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12-真夏の事件簿
073 関西
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朽ちかけた家は壁に蔦が這い、まるで触手のような不気味さに悠は立ち竦んだ。庭には骨董品のようなひび割れた壷たちが無惨に置かれ、割れた破片もそのままになっている。伸びに伸びた勁草の先が枝垂れ、露を垂らしていた。
アシスタントの者も数名いて、若い男性ばかりだった。ルカのように身なりが整っているが、どこか風変わりな装いでもある。
「彼らは私のモデルだ。肉欲を持て余した躯が絡み合い、求め合う姿はより絵に対する欲を駆り立てる」
「いつもは居間で絵を?」
「最奥にある部屋だ。残念ながらあそこは誰もいれられない。例えそれが愛しい君でも」
出されたお茶に一切口を付けず、ルカは質問を何度も繰り返した。悠の太股を数回叩き、信号を送る。
「ところで、ルカは何の仕事をしているのかね?モデルか何かか?」
「ただのサラリーマンです」
「そのわりには随分佳麗なスーツを着こなしているではないか。ナポリのブランドだな」
「流水先生がイタリアのスーツに精通しているとは存じ上げませんでした」
「何着か持っていてな。君はイタリアが好きなのか?」
「イタリア出身でございます」
「そうかそうか」
臆面の欠片もない大嘘に、流水は高らかに笑う。
「昨日も話したが、ぜひ君にモデルをして頂きたい」
「いきなり仰られても、心の準備が出来ておりません。流水先生のような素晴らしいお方のモデルなど、私で務まるはずがございません」
「またそのような謙遜を。私はウフィツィ美術館で君を観たことがある。極上の微笑みはまるでヴィーナスのようだ」
徐々にまえのめりになる流水から顔を背け、ルカは凄然とした態度で足を組んだ。
「そうやって私から離れれば離れるほどますます君が欲しくなる。む、ちょっと待ってくれ」
インターホンが鳴り、流水は居間から離れ玄関へと向かう。ルカは何も言わず、沈黙の空気に身を寄せていた。
「すまない、商談の話が入ってしまった」
「いえ、こちらこそ長居をしてしまいました。またぜひ個展に寄らせて頂きます」
「そうしてくれると有り難い。今度はぜひ二人で食事を」
「では失礼致します」
まさしく極上の微笑みを見せたルカは畏まった礼をすると、悠に行こうと促した。
タクシーにいる間も何も口を割らず、しばらく外の風景を眺めた。汗ばんでいるせいか、薔薇の香水とルカの体臭が混じり合い、匂いに安堵した悠はうとうとを繰り返した。向かう先は池袋のいつもの場所で、五階に上がるまではふたりに会話はない。
「とても珍しい茶葉を手に入れたんです。冬に摘み取った茶葉で、渋みがほとんどなく、甘みと軽やかな香りが特徴です」
「茶葉を冬に?初めて聞きました」
「お店で試飲させて頂きましたが、とても美味しかったですよ。ぜひストレートでどうぞ」
芳醇な香りの漂う紅茶を飲み、悠は話を切り出した。
「どよんとした空気でしたね。ルカさんが喋ってる間にいろいろ彼らに聞きましたが、流水先生の言うことに嘘はないみたいです。最奥の部屋で絵を描くことも、その……モデルを中へ招いていることも。ただ、肝心な怪しい動きについては何とも」
「彼の居場所が判っただけで充分です」
「ルカさん?」
汗ばんでいるのは暑さのせいではなかった。妙に色気を発していたのは、体内に熱がこもっていたからだ。引き出しから体温計を出し、シャツのボタンを外すと差し込んだ。体調が悪化しているというのに、ルカは嬉しそうに笑う。
「三十八度近いです。まずは布団に入って下さい。食欲はありますか?」
「少し、眠ってもいいですか?」
「はい。夕飯は消化がよくて栄養のあるものを作ります」
絹糸のような美しい髪が乱れても、王子の気品は失うことなく存分に発揮されていた。
三日ほど寝込んだルカは、夏風邪のことなど無かったかのように食欲も体力も回復した。三日の間は調査も何も進まず、店も休みなため、悠はイタリア語の勉強に費やした。
──本日、会えますか?
