夕凪に浮かぶ孤島の儀式

不来方しい

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第一章 日常

09 七月(三)

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 あれから三日経つが、一向に儀式の準備は進まなかった。自分の身体に、大問題が起こってしまった。言われた通りに風呂場で性器に手をかけても、反応するどころちか縮こまるばかりで反応すら見せてくれなくなったのだ。ネットで卑猥な画像を検索しても、幸春さんの裸を想像しても、ぴくりとも動かない。
「どうしよう……不能になったのかな」
 一応、治すような薬は存在している。けれど未成年が使えるものでもないし、ここら辺の病院で診てくれるようなところもない。相談しても、守秘義務なんてあったもんじゃない。
 相談できる相手を考えてみる。家族は論外、拓郎はあり得ない、病院も難しい。となると、ひとりしか思いつかなかった。
──春兄。
 用件も言わずとりあえずメールを送ってみると、すぐに返事が来る。
──どうかした?
──ちょっと困ったことがあって。
──どうしたの?
──おっきくならない。
 何が、と聞くほど幸春さんは鈍くない。
──身体がおかしいよ。どうしよう。
──そっちに行ってもいい?
──家に来るの?
──手伝ってあげる。
 家には母がいる。前はしょっちゅう遊びに来ていたので、別に変には思われないだろうが、聞かれたらなんと答えるつもりだろう。
 下に行こうと扉を開けると、すでに玄関からは母と幸春さんの声がした。
「まあ、勉強を見てくれるの? ありがとう。ごめんなさいね、幸春君は受験生なのに時間を取らせてしまって」
「俺も予習になりますから。これ、うちの母からです」
「いつもありがとう」
 容器の中は、おそらくきゅうりの漬け物だ。朝にちょっとつまもう。
「下りてきたついでにお茶持っていって」
「うん」
 アイスコーヒーとまんじゅうをトレーに載せて部屋に戻ると、幸春さんは机に置きっぱなしになっていた教科書を読んでいる。
「おいで」
 優しい声に吸い込まれ、トレーを机に置くと幸春さんの隣に座る。ベッドが軋み、化学反応のように俺の心臓も大きく動く。
「触れたりしたんだ?」
「うん……した」
「どんな風に?」
「どんなって……普通に触っただけだよ」
「見せてごらん」
「む、むり……」
「なんのために俺に相談した? 恥ずかしがることじゃないよ。どんな風に触ったのか、確かめる義務があるから。壁に背をついて座って。足も開いて」
 閉じていた足も開くと、壁に押さえつけられるくらいに開かされた。
「……反応しないって本当に?」
「え?」
「これは、なに?」
 うそだ。こんなのはおかしい。
 布を押し上げているのはぴくりとしなかった性器であり、へそにつくほど持ち上がっている。熱もこもり、苦しいくらいだ。
「本当は、俺に触ってほしかったから嘘ついたの?」
「違うよ! あの日から全然反応しなくて、病院行こうかとかいろいろ悩んでたのに」
「違うんだ? 嫌じゃないなら、脱げるね?」
 耳元で囁かれ、性器が早く出してと訴えてくる。
「ほんとだよ……ネットで画像見ても反応しなかったんだから」
「どんなものを見たの?」
「……裸の写真」
「男性? 女性?」
「男性の……」
 彼に似ていたものを探したとは省き、白状する。
 幸春さんは満足げに笑い、俺のズボンに手をかけた。
「儀式の前に、ここの毛も剃ろう」
「しなきゃダメなの?」
「ああ、書物に書いていただろう?」
「恥ずかしいよ……」
「なら、俺がしようか?」
「儀式の前ギリギリじゃだめ? 痒くなりそう」
「まあ、別に構わないよ。俺がするから」
 自分ひとりでできるのに。断れる雰囲気でもなかった。
「ああ……ちゃんと勃起しているね。大人の証だ」
 どうしてこう、卑猥なことをわざわざ口にするのだろう。
 幸春さんは先端に指を添えて、上下に軽く擦った。
「う、あ、ん…………っ」
「もう出そうだよ」
「もたない、かも」
「いいよ。出してごらん」
「う、う…………っ」
 嘘ついたわけではないのに、俺が嘘つきみたいだ。
 勢いよく噴射された白い液体は、すべて幸春さんの手の中に収まった。
 気だるい気分は久しぶりに味わうことができた。普段なら後の余韻を楽しむところでも、今日はそれどころじゃない。
「問題ないね。でも皮はまだ被っている。ちゃんと顔を出せるようにしなさい」
 なんと返事をしたらいいか考えあぐねていると、幸春さんはティッシュで手を拭き、性器に軽く触れて拭いてくれた。
「さあ、勉強しよう」
「う、うん……する」
「教科書を開く前に、せっかくだからアイスコーヒーを頂こうか」
「………………え?」
「え?」
「あ、そっちのか」
「勉強って、もしかして別のお勉強でも想像した?」
 くすりと笑い、残り少ないティッシュ箱に触れる。
「じ、自分でするから……」
「儀式のために?」
「それは、そうでしょ。春兄がしろって言ったんだよ」
「まあ、そうか……そうだな」
 幸春さんは汗を零すアイスコーヒーを飲むと、喉が大きく動いた。色気の固まりに釘付けになっていると、ふいに彼と目が合う。
 切ないような、少なくとも楽しいという表情ではない。
 珍しくもストローをがしがし噛んで、幸春さんは半分ほど胃に流し入れた。
 そんな癖なんて初めて見たので、つい口の奥に見える真っ白な歯を眺めてしまった。



