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第一章 日常
05 六月(二)
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海辺に着くと、自然と手は離された。海風に汗ばんだ手が当たり、スースーする。
「餌つけてあげようか?」
「大丈夫、もうできる」
「ふふ」
「子供の頃の話だから!」
苦手な魚の餌に触れるようになったのは、拓郎と幸春さんが絡んでいる。いたずらに俺の手や首に餌を投げ、俺はびーびー泣き、拓郎は面白がっていた。見かねた幸春さんがいつも針に餌をつけてくれ、申し訳がなくて触れられるよう特訓した。
「キツネたちが集まってきてる」
「魚がほしいんだね。多めに釣れたらあげようか」
一匹のキツネが俺の隣に来て、バケツの中を覗いた。何もないと分かると真横に座り、早く釣れと言わんばかりに鋭い視線を浴びせてくる。もらえるものだと思っているらしい。こいつらは絶対に自分が可愛いと自覚がある。なんて生き物だ。
釣り糸を垂らし、キツネのあごを撫でていると、遠くで水が踊った。
「今日はあんまり釣れないね」
「うん……早いと一分かからず動くのに」
釣れなければ、ずっとこうしていられる。そう思っていた矢先、まずは俺の釣り針に魚がかかった。立って引こうとするが、かなり引きが強い。身体ごとを持っていかれそうになり、右足でこらえる。
後ろに温かな体温が当たり、幸春さんは釣り竿に手を伸ばしてきた。背中から抱きかかえられている。
「巻いて」
真っ白になった頭では何を巻くのかと思考が停止した。幸春さんは何もできない俺に見かねてリールに手を伸ばし、ハンドルを回す。後ろで低いうなり声がした。しっかりと踏ん張りを利かせるが、二人三脚の練習が響いたのか思うように力が入らない。
糸が引き、透明な水の中から大きな魚が顔を出した。
「すごい……おっきい…………」
「…………もう一回言って?」
「……おっきい?」
「ごめん、何言ってんだろ……俺…………」
ため息が耳元にかかり、身震いした。僕を誘惑するのはやめてほしい。これ以上好きになったらどうしよう。
幸春さんは不安定な体勢の中、一度強く身体を密着させて離れていった。
「それ春兄が持っていってよ。春兄が釣ったものだし」
「釣り竿は湊のものだったよ。また釣るからいい……あっ」
バケツに入れた魚はキツネが咥え、持っていってしまった。仲間たちと分け合うにはちょうどいいサイズ感で、仲良く並んで食べ始めた。
「可愛いけど……にくいっ……」
「ふふ、ジュースでも飲んで落ち着こう」
幸春さんは汗のかいたペットボトルのふたを開け、差し出した。
興味を示した一匹がこちらに来ようとするが「ダメだよ」と告げると、諦めて魚にかぶりついた。さすがに人間の飲み物はあげられない。
「体育祭の話だけど、種目は二人三脚だけ?」
「あと借り物競争も」
「え、本当に?」
「春兄の反応が怖いんだけど……」
「うーん…………」
よからぬ反応だ。聞くのが怖い。
「けっこうぐっさり来るようなものが多いからさ」
「どういうこと?」
「借りてくるものが、恋人とか、好きな人とか……エッチな本とか」
「一番最後とか……当たったら無理だよ。クラスが負けても、俺はギブする」
「読んだりしないの?」
「今日の春兄はちょっといじわる?」
「はは、ごめん」
「春兄は……読むの?」
気になって聞いてみたが、笑うだけでちっとも答えてくれなかった。笑った顔も妖艶でかっこよかったので、よしとしよう。
「どうする? 恋人なんて当たったら」
「それこそギブするよ。いないし」
クラス中は佐狐拓郎だとはやし立てるだろう。儀式上ではそうなっても、俺の気持ちまで渡せない。
結局、かかった魚は合計七匹だ。俺が五匹で、幸春さんが二匹。うちの家族では多いので、二匹お裾分けをした。三匹あれば、俺と両親で充分だ。
釣り竿も思いバケツもあるのに、幸春さんは当たり前のように手を差し出してきた。片手でふたつを持つのは重いしつらい。幸春さんは重くないのか。ずっとにこにこしているし、俺より上背はあるから力もあるだろうし、手も腰も痛くないのかもしれない。家に戻る頃には右手が使い物にならなくなっていたけれど、左手は幸せだった。
