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第二章 非日常
018 三月
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桜が咲く一か月前、俺は高校生活とお別れをした。生徒会役員からは花束をもらい、泣きじゃくる後輩からは覚えのない感情をぶつけられ、微笑むしかできなかった。
「ごめんね、好きな子がいるから」
頭にぽん、と置くと、長い横髪に涙が伝い、美しく黒い烏色になる。
手を差し出すと、最後の握手だと悟ったのか、彼女は軽く触れる程度に止めた。それでいい。出会いは山のように存在している。女性は乗り越えるのが早いというが、きっと彼女もすぐに桜の咲く季節が美しいと思えるだろう。
「罪な男だな」
「アキ…………」
元生徒会長とは長い付き合いだ。腐れ縁というか、彼とは大学も別々なのに、またいつか会いそうな気がする。
「何人の女を泣かせてるんだよ」
「今日だけで三人?」
「死んでしまえ」
「アキは先輩とどう?」
「どうにもならん。けど、大学は同じだからなんとかアピールする」
クールな中に熱い思いが燃えているアキ。実は恋愛に対し、情熱を燃やしているのは、俺しか知らない。
「さっき、お前の恋人が教室でうろうろしてたぞ」
「待ち合わせしてるんだ。じゃあ、そろそろ行くよ」
「ああ、またな」
あっけない別れ方だ。でもすっきりしている。めそめそするような間柄ではない。
生徒会室を出た足で、可愛い恋人の教室へ向かった。
教室にはまだ半分ほど残っていて、湊は女子生徒と携帯端末を見せ合い、談笑している。
「湊」
「春兄!」
湊の笑顔は桜の花より綺麗だ。純粋で俺とは違い、腹黒さがない。
「卒業おめでとう」
「ありがとう。帰る? それともまだ友達といる?」
「一緒にいたい」
「分かった。なら行こうか」
「引っ越し準備はもう終わった?」
「あらかたね。さっき、何を見せていたの?」
「稲荷島のキツネの画像だよ。フォルダーに山盛りなんだ。そしたら友達がペットの猫の画像くれて、交換してた」
動物を語るときの湊はうきうきしている。こんな可愛らしい子がベッドの中だと色っぽく乱れるのだから、分からないものだ。
「しばらくキツネに会えなくなるね。寂しくない?」
「キツネより、湊に会えなくなるのが寂しいよ」
「じゃあ、たまにキツネの画像を送るね」
違う、そうじゃないと、笑うしかない。
船で稲荷島まで行くと、港に着くや否や、魚や野菜やら渡された。卒業祝いだと言う。湊も荷物持ちを自ら買ってくれた。
「あと一週間で春兄はいなくなるのかあ」
「まだ一週間もあるよ。湊は二年に上がるんだから、勉強の予習もしっかりね」
「え?」
「ん?」
「…………がんばれない」
「どうして?」
「だって、春兄のボタンないし」
「あるよ、ほら」
ポケットから第二ボタンを出すと、彼に渡した。
「モテモテだから、とられたのかと思った」
「あげるって約束したじゃないか。ネクタイも、ほら」
「モテモテは否定しないんだ」
「ふふ…………」
湊は大事そうに手の中のボタンを見つめる。
「じゃあ、またね」
家の前で別れ、キッチンにいた母に頂き物の野菜を渡す。今日の夕食は決まったようなものだ。多分、鍋。批判しかしない弟が簡単に想像できる。
「拓郎は?」
「部屋にいるわよ」
自室に行く前に拓郎の部屋をノックすると、スナック菓子を貪る弟がいた。
「何か用かよ」
「俺、湊と付き合うことになった」
「…………そうかよ」
一瞬の間を見逃さない。
「いろいろ悪かったな。拓郎には感謝してる。湊をいつも守ってくれて」
拓郎は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「それより、映像の件は大丈夫なのか? 流出したりしてねえのか」
「それは大丈夫。社にあったものはすべて処分した。俺がいない間、何か動きがあれば連絡がほしい」
「ああ、分かった」
「湊のことと、父さんと母さんもよろしく頼む」
「親父たちはともかく、あいつも俺に頼んでいいのかよ」
「なんだかんだ言って、信頼してるからね。とられない自信もあるし」
牽制をかけたつもりが、彼にはばれていたようだ。
拓郎の気持ちは気づいていて、いくら弟だろうと譲れないものがある。というより、弟だからといってなぜ譲らなければならないのか。
拓郎より先に生まれただけで、魔の言葉を浴びせられ続けていた。
──お兄ちゃんなんだから我慢しなさい。
──お兄ちゃんになったんだから、おやつの一つくらいあげなさい。
奇数のお菓子があれば、決まって拓郎が多めに取るのは当たり前で、おもちゃだろうと拓郎が何もかも優先になっていた。それが『普通』の家族で、俺はいつしか人に譲り、嘘の作り笑顔が得意になっていた。
そんな中、初めてだった衝撃の出来事が起こった。
──春兄、これあげる……。
残り一つしかない、大事にしていたチョコレートを俺に譲ってくれた子がいた。こんなことは初めてだった。
