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一章 絵画修復士として
01 白神咲と葉山誠一
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美術鑑定士という家柄に生まれたおかげか、幼少期から人より心眼力に長けている自信があった。
だからといって必然的に養われたものに頼るわけではなく、酔っ払った親が話す美術品の数々について耳を傾けては、確かな力を身につけた。
「いやあ、まさか白神善四郎氏の絵を拝見できるなんて、夢みたいです。間違いなく、これは本物なんですね」
オークションで高値で取引された白神善四郎の絵。人嫌いでなかなか表舞台には出てこない人物像からも、ミステリアスな雰囲気を持つち、それがかえって絵の価値を上げていた。
絵画の展示会ではあるが、気に入った絵は購入することができるイベントに、咲も呼ばれていた。絵画修復士が必要なのかと首を傾げたくなるが、父が側に置いて自慢したいだけの道具に過ぎないと判っている。
辟易するが、プロが描いた絵を間近で観られて、目の肥やしになる。
「ええ、間違いなく本物です。美術鑑定士としての誇りにかけて誓います」
父は白神善四郎の絵に書かれているサインに向け、本物の証を説明する。
「そちらは……?」
「うちの息子です」
よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに、父は息子を前に押し出した。
「白神咲と申します」
咲は睫毛を揺らし、恭しく一礼した。
「随分と綺麗な目をしている」
「妻かイタリア人なもので、妻の血を濃く継いだのでしょう」
栗色の髪と宝石のエメラルドに例えられる瞳を持ち、父からすれば息子の咲は自慢だった。
自分に似た慧眼を持ちながら、選んだ道は美術修復士だ。溺愛する息子を海外に行かせるのも反対していたが、妻の故郷であるイタリアが条件として外に出した。
もう一つの条件は、勉学を終えたらすぐに日本へ戻ってくること。
たった数年ではあるが、父の束縛から逃れられ、咲は小さな幸せを手にしていた。
男は狂気が混じる艶色を醸し出し、咲をじっとりと上から下まで見つめる。
視線は刃物と化し、咲は避けるように睫毛と瞼を震わせた。
空を見上げると、青々とした葉の影から太陽の光が隙間をかいくぐってアスファルトを照らしている。
真夏は午前中でも日差しが強く、咲の肌をしっとりと濡らしていた。
庭にある手押しポンプに呼び水を入れ、腰に力を入れて何度か押す。
冷たい水が管から溢れ、咲は手で掬い顔を洗った。
「咲様、お父上がお呼びですよ」
ふくよかな女中が縁側に現れ、咲を呼んだ。
「今日も暑うございますね。まだ旬ではありませんが、お得意様から西瓜を頂いたんです。冷やしてありますので、あとで切って差し上げますね」
「ありがとうございます。すぐに向かいますね」
長い廊下を抜け、一番奥の部屋の前で膝をつく。
「お父様、咲です」
「入れ」
「失礼します」
襖を開けると、父の蘇芳は誰かと電話をした後だった。
蘇芳は五十歳を超えているが、筋肉質な肉体美が若々しく、老若男女問わず罪深くも好意を寄せられることが多い。
愛人との間に子供もいるが、本家に住むのは咲だけだった。
「お前に頼みたいことがある。葉山誠一という男を知っているか?」
「葉山様、ですか。お父様の古くからのご友人だということくらいです。お会いしたことはございませんが。確か画家をなさっているのですよね」
「幼い頃に一度会ってはいる。誠一は画家だが、描くだけではなく人の作品を集めるのが趣味なんだ。親が集めたものでオークションに出したいものも多くあり、古くなった絵画を直してほしいとのことだ」
「かしこまりました。承ります」
「頼んだぞ。それと咲」
端麗な顔に淫猥な色が浮かび、表情には出さなくとも咲はげんなりした。
「美しいものを愛でたい。お前の身体は布一枚だって惜しい。藍色の浴衣も似合ってはいるが、生まれたままの姿が一番映える」
洋酒を片手に艶やかな視線を送る蘇芳に、もはや何を言っても止めることはできない。
咲は帯に手をかけるしかなかった。
洋城というべき建物は、異世界を遮るように鉄塀で囲まれている。
葉山誠一は家政婦を雇ってはいるが、他の家族とは住んでいない。ほとんど家の中で過ごしているという。
厳かな扉の前で、咲はインターホンを押した。
『はい。葉山でございます』
「絵画の修復のご依頼を頂いた、白神咲と申します」
『お待ちしておりました』
葉山誠一ではなく、女性の声だ。
鉄格子のような扉は大きな音を立てた。
『そのまままっすぐにお進み下さい』
「判りました」