雲一つない天候は、梅雨入りしているのに嘘のような天気だ。
運動が苦手な俺としては、グラウンドが雨に打たれてほしいと願ったのに、天気の神様は俺に味方をしてくれなかった。
「俺に合わせろよ」
先に来ていた拓郎は俺を見るなり鬱陶しいという目で睨む。嫌われているのは分かっていても、こういう態度は心に刺さる。
無視して椅子に座ると、旦那に弁当作ってきたのかと、からかいの的だ。
幸春さんは何をしているだろうか。こういうイベントになると、生徒会は大忙しだ。今日も朝早くに家を出ていた。カーテンの隙間から覗いたら、少し寝癖がついていた。待ち構えていたキツネに捕まり、頭とお腹を撫でていた。どちらも可愛い。
グラウンドに集まり、校長の長い話の後にはいよいよ体育祭が始まる。正真正銘の無礼講で、全力で手加減抜きで挑める唯一の行事だ。
校長の脇には生徒会のメンバーがいる。厳しい目を向ける生徒会長の横に、優しい目つきの副生徒会長がいて、辺りを見回している。目が合え、目が合えと念仏のように唱えていると、幸春さんと視線がぶつかった。こっそり手を振ってみると、首を傾げて微笑んだ。悶えすぎて、ボクシングで使うサンドバッグを殴りたくなった。
出番である借り物競争は、二番目の競技なのですぐにやってくる。幸春さんは覚悟すべきだと忠告をしてきたが、何が当たるのだろう。
「今回の借り物はヤバいらしいよ」
「無理難題書いてるって聞いた。考えるの誰なんだろ」
「生徒会と体育委員だってさ」
名前も知らないよく見かける隣のクラスの人だ。幸春さんも言っていたが、エロ本なんて書いてあったら誰が持っているんだ。ふと考え、そういえばクラスメイトの男子がそれらしいものを持っていたなと思い出す。
最初の種目である百メートル走が終えて、いよいよ借り物競争が始まる。幸春さんは白い紙の束を持ち、二十メートルほど先に立った。
「副会長が並べんのかよ」
「あれって佐狐君のお兄さんでしょ? あんま似てなくない?」
「モテるらしいよ」
モテるでしょうとも。小学生のときからラブレターをもらったりしていた。俺は嫉妬心むき出しでむくれたことがあるが、あのときも幸春さんは機嫌が良さそうに返事はしないよと笑っていた。
スターターピストルが鳴り、一番走者が走り出した。
白い紙を拾い上げた生徒は、固めるか悲鳴を上げるかのどちらかだ。校舎に向かって走る生徒、辺りを見回して女子生徒と走る生徒、無理だと連呼する人。俺はどの立場になるのだろう。
ついに出番がやってきた。心臓が雑巾みたいに絞られ、悲鳴を上げている。
スタートラインにいる体育委員は、高らかに腕を上げた。
白い煙と共に大きな音が鳴り響き、地面を蹴った。一瞬で一番最後になっても、残り数メートル先にある白い紙を目指す。すでに息が苦しい。緊張と運動不足が重なり、一気に足にくる。
取り損ねそうにかる紙を屈んで取り、中を開いた。
「…………は? はあ? な、なん…………」
言葉を失う。なんだこれは。幸春さんに覚悟をしてと言われても、直撃する文章は、スタートラインに立ったときと同じく腹がよじれる緊張が高まっていく。緊張しすぎてお腹が痛い。
──結婚したいほど、好きな人。
恋人でもなく、好きな人でもない。具体的な将来設計ごと視野に入れた人。
俺の相手は拓郎で、心は別の人に向かっている。好きでやまない彼を振り返ると、彼も俺を見ていた。どうする、どうしたら。
「仁神! 早くしろ! 人なら適当でいいから!」
そうだ、適当だってできる。俺の気持ちなんて、誰も知らない。拓郎を連れて行こうが、そこらでスマホゲームに夢中になっている女子生徒だろうが、木の根元ですでに寝る体勢に入っている野球部生徒だって構わない。
「仁神!」
適当だっていいなら、そうさせてもらう。遠慮はいらない。
俺は逆走して幸春さんの前に立った。幸春さんは驚きのせいか、顔が強張っている。
「春兄、一緒に走って」
「…………いいの? 俺で」
「春兄じゃないと嫌だ」
「…………分かった。これから、覚悟してね」
何を覚悟するのだろう、と思うと同時に、すぐに決めなければいけない覚悟がやってきた。
覚悟。それはこれから起こる困難や波乱に備えて心の準備をすること。春兄は俺の手首を掴むと、全力で走り出した。
前方には課題をクリアした生徒がすでに走っている。早い早い。幸春さんが走ると、辺りからは歓声のようなどよめきが沸いた。