通話アプリを通じてきたメールに、悠は即返事をする。
──もちろんです。
──場所は、悠の家で。
え、と顔を上げた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。慌てて扉を開けると、太陽の輝きさえ味方につけた男が立っていた。
「え、え、え?」
「本日は休日です。ご迷惑をおかけしますので、夕飯の材料を買って参りました」
「よ、ようこそ……」
ドアの隙間に身体をねじ込み、ルカは後ろ手に鍵を閉めた。
「イタリア語の勉強ですか?」
「少しずつ進めてます。ヴェルディアナさんとも、イタリア語で会話してみたいですし」
子供のように綻んだ顔に、悠は顔が熱くなった。ビニール袋から出てきたのは、豚肉、人参、玉葱、じゃがいも、そしてカレー粉である。買い物は出来る、と得意そうに言いたげな顔に、悠は声に出して笑った。
出来上がったカレーと作り置きしていた茄子の煮浸しを並べ、ふたりは手を合わせた。仏教徒だからではない。ふたりにしか判らない、出会いへの感謝を表す小さな儀式だった。
「何か、お話ししたいことがありました?」
「ええ、悠に酷な話をしなければなりません」
「まさかフランスへ帰って戻ってこないとか言いませんよね?」
「そのような顔をなさらなくても。断じて違います。マリーの元へ行ってほしいのです」
突如出た名前に、悠はスプーンを皿に置いた。
「確か関西でしたよね?」
「はい。床に伏している間、ソフィアはまだかと催促が何度も届きました」
「休まる暇がないじゃないですか」
「悠の看病のおかげで元気です。休んでいた間、美術鑑定士の仕事が少々溜まっていて、東北に行かねばなりません。先にあなたはマリーの元へ行って、ソフィアと会ってきてほしいのです」
「え、ソフィアさんはマリーさんと一緒にいるんですか?」
「十中八九。マリーに会ってソフィアに会いたいと伝えてほしいのです。ルカの頼みだといえば、マリーは必ず助けてくれます」
人捜しは百発百中だ。ルカは間違えない。
「判りました」
「本来ならばあなたに頼んでいい件ではありません。必ずお詫びをします。いえ、させて下さい」
「楽しみにしています。でも僕と会って警戒したりしませんか?」
「いきなりフランスからの使者が行くより、日本人であるあなたが行った方が、彼女もまだ警戒心は少ないかと思います」
「頼まれました。お役に立てるように頑張ります」
「……無理はしないように」
悠はすぐに新幹線の切符を手配し、早急に乗り込んだ。大阪にあるマリーの住所を聞き、最寄り駅までは乗り換えはない。
購入した駅弁は、牛肉がぎっしりと詰まった弁当で、ささやかな程度に野菜炒めや漬け物が入っている。これではルカにとやかく言われないと、悠は大阪での食事を考えた。
窓から見える風景は新緑が続き、立派に栄養を蓄えた木が連なっている。濃い影を作った先には鳥が涼み、羽を休めていた。
下車前にルカにメッセージを送り、大阪の空気を吸い込んだ。ソースの混じった匂いが微かに漂う。活気づいた空港を抜け、タクシーの運転手に住所を告げた。
東北で動き回っているルカは返事の代わりに、写真を一枚添付した。
「おお……」
思わず発した声に、運転手はバックミラーで悠を一瞥する。純白のウェディングドレスを着た女性より、ルカが目に焼き付いた。今より幼さが残る顔立ちははにかみ、国民に対して愛想良く手を振っている。白いタキシードは細身のルカを際立たせていた。背後に何かが映っていなければ、ますます素晴らしい式の写真だったろう。
悠は女性の顔をしっかりと確認し、意識を集中させた。鼓動の音は落ち着いていて、それは危険に曝されているわけではないことを意味した。
「お客さん、この辺で大丈夫かい?」
「はい、領収書もお願いします」
ひとまずビジネスホテルで予約をし、荷物を預けた後はひたすら写真を注視した。鉱石の名前、ペンを走らせる音、女性の笑い声もわずかに脳を刺激する。
マリーの店は表通りにはなく、裏道を通らねばならなかった。ビルの一階は昔ながらの喫茶店で、扉が閉まっていてもコーヒーの良い香りが漂ってくる。階段で二階まで上ると、女子高校生とすれ違った。買い物をしたようで、写真に収めようとスマホを取り出している。映らないように気をつけながら、ドア付近まで寄った。
店はアロマを焚いているのか、柑橘系の香りが漂う。マリーのこだわりなのか、内装はシックなデザインで統一されていて、大人二人通れるような広い通路となっている。アクセサリーの並べ方、配置にも店主の意思が垣間見える。
「あっいらっしゃいませ!」
マリーの声ではない。くしゃくしゃの笑顔は桜庭夏帆だ。彼女の人生の岐路に、ルカが立った経験がある。
「ええっ、景森君?やだ、久しぶり。元気だった?なんだか大人びたわね」
「桜庭さん、お久しぶりです。大人になりましたか?自分では判りません」
「ふふ……そうでしょうね。今日はどうしたの?わざわざ池袋からなんて買い物じゃないわよね?」
「非常に、非常に申し訳ないのですが……マリーさんはいらっしゃいますか?」
目尻を下げた表情で、悠はすべてを理解した。
「ごめんなさいね。帰ってくるのは夕方になるわ」
「そうでしたか。なら夕方にまたお邪魔します」
「どこか行きたい場所でもあるの?」
「いえ、ほとんど来たことのない地域ですから」
「ならここにいない?いろいろ話も聞きたいし」
頷くと、夏帆は奥の部屋まで案内した。作業場となっている部屋の片隅に休憩用のテーブルと椅子があり、かなり年季が入っている。
「このテーブルはオーク材ですね」
「あら、すごい」
「イギリス製で、庭に建てるゲートのような形の脚はとても独創的です」
「アンティークショップで働いているだけあるわ。ルカさんの受け売り?」
