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一章 絵画修復士として
011 錦鯉とソフトクリーム
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咲はあまり感情を表に出すタイプではないため、少々判りづらいところがある。
デートは満更でもなさそうなのに、身体に触れられるのは嫌がる素振りを見せ、父の呪縛を解くのは容易ではないと考えさせられる。
もう一つ─こちらは朗報─だ。弱点と呼ぶにはいささか弱いが、常に余裕綽々でいる蘇芳は咲が心を開く人間に対して妬心を剥き出しにした。
ここから咲を解放するための突破口があるのではないか。誰しも完璧な人間などいない。咲の父親だから雲の上の人だと思い込んでいるだけだ。
こうなると居ても立ってもいられず、誠一は席を立った。
本日は咲の休日だが、キッチンに立って何かを作っている。
牛乳の箱を使ったパウンドケーキのようだ。箱に生地を流し込み、熱くなったオーブンに入れている。
「咲、よければ公園にでも行かないか?」
「今からですか?」
「そのケーキを焼き終わったらね。君とデートがしたい気分なんだ」
咲は顔を赤くし、そっぽを向いた。
デートという言葉に反応したのだろう。心に秘める想いはどこまでも澄みきっている。
「そうですね……公園に行けば、帰ってきたときにケーキの粗熱が取れてそうですし」
「まるで公園に行くのがついでみたいな言い方だな」
誠一はわざとむっとしてみせた。
「違います! そうではなくて……」
「咲からキスしてくれたら、機嫌が直るかも」
少し屈んで、機嫌が悪そうに目を閉じた。笑いたいのは山々だが、咲からのキスのためには演技も厭わない。
ちょん、と頬に暖かな感触が当たる。
「……よく見る、アメリカのドラマの挨拶みたいだ。でもこれはこれでありだな。夜寝るときにもしてほしい」
「寝るときだけでいいんですか?」
「……っ……いや、毎日、いつでも! そうだ、朝起きたときに君の唇が降ってきたら、幸せすぎてどうにかなりそうだ」
「もう……ほら、行きましょう。公園に行くなら、甘いお菓子が食べたいです。カフェにでも行きませんか?」
「君が作ったパウンドケーキがあるのに?」
「これは明日の私たちのおやつです」
「そうなのか」
バターとラム酒の良い香りが空腹を刺激する。甘いものの前に、何か軽食を食べたい気分だった。
それは咲も同じようで、細い身体から小さな音が鳴る。
「カフェで腹ごしらえでもしようか」
昼食後は公園に行き、湖の前で散歩を楽しんだ。
湖には枝垂れた枝が風に揺れ、水面を揺らしている。餌だと勘違いしているのか、鯉が寄ってたかって顔を出した。
咲の視線は白鳥ボートだ。
「乗りたい?」
「まさか。私は二十五歳ですよ。子供が乗るものです」
むきになるところがおかしくて可愛い。
「大人も子供も関係ある? 俺は乗りたいけどな。付き合ってくれない?」
咲は水面をじっと見つめている。
咲の視線の先は白鳥ボートではない。父と子が乗るボートだった。
子供は鯉に夢中になってボートから顔を出し、父は落ちないように支えている。
目的が判った誠一は、咲の肩に手を回した。
「さあ、行こうか」
お金を支払うときも、咲は恥ずかしそうな顔をしていた。
「やっぱり止める?」
「乗ります。嫌なわけではなく、当たり前にある家族の記憶は私にないので恥ずかしいんです」
「そんなことか。百あれば百通りの家族が存在している。咲がお父さんと作れなかったなら、俺と一緒に作ろう」
手を差し伸べると咲は重ねてきた。
小さくて細い、魔法の手だ。数々の絵画を直し、ケーキを食べるのは止まらない、不思議な手。愛おしくて頬擦りしたくなる。
「落ちたりしませんか?」
「大丈夫だよ。でもあまり身を乗り出さないように」
