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12-真夏の事件簿
066 早見和成
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虫の知らせというものは、誰もが身体に刻まれているものであり、それを発揮出来る人間と出来にくい人間と二手に別れる。どちらかというと、悠は前者だった。夕食も食べないまま倒れるように眠り、覚醒したときにはすでに心臓の音がドラムを叩いたときのように大きくなっていた。
「起きたかい?」
大きな影が覆い、全身に身の毛もよだつような強い恐怖が襲ってきた。ルカではない。香水も体臭の香りもまるで違う。鍵を掛けたはずの部屋に、覆い被さるように、柴田朝次郎がいた。
「な、なぜ……」
「この船は儂が手を加えた最高の傑作だ。楽しんでもらえたかな?」
カードキーは悠とルカがそれぞれ持っている。マスターキーが存在していた。後悔するより先に、柴田は大蛇のように悠の下肢へ巻き付いた。
「何が目的ですか」
「なんと、まだ判らんのか。それほど頭が悪いわけではなかろうに」
「不法侵入です」
「証拠はあるのかね。残念ながら君たちが泊まった部屋付近には防犯カメラは設置されていないのだよ。これは儂の船だ。儂がどの部屋に行き来してもおかしくあるまい。例えこの部屋から髪の毛一本見つかろうとも」
鼻息が顔にかかり、悠は顔をしかめたまま背けた。
「ルカ、さんは」
「牢獄の中だろう。閉じ込めたまま船ごと沈めてしまおうか」
半笑いか、言葉か、顔か、存在か、何に反応したのか判らない。何かがはちきれる音がした。頭が真っ白になり、高鳴っていた心臓の音すら聞こえない。
悠は身動きの取れる利き腕で鎖骨めがけ、拳を振りかざす。一瞬の悶えを見逃さず巨体から抜け出すと、足の付け根に数度蹴り上げた。
四発目をお見舞いする直前、電流のような痺れが身体を駆け抜け、頭に溜まりに溜まったどす黒い血が、雪解け水のようにさらさらとしたものに変わっていく。一瞬、ルカの声が聞こえた気がしたのだ。
「待て」
うずくまる柴田は悠の手を掴み、爪が手首に食い込んだ。肉体だけではなく精神的な痛みも混じり、悠は身動きが取れなくなった。
「あの色男は儂の手の内だ。今宵、ここで儂と」
悲痛な声が響き、柴田はベッドに後退った。拳を握り、殺気立った悠の背後にはざわめく何かがいて、柴田は蠢く影に息すらままならない。
「言いたいことは、それだけか?」
走馬灯のようにルカの笑顔が次々とよぎった。凄みのある声は柴田を硬直させ、下肢が微かに震える。悠は振り返り、そっと扉に触れた。
「そいつを捕まえろ!」
絞り出した柴田の声に反応したのは悠だけではなく、外で待ち構えていた黒スーツの男は慌てて捕らえようと手を伸ばすが、悠は俊敏に避け、全力で走り出した。
頭はすっきりと冴え、今すべきことを明確にあった。階段を上がり、また降り、距離を離したところでとある部屋にやってきた。悠は五回ノックすると、扉はすぐに開いた。顔を確認したのち、宿主は悠の腕を引き、すぐに施錠した。
薄暗い部屋は悠の息遣いと波の音だけが底無しに聞こえる。
「落ち着いて」
「早見…和成さん」
「そこのソファーに座って」
息も切れ切れのまま腰を下ろし、流れる汗を袖で拭った。永遠に波打つ海原に耳を傾けていると、やがて跳ね上がった鼓動も徐々に収まっていった。窓から見える無限の水平線はルカと自分との距離のような気がして、今度は焦りの蕾が膨らんでいく。
「ルカさんは」
「彼なら無事だよ。それとちゃんとシャツのボタンは留めた方がいい。ルカさんに見られたら激怒じゃ済まない」
ボタンを掛けている間も、外では走る音が反響している。