「実は……はい。似たようなものが店にもありましたので。すぐに売れてしまいましたが」
「このテーブルもね、ルカさんのところで購入したって店長が嬉しそうに話していたわ」
悠は曖昧に微笑んだだけで、何も言わなかった。マリーがルカを恋愛対象として好きなのは、悠は知っていた。親という立場を超えた愛情が根っこにあり、太い根に絡み付くように生える細々とした根も、ときには攻撃的になり、触手のように蠢いていた。息子のような相手を恋愛対象として見る経験は悠にはないが、そういうものだとして受け入れるしかなかった。理解しているものが多いマリーに勝てないと、口が上手く動かない。
「フルーツ大福があるけど好き?」
「好きです」
雪のような餅にキウイが包まれ、夏帆はコーヒーと共にテーブルに並べた。丸々と大きな果肉を噛めば、瑞々しく甘い汁が口いっぱいに広がっていく。絶対にルカは気に入ると確信した。
「アンティークの勉強は楽しい?」
「とてもやりがいがあります。とは言っても、売買はルカさんが行っていますが」
「でもさっきの知識は凄かったわ」
褒められると悪い気はせず、悠は素直にお礼を述べる。
「将来はルカさんとお店をやっていくの?」
「まだ決めかねています。そろそろ焦らないといけないんですが、外国語の授業が楽しくて」
「何語を勉強してるの?」
「英語と、イタリア語です」
「それは素敵。イタリアには素敵なアクセサリーが山ほどあるわ。こういう仕事をしていると、意外と日本語以外の言語を使うのよ。私も店長から英語を教わっている最中で、楽しみながら日々励んでいるわ。今はいろんな寄り道をして、たくさんの方向に目を向けてね。そうすると、一番大切なものやなりたい自分が見えてくるから」
夕方に差し迫った頃、ドアが開いた。客人だと二人同時に腰を上げるが、キャリーケースを抱えた店の支配権を持つ重鎮が、悠を見て百面相になっている。
「おかえりなさい」
「まあ、なんてこと。あなたとはアポイントメントは取っていないはずだけど?」
発音の良いアポイントメントを披露し、店主はビニール袋をテーブルに置く。
「突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。マリーさんにご用があり、参りました」
「疲れているのよ。後にしてちょうだい。夏帆、コーヒーをもらえるかしら?」
「はい、ただいま」
悠と目も合わせず、距離を空けて椅子に座るとハンカチで顔を拭った。汗は止まる気配を見せず、玉のような汗が吹き出してくる。
「あちらは」
マリーは唐突に、指輪だらけの指を向けた。時代に色がついた現代に似つかわしくないが、そこにあって発揮される風格が漂う棚。
「何か判るかしら?」
「あちらもイギリス製で、一九三〇年代のものかと思います。真ん中に彫られた花と鳥の彫刻が特徴的で、素材はオーク材です」
「あちらも?」
「店長、実はね」
夏帆はテーブルについても答えたと、説明を付け加えた。嬉々として話す夏帆とは対照的に、マリーは表情を一切崩さない。
「では、こちらは?」
「……イギリス製で、一九世紀後半に作られたブローチです。メインはレモンクォーツ、回りに散りばめられているのはホワイトダイヤモンドです」
意図が読めず、聞かれるアンティークについて次々と答えていった。答えを正解とも誤答とも言ってくれる麗しの上司は此処にはいない。上司のボスはぴくりとも笑わず、最後に鍵の掛かる棚から小箱を取り出し、開けてみせた。
「このピアスに描かれている花は何かご存知かしら」
「これは……ごめんなさい。判りません」
「あら、なぜ?」
「僕の知識にはない商品です」
スクエア型のシルバーや金が三連になっていて、あしらわれた赤い石は光を吸収し、マリーの指につけられた宝石たちのように眩しく威光を放っている。
「それで、ご用件は?」
マリーはピアスを箱にしまうと、コーヒーをスプーンでかき回した。
「ソフィア・ド・ヴァーブルさんという方を探しています」
「あなたの恋敵を捜して、どうしたいの?」
恋敵の言葉に反応したのは夏帆だ。これで誤解する人物がさらに増えたが、今は誤解を解く時間も惜しい。
「彼女は行方不明になっています。ご家族の方が必死に捜しています。ルカさんは、マリーさんなら何か知っているからと確信を持って僕に伝えました」
悠からマリーに対する挑戦状だった。
「霊救師なら、捜せるのではなくて?」
「ルカさんの大切な人でもあります。無理強いはしたくない。彼女自ら出てきてほしい」
「……今日は引き取ってくれます?」
冷然とした態度は崩さず、橙色に照らされた窓枠の悲しき色を見つめていた。
三日目ほど同じ行動を繰り返し、ホテルの支払額もとんでもない数値に達した頃でも、マリーは一向に口を閉ざしたままだった。同じように小箱の中身を見せられても答えられず、ネットで探すも似たようなピアスは発見出来なかった。これはマリーからの挑戦状だ。役に立てない不甲斐なさからも、ルカに連絡を取ることもできず、板挟み状態で明け暮れていた。不憫に思い夏帆が口を開くも、ルカがよくやる美しい仕草のように、悠は人差し指を口元に置いた。意地にもなるが、それより今回の件はマリーにより直接聞かなければならない。なぜなら、ルカがそう頼んだからだ。初めて出来た心の底から信頼できる友達からのお願いは、何を犠牲にしてでも叶えたい。それが悠の願いだった。
缶詰状態から自身を解放するため、朝食を食べようとラウンジへ出た。空いている席を探そうと見回すと、客たちはある一定の方向を見つめている。ホテルマンも案内を忘れ、慌てた様子でお席へご案内します、と口にするが、悠は丁重にお断りした。
視線の先には美貌が優雅に腰を下ろしていて、テーブルにはホットケーキとフルーツサラダが置かれている。橙色の人工光は昨日の夕方とは違い、悠の心を歓喜と幸福で満たす色合いだった。