子供ではないのだから問題ないと思うが、誠一は咲の腰を掴んだ。
「君が小さかった頃、こうして守ってあげたいと過保護にも思ったものだ。どうも君を見ていると庇護欲をかき立てられてしまう。あ、頼りないとか思ってないよ。ずっと側にいたいという俺のわがままだ」
「わがままでも何でもないです、私も……」
咲は一つに結んだ髪を指先に絡め、くるくると回す。
癖のある栗色の髪は、母親に似たものだ。
咲の母親とはあまり面識はないが、第一印象は『子供に関心がなさそう』だった。
子より自分を優先する母に、幼かった咲は愛情を求めず、いつも一人で遊んでいた記憶がある。
ボートが大きな音を立てた。水面の下からだ。
「鯉でしょうか?」
「多分ね。水面にも顔を出してるし、餌がほしくて仕方ないんだね」
「そういえば、実家の錦鯉も、私が側に寄るとよく顔を出していました。人を選ぶんです。父が側に寄っても見向きもしないのに」
「よく餌をあげてなかった?」
「あげていました。最初はお手伝いさんが錦鯉の世話をしていましたが、私がじっと見ていたら、やっていいと言ってくれたんです」
「餌をくれる人の顔を覚えたんだね」
父親の話をするときの咲は、顔が強張り頬の辺りが引きつる。本人は気づいていないが、楽しくない話をするときは決まって同じ顔になっていた。
咲の様子を見ながらボートを方向転換する。鯉にすら邪魔されたくなくて、できればいないところでふたりきりでいたい。白鳥ボートならばふたりの世界を作れると思ったのは大間違いだ。
鯉にも蘇芳にも、邪魔をされたくはない。
邪な気持ちが膨らんでいく。
澄んだ心を汚すような、邪心が孕んで濁っていく。
「ソフトクリーム、食べたいです」
誠一は顔をはっと顔を上げ、咲の視線の咲を見やる。
白鳥ボートに乗っていた子供は、父親にソフトクリームをねだり買ってもらっている。
「君の父役になるのもいいな」
汚れた心が浄化されていくようだった。
選んだ味はバニラで、真っ白な色は咲の心そのものだった。
不思議と誠一の心も、暖かな感情が芽生え始めた。
デートは満更でもなさそうなのに、身体に触れられるのは嫌がる素振りを見せ、父の呪縛を解くのは容易ではないと考えさせられる。
もう一つ─こちらは朗報─だ。弱点と呼ぶにはいささか弱いが、常に余裕綽々でいる蘇芳は咲が心を開く人間に対して妬心を剥き出しにした。
ここから咲を解放するための突破口があるのではないか。誰しも完璧な人間などいない。咲の父親だから雲の上の人だと思い込んでいるだけだ。
こうなると居ても立ってもいられず、誠一は席を立った。
本日は咲の休日だが、キッチンに立って何かを作っている。
牛乳の箱を使ったパウンドケーキのようだ。箱に生地を流し込み、熱くなったオーブンに入れている。
「咲、よければ公園にでも行かないか?」
「今からですか?」
「そのケーキを焼き終わったらね。君とデートがしたい気分なんだ」
咲は顔を赤くし、そっぽを向いた。
デートという言葉に反応したのだろう。心に秘める想いはどこまでも澄みきっている。
「そうですね……公園に行けば、帰ってきたときにケーキの粗熱が取れてそうですし」
「まるで公園に行くのがついでみたいな言い方だな」
誠一はわざとむっとしてみせた。
「違います! そうではなくて……」
「咲からキスしてくれたら、機嫌が直るかも」
少し屈んで、機嫌が悪そうに目を閉じた。笑いたいのは山々だが、咲からのキスのためには演技も厭わない。
ちょん、と頬に暖かな感触が当たる。
「……よく見る、アメリカのドラマの挨拶みたいだ。でもこれはこれでありだな。夜寝るときにもしてほしい」
「寝るときだけでいいんですか?」
「……っ……いや、毎日、いつでも! そうだ、朝起きたときに君の唇が降ってきたら、幸せすぎてどうにかなりそうだ」
「もう……ほら、行きましょう。公園に行くなら、甘いお菓子が食べたいです。カフェにでも行きませんか?」