 期末テストも無事に終わり、夏休みは目と鼻の先に迫っていた。できる限り宿題は夏休み前に終わらせ、八月は儀式の準備に集中したい。
「ふー……涼しい……」
 夏の暑さはじっとしていてもしんどいが、海に囲まれた島は風も吹くし、都会に比べたら圧倒的に気温が低い。
 窓を開けていると、外から子供たちの笑い声が聞こえてくる。
「おっきいカメラ!」
「テレビの人かな?」
 外を眺めると、バケツを持った子供たち走ろうとしているところだった。
「春兄?」
「やあ、勉強?」
「うん……まあね」
 この前の『勉強』が頭をよぎり、煮え切らない返事になってしまった。
「春兄はなんで制服? もしかしてまた生徒会?」
「ああ、そうだよ」
「ふうん」
「勉強頑張ってね」
「湊もね」
 名前を呼ばれると、魔法にかかる。一気に目が覚めてやる気が出た。
 午前中はアイスティーをお供に宿題を済ませ、母から昼食だと呼ばれた。
 今日は梅干しが乗った冷や汁だ。それと鯵の煮付け。
「なにそれ?」
「さっき庭でカブト虫を見つけたのよ」
 お菓子の開き箱には、立派な角を携えたオスがじっとしていた。
「これ、みっくんの家に届けてくれる? 学校の自由研究で何をしようか悩んでたみたいだから」
「いいよ」
 俺も小学生の頃はカブト虫を育て、自由研究にしていた。森に行っても取れなくて、幸春さんが捕まえてくれたことがある。
 箱ごと持って外に出ると、うだるような日差しが襲う。
 みっくんは小学生の男子で、港近くの旅館の息子だ。やんちゃで遊びの天才とも言える。
 旅館のロビーには、見慣れない男性が数名いて、女将さんと何か熱心に話していた。
 女将さんは俺に気づくと、困惑した顔がすぐに笑顔になる。
「あら、こんにちは」
「こんにちは。みっくんいます?」
「ごめんなさいねえ、遊びに出かけちゃったのよ。どうかしたの?」
「うちの母がカブト虫を捕って、みっくんに渡してほしいって頼まれました」
「本当に? あらまあ、ありがとう。今年はなかなか捕まえられないって、今朝も話していたのよ」
「なら、ちょうど良かったです」
 箱を渡すと、中からがさごそと音がした。
 女将さんは一度後ろに下がると、別の箱を持ってきた。
「お母さんによろしくね」
「ありがとうございます」
 旅館の饅頭だ。甘くて緑茶に合って、すごく美味しい。アイスコーヒーともよく合う。
 男性たちは無遠慮な目で俺をじろじろと舐め回すように見てくる。居心地も悪いし、気分もあまり良くない。
「どうも、俺たちは関東から来たんだ」
「君は島の人? 良いところだね。すぐに好きになったよ」
「はあ……どうも」
 来たばかりだろうに、胡散臭い。
 さっさと帰ろうとするが、呼び止められてしまった。
「ここの島の伝承って知ってる? キツネを怒らせると災いが起こるってやつ」
「みんな知ってると思います」
「俺たち、お祭りを調べに来たんだ。仁神さんや佐狐さんの家ってどこか分かる?」
「仁神は俺ですけど……」
 男性たちの目の奥が光った。鞄から名刺を出して、俺に差し出した。
 子供たちが大きなカメラと騒いでいたが、この人たちだ。名刺には有名なテレビ局が刻まれている。
「聞いたことあるテレビ局でしょ? 出たらきっと有名になれるよ」
「いや、出たくないです」
「なんで? お友達に自慢したいと思わない?」
「思わないです」
「先輩、この子まだ未成年なんじゃ……」