「良ければ、僕もご一緒してよろしいですか?」
「困りましたね。先ほど、美しい令嬢の誘いをお断りしたばかりなのです」
「令嬢には叶いませんが、せめてあなたの側で寄り添う小さな花でありたい」
「花は花でも、あなたは向日葵のような人です。花言葉ごと、あなたに差し上げます」
演技ぶったやり取りにお互い肩を震わせ、必死で笑いを堪えるのはここは公共の場であるためだ。押し寄せた衝撃が去った後、悠は溝に溜まった涙を拭い、ルカの前に座った。
「同じものを彼に」
上司がオーダーしたものに従い、食べるしかない。乗せられた水を喉に流し込む。忙しさやストレスを感じると食事を取らなくなる癖は、最近悠が気づいたものだ。
「朝からそんな甘いものですか」
「ケーキスタンドの方が良かったですか?」
「生クリームが乗っていなくて良かったです」
トレーからテーブルに移された皿には、甘ったるいメープルシロップと焼き立てのホットケーキの香りが混じり合っている。今は余計なことを考えずに、とにかく口に入れた。熱々の生地にバターが溶け、フォークで刺すと染みた液体が溢れ出す。零さないよう、大きめに切ったホットケーキを口に放り込んだ。
「満足しましたか?」
「生きてるって、感じがします。本当に、ありがとうございます」
「お礼を言われることのほどでは」
「そうじゃないです。いえ、そうでもありますけど。そういう話ではなくて、うーんと」
「行き詰まっていましたか」
「……はい」
ルカにはお見通しだった。
「最初は絶対にソフィアさんと会おうと気合いを入れていました。マリーさんと直面し、問題を出されたとき、彼女の求めるものが何か判らなかった。ルカさんの役に立とうと思えば思うほど、柔軟な思考にならずにどつぼにはまっていく」
「問題?」
「いくつかアンティークについて聞かれたんです。合ってるかは判断してくれる人がいないので正解か不正解かは何とも言えませんが、最後の問題がどうしても答えられなくて。あしらわれている花について答えてほしいみたいで」
見せられたピアスの形状について説明すると、ルカは指を唇に置いた。
「僕はアンティークじゃないと思ったんです。わりと新しいもので、目に見える傷はほとんど見当たらなかった。ソフィアさんのことを尋ねると、知ってるとも知らないとも彼女は言いませんでした」
「そのピアスですが、赤い石がついてませんでしたか?」
「確かに……ルビーみたいでした」
「ガーネットです」
ピアスを知らないはずのルカは断言し、どさくさに紛れてプディングを注文した。
「ガーネット?宝石ですよね?前から思ってましたがルカさんって宝石も詳しいですよね」
「宝石とアンティークは切っても切れない関係にあります。あのピアスにはわざとガーネットをはめ込んだのです。こちらを食べ終えたら、マリーの元へ向かいましょう」
天候が心を蝕んだのか、吐き出せないものが喉の奥につっかえたまま店の前までやってきた。大事なことを話せないまま階段を上がり、ルカは一寸の迷いもなく風変わりなドアを開けた。
「……何です?連絡もなしに」
「お邪魔致します」
まるで王子のような堂々とした振る舞いであっても、マリーは臆することはない。
「何のご用かしら」
「ソフィアに会いに参りました」
「いませんよ」
「ええ。そうでしょうね。このフロアにはいないようです」
鶴の一言に、マリーの緊張感が糸を震わせた。
「悠の代わりに、私がピアスの謎を解き明かしましょう」
ルカは息を吸い、そして深く吐いた。整った唇からは、日本語ではなく英語が飛び出した。
『昔々あるところに、イタリア人気取りの少年がフランスに住んでいました。その少年は母のいるイタリアとからくり人形のある日本を愛し、複雑な事情を抱え、イタリアの大学で日本語を学んでいました。そこで当時教授だったマリーという女性に出会い、少年の背後に憑いているもろもろのものに反応をします。それがきっかけで、二人は知り合いました』
『彼女は叫び声を上げ、生徒たちから一斉に注目を浴びました。よほど少年の背後に禍々しく素敵なものがまとわりついていたのでしょう。そして紆余曲折ありまして、少年が日本のアンティークに興味があることをマリーは知ります。日本語の授業終わりに少年は彼女の元へ行き、放課後は彼女からモグラ叩きの如くアンティークについて叩き込まれました』
『大学を三年で卒業。日本語とアンティークの授業をみっちりとこなし、卒業式の日、少年はアクセサリーをこよなく愛する母代わりの女性に、ピアスをプレゼントしたのです。差し上げたピアスには、ガーネットが埋め込まれていました』
『赤が好きな人ですから、赤い石を入れたかった。ルビーは婚約指輪に用いられたり、結婚後の記念日に送るような石ですから避けたかったのです。ガーネットは、努力や友愛、勝利などの意味があります』
美しい顔は凛とした姿勢を崩さない。悠は数歩後ろに下がり、靄のかかる心が風船のように割れないよう必死で抑えた。
「ガーネット?」
「ええ、ガーネットです」
「ルビーではなかったのね」
「挑戦者であるあなたにはぴったりではありませんか」
マリーは目元を押さえると、何度か眉間を揉み込んだ。
「判ってはいたけれど、こう、はっきりと告げられると、身体の節々が痛みを訴えるわ」
「前にも申し上げましたが、どうか良き母でいて下さい」
「ヴェルディアナに会ったの?」
母の名前を出されると、ルカの表情はいくらか和らいだ。
「母から聞いたのですか?」
「そういう気をまとっているからよ。相変わらずあなたを甘やかす天才のようね」
「ヴェルディアナも悠も、私に優しすぎて困ってしまいます」
「全然困るって顔してないじゃないの。母にも恋人にも慣れない私は中途半端な存在ね。嫌になる」
