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第一章 贄と学園の謎

025 膨れ上がるそれぞれの気持ち

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 美味いはずの肉も魚介も、まったく味がしなかった。
 いつか咲紅が学園の外に出られるときが来たら、美味しいものを食べにつれていこうと誓う。甘いものが好きなのは普段学食で食べるメニューからも知っているので、まずはケーキからだ。
「今日は泊まって行けるんでしょう?」
「食事を頂いたら、すぐにでも学園に戻るつもりです」
「家族水入らずで過ごしたいじゃないの。それとも、母と一緒にいたくないのかしら」
「決してそのようなことは」
 結局、押し切られる形で泊まることになってしまった。女の首をへし折りたくなる。指先がちりちりと痛みを求めていた。
 何かあれば葵に連絡をしてもらう手筈になっているので、今のところ端末がおとなしいのは唯一の救いだった。
 深夜まで飲みに付き合わされ、汗と体内のアルコールを落とすように強めのシャワーを浴びた。
 こうしていると、咲紅がプールで襲われそうになったときのことを思い出す。
 玄一が近くにいてくれて助かった。同時に、木にぶら下がる蛇が窓ガラスに身体をぶつけていた意味を感じ取った。
 あれは咲紅の危険を知らせるものだったのだ。蛇を味方にしているのか、蛇が咲紅を好きなのかは判断がつかないが、彼の持つ力に感謝せざるを得ない。
 トラウマで泳げなくなってしまったらと危惧していたが、彼はまた泳ぐと豪語した。咲紅の精神力を侮ってはいけない。
「強い子に育ったな……咲紅」
 学園内でばったり会ったときの照れた顔が可愛くてたまらない。けれどまだ素直になれず、全然嬉しくないと平気そうなむず痒い顔をする。
 神殿へ異端者を捧げた件も、彼は聞きたいことがあるだろうが選択肢を見誤ることはしない。贔屓目だが、冷静に物事を見極められ、知能もある子だ。
 異端者の件に関して、教団本部へ来て知ったこともある。
 教団の連中は、神殿の秘密を知らないでいる。これは有力な情報だ。それに警備課の隊長は、誰よりも冷酷で人を殺めるのも躊躇のない男だと知れ渡っている。無慈悲な性格だと伝わり、梅愛も自身の息子が次の教祖に相応しいと機嫌がいいのだろう。
 咲紅を守るために、酷薄非情な男だと思われるのが一番都合が良かった。