さすがにもらえないと言うと、なら半分こにしようと眉を動かし、小さな手で頑張って割ってくれた男の子。綺麗に割れず、泣きそうになる男の子から小さく割れた方をもらってお礼を言うと、頬が赤く染まった。可愛くて可愛くて、たまらなかった。
大きくなっても純粋な心は変わらず、春兄と懐いてくれる。
神官たちが未成年の動画を売っていた件に関して知っているのは、今のところ俺と拓郎だけだ。この先、ばれない限り誰にも言うつもりはない。犠牲になってしまった人がいる。その中に、俺の大事な人も含まれているのだ。神官たちは、生涯をかけて、苦しみを背負ってほしいと思う。
「ああああー……………」
ネクタイの匂いを嗅ぐと、幸春さんの体臭がした。なんて良い香り。三年間使い続けたものは、よれて何かの汚れがある。それも愛おしい。
キッチンからこっそりとかっさらってきたチャック付きの袋に入れ、ついでにボタンも保存した。こんなこと、彼にばれてはならない。どこかに隠さないと。
「……………………」
「……………………」
窓の向こう側から、ネクタイの持ち主だった人と目が合った。速攻でばれてしまった。声を上げて笑っている。
「もう! 笑わないでよ」
「ごめんごめん、可愛くて。それ、どこにしまうの?」
「いいじゃんか! 言わない!」
「あははっ」
こんなやりとりも、もう最後だ。あと数週間で幸春さんはいなくなる。
「ああもう、もっといちゃつけたらいいのに」
「同棲すれば、ラブラブできるよ」
「そうだね……俺が勉強頑張って、早く卒業しないと。俺さ、ちょっと目標できたんだ」
「へえ、どんなの?」
ずっとずっと考えていたことがあった。俺の好きな人は幸春さんで、憧れも幸春さんで。俺の人生はいつも彼に支えてもらっていると言っても過言ではない。
「俺、生徒会役員に立候補してみようと思うんだ」
幸春さんは驚いたのか、一瞬声を失っていた。
「春兄がいない学生生活の中で、どれだけできるか頑張ってみたいんだ。春兄に支えてもらってばっかりだったから、もっと大人になって、今度は俺が春兄を支えたくて」
「うん、すごく素敵だ……。大人になったね、湊。いつも俺の後ろをついてばっかりだったのに」
「それと身長も伸ばす」
「それは…………頑張れ」
適当な応援を頂いた。闘志が沸く。
「大人ってどうやってなるものか考えてたんだけどね、こうしてなっていくんだね。俺も約束する。大学でたくさん勉強して、世の中を知り、湊の住みやすい日本を作る。弁護士になって」
「ええっ? 春兄って、」
幸春さんは人差し指を添え、首を傾げた。
お互いの秘密の共有は、大人になった気がした。
「ごめんね、好きな子がいるから」
頭にぽん、と置くと、長い横髪に涙が伝い、美しく黒い烏色になる。
手を差し出すと、最後の握手だと悟ったのか、彼女は軽く触れる程度に止めた。それでいい。出会いは山のように存在している。女性は乗り越えるのが早いというが、きっと彼女もすぐに桜の咲く季節が美しいと思えるだろう。
「罪な男だな」
「アキ…………」
元生徒会長とは長い付き合いだ。腐れ縁というか、彼とは大学も別々なのに、またいつか会いそうな気がする。
「何人の女を泣かせてるんだよ」
「今日だけで三人?」
「死んでしまえ」
「アキは先輩とどう?」
「どうにもならん。けど、大学は同じだからなんとかアピールする」
クールな中に熱い思いが燃えているアキ。実は恋愛に対し、情熱を燃やしているのは、俺しか知らない。
「さっき、お前の恋人が教室でうろうろしてたぞ」
「待ち合わせしてるんだ。じゃあ、そろそろ行くよ」
「ああ、またな」
あっけない別れ方だ。でもすっきりしている。めそめそするような間柄ではない。
生徒会室を出た足で、可愛い恋人の教室へ向かった。
教室にはまだ半分ほど残っていて、湊は女子生徒と携帯端末を見せ合い、談笑している。
「湊」
「春兄!」
湊の笑顔は桜の花より綺麗だ。純粋で俺とは違い、腹黒さがない。
「卒業おめでとう」
「ありがとう。帰る? それともまだ友達といる?」
「一緒にいたい」
「分かった。なら行こうか」
「引っ越し準備はもう終わった?」
「あらかたね。さっき、何を見せていたの?」
「稲荷島のキツネの画像だよ。フォルダーに山盛りなんだ。そしたら友達がペットの猫の画像くれて、交換してた」
動物を語るときの湊はうきうきしている。こんな可愛らしい子がベッドの中だと色っぽく乱れるのだから、分からないものだ。
「しばらくキツネに会えなくなるね。寂しくない?」
「キツネより、湊に会えなくなるのが寂しいよ」
「じゃあ、たまにキツネの画像を送るね」
違う、そうじゃないと、笑うしかない。
船で稲荷島まで行くと、港に着くや否や、魚や野菜やら渡された。卒業祝いだと言う。湊も荷物持ちを自ら買ってくれた。
「あと一週間で春兄はいなくなるのかあ」
「まだ一週間もあるよ。湊は二年に上がるんだから、勉強の予習もしっかりね」
「え?」
「ん?」