「果たして、そうでしょうか。私に甘い人間もいれば、あなたのように厳しく接してくれる人もいる。そうやって人生のバランスが取れています。あなたの厳しすぎる過度な特訓があったからこそ、私は総次郎に店を任せられるようになりました。さて、あなたが一番欲しがっている、ピアスの絵柄についてお答えしましょう。あれはセージの花です。日本でも、咲かせているのが目に入ります。セージはいろんな色がございますが、全般に使われる花言葉は『家族愛』です。私からマリーに対する思いです」
交差させた腕はやがて地に落ち、マリーはしばらく動かなくなった。ルカは沈黙を破らずにマリーを見つめ、相手の出方を伺っている。先に行動に出たのはマリーで、背中で語る言葉は「ついてこい」だ。
「悠?どうしました?」
立ち入れない規制テープが貼られた空間は、ルカとマリーを囲むように守られている。少なくとも、悠にはそう見えた。
「なんでもありません。行きましょう」
普段より低めに出た声は無意識で、ルカの目が見開かれるほど空気が張り詰めてしまった。
アシスタントの者も数名いて、若い男性ばかりだった。ルカのように身なりが整っているが、どこか風変わりな装いでもある。
「彼らは私のモデルだ。肉欲を持て余した躯が絡み合い、求め合う姿はより絵に対する欲を駆り立てる」
「いつもは居間で絵を?」
「最奥にある部屋だ。残念ながらあそこは誰もいれられない。例えそれが愛しい君でも」
出されたお茶に一切口を付けず、ルカは質問を何度も繰り返した。悠の太股を数回叩き、信号を送る。
「ところで、ルカは何の仕事をしているのかね?モデルか何かか?」
「ただのサラリーマンです」
「そのわりには随分佳麗なスーツを着こなしているではないか。ナポリのブランドだな」
「流水先生がイタリアのスーツに精通しているとは存じ上げませんでした」
「何着か持っていてな。君はイタリアが好きなのか?」
「イタリア出身でございます」
「そうかそうか」
臆面の欠片もない大嘘に、流水は高らかに笑う。
「昨日も話したが、ぜひ君にモデルをして頂きたい」
「いきなり仰られても、心の準備が出来ておりません。流水先生のような素晴らしいお方のモデルなど、私で務まるはずがございません」
「またそのような謙遜を。私はウフィツィ美術館で君を観たことがある。極上の微笑みはまるでヴィーナスのようだ」
徐々にまえのめりになる流水から顔を背け、ルカは凄然とした態度で足を組んだ。
「そうやって私から離れれば離れるほどますます君が欲しくなる。む、ちょっと待ってくれ」
インターホンが鳴り、流水は居間から離れ玄関へと向かう。ルカは何も言わず、沈黙の空気に身を寄せていた。
「すまない、商談の話が入ってしまった」
「いえ、こちらこそ長居をしてしまいました。またぜひ個展に寄らせて頂きます」
「そうしてくれると有り難い。今度はぜひ二人で食事を」
「では失礼致します」
まさしく極上の微笑みを見せたルカは畏まった礼をすると、悠に行こうと促した。
タクシーにいる間も何も口を割らず、しばらく外の風景を眺めた。汗ばんでいるせいか、薔薇の香水とルカの体臭が混じり合い、匂いに安堵した悠はうとうとを繰り返した。向かう先は池袋のいつもの場所で、五階に上がるまではふたりに会話はない。
「とても珍しい茶葉を手に入れたんです。冬に摘み取った茶葉で、渋みがほとんどなく、甘みと軽やかな香りが特徴です」
「茶葉を冬に?初めて聞きました」
「お店で試飲させて頂きましたが、とても美味しかったですよ。ぜひストレートでどうぞ」
芳醇な香りの漂う紅茶を飲み、悠は話を切り出した。
「どよんとした空気でしたね。ルカさんが喋ってる間にいろいろ彼らに聞きましたが、流水先生の言うことに嘘はないみたいです。最奥の部屋で絵を描くことも、その……モデルを中へ招いていることも。ただ、肝心な怪しい動きについては何とも」
「彼の居場所が判っただけで充分です」
「ルカさん?」
汗ばんでいるのは暑さのせいではなかった。妙に色気を発していたのは、体内に熱がこもっていたからだ。引き出しから体温計を出し、シャツのボタンを外すと差し込んだ。体調が悪化しているというのに、ルカは嬉しそうに笑う。
「三十八度近いです。まずは布団に入って下さい。食欲はありますか?」
「少し、眠ってもいいですか?」
「はい。夕飯は消化がよくて栄養のあるものを作ります」
絹糸のような美しい髪が乱れても、王子の気品は失うことなく存分に発揮されていた。
三日ほど寝込んだルカは、夏風邪のことなど無かったかのように食欲も体力も回復した。三日の間は調査も何も進まず、店も休みなため、悠はイタリア語の勉強に費やした。
──本日、会えますか?
通話アプリを通じてきたメールに、悠は即返事をする。
──もちろんです。
──場所は、悠の家で。
え、と顔を上げた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。慌てて扉を開けると、太陽の輝きさえ味方につけた男が立っていた。
「え、え、え?」
「本日は休日です。ご迷惑をおかけしますので、夕飯の材料を買って参りました」
「よ、ようこそ……」
ドアの隙間に身体をねじ込み、ルカは後ろ手に鍵を閉めた。
「イタリア語の勉強ですか?」
「少しずつ進めてます。ヴェルディアナさんとも、イタリア語で会話してみたいですし」
子供のように綻んだ顔に、悠は顔が熱くなった。ビニール袋から出てきたのは、豚肉、人参、玉葱、じゃがいも、そしてカレー粉である。買い物は出来る、と得意そうに言いたげな顔に、悠は声に出して笑った。
出来上がったカレーと作り置きしていた茄子の煮浸しを並べ、ふたりは手を合わせた。仏教徒だからではない。ふたりにしか判らない、出会いへの感謝を表す小さな儀式だった。