 二月に入り、いよいよ高等部三年が近づいてきた。
 今は甘い香りで包まれている家庭科室に、贄生は特に目の色が変わっていた。
 普段は部屋でモニターを通しての勉強を強いられているが、料理の授業はどうしても部屋では難しい。贄生五人と六人に別れ、今日はチョコレートケーキを作る授業だった。
 他の生徒や元クラスメイトは贄生と接触不可のため、基本的には贄生のみで行われる。
「『焼きあがったスポンジケーキにラムシロップをつけて、ビターチョコレートでコーティングする』……なんだこれ、難易度高くね? スポンジケーキすら焼いたことないぞ」
 黒羽は説明を読み、嘆いて天井を見上げる。
「大丈夫。いける」
 愛の力で、とは心の中で唱えた。
 作ったケーキはラップに包み、部屋で食べていいことになっている。それを聞いたとき、人にあげてもいいのではないかと考えた。頭に浮かぶのは、愛しい人の顔だ。コーヒーに砂糖やミルクを入れるくらいには好きだろう。
 もし渡したら、紫影はどんな顔をするだろうか。喜んでくれるのか、笑ってくれるのか。
 焼き上がりを待つ間、外の様子を眺める。グラウンドでは高等部の生徒がマラソンをしていた。
 同じ高等部でもこうも違う。二度とあの中へは入れない。友人と話したり、同じ空間で勉強することも叶わない。
 理由は神への供物だから。実際は地下に眠る白蛇への餌だ。それを此処にいる全員、知らない。きっと教師も知らない。
「咲紅、どうした? なんで眉間に皺ためてんの?」
「考えごとをしてただけだ。それよりそろそろ焼き上がるんじゃないのか?」
「おっほんとだ」
 黒羽は出来上がりの音が鳴るのと同時に開け、スポンジを取り出した。
 真ん中に切れ目が入っているもののふっくらとしている。
「あら熱をとって、ラム酒を染み込ませてチョコレートでコーティングか……。このままでも食いたいぜ」
 盛大に腹を鳴らしてしまった。ケーキなど滅多に食べられないもので、本当は食べたくて仕方がない。
 できるだけ見ないようにし、もう一度グラウンドへ目をやる。警備隊が何人か見回りをしていて、中には紫影の姿もあった。
「あ、紫影隊長だ」
「うそ、どこどこ?」
 いち早く反応したのは瑠璃だ。千歳もちらっと見て、咲紅の反応を伺う。
「紫影隊長ってかっこいいよねえ。あの人が儀式の相手ならよかったけど」
「瑠璃も上手くやってるんじゃないのか?」
「実は紫影隊長と交換してほしいと思ってたんだよねえ……ふふ」
 瑠璃は咲紅を見て笑みを浮かべる。
 気持ちがばれていないかと冷や冷やした。
「でも今の人も悪くないし、このままでもいいかなって」
「お前って年上好き? やたら可愛がられるよな」
「まあね。取り入った方が何かとおこぼれもらえたりするし、世の中はうまく渡り歩きたいしね。咲紅君は孤高の王子って感じ?」
「王子ってなんだよそれ」
「後輩にモテモテじゃない?」
「俺は別にモテてない」
「またまたそんなこと言っちゃって。ファンクラブもあるの知ってるんだからね」
「そんなこと俺は知らない」
「そういえばやたらとケーキを気にかけてるけど、もしかして誰かにあげるの?」
「まさか。いつも食べられるわけじゃないし、部屋で味わって食べる。っていうか気にかけるだろ。ちゃんと作らなきゃいけないんだから」
 のらりくらり交わすが、千歳にまじまじと見られるのはきついものがあった。
 紫影は絶対に渡さないと宣言した以上、ごまかしはきかない。
 例え部屋で食べたとしても、完全に疑いの目で見られるだろう。
「葵さんに持っていったらもらってくれるかなあ」
 黒羽はグラウンドを見ながら独り言を言う。
「審判者に持っていっても返されるか怒られるかでしょ。人によっては反省文も書かされるかも」
「うげ……それなら自分で食うかな」
 千歳は悩んでいるようだった。もし渡すのであれば、相手はおそらく自身の審判者の葵ではなく紫影。
 だったらなおさら負けてはいられないと、たとえ反省文百枚をまた書かされようとも渡す決心を固めた。
 出来上がったケーキをラップに包み、さっさと部屋に戻った。
 プレゼントに包めるようなものもなく、ラップそのままであじけが仕方ない。せめて見えないようにしようと紙袋に入れ、短い文章の手紙も添えた。
──家庭科の授業で作った。食べてほしい。
 日常化しつつある手紙のやりとりは、秘密裏に交わされる愛のやりとりで、身も心もとろけていく。
 寄宿舎から出て本署に向かう。
『贄生か?』
「咲紅です。紫影隊長と面会がしたいです」
『今日はやたら多いな……待っていろ』
 やたら多い、とは。心臓が痛いほど音を鳴らし、緊張が高まる。
 まさか他にも誰かいるのではないか、と要らない心配が襲う。
 玄関からロビーを覗くと、千歳の後ろ姿が見えた。何か持っている。
 目的は同じだと察した。きっと紫影に今日作ったケーキを渡すつもりだ。
 渡す瞬間も見ていたくなくて、咲紅は踵を返した。
 一生懸命作ったものでも必要がなくなれば意味はない。
 ケーキをゴミ箱に放り込んだ。
 千歳がこういう行動を取るなんてわかりきったことだ。嫉妬でどうにかなりそうなのは、現実にならないでほしいという願望があったからだ。
 恋をするのは幸せもあるが、それ以上に闇に呑まれた気持ちも膨れ上がる。妬心や心痛は計り知れない。だが他人に興味がなければとは思わない。心から紫影に出会えて良かったと思う。
 咲紅は寄宿舎に戻り、時間を忘れるように勉強した。
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