「とにかく落ち着こう。スマホはあるか?」
ポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出すと、十件以上も着信履歴があり、すべてルカからだった。メールも通話アプリに来たメールも、最初は敬語を使っている文章が段々と短くなり、最終的には単語しか書かれていない。
「ルカさんが、何かあったら早見さんを訪ねろと」
「知ってるよ。ドアを五回叩かれたら開けるように言われていたからね」
「あなたはルカさんの味方ですか?」
「そうなるかな。ルカさんには昔お世話になったから、頭が上がらないんだ」
照れくさそうに、早見は頭を掻いた。
「君も霊救師だろう?」
「知ってるんですか?」
「断片的にだけど、君のことも話は聞いてる。実は美術鑑定士としてはそれほど繋がりはないんだ。霊救師の彼に世話になった」
「そうだったんですか……。いつ、ドアのノックの話を聞いたんですか?」
「チケットが届いた日だよ」
「そんなに前に?」
悠は驚きの声を上げる。
「ルカさんは予めこうなることを読んでたんだ。もし自分が身動きの取れない状況にあったとき、景森悠を助けてくれって」
簡潔に、早見さんに保護されていますとメールを送った。
「助けて下さりありがとうございます」
「無事とは言い難いよ。あの格好でルカさんに見られたら、きっと彼は柴田に手を上げている。最初から話してくれ」
「すっごく長くなります」
「なら簡潔に、襲われる直線からでいい」
「ルカさんは今、地下にいます」
「地下?なぜ?」
「僕は今、濡れ衣を着せられて逮捕一歩前状態なんです。犯人は分かったんですが、犯人が逆上する可能性もあるので、ルカさんから部屋で待機と言われました。ずっと連絡を待ってたんですが、いつの間にか寝てしまいました。起きたら……柴田さんが部屋の中にいて」
「なんて酷いことを」
「鍵も閉めたはずなのに」
「この船は柴田のものだ。合い鍵なんて持つのは容易い」
「何回か股間蹴り上げて逃げたんですが」
「容赦ないな」
「地下牢を出るとき、ルカさんに早見さんの部屋番号と五回ノックと囁かれました。それを思い出して、走り回るふりをしながら部屋番号を確認していました」
「抜け目がないのは上司に似たのか」
スマホに目を向けると、文面からでも伝わる怒りの一文が添えられている。
──柴田は絶対に許さない。
呼び名が柴田氏から柴田に変わっていた。
「結局は危険な目に合わせてしまった。けど、ルカさんは最初から君を連れてこない選択肢はなかったんだ」
「どうしてですか?」
「自分が近くにいた方が守れるからだってさ。きっと君を誘拐する手筈も整えていたはずだよ。柴田は容赦がない。彼は欲しいものは何としても手に入れる」
外ではどたばたと足音が聞こえ、そのたびに悠の心臓は何度も悲鳴を上げた。
「これからどうしよう」
「ルカさんはなんて?」
「待機しろと。それだけです。ルカさんのところに行きたい」
「落ち着いて」
──悠、落ち着いて下さい。クレイグ氏はどうしました?
まるで悠の心など筒抜けたようにメッセージが届いた。
──彼は、ほぼ解決しただろうから部屋に戻ると帰っていきました。僕は早見さんの部屋です。
──柴田に何をされましたか?
応答を求めるのはルカの優しさか。メールを通してであれば考える時間も充分に取れ、悠は言葉を選びながら画面をタップしていく。
──部屋に、柴田さんがいました。
かなりマイルドな言い方だ。
──痴漢であれセクハラであれ、日本人は被害者を悪者にする文化がある。隙があった、誘惑したなど好き勝手言い、二次被害を生む。「いました」という表現から、鍵を掛けたのにも関わらず寝ていたところを襲われ、早見さんの部屋へ逃げたと捉えますが、間違いはありますか?
