも目的があって何かを不審に思っている」
「ここに泊まっていいって言ったのも、見張るためとか?」
「だろうね。夜もちょっとだけ子供じみた罠でも仕掛けておこうか」
 クリスは小さく笑い、ドア側に靴を法則性がありながらもバラバラに並べる。
 向こうから開くと、僕たちのいる部屋側に押される仕組みになる。並べ方は、並べたクリスと見ていた僕にしか分からない。考えたものだ。
 先に汗を流す権利を譲ってもらい、カーテンを閉めた。
 脱衣場と居間との境目にはドアがなく、布一枚しかない。クリスの鼻歌が聞こえる距離感だ。
 風呂に入っていると、遠くで野生の生き物の遠吠えが聞こえた。低く唸る声は、近くなくても恐ろしい声だ。
 急に鳥肌が立ち、寒くなってお湯を足す。
「ぎゃあ!」
「ちょっと、なにその声」
 先生が、まっぱで、タオルも巻かず、堂々と。
 風呂場に入ってきて、一緒に入ろうと満面の笑みで湯船に入ってきた。
「う、うそでしょ……」
「入るよ?」
 小さく頷くと、クリスは湯船に足をつけて熱い、と漏らす。
「水足します?」
「大丈夫。慣れるから」
「あの、なんで……」
「病み上がりだし、お風呂の中で倒れてたら困ると思って……っていうのは口実。君と一緒にいたかった」
 クリスは僕を抱き上げると、膝の上に乗せた。
 お湯よりも、クリスの体温が熱い気がする。
「目に見えて疲れがたまってますね」
「うん……世の中のど真ん中でがーっと叫びたい気分。どうにかしたいし知りたいし、全身を蛇で締めつけられている。身動きが取れないんだ。あまりにも情報量が多すぎて」
 小説家の言うことはいまいち分からない。こめかみを押してやると、クリスは気持ち良さそうに身を委ねる。
「もしかして、取材以外でも目的が?」
「君といちゃいちゃしたい」
「からかうのは禁止です。真剣に聞いてるのに」
「ね、洗いっこしよっか?」
 断れない僕に質問に答えを返さないクリス。会話がいまいち成り立たない。
 反応に困っていると、
「やっぱり洗いっこはいいや」
「……………………」
「もしかしてしたかった?」
「もういい」
「ごめんごめん。それは次の機会にさせてもらうよ。今は君に甘えたいんだ。ちょっと心がぎゅーってなってる」
「なでなででもします?」
「いいの? やった」
 濡れたブロンドヘアーに触れ、ゆるゆると下に伸ばしていく。
 学生時代に比べたら伸びに伸びた。後ろで一本に繋いだりそのままにしたり、自由にさせている。癖っ毛といえぱ近江さんもだ。そういえば、跳ね方の癖がクリスに似ている。
「彼女のことどう思った?」
 心を読まれたかのようだった。
「別に。何も」
「あ、今の言い方、昔の千夏っぽい。敬語は止めて前みたいに呼んでよ」
「……仕事中以外は」
「ふふ。僕はね、彼女はとても可愛らしい人だと思ったよ。君の名前を呼ばせたくないくらい」
「だから僕を相田だと紹介したの? 自分は名前で呼ばせたのに」
「まあ、俺もいろいろあるんだよ」
 醜い心は浄化されていく。僕はこんなにもクリスが好きだったんだ。認めてしまえば、すとんと落ちるところに落ちた。なぜだか認めたくない僕もいて、恋愛は厄介で楽しいことばかりじゃない。素直に好きと言いたくても、抗う悪魔が存在する。
「そろそろ出たい」
「早くない?」
「ちょっとよくない状況なので」
「んん?」
 控えめに微笑んで、僕は湯船の縁に手をかける。
 大きな手が重なり、後ろに強く引き寄せられた。固い大きな身体にぶつかるが、水がクッションとなったおかげで痛くはない。
 目が合った。青い目は空より深い。左手が頭にかかる。僕はそっと目を閉じた。
 お風呂に入っているからか、ふやけた唇は思っていた以上に柔らかい。何度かついばみ、軽く音を立てて離れた。ティーンエージャーのようで、ひどく恥ずかしかった。
 遠くでまた獣の鳴き声がする。今度はとても悲しそうで、威圧よりも何かを捜しているような声だ。