あまりのスピードに、息をするのもやっとだ。生まれてからこんなに全力で走ったことはない。普段見える風景が異世界に見えた。人も建物も木々も歪んで見える。
前方を走っていた生徒を軽々と追い越し、俺は生まれて初めて白いテープを切った。今日だけで初めて尽くしだ。
「大丈夫?」
「う、うん……つらい……息…………」
「頑張ったね」
幸春さんも息を切らし、俺の頭をよしよしと撫でてくれた。
「初めて……一位取れた……」
「俺も嬉しいよ」
「どうしよう、泣きそう……」
「ほら」
手作り感満載のリボンを渡してきたのは、生徒会長だ。すこぶる機嫌が悪いですと顔に書いてある。
「ありがとう……ございます」
「紙」
「え?」
「借りてきたものと合っているか、確認しなければいけない」
火照った身体が一気に冷め、青ざめていく。
当然と言えば当然だ。借りてきて終わりなわけがない。目の前では三番目にゴールした生徒が一発芸をしている。
「紙よこせって」
「アキ、無理強いはよくない」
「いや無理強いじゃないだろ。ルールはルールなんだから。例外は認めない」
「じ、じゃあ……棄権でいいです……」
幸春さんと生徒会長は同時に俺を見る。
白い紙はぐしゃぐしゃのまま、ポケットの中だ。二度も棄権しますと告げ、胸に飾られたリボンを取って彼に渡した。
「いいの?」
幸春さんに悲しげな顔をされると、最善の選択が分からなくなってくる。けれど今、生徒会長や他の生徒が見守る中、気持ちを知れ渡ることは避けたい。
俺と拓郎は儀式の上で婚約関係にある。幼少期から稲荷様の機嫌を損ねてはいけない、稲荷様はずっとお空から見守ってくれている存在だと言われ続けているせいか、やはり拓郎を裏切ることはできない。植えつけられた一種のトラウマのようなものだ。
「春兄、ごめん。せっかく走ってくれたのに」
「いいよ。最後の体育祭で、良い想い出ができたしね」
そうだ、幸春さんにとっては最後の体育祭だ。それを棄権という形で終わらせていいものかとよぎるが、絶対にばれたくない。
幸春さんがスタートラインに戻るのを見送り、木陰に腰かけた。ここだと幸春さんがよく見える。体育着を着る幸春さんを、最後かもしれないとしんみりと見つめた。
「餌つけてあげようか?」
「大丈夫、もうできる」
「ふふ」
「子供の頃の話だから!」
苦手な魚の餌に触れるようになったのは、拓郎と幸春さんが絡んでいる。いたずらに俺の手や首に餌を投げ、俺はびーびー泣き、拓郎は面白がっていた。見かねた幸春さんがいつも針に餌をつけてくれ、申し訳がなくて触れられるよう特訓した。
「キツネたちが集まってきてる」
「魚がほしいんだね。多めに釣れたらあげようか」
一匹のキツネが俺の隣に来て、バケツの中を覗いた。何もないと分かると真横に座り、早く釣れと言わんばかりに鋭い視線を浴びせてくる。もらえるものだと思っているらしい。こいつらは絶対に自分が可愛いと自覚がある。なんて生き物だ。
釣り糸を垂らし、キツネのあごを撫でていると、遠くで水が踊った。
「今日はあんまり釣れないね」
「うん……早いと一分かからず動くのに」
釣れなければ、ずっとこうしていられる。そう思っていた矢先、まずは俺の釣り針に魚がかかった。立って引こうとするが、かなり引きが強い。身体ごとを持っていかれそうになり、右足でこらえる。
後ろに温かな体温が当たり、幸春さんは釣り竿に手を伸ばしてきた。背中から抱きかかえられている。
「巻いて」
真っ白になった頭では何を巻くのかと思考が停止した。幸春さんは何もできない俺に見かねてリールに手を伸ばし、ハンドルを回す。後ろで低いうなり声がした。しっかりと踏ん張りを利かせるが、二人三脚の練習が響いたのか思うように力が入らない。
糸が引き、透明な水の中から大きな魚が顔を出した。
「すごい……おっきい…………」
「…………もう一回言って?」
「……おっきい?」
「ごめん、何言ってんだろ……俺…………」
ため息が耳元にかかり、身震いした。僕を誘惑するのはやめてほしい。これ以上好きになったらどうしよう。
幸春さんは不安定な体勢の中、一度強く身体を密着させて離れていった。
「それ春兄が持っていってよ。春兄が釣ったものだし」
「釣り竿は湊のものだったよ。また釣るからいい……あっ」