間違いも何も当たりすぎていて、絶句するしかない。
──大まかに、すべて当たっています。
──五回ノックをしたら、部屋を開けて下さい。
「え?」
悠が声を上げたのと早見が反応したのと、ドアが五回叩かれたのはほぼ同時だった。
早見の制止も聞かずドアを開け、目の前の疲れ果てたフランス人を抱き締めた。空気すら間に入ることは許されず、伸びた腕は互いの背中に回りぴったりと重なり合った。
船旅はまだ先があったが、事件が起きたと船内放送があり、緊急で予定にはなかった港へ着船した。
悠は事情聴取を受けるために警察官に保護され、洗いざらい説明した。ルカも船内で起こった出来事を話し、ようやく解放されたときは夕方を回っていた。
「悠が戻った後、実は村田茶一氏が私が囚われていた地下へやってきたのです」
「何ですかそれ……初耳です」
「すべて終わってから悠に言おうと思いました。あなたも混乱するでしょうし」
海沿いにあるカフェに入ったのはいいが、頼んだサンドウィッチには手をつける気にはならなかった。
「茶一氏は妻の美代子さんと船旅で殺人計画を立てていました。言い寄る新井雄一氏を呼び出し、二人で海の底へと突き落とす計画です。ナイフで刺し、弱った彼を海へ沈めようとしたのです」
「ってことは、ナイフに僕の指紋が付いていたのは茶一さんも知っていたんですね」
「ええ。ですが、まるで違う計画でした。美代子さんは新井氏を呼び出しもしておらず、村田氏にナイフの切っ先を向けました。彼女はご自分の旦那である村田氏を殺害する計画を立てていました。揉み合いとなり、奪い取った村田氏は美代子さんを刺したそうです。そしてご自身の妻を海に落としました。焦った彼は、とりあえず証拠品のナイフを我々の宿泊室であるバルコニーへナイフを落としました」
「なんか、めちゃくちゃ過ぎます」
「焦りがおかしくしてしまったのでしょう。クレイグ氏は悠の指紋しか検出しませんでしたが、他にも指紋があったそうです。ただ、犯人を泳がすためにあえて口にしなかったと言っています」
疑われ損で、ルカが湿気の多い牢獄へ入れられ、立場は違うがそれぞれ苦悩の多い時間を過ごした。
「あなたに、嫌な役回りをさせましたね」
「なんで、ルカさんがそんなこと」
「ダイイングメッセージの件はお見事でした。私では絶対に解けなかった」
陰りのある微笑みのまま、ルカは悠の頭に手を乗せた。
「村田氏の仰ることも、どこまで本当か知りません」
「美代子さんは、村田さんを殺して新井さんと一緒になるつもりだったんでしょうか」
「それは何とも言えませんが、村田氏の語る内容を鵜呑みにすると、そういう流れにもなります」
食欲が湧かないのはルカも同じで、ティーポットから二杯目の紅茶を注ぎ入れた。飲み物しか口に入れていない。
「愛する人を殺したいほど憎むって、どんな気持ちになるんでしょう。僕も、いつか」
「恋というものを経験できる人間だからこそ、憎悪や恐怖、不安なども感じるのです。もしあなたに人を殺したい感情が芽生えたとき、命をかけて私が止めてみせます」
恭しく、ルカは会釈した。食事をしていないせいか、いつもより覇気がない。
「僕も、絶対に止めます」
「え」
息もし忘れるほどの驚いた顔で、呆然と悠を見つめた。
カフェの中に大柄の男性が二人入ってきた。制服に身を包んだ男たちは、ルカに用があるようで、外に出てほしいと伝えた。
入れ違いにクレイグが悠の元へやってきた。
クレイグは懐からケースを取り出し、名刺を悠に渡した。
『これも何かの縁だ。俺はアメリカ大使館に勤務となる』
『ありがとうございます。あの、僕はまだ名刺持ってないんです。池袋のSHIRAYUKIというアンティークショップで働いています』
『君の上司もそこにいるんだな?』