広い庭には噴水があり、囲むように薔薇を咲かせている。
植木も綺麗に整えられていて、真っ赤な実を揺らしていた。
「ようこそいらっしゃいました」
「よろしくお願いします」
「葉山先生なら奥のアトリエにいらっしゃいます」
「終わるまでどこかで待たせて頂きたいのですが……お邪魔をしてしまいますし」
「白神さんが訪問されたらすぐにアトリエに来るようにと言伝を承っております」
「そうでしたか。では参ります」
待っていては家政婦が責任を感じてしまうだろうと、遠慮なく入らせてもらうことにした。
玄関ホールには絵画が飾られていて、中も薔薇の香りで満たされていた。生花でしか嗅ぐことのできない、瑞々しい華やかさだ。
赤い絨毯にそって進むと、次第に画用液の匂いがしてきた。
入り口の前で迷い、遠慮がちに扉を叩くと、短く「はい」と聞こえてくる。
「失礼します」
扉を開けると、目の前に葉山誠一であろう人物が立っていた。
紺色のエプロンを身につけ、黒髪を後ろに上げていて、上背の違いから見上げなければならなかった。
漆黒の瞳に自分が映り、咲は目を逸らす。
「……大きくなった」
「え?」
成人した大きな手が頭の上に置かれた。
一つに結ばれた髪を撫でる手は、子供の頭を撫でるかのようで、暖かみを感じる。
「すまない。久しぶりなもので。君が子供の頃、私は何度か会っていたんだ。改めて、葉山誠一という。よろしく頼む」
「白神咲と申します。おおよその話は父から聞きました」
蘇芳の話と一致していない。蘇芳は一度しか会っていないというが、誠一は何度か会ったと話す。
「その子誰?」
背後から男性が顔を出した。咲は慌てて振り返った。
誠一と並ぶ長身の男は、下着一枚身につけていないのだ。蘇芳にされた日々を思い出したのもある。
「蘇芳さんとこのお坊ちゃん、絵画修復士だよ」
「絵画修復士? 大学生の間違いじゃないのか?」
「失礼なことを言うな。イタリアの学校を主席で卒業した優等生だ」
「へえ…………」
「早く服を着てくれ」
「もういいのか?」
「ああ、参考になった。咲君、すまないな。彼は古い友人で、モデルになってもらっていたんた」
「そうだったんですね。こちらこそお邪魔してしまいました」
「もう終わったから大丈夫」
しばらくして、男は部屋から出てきた。
「じゃあな。また今度」
「ああ。今度は酒でも飲もう」
咲は一礼して、黙って後ろ姿を見送った。
「仕事の話もいいが、まずはアトリエを見せよう。おいで」
「はい……」
男が裸でいた場所に入るのは気が滅入ったが、これは仕事の一環だと心に鞭を打った。
だからといって必然的に養われたものに頼るわけではなく、酔っ払った親が話す美術品の数々について耳を傾けては、確かな力を身につけた。
「いやあ、まさか白神善四郎氏の絵を拝見できるなんて、夢みたいです。間違いなく、これは本物なんですね」
オークションで高値で取引された白神善四郎の絵。人嫌いでなかなか表舞台には出てこない人物像からも、ミステリアスな雰囲気を持つち、それがかえって絵の価値を上げていた。
絵画の展示会ではあるが、気に入った絵は購入することができるイベントに、咲も呼ばれていた。絵画修復士が必要なのかと首を傾げたくなるが、父が側に置いて自慢したいだけの道具に過ぎないと判っている。
辟易するが、プロが描いた絵を間近で観られて、目の肥やしになる。
「ええ、間違いなく本物です。美術鑑定士としての誇りにかけて誓います」
父は白神善四郎の絵に書かれているサインに向け、本物の証を説明する。
「そちらは……?」
「うちの息子です」
よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに、父は息子を前に押し出した。
「白神咲と申します」
咲は睫毛を揺らし、恭しく一礼した。
「随分と綺麗な目をしている」
「妻かイタリア人なもので、妻の血を濃く継いだのでしょう」
栗色の髪と宝石のエメラルドに例えられる瞳を持ち、父からすれば息子の咲は自慢だった。
自分に似た慧眼を持ちながら、選んだ道は美術修復士だ。溺愛する息子を海外に行かせるのも反対していたが、妻の故郷であるイタリアが条件として外に出した。
もう一つの条件は、勉学を終えたらすぐに日本へ戻ってくること。
たった数年ではあるが、父の束縛から逃れられ、咲は小さな幸せを手にしていた。
男は狂気が混じる艶色を醸し出し、咲をじっとりと上から下まで見つめる。
視線は刃物と化し、咲は避けるように睫毛と瞼を震わせた。
空を見上げると、青々とした葉の影から太陽の光が隙間をかいくぐってアスファルトを照らしている。
真夏は午前中でも日差しが強く、咲の肌をしっとりと濡らしていた。
庭にある手押しポンプに呼び水を入れ、腰に力を入れて何度か押す。