「君が作ったパウンドケーキがあるのに?」
「これは明日の私たちのおやつです」
「そうなのか」
バターとラム酒の良い香りが空腹を刺激する。甘いものの前に、何か軽食を食べたい気分だった。
それは咲も同じようで、細い身体から小さな音が鳴る。
「カフェで腹ごしらえでもしようか」
昼食後は公園に行き、湖の前で散歩を楽しんだ。
湖には枝垂れた枝が風に揺れ、水面を揺らしている。餌だと勘違いしているのか、鯉が寄ってたかって顔を出した。
咲の視線は白鳥ボートだ。
「乗りたい?」
「まさか。私は二十五歳ですよ。子供が乗るものです」
むきになるところがおかしくて可愛い。
「大人も子供も関係ある? 俺は乗りたいけどな。付き合ってくれない?」
咲は水面をじっと見つめている。
咲の視線の先は白鳥ボートではない。父と子が乗るボートだった。
子供は鯉に夢中になってボートから顔を出し、父は落ちないように支えている。
目的が判った誠一は、咲の肩に手を回した。
「さあ、行こうか」
お金を支払うときも、咲は恥ずかしそうな顔をしていた。
「やっぱり止める?」
「乗ります。嫌なわけではなく、当たり前にある家族の記憶は私にないので恥ずかしいんです」
「そんなことか。百あれば百通りの家族が存在している。咲がお父さんと作れなかったなら、俺と一緒に作ろう」
手を差し伸べると咲は重ねてきた。
小さくて細い、魔法の手だ。数々の絵画を直し、ケーキを食べるのは止まらない、不思議な手。愛おしくて頬擦りしたくなる。
「落ちたりしませんか?」
「大丈夫だよ。でもあまり身を乗り出さないように」
子供ではないのだから問題ないと思うが、誠一は咲の腰を掴んだ。
「君が小さかった頃、こうして守ってあげたいと過保護にも思ったものだ。どうも君を見ていると庇護欲をかき立てられてしまう。あ、頼りないとか思ってないよ。ずっと側にいたいという俺のわがままだ」
「わがままでも何でもないです、私も……」
咲は一つに結んだ髪を指先に絡め、くるくると回す。
癖のある栗色の髪は、母親に似たものだ。
咲の母親とはあまり面識はないが、第一印象は『子供に関心がなさそう』だった。
子より自分を優先する母に、幼かった咲は愛情を求めず、いつも一人で遊んでいた記憶がある。
ボートが大きな音を立てた。水面の下からだ。
「鯉でしょうか?」
「多分ね。水面にも顔を出してるし、餌がほしくて仕方ないんだね」
「そういえば、実家の錦鯉も、私が側に寄るとよく顔を出していました。人を選ぶんです。父が側に寄っても見向きもしないのに」
「よく餌をあげてなかった?」
「あげていました。最初はお手伝いさんが錦鯉の世話をしていましたが、私がじっと見ていたら、やっていいと言ってくれたんです」
「餌をくれる人の顔を覚えたんだね」
父親の話をするときの咲は、顔が強張り頬の辺りが引きつる。本人は気づいていないが、楽しくない話をするときは決まって同じ顔になっていた。
咲の様子を見ながらボートを方向転換する。鯉にすら邪魔されたくなくて、できればいないところでふたりきりでいたい。白鳥ボートならばふたりの世界を作れると思ったのは大間違いだ。
鯉にも蘇芳にも、邪魔をされたくはない。
邪な気持ちが膨らんでいく。
澄んだ心を汚すような、邪心が孕んで濁っていく。
「ソフトクリーム、食べたいです」
誠一は顔をはっと顔を上げ、咲の視線の咲を見やる。
白鳥ボートに乗っていた子供は、父親にソフトクリームをねだり買ってもらっている。
「君の父役になるのもいいな」
汚れた心が浄化されていくようだった。
選んだ味はバニラで、真っ白な色は咲の心そのものだった。
不思議と誠一の心も、暖かな感情が芽生え始めた。
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