『はい。ルカさんとふたりで店を営業していて、もう一人師匠がいるんですが、海外なんで、実質僕とルカさんだけです。僕は大学生なので、勉強しながらアルバイトをしています』
『卒業したらそこで働くのか?』
『……いえ、まだ分かりません。英語を話すことにも興味がありますし』
『夢は多く持っているべきだ。君の人生の幸せを願うよ。ぜひ連絡先を登録してくれ』
颯爽と現れ、颯爽と帰っていくクレイグを見守り、席に座り直した。
やがてルカが戻ってくると、沈黙を崩さぬまま残ったサンドウィッチに手をつけた。先ほどの悠の道破には答えを示さないまま。
「起きたかい?」
大きな影が覆い、全身に身の毛もよだつような強い恐怖が襲ってきた。ルカではない。香水も体臭の香りもまるで違う。鍵を掛けたはずの部屋に、覆い被さるように、柴田朝次郎がいた。
「な、なぜ……」
「この船は儂が手を加えた最高の傑作だ。楽しんでもらえたかな?」
カードキーは悠とルカがそれぞれ持っている。マスターキーが存在していた。後悔するより先に、柴田は大蛇のように悠の下肢へ巻き付いた。
「何が目的ですか」
「なんと、まだ判らんのか。それほど頭が悪いわけではなかろうに」
「不法侵入です」
「証拠はあるのかね。残念ながら君たちが泊まった部屋付近には防犯カメラは設置されていないのだよ。これは儂の船だ。儂がどの部屋に行き来してもおかしくあるまい。例えこの部屋から髪の毛一本見つかろうとも」
鼻息が顔にかかり、悠は顔をしかめたまま背けた。
「ルカ、さんは」
「牢獄の中だろう。閉じ込めたまま船ごと沈めてしまおうか」
半笑いか、言葉か、顔か、存在か、何に反応したのか判らない。何かがはちきれる音がした。頭が真っ白になり、高鳴っていた心臓の音すら聞こえない。
悠は身動きの取れる利き腕で鎖骨めがけ、拳を振りかざす。一瞬の悶えを見逃さず巨体から抜け出すと、足の付け根に数度蹴り上げた。
四発目をお見舞いする直前、電流のような痺れが身体を駆け抜け、頭に溜まりに溜まったどす黒い血が、雪解け水のようにさらさらとしたものに変わっていく。一瞬、ルカの声が聞こえた気がしたのだ。
「待て」
うずくまる柴田は悠の手を掴み、爪が手首に食い込んだ。肉体だけではなく精神的な痛みも混じり、悠は身動きが取れなくなった。
「あの色男は儂の手の内だ。今宵、ここで儂と」
悲痛な声が響き、柴田はベッドに後退った。拳を握り、殺気立った悠の背後にはざわめく何かがいて、柴田は蠢く影に息すらままならない。
「言いたいことは、それだけか?」
走馬灯のようにルカの笑顔が次々とよぎった。凄みのある声は柴田を硬直させ、下肢が微かに震える。悠は振り返り、そっと扉に触れた。
「そいつを捕まえろ!」
絞り出した柴田の声に反応したのは悠だけではなく、外で待ち構えていた黒スーツの男は慌てて捕らえようと手を伸ばすが、悠は俊敏に避け、全力で走り出した。
頭はすっきりと冴え、今すべきことを明確にあった。階段を上がり、また降り、距離を離したところでとある部屋にやってきた。悠は五回ノックすると、扉はすぐに開いた。顔を確認したのち、宿主は悠の腕を引き、すぐに施錠した。
薄暗い部屋は悠の息遣いと波の音だけが底無しに聞こえる。
「落ち着いて」
「早見…和成さん」
「そこのソファーに座って」
息も切れ切れのまま腰を下ろし、流れる汗を袖で拭った。永遠に波打つ海原に耳を傾けていると、やがて跳ね上がった鼓動も徐々に収まっていった。窓から見える無限の水平線はルカと自分との距離のような気がして、今度は焦りの蕾が膨らんでいく。
「ルカさんは」
「彼なら無事だよ。それとちゃんとシャツのボタンは留めた方がいい。ルカさんに見られたら激怒じゃ済まない」