「何か、お話ししたいことがありました?」
「ええ、悠に酷な話をしなければなりません」
「まさかフランスへ帰って戻ってこないとか言いませんよね?」
「そのような顔をなさらなくても。断じて違います。マリーの元へ行ってほしいのです」
突如出た名前に、悠はスプーンを皿に置いた。
「確か関西でしたよね?」
「はい。床に伏している間、ソフィアはまだかと催促が何度も届きました」
「休まる暇がないじゃないですか」
「悠の看病のおかげで元気です。休んでいた間、美術鑑定士の仕事が少々溜まっていて、東北に行かねばなりません。先にあなたはマリーの元へ行って、ソフィアと会ってきてほしいのです」
「え、ソフィアさんはマリーさんと一緒にいるんですか?」
「十中八九。マリーに会ってソフィアに会いたいと伝えてほしいのです。ルカの頼みだといえば、マリーは必ず助けてくれます」
人捜しは百発百中だ。ルカは間違えない。
「判りました」
「本来ならばあなたに頼んでいい件ではありません。必ずお詫びをします。いえ、させて下さい」
「楽しみにしています。でも僕と会って警戒したりしませんか?」
「いきなりフランスからの使者が行くより、日本人であるあなたが行った方が、彼女もまだ警戒心は少ないかと思います」
「頼まれました。お役に立てるように頑張ります」
「……無理はしないように」
悠はすぐに新幹線の切符を手配し、早急に乗り込んだ。大阪にあるマリーの住所を聞き、最寄り駅までは乗り換えはない。
購入した駅弁は、牛肉がぎっしりと詰まった弁当で、ささやかな程度に野菜炒めや漬け物が入っている。これではルカにとやかく言われないと、悠は大阪での食事を考えた。
窓から見える風景は新緑が続き、立派に栄養を蓄えた木が連なっている。濃い影を作った先には鳥が涼み、羽を休めていた。
下車前にルカにメッセージを送り、大阪の空気を吸い込んだ。ソースの混じった匂いが微かに漂う。活気づいた空港を抜け、タクシーの運転手に住所を告げた。
東北で動き回っているルカは返事の代わりに、写真を一枚添付した。
「おお……」
思わず発した声に、運転手はバックミラーで悠を一瞥する。純白のウェディングドレスを着た女性より、ルカが目に焼き付いた。今より幼さが残る顔立ちははにかみ、国民に対して愛想良く手を振っている。白いタキシードは細身のルカを際立たせていた。背後に何かが映っていなければ、ますます素晴らしい式の写真だったろう。
悠は女性の顔をしっかりと確認し、意識を集中させた。鼓動の音は落ち着いていて、それは危険に曝されているわけではないことを意味した。
「お客さん、この辺で大丈夫かい?」
「はい、領収書もお願いします」
ひとまずビジネスホテルで予約をし、荷物を預けた後はひたすら写真を注視した。鉱石の名前、ペンを走らせる音、女性の笑い声もわずかに脳を刺激する。
マリーの店は表通りにはなく、裏道を通らねばならなかった。ビルの一階は昔ながらの喫茶店で、扉が閉まっていてもコーヒーの良い香りが漂ってくる。階段で二階まで上ると、女子高校生とすれ違った。買い物をしたようで、写真に収めようとスマホを取り出している。映らないように気をつけながら、ドア付近まで寄った。
店はアロマを焚いているのか、柑橘系の香りが漂う。マリーのこだわりなのか、内装はシックなデザインで統一されていて、大人二人通れるような広い通路となっている。アクセサリーの並べ方、配置にも店主の意思が垣間見える。
「あっいらっしゃいませ!」
マリーの声ではない。くしゃくしゃの笑顔は桜庭夏帆だ。彼女の人生の岐路に、ルカが立った経験がある。
「ええっ、景森君?やだ、久しぶり。元気だった?なんだか大人びたわね」
「桜庭さん、お久しぶりです。大人になりましたか?自分では判りません」
「ふふ……そうでしょうね。今日はどうしたの?わざわざ池袋からなんて買い物じゃないわよね?」
「非常に、非常に申し訳ないのですが……マリーさんはいらっしゃいますか?」
目尻を下げた表情で、悠はすべてを理解した。
「ごめんなさいね。帰ってくるのは夕方になるわ」
「そうでしたか。なら夕方にまたお邪魔します」
「どこか行きたい場所でもあるの?」
「いえ、ほとんど来たことのない地域ですから」
「ならここにいない?いろいろ話も聞きたいし」
頷くと、夏帆は奥の部屋まで案内した。作業場となっている部屋の片隅に休憩用のテーブルと椅子があり、かなり年季が入っている。
「このテーブルはオーク材ですね」
「あら、すごい」
「イギリス製で、庭に建てるゲートのような形の脚はとても独創的です」
「アンティークショップで働いているだけあるわ。ルカさんの受け売り?」
「実は……はい。似たようなものが店にもありましたので。すぐに売れてしまいましたが」
「このテーブルもね、ルカさんのところで購入したって店長が嬉しそうに話していたわ」
悠は曖昧に微笑んだだけで、何も言わなかった。マリーがルカを恋愛対象として好きなのは、悠は知っていた。親という立場を超えた愛情が根っこにあり、太い根に絡み付くように生える細々とした根も、ときには攻撃的になり、触手のように蠢いていた。息子のような相手を恋愛対象として見る経験は悠にはないが、そういうものだとして受け入れるしかなかった。理解しているものが多いマリーに勝てないと、口が上手く動かない。
「フルーツ大福があるけど好き?」
「好きです」
雪のような餅にキウイが包まれ、夏帆はコーヒーと共にテーブルに並べた。丸々と大きな果肉を噛めば、瑞々しく甘い汁が口いっぱいに広がっていく。絶対にルカは気に入ると確信した。
「アンティークの勉強は楽しい?」
「とてもやりがいがあります。とは言っても、売買はルカさんが行っていますが」
「でもさっきの知識は凄かったわ」
褒められると悪い気はせず、悠は素直にお礼を述べる。