 名刺を渡した男性が、もう一度俺を下から上へと眺め、年齢を聞いてくる。
「高校生か……未成年は親の許可が必要なんだよね」
「許可は出さないし、そもそも俺が出たくないんです。とにかく旅館から出てもらえませんか? 女将さんにも迷惑がかかります」
 女将さんは他のお客さんを接客している。申し訳なさそうに俺に頭を下げた。
「仁神さんと佐狐さんが結婚するお祭りなんでしょ? ちょっと衣装着て撮影させてもらえないかな?」
「無理です」
「そこをなんとか。ほんのちょっとでいいからさ」
 食い下がったまま離れようとしない。家に来られても困るし、一人でいる母には迷惑をかけたくない。
「何してんだ」
 背後の声に、三人同時に振り返った。
 拓郎だ。ランニングをしていたらしく、汗だくで肩にタオルを引っかけていた。
「何してんだよ」
 答えずにいると、拓郎はもう一度口にした。
 後ろの男性たちと背負った大きなカメラを見て、おおよその事情は読めているだろうが、譲らない態度だった。話がややこしくなるので、せめて彼が佐狐家の人間だとばれないようにしなければ。
「君は?」
「佐狐だ」
「佐狐?」
 男性たちの嬉しそうな声ときたら。俺の決意なんて軽く吹っ飛んだ。
「何名乗ってんだよ、もうっ」
「名乗っちゃ悪いのか?」
「とにかくさ、早く帰ってよ」
「俺がどこにいようが俺の勝手だろ」
「そうだけど」
「佐狐さん、お願いがあるんだ」
「あ?」
「祭りについていろいろ聞きたくて、取材しに来たんだ。未成年だと親の許可を取らないといけないから、家に案内してよ」
「断る。じゃあな」
 ここまでばっさりしていると、清々しい。
 拓郎は俺の手を取ると、男性たちを置いてさっさと歩き出してしまった。
 重なった手が熱い。俺より走っていた拓郎の方が熱がこもっていて、手を通して腕にも伝わり、軽く身震いした。
 何が楽しくて拓郎と手を繋がないといけないのか。離して、と一言言えばいいのに、大人になった手は大きくて心まで鷲掴みにしてきそうで、振りほどけなかった。テレビ局以外の人に見られなかったのは幸いだ。
 家の前に来ても拓郎は離してくれず、繋いだままこちらを向いた。
「お前な、面倒事に巻き込まれるなよ」
「巻き込んでるのはそっちでしょ? 本当にタイミング悪い」
「あ?」
「あいつら、仁神と佐狐の人を捜してたんだ。儀式の衣装を来て撮影させてほしいだの言ってきた」
「お前、今日はもう家から出るなよ」
「なんで?」
「面倒事に巻き込まれるから」
 同じことを二回も言った。しかも二回目は強めに。
「分かったなら部屋に戻れ」
「何なのさ、もう」
「そりゃあこっちのセリフだ」
 玄関に無理やり押し込まれてしまった。リビングからはテレビの音が聞こえ、母が木の実酒を漬けながら眺めている。
「おかえりなさい。声がしたけど、拓郎君と一緒だったの?」
「ま、まあね。今日、変な人が来ても誰も家にあげないでよ」
「何言ってるのよ。いつもあげないわよ」
 部屋に戻り、窓を閉めたままエアコンを稼動した。風は気持ちよくても、外の音や声を何も聞きたくない気分だった。
 いつも通り、拓郎はけんか腰な態度だったが、あんな風に心配されたのは初めてだった。
 掴まれた腕は、今も熱を帯びている。
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