「初めて聞く遠吠えだね。何の鳴き声だろう?」
「ツキノワグマ?」
「あんな声する? 座敷わらしかも」
「幸せを運んできてくれたのかな」
「嬉しすぎて、吐きそう」
「ワァオ。それは困る。夕食は君の好きなエビだよ」
 もう一度、柔らかいものが当たる。アメリカでは友情の証に唇へのキスを許すのか。それとも別の意味が込められているのか。
「ちょっとのぼせてきたね」
 へへ、と小さく笑うクリス。
 お風呂を出て、ふたりで夕食を作った。エビたっぷりのピラフと、鮭のムニエル。スープが飲みたいと言ったら、十分とかからずコンソメスープも作ってくれた。
 僕は横で、邪魔をしていた。それでも彼はずっと微笑んでいて、いて良かったのだと錯覚した。
 また何かの生き物が吠える。深く響く大きな音で、わりと近くだった。床下の木板まで響き、うねるような動きをする。
 座敷わらしであれば、こんな音を鳴らさないでほしい。

 深夜、ぐっすり寝ていたのに突然目を覚ました。
 大きな物音があったわけでもないし、なぜだか分からない。起きたて特有のだるい感覚もなく、神経が研ぎ澄まされている。
 嫌な予感は当たるもので、隣で寝ているはずのクリスがいなかった。電気もついていないし、トイレでもない。
 布団に触れてみると、冷たくなっている。僕の心も冷たくなる。
 玄関には靴がない。暗闇の中、携帯端末の明かりを頼りに外へ出ると、エアコンもついていないのに廊下はひんやりとしていた。
 耳を澄ませてみると、出入り口のある方角から女性の話し声がする。もっと注意深く集中すると、男性の声も聞こえてきた。
 すり足でなるべく音を立てないように移動し、曲がり角で壁に背をつける。クリスだ。それに近江さんもいる。
 知り合ったのは同時期なのに、クリスはかなり親しげに何か話しかけている。近江さんもまんざらではない様子で、相づちを打っていた。
 嫉妬に任せた行動など見苦しいだけで、行動を起こさないのも情けない。どちらにせよ、中途半端で何もできない。
 二人は話が終わった後、クリスは何かを受け取り戻ってきた。
「ふふ、どうしたの?」
「ばれてた?」
「最初からね。さあ、戻ろう。山の家は真夏でも冷える」
 クリスは僕の手を繋ぎ、長い廊下を歩く。
「それなに?」
「ただの家系図の乗った古書だよ。風習とは関係ない」
 クリスはきっぱりと言い切る。これには関わるな、と強い念が込められていた。
「さあ、寝よう。明日は朝早く出かけるから」
「どこに行くの?」
「千夏はゆっくり休んでていいよ。昼食も準備しておくからね」
 開いた口が塞がらなかった。ご飯もろくに作れないし、これではただのお荷物だ。しかも僕は食料も水も電気も消費する分、何もしない荷物の方がまだましかもしれない。
「ごめん千夏。ちょっと用ができたんだ。終わったら必ず話すから、明日はここにいてほしい」
「僕が側にいたら足手まとい?」
「違う。あっ浮気じゃないから心配しないで」
「浮気?」
「心配してないの? それはそれで寂しいけど」
 クリスは僕の肩を撫でる。もう一度顔が近づくが、今度はごまかしのキスに感じてあまり嬉しくはなかった。
「俺のわがままだ。君は明日、ここから出ないでほしい。俺に閉じ込める権利なんかないけど……。君はとても聡明で物分かりがよくて、とても魅力的だ。座敷わらしに攫われたりでもしたら、俺は生きていけない」
「クリスの座敷わらしのイメージってなに?」
 おかしくて吹き出してしまった。それに必死すぎてむちゃくちゃだ。
「分かったよ。明日は部屋から出ない。その代わり、プリン作って?」
「オーケー。プリンでもみそ汁でもなんでも作るさ!」
「みそ汁はいいかな。スープまだ余ってるし」
「オーウ……」
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