ボタンを掛けている間も、外では走る音が反響している。
「とにかく落ち着こう。スマホはあるか?」
ポケットに入れっぱなしだったスマホを取り出すと、十件以上も着信履歴があり、すべてルカからだった。メールも通話アプリに来たメールも、最初は敬語を使っている文章が段々と短くなり、最終的には単語しか書かれていない。
「ルカさんが、何かあったら早見さんを訪ねろと」
「知ってるよ。ドアを五回叩かれたら開けるように言われていたからね」
「あなたはルカさんの味方ですか?」
「そうなるかな。ルカさんには昔お世話になったから、頭が上がらないんだ」
照れくさそうに、早見は頭を掻いた。
「君も霊救師だろう?」
「知ってるんですか?」
「断片的にだけど、君のことも話は聞いてる。実は美術鑑定士としてはそれほど繋がりはないんだ。霊救師の彼に世話になった」
「そうだったんですか……。いつ、ドアのノックの話を聞いたんですか?」
「チケットが届いた日だよ」
「そんなに前に?」
悠は驚きの声を上げる。
「ルカさんは予めこうなることを読んでたんだ。もし自分が身動きの取れない状況にあったとき、景森悠を助けてくれって」
簡潔に、早見さんに保護されていますとメールを送った。
「助けて下さりありがとうございます」
「無事とは言い難いよ。あの格好でルカさんに見られたら、きっと彼は柴田に手を上げている。最初から話してくれ」
「すっごく長くなります」
「なら簡潔に、襲われる直線からでいい」
「ルカさんは今、地下にいます」
「地下?なぜ?」
「僕は今、濡れ衣を着せられて逮捕一歩前状態なんです。犯人は分かったんですが、犯人が逆上する可能性もあるので、ルカさんから部屋で待機と言われました。ずっと連絡を待ってたんですが、いつの間にか寝てしまいました。起きたら……柴田さんが部屋の中にいて」
「なんて酷いことを」
「鍵も閉めたはずなのに」
「この船は柴田のものだ。合い鍵なんて持つのは容易い」
「何回か股間蹴り上げて逃げたんですが」
「容赦ないな」
「地下牢を出るとき、ルカさんに早見さんの部屋番号と五回ノックと囁かれました。それを思い出して、走り回るふりをしながら部屋番号を確認していました」
「抜け目がないのは上司に似たのか」
スマホに目を向けると、文面からでも伝わる怒りの一文が添えられている。
──柴田は絶対に許さない。
呼び名が柴田氏から柴田に変わっていた。
「結局は危険な目に合わせてしまった。けど、ルカさんは最初から君を連れてこない選択肢はなかったんだ」
「どうしてですか?」
「自分が近くにいた方が守れるからだってさ。きっと君を誘拐する手筈も整えていたはずだよ。柴田は容赦がない。彼は欲しいものは何としても手に入れる」
外ではどたばたと足音が聞こえ、そのたびに悠の心臓は何度も悲鳴を上げた。
「これからどうしよう」
「ルカさんはなんて?」
「待機しろと。それだけです。ルカさんのところに行きたい」
「落ち着いて」
──悠、落ち着いて下さい。クレイグ氏はどうしました?
まるで悠の心など筒抜けたようにメッセージが届いた。
──彼は、ほぼ解決しただろうから部屋に戻ると帰っていきました。僕は早見さんの部屋です。
──柴田に何をされましたか?
応答を求めるのはルカの優しさか。メールを通してであれば考える時間も充分に取れ、悠は言葉を選びながら画面をタップしていく。
──部屋に、柴田さんがいました。
かなりマイルドな言い方だ。
──痴漢であれセクハラであれ、日本人は被害者を悪者にする文化がある。隙があった、誘惑したなど好き勝手言い、二次被害を生む。「いました」という表現から、鍵を掛けたのにも関わらず寝ていたところを襲われ、早見さんの部屋へ逃げたと捉えますが、間違いはありますか?