バケツに入れた魚はキツネが咥え、持っていってしまった。仲間たちと分け合うにはちょうどいいサイズ感で、仲良く並んで食べ始めた。
「可愛いけど……にくいっ……」
「ふふ、ジュースでも飲んで落ち着こう」
幸春さんは汗のかいたペットボトルのふたを開け、差し出した。
興味を示した一匹がこちらに来ようとするが「ダメだよ」と告げると、諦めて魚にかぶりついた。さすがに人間の飲み物はあげられない。
「体育祭の話だけど、種目は二人三脚だけ?」
「あと借り物競争も」
「え、本当に?」
「春兄の反応が怖いんだけど……」
「うーん…………」
よからぬ反応だ。聞くのが怖い。
「けっこうぐっさり来るようなものが多いからさ」
「どういうこと?」
「借りてくるものが、恋人とか、好きな人とか……エッチな本とか」
「一番最後とか……当たったら無理だよ。クラスが負けても、俺はギブする」
「読んだりしないの?」
「今日の春兄はちょっといじわる?」
「はは、ごめん」
「春兄は……読むの?」
気になって聞いてみたが、笑うだけでちっとも答えてくれなかった。笑った顔も妖艶でかっこよかったので、よしとしよう。
「どうする? 恋人なんて当たったら」
「それこそギブするよ。いないし」
クラス中は佐狐拓郎だとはやし立てるだろう。儀式上ではそうなっても、俺の気持ちまで渡せない。
結局、かかった魚は合計七匹だ。俺が五匹で、幸春さんが二匹。うちの家族では多いので、二匹お裾分けをした。三匹あれば、俺と両親で充分だ。
釣り竿も思いバケツもあるのに、幸春さんは当たり前のように手を差し出してきた。片手でふたつを持つのは重いしつらい。幸春さんは重くないのか。ずっとにこにこしているし、俺より上背はあるから力もあるだろうし、手も腰も痛くないのかもしれない。家に戻る頃には右手が使い物にならなくなっていたけれど、左手は幸せだった。
雲一つない天候は、梅雨入りしているのに嘘のような天気だ。
運動が苦手な俺としては、グラウンドが雨に打たれてほしいと願ったのに、天気の神様は俺に味方をしてくれなかった。
「俺に合わせろよ」
先に来ていた拓郎は俺を見るなり鬱陶しいという目で睨む。嫌われているのは分かっていても、こういう態度は心に刺さる。
無視して椅子に座ると、旦那に弁当作ってきたのかと、からかいの的だ。
幸春さんは何をしているだろうか。こういうイベントになると、生徒会は大忙しだ。今日も朝早くに家を出ていた。カーテンの隙間から覗いたら、少し寝癖がついていた。待ち構えていたキツネに捕まり、頭とお腹を撫でていた。どちらも可愛い。
グラウンドに集まり、校長の長い話の後にはいよいよ体育祭が始まる。正真正銘の無礼講で、全力で手加減抜きで挑める唯一の行事だ。
校長の脇には生徒会のメンバーがいる。厳しい目を向ける生徒会長の横に、優しい目つきの副生徒会長がいて、辺りを見回している。目が合え、目が合えと念仏のように唱えていると、幸春さんと視線がぶつかった。こっそり手を振ってみると、首を傾げて微笑んだ。悶えすぎて、ボクシングで使うサンドバッグを殴りたくなった。
出番である借り物競争は、二番目の競技なのですぐにやってくる。幸春さんは覚悟すべきだと忠告をしてきたが、何が当たるのだろう。
「今回の借り物はヤバいらしいよ」
「無理難題書いてるって聞いた。考えるの誰なんだろ」
「生徒会と体育委員だってさ」
名前も知らないよく見かける隣のクラスの人だ。幸春さんも言っていたが、エロ本なんて書いてあったら誰が持っているんだ。ふと考え、そういえばクラスメイトの男子がそれらしいものを持っていたなと思い出す。
最初の種目である百メートル走が終えて、いよいよ借り物競争が始まる。幸春さんは白い紙の束を持ち、二十メートルほど先に立った。
「副会長が並べんのかよ」
「あれって佐狐君のお兄さんでしょ? あんま似てなくない?」
「モテるらしいよ」
モテるでしょうとも。小学生のときからラブレターをもらったりしていた。俺は嫉妬心むき出しでむくれたことがあるが、あのときも幸春さんは機嫌が良さそうに返事はしないよと笑っていた。
スターターピストルが鳴り、一番走者が走り出した。
白い紙を拾い上げた生徒は、固めるか悲鳴を上げるかのどちらかだ。校舎に向かって走る生徒、辺りを見回して女子生徒と走る生徒、無理だと連呼する人。俺はどの立場になるのだろう。