「将来はルカさんとお店をやっていくの?」
「まだ決めかねています。そろそろ焦らないといけないんですが、外国語の授業が楽しくて」
「何語を勉強してるの?」
「英語と、イタリア語です」
「それは素敵。イタリアには素敵なアクセサリーが山ほどあるわ。こういう仕事をしていると、意外と日本語以外の言語を使うのよ。私も店長から英語を教わっている最中で、楽しみながら日々励んでいるわ。今はいろんな寄り道をして、たくさんの方向に目を向けてね。そうすると、一番大切なものやなりたい自分が見えてくるから」
夕方に差し迫った頃、ドアが開いた。客人だと二人同時に腰を上げるが、キャリーケースを抱えた店の支配権を持つ重鎮が、悠を見て百面相になっている。
「おかえりなさい」
「まあ、なんてこと。あなたとはアポイントメントは取っていないはずだけど?」
発音の良いアポイントメントを披露し、店主はビニール袋をテーブルに置く。
「突然お邪魔してしまい、申し訳ございません。マリーさんにご用があり、参りました」
「疲れているのよ。後にしてちょうだい。夏帆、コーヒーをもらえるかしら?」
「はい、ただいま」
悠と目も合わせず、距離を空けて椅子に座るとハンカチで顔を拭った。汗は止まる気配を見せず、玉のような汗が吹き出してくる。
「あちらは」
マリーは唐突に、指輪だらけの指を向けた。時代に色がついた現代に似つかわしくないが、そこにあって発揮される風格が漂う棚。
「何か判るかしら?」
「あちらもイギリス製で、一九三〇年代のものかと思います。真ん中に彫られた花と鳥の彫刻が特徴的で、素材はオーク材です」
「あちらも?」
「店長、実はね」
夏帆はテーブルについても答えたと、説明を付け加えた。嬉々として話す夏帆とは対照的に、マリーは表情を一切崩さない。
「では、こちらは?」
「……イギリス製で、一九世紀後半に作られたブローチです。メインはレモンクォーツ、回りに散りばめられているのはホワイトダイヤモンドです」
意図が読めず、聞かれるアンティークについて次々と答えていった。答えを正解とも誤答とも言ってくれる麗しの上司は此処にはいない。上司のボスはぴくりとも笑わず、最後に鍵の掛かる棚から小箱を取り出し、開けてみせた。
「このピアスに描かれている花は何かご存知かしら」
「これは……ごめんなさい。判りません」
「あら、なぜ?」
「僕の知識にはない商品です」
スクエア型のシルバーや金が三連になっていて、あしらわれた赤い石は光を吸収し、マリーの指につけられた宝石たちのように眩しく威光を放っている。
「それで、ご用件は?」
マリーはピアスを箱にしまうと、コーヒーをスプーンでかき回した。
「ソフィア・ド・ヴァーブルさんという方を探しています」
「あなたの恋敵を捜して、どうしたいの?」
恋敵の言葉に反応したのは夏帆だ。これで誤解する人物がさらに増えたが、今は誤解を解く時間も惜しい。
「彼女は行方不明になっています。ご家族の方が必死に捜しています。ルカさんは、マリーさんなら何か知っているからと確信を持って僕に伝えました」
悠からマリーに対する挑戦状だった。
「霊救師なら、捜せるのではなくて?」
「ルカさんの大切な人でもあります。無理強いはしたくない。彼女自ら出てきてほしい」
「……今日は引き取ってくれます?」
冷然とした態度は崩さず、橙色に照らされた窓枠の悲しき色を見つめていた。
三日目ほど同じ行動を繰り返し、ホテルの支払額もとんでもない数値に達した頃でも、マリーは一向に口を閉ざしたままだった。同じように小箱の中身を見せられても答えられず、ネットで探すも似たようなピアスは発見出来なかった。これはマリーからの挑戦状だ。役に立てない不甲斐なさからも、ルカに連絡を取ることもできず、板挟み状態で明け暮れていた。不憫に思い夏帆が口を開くも、ルカがよくやる美しい仕草のように、悠は人差し指を口元に置いた。意地にもなるが、それより今回の件はマリーにより直接聞かなければならない。なぜなら、ルカがそう頼んだからだ。初めて出来た心の底から信頼できる友達からのお願いは、何を犠牲にしてでも叶えたい。それが悠の願いだった。
缶詰状態から自身を解放するため、朝食を食べようとラウンジへ出た。空いている席を探そうと見回すと、客たちはある一定の方向を見つめている。ホテルマンも案内を忘れ、慌てた様子でお席へご案内します、と口にするが、悠は丁重にお断りした。
視線の先には美貌が優雅に腰を下ろしていて、テーブルにはホットケーキとフルーツサラダが置かれている。橙色の人工光は昨日の夕方とは違い、悠の心を歓喜と幸福で満たす色合いだった。
「良ければ、僕もご一緒してよろしいですか?」
「困りましたね。先ほど、美しい令嬢の誘いをお断りしたばかりなのです」
「令嬢には叶いませんが、せめてあなたの側で寄り添う小さな花でありたい」
「花は花でも、あなたは向日葵のような人です。花言葉ごと、あなたに差し上げます」
演技ぶったやり取りにお互い肩を震わせ、必死で笑いを堪えるのはここは公共の場であるためだ。押し寄せた衝撃が去った後、悠は溝に溜まった涙を拭い、ルカの前に座った。
「同じものを彼に」
上司がオーダーしたものに従い、食べるしかない。乗せられた水を喉に流し込む。忙しさやストレスを感じると食事を取らなくなる癖は、最近悠が気づいたものだ。
「朝からそんな甘いものですか」
「ケーキスタンドの方が良かったですか?」
「生クリームが乗っていなくて良かったです」
トレーからテーブルに移された皿には、甘ったるいメープルシロップと焼き立てのホットケーキの香りが混じり合っている。今は余計なことを考えずに、とにかく口に入れた。熱々の生地にバターが溶け、フォークで刺すと染みた液体が溢れ出す。零さないよう、大きめに切ったホットケーキを口に放り込んだ。