冷たい水が管から溢れ、咲は手で掬い顔を洗った。
「咲様、お父上がお呼びですよ」
ふくよかな女中が縁側に現れ、咲を呼んだ。
「今日も暑うございますね。まだ旬ではありませんが、お得意様から西瓜を頂いたんです。冷やしてありますので、あとで切って差し上げますね」
「ありがとうございます。すぐに向かいますね」
長い廊下を抜け、一番奥の部屋の前で膝をつく。
「お父様、咲です」
「入れ」
「失礼します」
襖を開けると、父の蘇芳は誰かと電話をした後だった。
蘇芳は五十歳を超えているが、筋肉質な肉体美が若々しく、老若男女問わず罪深くも好意を寄せられることが多い。
愛人との間に子供もいるが、本家に住むのは咲だけだった。
「お前に頼みたいことがある。葉山誠一という男を知っているか?」
「葉山様、ですか。お父様の古くからのご友人だということくらいです。お会いしたことはございませんが。確か画家をなさっているのですよね」
「幼い頃に一度会ってはいる。誠一は画家だが、描くだけではなく人の作品を集めるのが趣味なんだ。親が集めたものでオークションに出したいものも多くあり、古くなった絵画を直してほしいとのことだ」
「かしこまりました。承ります」
「頼んだぞ。それと咲」
端麗な顔に淫猥な色が浮かび、表情には出さなくとも咲はげんなりした。
「美しいものを愛でたい。お前の身体は布一枚だって惜しい。藍色の浴衣も似合ってはいるが、生まれたままの姿が一番映える」
洋酒を片手に艶やかな視線を送る蘇芳に、もはや何を言っても止めることはできない。
咲は帯に手をかけるしかなかった。
洋城というべき建物は、異世界を遮るように鉄塀で囲まれている。
葉山誠一は家政婦を雇ってはいるが、他の家族とは住んでいない。ほとんど家の中で過ごしているという。
厳かな扉の前で、咲はインターホンを押した。
『はい。葉山でございます』
「絵画の修復のご依頼を頂いた、白神咲と申します」
『お待ちしておりました』
葉山誠一ではなく、女性の声だ。
鉄格子のような扉は大きな音を立てた。
『そのまままっすぐにお進み下さい』
「判りました」
広い庭には噴水があり、囲むように薔薇を咲かせている。
植木も綺麗に整えられていて、真っ赤な実を揺らしていた。
「ようこそいらっしゃいました」
「よろしくお願いします」
「葉山先生なら奥のアトリエにいらっしゃいます」
「終わるまでどこかで待たせて頂きたいのですが……お邪魔をしてしまいますし」
「白神さんが訪問されたらすぐにアトリエに来るようにと言伝を承っております」
「そうでしたか。では参ります」
待っていては家政婦が責任を感じてしまうだろうと、遠慮なく入らせてもらうことにした。
玄関ホールには絵画が飾られていて、中も薔薇の香りで満たされていた。生花でしか嗅ぐことのできない、瑞々しい華やかさだ。
赤い絨毯にそって進むと、次第に画用液の匂いがしてきた。
入り口の前で迷い、遠慮がちに扉を叩くと、短く「はい」と聞こえてくる。
「失礼します」
扉を開けると、目の前に葉山誠一であろう人物が立っていた。
紺色のエプロンを身につけ、黒髪を後ろに上げていて、上背の違いから見上げなければならなかった。
漆黒の瞳に自分が映り、咲は目を逸らす。
「……大きくなった」
「え?」
成人した大きな手が頭の上に置かれた。
一つに結ばれた髪を撫でる手は、子供の頭を撫でるかのようで、暖かみを感じる。
「すまない。久しぶりなもので。君が子供の頃、私は何度か会っていたんだ。改めて、葉山誠一という。よろしく頼む」
「白神咲と申します。おおよその話は父から聞きました」
蘇芳の話と一致していない。蘇芳は一度しか会っていないというが、誠一は何度か会ったと話す。
「その子誰?」
背後から男性が顔を出した。咲は慌てて振り返った。
誠一と並ぶ長身の男は、下着一枚身につけていないのだ。蘇芳にされた日々を思い出したのもある。
「蘇芳さんとこのお坊ちゃん、絵画修復士だよ」
「絵画修復士? 大学生の間違いじゃないのか?」
「失礼なことを言うな。イタリアの学校を主席で卒業した優等生だ」
「へえ…………」
「早く服を着てくれ」
「もういいのか?」
「ああ、参考になった。咲君、すまないな。彼は古い友人で、モデルになってもらっていたんた」
「そうだったんですね。こちらこそお邪魔してしまいました」
「もう終わったから大丈夫」
しばらくして、男は部屋から出てきた。
「じゃあな。また今度」
「ああ。今度は酒でも飲もう」
咲は一礼して、黙って後ろ姿を見送った。
「仕事の話もいいが、まずはアトリエを見せよう。おいで」
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