「…………がんばれない」
「どうして?」
「だって、春兄のボタンないし」
「あるよ、ほら」
ポケットから第二ボタンを出すと、彼に渡した。
「モテモテだから、とられたのかと思った」
「あげるって約束したじゃないか。ネクタイも、ほら」
「モテモテは否定しないんだ」
「ふふ…………」
湊は大事そうに手の中のボタンを見つめる。
「じゃあ、またね」
家の前で別れ、キッチンにいた母に頂き物の野菜を渡す。今日の夕食は決まったようなものだ。多分、鍋。批判しかしない弟が簡単に想像できる。
「拓郎は?」
「部屋にいるわよ」
自室に行く前に拓郎の部屋をノックすると、スナック菓子を貪る弟がいた。
「何か用かよ」
「俺、湊と付き合うことになった」
「…………そうかよ」
一瞬の間を見逃さない。
「いろいろ悪かったな。拓郎には感謝してる。湊をいつも守ってくれて」
拓郎は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「それより、映像の件は大丈夫なのか? 流出したりしてねえのか」
「それは大丈夫。社にあったものはすべて処分した。俺がいない間、何か動きがあれば連絡がほしい」
「ああ、分かった」
「湊のことと、父さんと母さんもよろしく頼む」
「親父たちはともかく、あいつも俺に頼んでいいのかよ」
「なんだかんだ言って、信頼してるからね。とられない自信もあるし」
牽制をかけたつもりが、彼にはばれていたようだ。
拓郎の気持ちは気づいていて、いくら弟だろうと譲れないものがある。というより、弟だからといってなぜ譲らなければならないのか。
拓郎より先に生まれただけで、魔の言葉を浴びせられ続けていた。
──お兄ちゃんなんだから我慢しなさい。
──お兄ちゃんになったんだから、おやつの一つくらいあげなさい。
奇数のお菓子があれば、決まって拓郎が多めに取るのは当たり前で、おもちゃだろうと拓郎が何もかも優先になっていた。それが『普通』の家族で、俺はいつしか人に譲り、嘘の作り笑顔が得意になっていた。
そんな中、初めてだった衝撃の出来事が起こった。
──春兄、これあげる……。
残り一つしかない、大事にしていたチョコレートを俺に譲ってくれた子がいた。こんなことは初めてだった。
さすがにもらえないと言うと、なら半分こにしようと眉を動かし、小さな手で頑張って割ってくれた男の子。綺麗に割れず、泣きそうになる男の子から小さく割れた方をもらってお礼を言うと、頬が赤く染まった。可愛くて可愛くて、たまらなかった。
大きくなっても純粋な心は変わらず、春兄と懐いてくれる。
神官たちが未成年の動画を売っていた件に関して知っているのは、今のところ俺と拓郎だけだ。この先、ばれない限り誰にも言うつもりはない。犠牲になってしまった人がいる。その中に、俺の大事な人も含まれているのだ。神官たちは、生涯をかけて、苦しみを背負ってほしいと思う。
「ああああー……………」
ネクタイの匂いを嗅ぐと、幸春さんの体臭がした。なんて良い香り。三年間使い続けたものは、よれて何かの汚れがある。それも愛おしい。
キッチンからこっそりとかっさらってきたチャック付きの袋に入れ、ついでにボタンも保存した。こんなこと、彼にばれてはならない。どこかに隠さないと。
「……………………」
「……………………」
窓の向こう側から、ネクタイの持ち主だった人と目が合った。速攻でばれてしまった。声を上げて笑っている。
「もう! 笑わないでよ」
「ごめんごめん、可愛くて。それ、どこにしまうの?」
「いいじゃんか! 言わない!」
「あははっ」
こんなやりとりも、もう最後だ。あと数週間で幸春さんはいなくなる。
「ああもう、もっといちゃつけたらいいのに」
「同棲すれば、ラブラブできるよ」
「そうだね……俺が勉強頑張って、早く卒業しないと。俺さ、ちょっと目標できたんだ」
「へえ、どんなの?」
ずっとずっと考えていたことがあった。俺の好きな人は幸春さんで、憧れも幸春さんで。俺の人生はいつも彼に支えてもらっていると言っても過言ではない。
「俺、生徒会役員に立候補してみようと思うんだ」
幸春さんは驚いたのか、一瞬声を失っていた。
「春兄がいない学生生活の中で、どれだけできるか頑張ってみたいんだ。春兄に支えてもらってばっかりだったから、もっと大人になって、今度は俺が春兄を支えたくて」
「うん、すごく素敵だ……。大人になったね、湊。いつも俺の後ろをついてばっかりだったのに」
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「それは…………頑張れ」
適当な応援を頂いた。闘志が沸く。
「大人ってどうやってなるものか考えてたんだけどね、こうしてなっていくんだね。俺も約束する。大学でたくさん勉強して、世の中を知り、湊の住みやすい日本を作る。弁護士になって」
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