「満足しましたか?」
「生きてるって、感じがします。本当に、ありがとうございます」
「お礼を言われることのほどでは」
「そうじゃないです。いえ、そうでもありますけど。そういう話ではなくて、うーんと」
「行き詰まっていましたか」
「……はい」
ルカにはお見通しだった。
「最初は絶対にソフィアさんと会おうと気合いを入れていました。マリーさんと直面し、問題を出されたとき、彼女の求めるものが何か判らなかった。ルカさんの役に立とうと思えば思うほど、柔軟な思考にならずにどつぼにはまっていく」
「問題?」
「いくつかアンティークについて聞かれたんです。合ってるかは判断してくれる人がいないので正解か不正解かは何とも言えませんが、最後の問題がどうしても答えられなくて。あしらわれている花について答えてほしいみたいで」
見せられたピアスの形状について説明すると、ルカは指を唇に置いた。
「僕はアンティークじゃないと思ったんです。わりと新しいもので、目に見える傷はほとんど見当たらなかった。ソフィアさんのことを尋ねると、知ってるとも知らないとも彼女は言いませんでした」
「そのピアスですが、赤い石がついてませんでしたか?」
「確かに……ルビーみたいでした」
「ガーネットです」
ピアスを知らないはずのルカは断言し、どさくさに紛れてプディングを注文した。
「ガーネット?宝石ですよね?前から思ってましたがルカさんって宝石も詳しいですよね」
「宝石とアンティークは切っても切れない関係にあります。あのピアスにはわざとガーネットをはめ込んだのです。こちらを食べ終えたら、マリーの元へ向かいましょう」
天候が心を蝕んだのか、吐き出せないものが喉の奥につっかえたまま店の前までやってきた。大事なことを話せないまま階段を上がり、ルカは一寸の迷いもなく風変わりなドアを開けた。
「……何です?連絡もなしに」
「お邪魔致します」
まるで王子のような堂々とした振る舞いであっても、マリーは臆することはない。
「何のご用かしら」
「ソフィアに会いに参りました」
「いませんよ」
「ええ。そうでしょうね。このフロアにはいないようです」
鶴の一言に、マリーの緊張感が糸を震わせた。
「悠の代わりに、私がピアスの謎を解き明かしましょう」
ルカは息を吸い、そして深く吐いた。整った唇からは、日本語ではなく英語が飛び出した。
『昔々あるところに、イタリア人気取りの少年がフランスに住んでいました。その少年は母のいるイタリアとからくり人形のある日本を愛し、複雑な事情を抱え、イタリアの大学で日本語を学んでいました。そこで当時教授だったマリーという女性に出会い、少年の背後に憑いているもろもろのものに反応をします。それがきっかけで、二人は知り合いました』
『彼女は叫び声を上げ、生徒たちから一斉に注目を浴びました。よほど少年の背後に禍々しく素敵なものがまとわりついていたのでしょう。そして紆余曲折ありまして、少年が日本のアンティークに興味があることをマリーは知ります。日本語の授業終わりに少年は彼女の元へ行き、放課後は彼女からモグラ叩きの如くアンティークについて叩き込まれました』
『大学を三年で卒業。日本語とアンティークの授業をみっちりとこなし、卒業式の日、少年はアクセサリーをこよなく愛する母代わりの女性に、ピアスをプレゼントしたのです。差し上げたピアスには、ガーネットが埋め込まれていました』
『赤が好きな人ですから、赤い石を入れたかった。ルビーは婚約指輪に用いられたり、結婚後の記念日に送るような石ですから避けたかったのです。ガーネットは、努力や友愛、勝利などの意味があります』
美しい顔は凛とした姿勢を崩さない。悠は数歩後ろに下がり、靄のかかる心が風船のように割れないよう必死で抑えた。
「ガーネット?」
「ええ、ガーネットです」
「ルビーではなかったのね」
「挑戦者であるあなたにはぴったりではありませんか」
マリーは目元を押さえると、何度か眉間を揉み込んだ。
「判ってはいたけれど、こう、はっきりと告げられると、身体の節々が痛みを訴えるわ」
「前にも申し上げましたが、どうか良き母でいて下さい」
「ヴェルディアナに会ったの?」
母の名前を出されると、ルカの表情はいくらか和らいだ。
「母から聞いたのですか?」
「そういう気をまとっているからよ。相変わらずあなたを甘やかす天才のようね」
「ヴェルディアナも悠も、私に優しすぎて困ってしまいます」
「全然困るって顔してないじゃないの。母にも恋人にも慣れない私は中途半端な存在ね。嫌になる」
「果たして、そうでしょうか。私に甘い人間もいれば、あなたのように厳しく接してくれる人もいる。そうやって人生のバランスが取れています。あなたの厳しすぎる過度な特訓があったからこそ、私は総次郎に店を任せられるようになりました。さて、あなたが一番欲しがっている、ピアスの絵柄についてお答えしましょう。あれはセージの花です。日本でも、咲かせているのが目に入ります。セージはいろんな色がございますが、全般に使われる花言葉は『家族愛』です。私からマリーに対する思いです」
交差させた腕はやがて地に落ち、マリーはしばらく動かなくなった。ルカは沈黙を破らずにマリーを見つめ、相手の出方を伺っている。先に行動に出たのはマリーで、背中で語る言葉は「ついてこい」だ。
「悠?どうしました?」
立ち入れない規制テープが貼られた空間は、ルカとマリーを囲むように守られている。少なくとも、悠にはそう見えた。
「なんでもありません。行きましょう」
普段より低めに出た声は無意識で、ルカの目が見開かれるほど空気が張り詰めてしまった。
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