ついに出番がやってきた。心臓が雑巾みたいに絞られ、悲鳴を上げている。
スタートラインにいる体育委員は、高らかに腕を上げた。
白い煙と共に大きな音が鳴り響き、地面を蹴った。一瞬で一番最後になっても、残り数メートル先にある白い紙を目指す。すでに息が苦しい。緊張と運動不足が重なり、一気に足にくる。
取り損ねそうにかる紙を屈んで取り、中を開いた。
「…………は? はあ? な、なん…………」
言葉を失う。なんだこれは。幸春さんに覚悟をしてと言われても、直撃する文章は、スタートラインに立ったときと同じく腹がよじれる緊張が高まっていく。緊張しすぎてお腹が痛い。
──結婚したいほど、好きな人。
恋人でもなく、好きな人でもない。具体的な将来設計ごと視野に入れた人。
俺の相手は拓郎で、心は別の人に向かっている。好きでやまない彼を振り返ると、彼も俺を見ていた。どうする、どうしたら。
「仁神! 早くしろ! 人なら適当でいいから!」
そうだ、適当だってできる。俺の気持ちなんて、誰も知らない。拓郎を連れて行こうが、そこらでスマホゲームに夢中になっている女子生徒だろうが、木の根元ですでに寝る体勢に入っている野球部生徒だって構わない。
「仁神!」
適当だっていいなら、そうさせてもらう。遠慮はいらない。
俺は逆走して幸春さんの前に立った。幸春さんは驚きのせいか、顔が強張っている。
「春兄、一緒に走って」
「…………いいの? 俺で」
「春兄じゃないと嫌だ」
「…………分かった。これから、覚悟してね」
何を覚悟するのだろう、と思うと同時に、すぐに決めなければいけない覚悟がやってきた。
覚悟。それはこれから起こる困難や波乱に備えて心の準備をすること。春兄は俺の手首を掴むと、全力で走り出した。
前方には課題をクリアした生徒がすでに走っている。早い早い。幸春さんが走ると、辺りからは歓声のようなどよめきが沸いた。
あまりのスピードに、息をするのもやっとだ。生まれてからこんなに全力で走ったことはない。普段見える風景が異世界に見えた。人も建物も木々も歪んで見える。
前方を走っていた生徒を軽々と追い越し、俺は生まれて初めて白いテープを切った。今日だけで初めて尽くしだ。
「大丈夫?」
「う、うん……つらい……息…………」
「頑張ったね」
幸春さんも息を切らし、俺の頭をよしよしと撫でてくれた。
「初めて……一位取れた……」
「俺も嬉しいよ」
「どうしよう、泣きそう……」
「ほら」
手作り感満載のリボンを渡してきたのは、生徒会長だ。すこぶる機嫌が悪いですと顔に書いてある。
「ありがとう……ございます」
「紙」
「え?」
「借りてきたものと合っているか、確認しなければいけない」
火照った身体が一気に冷め、青ざめていく。
当然と言えば当然だ。借りてきて終わりなわけがない。目の前では三番目にゴールした生徒が一発芸をしている。
「紙よこせって」
「アキ、無理強いはよくない」
「いや無理強いじゃないだろ。ルールはルールなんだから。例外は認めない」
「じ、じゃあ……棄権でいいです……」
幸春さんと生徒会長は同時に俺を見る。
白い紙はぐしゃぐしゃのまま、ポケットの中だ。二度も棄権しますと告げ、胸に飾られたリボンを取って彼に渡した。
「いいの?」
幸春さんに悲しげな顔をされると、最善の選択が分からなくなってくる。けれど今、生徒会長や他の生徒が見守る中、気持ちを知れ渡ることは避けたい。
俺と拓郎は儀式の上で婚約関係にある。幼少期から稲荷様の機嫌を損ねてはいけない、稲荷様はずっとお空から見守ってくれている存在だと言われ続けているせいか、やはり拓郎を裏切ることはできない。植えつけられた一種のトラウマのようなものだ。
「春兄、ごめん。せっかく走ってくれたのに」
「いいよ。最後の体育祭で、良い想い出ができたしね」
そうだ、幸春さんにとっては最後の体育祭だ。それを棄権という形で終わらせていいものかとよぎるが、絶対にばれたくない。
幸春さんがスタートラインに戻るのを見送り、木陰に腰かけた。ここだと幸春さんがよく見える。体育着を着る幸春さんを、最後かもしれないとしんみりと見つめた。
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