間違いも何も当たりすぎていて、絶句するしかない。
──大まかに、すべて当たっています。
──五回ノックをしたら、部屋を開けて下さい。
「え?」
悠が声を上げたのと早見が反応したのと、ドアが五回叩かれたのはほぼ同時だった。
早見の制止も聞かずドアを開け、目の前の疲れ果てたフランス人を抱き締めた。空気すら間に入ることは許されず、伸びた腕は互いの背中に回りぴったりと重なり合った。
船旅はまだ先があったが、事件が起きたと船内放送があり、緊急で予定にはなかった港へ着船した。
悠は事情聴取を受けるために警察官に保護され、洗いざらい説明した。ルカも船内で起こった出来事を話し、ようやく解放されたときは夕方を回っていた。
「悠が戻った後、実は村田茶一氏が私が囚われていた地下へやってきたのです」
「何ですかそれ……初耳です」
「すべて終わってから悠に言おうと思いました。あなたも混乱するでしょうし」
海沿いにあるカフェに入ったのはいいが、頼んだサンドウィッチには手をつける気にはならなかった。
「茶一氏は妻の美代子さんと船旅で殺人計画を立てていました。言い寄る新井雄一氏を呼び出し、二人で海の底へと突き落とす計画です。ナイフで刺し、弱った彼を海へ沈めようとしたのです」
「ってことは、ナイフに僕の指紋が付いていたのは茶一さんも知っていたんですね」
「ええ。ですが、まるで違う計画でした。美代子さんは新井氏を呼び出しもしておらず、村田氏にナイフの切っ先を向けました。彼女はご自分の旦那である村田氏を殺害する計画を立てていました。揉み合いとなり、奪い取った村田氏は美代子さんを刺したそうです。そしてご自身の妻を海に落としました。焦った彼は、とりあえず証拠品のナイフを我々の宿泊室であるバルコニーへナイフを落としました」
「なんか、めちゃくちゃ過ぎます」
「焦りがおかしくしてしまったのでしょう。クレイグ氏は悠の指紋しか検出しませんでしたが、他にも指紋があったそうです。ただ、犯人を泳がすためにあえて口にしなかったと言っています」
疑われ損で、ルカが湿気の多い牢獄へ入れられ、立場は違うがそれぞれ苦悩の多い時間を過ごした。
「あなたに、嫌な役回りをさせましたね」
「なんで、ルカさんがそんなこと」
「ダイイングメッセージの件はお見事でした。私では絶対に解けなかった」
陰りのある微笑みのまま、ルカは悠の頭に手を乗せた。
「村田氏の仰ることも、どこまで本当か知りません」
「美代子さんは、村田さんを殺して新井さんと一緒になるつもりだったんでしょうか」
「それは何とも言えませんが、村田氏の語る内容を鵜呑みにすると、そういう流れにもなります」
食欲が湧かないのはルカも同じで、ティーポットから二杯目の紅茶を注ぎ入れた。飲み物しか口に入れていない。
「愛する人を殺したいほど憎むって、どんな気持ちになるんでしょう。僕も、いつか」
「恋というものを経験できる人間だからこそ、憎悪や恐怖、不安なども感じるのです。もしあなたに人を殺したい感情が芽生えたとき、命をかけて私が止めてみせます」
恭しく、ルカは会釈した。食事をしていないせいか、いつもより覇気がない。
「僕も、絶対に止めます」
「え」
息もし忘れるほどの驚いた顔で、呆然と悠を見つめた。
カフェの中に大柄の男性が二人入ってきた。制服に身を包んだ男たちは、ルカに用があるようで、外に出てほしいと伝えた。
入れ違いにクレイグが悠の元へやってきた。
クレイグは懐からケースを取り出し、名刺を悠に渡した。
『これも何かの縁だ。俺はアメリカ大使館に勤務となる』
『ありがとうございます。あの、僕はまだ名刺持ってないんです。池袋のSHIRAYUKIというアンティークショップで働いています』
『君の上司もそこにいるんだな?』
『はい。ルカさんとふたりで店を営業していて、もう一人師匠がいるんですが、海外なんで、実質僕とルカさんだけです。僕は大学生なので、勉強しながらアルバイトをしています』
『卒業したらそこで働くのか?』
『……いえ、まだ分かりません。英語を話すことにも興味がありますし』
『夢は多く持っているべきだ。君の人生の幸せを願うよ。ぜひ連絡先を登録してくれ』
颯爽と現れ、颯爽と帰っていくクレイグを見守り、席に座り直した。
やがてルカが戻ってくると、沈黙を崩さぬまま残ったサンドウィッチに手をつけた。先ほどの悠の道破には答えを示さないまま。
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